多分それは、その人の過保護な親、支配的な親の教育によるものなんだろうね
その親の真似をしてるんだ。
例えばテレビに出てる芸能人とか、近所の人たちや仕事の同僚、上司、もしくは伴侶も対して愚痴ったり、噂話したり、悪口いったりしてね。
そんなことをしている親の背中を見て育ったんだ。そりゃ絶大な影響を受けただろう。
特に幼い子供にとっての親ってのは、外の世界の見方や関わり方を学ぶ全てだからね。
他人に対して支配的な思考回路を持った親に育てられた。他人をこうしてやりたいああしてやりたい、みたいなね。
愚痴とか悪口ってのは、他人をどうにかしたいという欲求の現れだから。
そしてそんな欲求をもった親が、子供を教育するとしたらどんな形になる?
圧倒的立場からの支配教育
簡単だ。支配だよ。親にとっての都合のいい子供を求めて、子供を調教し、支配する形になる。
彼らは親から、または同じような親から教育を受けた他人から、自分の人生を介入されまくってきたんだろう。これはするな、あれはするな、こんなことするなんて私の子供じゃない、まっとうじゃない、人間失格、社会のゴミ、バカ、ダサイ、気持ち悪い、みじめな奴、みたいなね。
被支配的な扱いを親や他人から受けてきたわけだ。
そんな感じの環境で育った人間は、そんな”中”、劣等感を克服するために支配という世界の中でなんとかなりあがろうとするわけよ。
それで他人を屈服したり、見下したり、支配したりしようとするようになる。またはその逆で、支配されたり見下されたりされようともする。そういう目で他人をみるようになる。
支配と被支配。それが当人にとって普通の世界になるのさ。
支配するかされるかの世界”観”
支配というのは、他人に人生に介入する行為だ。他人のやることなすことをジャッジしたり、聞かれもしないのに口出したりする。
それが普通の世界観だからね。他人が他人の人生に介入するってのは彼らにとっての常識、日常だ。
実際のところは、そんな世界観は数ある世界のとらえ方のほんの一部にすぎないのだけど、当人にとってはこれが全てなんだよね。
その世界観の中成長すると、自分の社会的立場を気にするようになる。
その立場を守るために他人の人生に介入、ジャッジするように自分を積み重ねるようになる。あるいは、介入されることを考慮して、常に周りにどうジャッジされるかを気にするようにもなる。
自分にも他人にも「こうするべきだ」「ああするべきだ」とべき論ばかり考えるようになる。
そしてその上に生きようとする。その人間にとって、それが「生きる意味」になるのさ。
一つ具体的な話をしてみようかな。例えば、よくいわれてる結婚についての話なんか、ホットな話題でちょうどいい。
当人が既婚者であれば、自分が既婚者であると言う立場を守ったり優れた何かであろうと思い込むために、他人の人生をジャッジする
30こえて独身は惨めだ、だとか、この間スーパーで半額の弁当を買ってるおっさんをみて涙が出た、なんてな。
かたや独身だったなら、結婚は地獄、一生伴侶や子供、親戚の奴隷、あんな奴隷のような人生送る人間の気がしれない、結婚しただけで付き合いたくない他人が大勢増えるのによくやるよ、なんて侮辱してみせたりな。
ネットで検索するとこういういろんな他者に対する愚痴や文句、支配欲求からきているであろうことがたくさんでてくるね。
つまりさ。人生を支配される、するの世界観を持つに至った人間は、自分の人生が他人のものよりマシかどうかにしか関心がいかなくなっちゃうんだ。
他人の目、社会の基準が常にトッププライオリティになる。
ただ比較なしに存在する目の前の自分の人生”そのもの”よりも、それが大事なんだよね。
