なぜ過干渉に”なってしまう”のか?毒親になってしまう理由




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2021年06月25日~:
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毒親という言葉はささやかれて久しい今日この頃。

この言葉が日本に登場したのはwikipediaによると2008年あたりからだとか。

つまりもう10年以上も前ってことになる。

つまり、そのころに自らの毒親のことで悩んでいた人の中には、自分も親になろうとしている人も一定数いるということを意味している。

「もしかしたら自分も毒親になってしまうんじゃないか。」と心配な人もいるのかもしれない。

そんな人の役に…ということにはなれないかなさすがに、とは思うのだけど、

でもなんで一部の人は毒親になってしまうのか。ということを毒親に育てられてきて、そのしがらみから自分を解放していくその道の中で私はずっと考えていた。

それで思ったんだ。多分親も、私と同じような親をもっていたんじゃないかって。

支配されて生きてきたから

毒親の親は毒親。自分の親が毒親なら、多分その親、つまり祖母や祖父も毒親だったかもしれない。

親自身も支配的な親や社会によって自分の素直な気持ちをずっと抑圧されて生きてきたから、それが普通のことだと思ってしまっている。

「親は子供に逆らってはいけない」子供は親の言うことを聞くことが普通」「親を怒らせちゃいけない」

そういう支配されてきた経験があって親はこうあるべきだというロールがあると思い込んでしまう。子供に対するしつけが、支配の形になってしまう。

親の目をうかがって生きることを強いられた

親が強権的だったり、暴力的だったり、些細なことで怒鳴り散らして手が付けられないような親だったりしたから、常に親の機嫌を先に考えて、それから自分の行動を決めないといけなかった。

それが、常に他人ファーストの意識の土台を作ることになってしまって、常に他人の立場になって考え思考し、自分のことは後回しな考え方ができあがってしまった。

“しなきゃいけない”で生きてるから。

そんな他人ファーストの思考から、常に「しなきゃ」という考え方で生きるようになった。家から出た後はより大きな親のような存在、人や社会から与えられた役割や義務を背負って生きるようになった。

そしてその意識で子供に対しても接してしまう。

「行儀よくしなさい。でないと人様の前で恥ずかしいでしょ。」

おにいちゃんでしょ、だからしっかりしなさい。

「なんでこんなこともできないの。普通のことでしょ」

「〇〇のくせに、だからあなたはダメなのよ」

考え方が常に「あなたは〇〇なんだから」とか「こう決まっているからこうすべき、こうしなきゃいけない」になっている。

それからはみ出すことはタブーで、してはいけないことになる。

その下にある自分の素直な気持ちに蓋をして生きてしまっている。そう生きることを子供にも教えてしまう。

周りの目が恐ろしい

ずっと支配されてきて、誰かの都合を満たすことを義務付けられて、自分に素直になることを禁じられて生きてきたから、自分に素直になるのが怖い。だから義務や普通といった大きなものに自分の行動の建前のようなものを求めて、それを後ろ盾にするかのように考えて行動する。

他人の都合に合わないことをするのが恐ろしい、社会の都合に合わないことが恐ろしい、普通でないことが恐ろしいと感じるようになる。

だからいつも、誰かに直接頼まれずとも自分から他人の都合や社会の都合に合わせた自分を作り上げて、それを演じてしまう。

そう演じないといけないと思っていて、それが演じられなければ生きていけないと思っている。

だからそれを演じようとしない人、その基準に達していない人。いわゆる、(自分の思う)普通じゃない人、(自分の思う)ちょっとどこか変わった人、(自分の思う)何らかの能力的に低い人を見ると、ひどく不快感やいらだちを感じてしまう。

「何あの勝手な人!非常識だ」と怒りをあらわにしたり、

「何あの人、気持ち悪い。どこかおかしいんじゃないの?」

「あの年であぁなんて、ダメな人ね」

と、自分とは違う他人を「間違っている人」「普通じゃない人」として、見下してしまうこともある。

普通じゃない人、義務を果たさない人、何らかの条件に対してふさわしくない人は自分にとってあってはならないイレギュラーな存在。存在しないはずの存在。

世間的、普通的、常識的といっただからあなたはダメなのよ
「この世の真理」みたいな大きなスコープでとらえていて、絶対にいてはいけない、ありえるはずがない存在だと思い込んでいる。

そんな風に思っている中で、もし、自分の子供がその「間違っている人」といわれるようなことをしたら。

それはもう、とてもとても、いても立ってはいられない気持ちになる。緊急事態発生レベル。自分の子供が「間違った人間」になることが恐ろしくて、許せなくてしょうがなくなる。

