過干渉な毒親の「毒の根本」は何か?




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2020年04月25日~:
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それは、子供の勇気を奪う教育をする点である。

親が子供に本当に教えて与えられること

人が他人に教育することでできるのは、

・知識を言葉で教え、学ぶ機会を与えること。

・経験の機会を与えること。

・勇気をもつ機会を与えること。

である。「機会を与えること」が限界なのであって、その当人が実際に学ぼうとするか、経験しようとするか、勇気を実際にもつのか、ということについてまでは介入することができない。

それを決定するのは、完全に本人次第である。

さらに当人が学ぼうとしたとしても当人が学びたい形でしか学ばないため、教えようとした人間が思う学び方をしない。

だから機会の提供どまりなのであり、それを超えて子供の都合をどうにかしようと制御しようとしたり、機会を肩代わりしたり、奪ったりするのが、「過干渉」である。

過干渉は、生きる勇気を奪ってしまう。

勇気とは、自分で自分の決めた何かを成し遂げようとする過程でちくせきされていくもの。

人生を自分の世界観で生きることが自然となるために必要な要素でもある。

そういった本人の人生の成長の機会を親が「この子には無理」などといって、できるかできないかで判断して親の価値観でやらせず、奪い続けると、

その子供は親が許してくれたことしかしなくなる。

できなさそうなことはやらなくなるし、勝手にやればしかられるからやらない。

親が許してくれることだけをする。そうすれば褒められる。

褒められることをすることがいいことだと思い込む

そのような経験を代わりに蓄積してしまうと、「親が許可した以外のことは怖くてやろうとすることができない」ことになってしまうからだ。

親の代わりを他人に求めて

成長して学校へ行くようになって親から離れても、この親からの許可という癖が残ってしまう。

親が不在のため、許可を出してくれる人がいなくなる。許可がないと、自分がしたいことをしてはいけない気がして、怖くなる。

そこで、親の代替えをクラスメイトや同僚、先輩、上司といった人に転換する。

結果として、「誰にも嫌われないことをする」「誰かに嫌われることはいわない」「相手に好かれることが友達を作ること」「好かれなければ友達は作れない」

こんな風に人間関係の基盤を構築していくことになる。自分のすることが全て他人の都合につながったことでしかなくなる。

自分の都合だけで何かをすることができなくなる。他者の都合の世界観で生きることが普通になってしまう。

「自分の人生の経験値」が一向に得られない。

自分で考え、自分でやってみて、自分でその結果を受け止めて、自分でまた次を考えて行動する。

自分の中だけで回すというルーチンを経験しないまま大人になってしまう。

そのようにして「一人では何もできない人」として成長していくことになってしまう。

成長するごとに広くなる”他者とのギャップ”

社会に出れば世代の違う様々な他人と付き合う。

仮にそれまでなんとか生きてこられたとしても、年を重ねるごとに難しくなっていく。

他人に合わせられない機会が多くなっていくから。

年を重ねるほど、自分と他人との違いというギャップは広がっていく。人は時とともに他人と違う何かを経験して生きている生き物だから。

過干渉が独りで生きる勇気、つまり、自分の人生を自分で生きる勇気を奪いさってしまうのだ。

それが承認欲求となり、他者につねに依存していなければ生きられない弱い人間になってしまう。

そのようにして「一人では何もできない」という思考が、長い年月をかけ、自らの心に毒が少しづつためていく。

それがどこかで爆発してしまうと、対人恐怖症やうつ病などになってしまうこともある。

毒を中和するには

過干渉の親によって造られた生きづらさから脱出するには、

これまでダメだと思っていた色んな生き方が、全然ありだったということに気づいていくことで解消できる。

生き方に間違いなんてない。

どんな生き方も、それが存在しているのなら全てあり得ている生き方なのだから。

間違いもくそもなく、すべてはただの現実でしかないからだ。

どれだけ変だろうが、将来を考えてないようにみえようが、底辺だと評されようがなんだろうが、そんな物差しは個人が勝手に決めた価値観でしかなく、人を上下で比べている価値観の発想でしかない。

他人は関係ない。自分がやったことや決めたこと、したことが失敗だとみなされようが自分がそうだと思おうが、自分の出した答えであることに変わりはない。

他人の都合で自分の都合を否定して何になる。”自分が決定したことを他人で殺して”一体何の得がある?

多分何もなかったのではないか。振り返ってみて、本当に自分がそれで何か得たことはあっただろうか。

他人が自分を許して呉れたら、その他人は自分を一生守ってくれただろうか。常に自分に都合よく接してくれただろうか。

そんなことはないのではないだろうか。他人はいつだって他人の好きなようにふるまって、こちらの都合にはお構いなしだったのではないか。

だとすれば他人の都合で生きることが、何の保証も安全ももたらしてくれない、単なる自身の妄想だったのではないだろうか?

自分に合う生き方でいいということ

自分の世界観で生きていいということ。誰かと比較しなくていいということ。

親の目も他人の目も必要なく、そういった”監視の目”を捨てて、一人で生きてもいいということ。

そういったものを気にしていない人を参考にするのもいいかもしれない。芸能人で言うとさかなクンがわかりやすいだろうか。彼のような生き方など。

おそらく他人の価値観で生きていた人にとって、”変わった性格”で生きるのはおかしいとか、ありえないとか、普通じゃない、異常だ、というような拒否反応すらあるのではないかと思う。

でもこんなのはとても失礼な話で、ともて自己中で悲しい話だ。彼らの自分の生きざまで幸せになる生き方は最も素晴らしい生き方の一つとして数えてもいいくらい理想的なのに。

それでもそう感じてしまう理由は、他人とは違うから、それも大きく違うから、という前述の親からの教育で植え付けられた「他人の価値観で生きないといけない」という思い込みとの相反からくる拒絶感だ。

それをすててしまえばいいということ。

その制限を捨ててしまっていい。自分を縛り、親の目がないと何もしちゃいけない、という無意識の縛りを捨ててしまっていい。

変でもなんでも全然かまわない。そもそも人は主観的な生き物だから、本当に変なもの、ダメなものというものを知らないし、

主観である自分以外の人間を全く知らないのだから、そんな知らない他人同じになる方がずっと不自然なのだ。

本当は皆全然違っているのに(確かめようもないのに)、みんなと同じでないといけないという、

「他人の生き方」にまで世話を焼こうとする過干渉な教育をする親、ないしは教育機関、そしてその他の大人たちが多いこの国の歪んだ思想のせいでそうなってしまっていうだけにすぎず、

そのような人たちは皆他人の都合を言い訳にして、自分の世界観に素直になっていないだけなのである。

独りが怖いだけ。だから勝手をする人をみると落ち着かない。だから自分の都合を自分の子供やあるいは部下、友人にも強要して、仲間を増やして安心したいだけなのである。

だからそんな彼らの幼児的な都合なんて無視していい。あなたのためなんかではなく、彼らの寂しさを間際らしたいという個人的な都合にすぎないのだから。

主観的な自分の生き方でいい。それに気づいていく。

そうすれば生きづらさは消えていく。他人の都合という重荷を捨てられる。

自分の人生を気持ちよく生きるようになることができるのである。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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