自分の人生そのものよりも、自分の人生が何かよりもマシという“比較”の世界に生きてる。その比較の結果こそが、その人にとっての生きる意味で、価値そのものなのさ。
本当は何も関係ないのにね。さっきの既婚か独身かなんて話も、目の前の自分の人生は自分の人生でしかないわけで。他人と比べ様もないし、比べたところで意味もない。
そんなことしたところで何も変わらないはずなのにな。
ただ”待っている”だけ。怠惰に時間が過ぎてく
そうさ。そうやって外と比べることだけに時間を消費しているんだよ。
そこにはなんの進歩もない。成長もない。幸福もない。
ただ不安しかないんだ。いつ自分が他人に見下されるか、無価値になるかビクビクしてる。だからいつも他人の目を見張ってる。自分に対する社会の評価を気にしてる。
その精神の本質は、ただそこで立ち止まって、自分を認めてくれる誰かを、何かを待っているだけ。自分に安全と保障をくれる誰か、何かを待っているだけだ。
ようは受け身なのさ。常に身構えている。他人や、外に対して、いつも自分を守っている。
支配されないように周りを見張り、そして機を見計らって支配してやるとね。
カウンターだけだ。他人の都合に対するカウンターだけしか頭になくなる。
だから自分から動くということはない。自分で何かするという発想そのものがないんだ。そういう経験をきっとただの一度だってできない。してない。
だってそんなこと怖くてできないだろうから。誰からの支配も被支配もない世界で生きるなんて、彼らにはあまりにも無意味で恐ろしすぎるんだ。
他人がいなきゃ自分の生きている価値はない、そんな感じ。
「他人に世話されるために生きてる」。他人に守られるために生きようとしている。
だから彼らの行動ってのは全部、その誰か、何かから与えられるために行う義務なんだよ。
与えられるために果たす義務がかられらにとっての行動動機そのものだからね。他人の目を気にすることも、みんな義務でしかないんだ。
だから自分の人生を内心つまらないもんだと感じてんだよ。窮屈だってさ。
だって、全部”やらされている”から。やらなきゃいけないことしかない世界観だもの。自分がしたいことなんて少しもないんだ。
「自分がしたいこと」なんて、作り出したことない。
だって自分で生きようとしてないからさ。自分で自分のしたいことを決めたり、作ったりしようとしていない。
全部外に決めてもらっている。他人が褒めてくれるなにか。他人に馬鹿にされないなにか。そんなのばっかりだ。
だからすべてがやらされていることで構築される。やらされることばかりの不自由な世界として現実が写る。だからすべての自分のすることが、義務に対する期待で埋められる。
だから義務を果たしたのに何も得られなければ失望し、最悪絶望すらしてしまう。そんなところさ。
よくいっても「させてほしいこと」みたいな許可制の世界観なんだよ。受け身的世界観、発想さ。
そんな世界観だから、ものの見方だから、自分の人生をそうとらえているもんだから、自分の人生をどこか惨めで、つまらないものだと決めつけている。
そりゃ義務だらけの人生を面白いだなんて思えるわけもないからね。義務を原動力にして生きてるんだから、つまらないことを原動力として生きてるってことに等しいからね。
義務を果たして他人に“楽しませてもらわないと”生の実感を得られないんだ。
そして支配と被支配の世界観だから他人を傷つけることで自分を楽しませようとする。他人を見下したり傷つけたりして楽しんでるのは、そんな生き方だからなんだろうね。
そんな虚しいことやめたらいいのに?