すぐさましかりつけたくなる衝動に駆られる。怒鳴りつけて「更生」させようと、怒りにかられてやってしまう。

もし自分の子供が恥ずかしいことをしていたら、人様や社会に顔向けができない。

自分が間違った何かに鳴ってしまう。そんなのは許せない。

演じている自分に傷がつくことが怖い。子供のせいで”ちゃんとした自分”がちゃんとした自分だと評価されなくなることがどうしても許せない。

それを何としても避けたいから、子供に対してそれに支配的になってでも従わせようとしてしまう。

他人に尽くすことが生きがいになっている。

周りに対する義務を果たして生きることが当然で、その中でわずかばかりの許しを得られて安心を得る、ということをしながら生きていると、人に褒められることや社会の模範的なに人間になることは快感である、気持ちがいい良いことであるともうようになる。

それが、他人に必要とされたり、他人に求められることが人生の意味だと、生きがいだとも思うようにもなる要因でもある。

他人に頼られているからということを喜びとしていて、それがあるからこそ自分は生きる意味がある、その人に尽くすことができると感じている。

でも実際のところは自分に自信がもててないだけ。他人を背負わないと自分を肯定できないからそうしているのであって、すべては不安の意識から来ているもの。

もちろん尽くすこと”そのもの”が好き、ということならそんなことはないのだと思う。もしそうなら、それは自分のしたいことになっているはずで、背負わされているような義務感なんてないはずだ。

尽くすことにそれに対する見返りを少しでももとめているのだとしたら、それはやっぱり他人を使って自分に自信をつけたいからっていう不安感から来ているとおもうんだ。

全ては求められるため。褒められるため。自分はいい親なんだ、自分の人生には価値があると思い込みたいため。

そうやって家族に、他人に、あるいは社会に認められるためにやっている。

だから自分が払った犠牲、労力に対して例えば自身の子供や家族が自分に感謝をしないことがあると許せなくなってしまうこともある。子供がもし”生意気な”態度をとっているように見えると、強く苛立ちを覚えて、手をあげたりしてしまうこともある。

自分の「こんなに尽くしてるのに」という思いに対して、その「見返り」がなかったり、自分の思い通りにならないと、どうしようもなくなるくらいに感情が乱れたりしてしまう。

自分が果たしている義務に対する見返り、尽くしてきた甲斐が受け取れないとどうしようもなく悲しくなったりつらくなったり、苛立ったりする。

義務で「されたい」ことのために尽くす

もし義務感で仕方なくやっている気持があるとしたら、家族に尽くすことは本当に自分がやりたいことじゃない、のかもしれない。

親だから、家族だから、自分の子供だからという大義名分、ロールを理由に、自分の不安を和らげるためにやっていることだから。

承認欲求を満たすための手段になっちゃっているかもしれないから。

やりたくないならやめればいい、なんだけど

当人にとってそれほどにその義務とそれに対する期待の意識というのは重く、手放すことが難しいもの。

それを果たせば見返りがあってしかるべきだと信じるには強烈だから。

今はわかってくれない。それでも尽くし続ければ、いつかはわかってくれる、きっとこの苦労を、この思いを察してくれる、いつかは感謝してくれると、そう願い続けて、我慢し続けてしまう

しれがかなうかどうかはわからわからない。でも不満だけはしっかりたまっていくから、それで苦しくなってそれが子供に対して苛立ちという形で向いてしまったりすることもある。そうなると、自分の思い通りに子供に態度を求めて支配したくなってしまったりもするんじゃないかと思う。

「されたい」ことという考え方で子供を育てようとする。

そのされたいという欲求が、子供が欲しいものが何かということを自分が考えるときに、子供のしたいことではなく、子供がされたいことは何なのかということを考えて、子供に接するようになってしまうんじゃないかとも思う。

子供のためを思ってと、なんでも先回りしてやってあげたくなってしまう。そうして“あげない”“いけない”気がして。

他人と自分の境界線が曖昧で、「自分が“されたら”うれしいこと」「自分が“されたら”いやなこと」という他人軸の考え方で考えてしまうから、そのすべてが過干渉になる。

したいこと”を考えようと思えない。自分が”したいこと”が大事だと思えないから。

子供が子供自身の「したいこと」を感じたり考えたりする機会を、自分が「されたい」ことで先回りしてしまったことで上書きしてしまう。

本当は子供がしたいことは別のことだったかもしれない。子供は親にそうされて「そう思わなきゃいけないんだ」と思ってしまうかもしれない。

そうやって子供は自分で決めることに自信が持てなくなってしまうのかもしれない。

結果、親と同じように他人からされたいことを得るために、他人に好かれるにはどうしたらいいのかを考えて生きる人になってしまうのかもしれない。

自分の「したいこと」を否定している。

自分の素直な気持ちからやりたいと思っていることをすることに抵抗があって、「こんなことをしても何の意味もない」とか「将来何の役にも立たない」といって、素直な自分の気持ちを否定してしまう。

他人に求められている自分。社会に認められている自分。その前提がないと、自分がすることに意味、価値がないと感じてしまう。

その思い込みのせいで素直に自分したいことをやろうと思えない。したいことで楽しもうと思えない。

だから子供にも同じものを求めてしまうし、他人に認められることがよいことだと思い込んでいるから、子供にもやはりそう教えてしまう。

こう「されたら」いやな気持ちになるから、こう「されない」ようにした方がいいこととか、そんな受け身で生きていく方法を教えてしまう。

好きなことでなく、”ちゃんと意味のあること”をしなさい。役に立つことをしなさい。と。

そうやって子供は他人の都合を満たすためのことをする奴隷になってしまう。他人の奴隷になること、褒められるために生きることがいいことだと思い込んで成長してしまう。

毒親の負の連鎖を断ち切るには

そんな毒親の連鎖を断ち切るには、自分を変えるしかない。

もし自分にそのような価値観や思考があるなら、そんな自分自信の考え方に気づいて、他人に褒められることはなにも価値がないと、自分が抱えている承認欲求を捨てることで断ち切れる。

自分の親にこれを向けても意味がない。親を、他人を変えようとしても徒労に終わってしまうだけ、仮に変わったとしても、それで自分が変わるわけでもない。

連鎖を断ち切れるのは自分だけ。自分自身に対してだけ。

自分という”個”を認め、外の都合に合わなくてもいいと自分のことを許していくこと。それができるのは、自分だけ。

だから自分を変えていく。自分を許していく形で。

義務で自分を追い込まなくてもいい。義務で自分に厳しくあらなくていい。誰かに許される必要なんてない。

子供に厳しくあらなくていい。それは当然自分にも。

「親はこうあるべき」だと、「親」という自分じゃない何かをロールしようとしなくていい。

自分は自分。親だろうとなんだろうと、自分は自分。それ以上でも以下でもない。

他人の期待にこたえなくていい

社会の期待にこたえなくていい

何かを背負って生きなくていい。

褒められなくていい。

「こうあらなければならない」というそれ全部を、やぶっていいんだ。と自分を自分で開放してあげること

自分を許してこなかったことを、全部許すこと。今自分が許していないことのすべてを許していくこと。

それで他人に対する期待は断ち切れる。他人に対する妬みも憎しみもすべて断ち切って、自由になれる。

そうなれば、子供に期待して育てるという考え方はなくなる。子供に毒を与える心配も消えていく。

話しをしよう

画像はイメージです。

もし何か子供に何か良くないことをしたと思ったら「どうしてそうしたいと思ったの?」「どうしてそんな風に思ったの?」とただ柔らかく、優しく聞いてみる。話をしてみる。

自分を”個”として認められていれば、きっとそれは自然にできる。怒りや不安もなく。厳しくある必要も、自分を外の都合、義務で追い込む必要もないから、何にもせかされずにおちついて優しい気持ちで話ができる。

そうやって会話して、子供が何をしたかったのかを聞いてみる。そういう落ち着きとか優しさといった雰囲気は子供にも伝わる。そして子供はその中で安心を感じられる。そうすると子供も親を信用できる。自分の話したいことを話したいと思えるようになる。

子供もその会話を通して、なんで自分は今そうしたのか、ということを、少しずつ知っていくことができる。それが自分にとってどう感じることだったのか、それを今後自分はどうしていきたいのかを、自分で考える機会になる。

そうして自分の気持ちを知って成長していくことができる。自分のやりたいこと、感じたいこと、そのために自分は何をしたいのか。それを自分で考えて生きていくことができるようになる。

子供はそんな環境の中でなら勝手に考えて勝手に覚えて成長していく。誰かに期待せずに、自分のしたいことに素直になれるから。

そうやって親の知らないところで勝手に大人になっていく。

親が子供にできることはそんなに複雑なことではなくて、日常生活の経済的な扶助とあとは、「心理的安全を感じられる場所の提供」子供の話を聞くこと」「子供のやりたいことを援助する」ことくらいだ。

それを達成するとても単純な方法。それは自分が自立して、自分という個を許して、自然に生きるという、ただ自分自身に素直に健やかに生きることだけなんだ。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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