無理だと思う。無理というか、やめたいと彼らが思うかどうかでしかないから、彼らにそう願ったところで、何も関係ないんだもの。
やめたいと思わなかったからやめなかったんだからね。その積み重ねを。積み重ね方を。生き方を。
辞めたいと本当に思ったら人に言われるまでもなくやめてる。やめようと長い時間あがいてでも、自由を手にしてる。やめようと思えたってことは、そう人生を積み重ねることに価値をがあると思わなくなったってことだから。
いまだそこに価値があると思い続けているんだ。相変わらず、他人との比較に精を出してる。自分が他人より上か下か、社会の基準よりも上か下か。
そこに価値があると信じている。
他人を傷つけるのはお手軽なんだ。特に今の時代は。だからそれに精をだす。他人を馬鹿にしたり、ひがんだりして自分をマシだと思おうと毎日過ごすことが、自身の人生を豊かに“してくれる”と思っている。救われるとすら思っている
。いわば彼らにとっての他人という存在は自分のコンプレックスを拭って“くれる”「ちり紙」みたいなもの。
他人を自分の慰め道具として捉えているんだよ。他人に世話されたいんだ。他人に楽しませてもらいたい、慰められたい。
そうやって自身の心を、誰かに世話されるために開発してきたのさ。調教といった方がいいのかもしれないが。されるため、あるいはされないため、もうらうため、あるいは拒否するため。
受け身でいるために。相手から何かをもらうために。いつでも都合よく外から与えられるために、それに最適化しようと自らを鞭うって開発してきた結果なんだよ。
それも何十年もかけてね。
それだけの労力と時間をかけて、自分にムチをうって作った世界を根本から壊して作り直そうだなんて、よほど本人にとってそうしたいと思えるような、その当人の人生の中でかつてないような”大きな動機”を得でもしない限り、そう思うことすら、感じることすらあり得ないのさ。
大きな挫折、どうしようもなく自分の人生の前に大きく立ちふさがった壁でも現れない限りさ。
だからきっとこれからも彼らは同じように積み重ね続ける。これからも自分の人生とは反対の方にあるように見える他人の人生を見下して、気持ちよくなろうとする。
それが単なる自身の個人的な妄想に過ぎない、井の中の蛙でしかない行為だとしてもね。
━━━━
まぁ、もうこんな話はこれくらいでいいよ。
自分の人生を生きるなら、こんなことに思いを馳せる時間を使うことは時間の無駄もいいところなんだから。
結局はこれだって単なる妄想さ。他人に頭の中で起こっている何かを考えることなんてのは。
時間の無駄そのもの。彼らのやっている行為と同じだよ。この文章を書く約1時間という時間を、著者である私は無駄にしたわけだ。
とはいえそれもとらえ方次第ではあるのだけど。自分事として捉えるか、他人事として捉えるかで変わってくる。
そのように見える他人がいるかどうかは置いといて、自分自身はどうなんだろう?という話。
自分は他人に対してしてほしいと思っている思考が存在しているのか。自分は何かを他人からまっていることがあるんじゃないか。
他人に嫉妬していることがあるんじゃないか。気に入らない、むかつく。そう感じるときがあったんじゃないか。
支配したい、されたい。かまわれたい、振り向いてほしい。好きになってほしい、嫌わないでほしい。
独りはいやだ。誰か一緒にいて自分を楽しませて、寂しがらせないで。みたいな考え方、思考、世界観。
そういう気持ちや目的、欲求が自分の中にあるんじゃないかと思いをはせ、自分の生き方を修正したいと思っているかだと思うんだ。
他人事としてとらえているなら彼らと変わらない。「あんなことをする人達が憎くてたまらない。私はそんなことない、悪いのは彼らだ、こらしてめてやる」みたいな感じだとね。
それだと完全に同類なんだ。屈服させたい理由が違うだけ。支配したいという欲求、根本にあるものは全く同じものになってしまうんだよ。
そしてその、「他人を支配したい」という思ってしまうその劣等感こそが、自身の苦しみの根本なのだから、もしその苦しみから自分を解放したいなら、自分の支配欲と向き合って、捨てること以外やることなんかないわけだ。
結局のところ、自分にどうにかできることはどこまで行っても自分のことだけなんだから。
だから他人のことをいちいち妄想したり考えたり、期待したり、欲しがったり、そのために義務を作り出したりするその他諸々のことを、すべてやめてしまえばいい。
他人なんて支配しなくていい。他人なんてのは、自由にさせてしまっていいんだ。
何も正しいことなんかないわけだし、間違っていることもない。
本当にいいことも、悪いことも、本当はこの世には存在しないからだ。
誰も悪くない。他人も自分も、罪なんかないし、間違ってもなんでもないわけだ。
だからそれを”心配”してやry必要もなければ、気に掛ける必要もない。なんでもいいのだから。
だったら自分にとって確かなもの。自分の人生。今日すること。今すること。
今目の前にある現実。自分のことだけでいいんだ。
コメントを残す