人はなぜ人を褒めるのか?そりゃ簡単。




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2020年04月25日~:
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当人の単なる個人的都合、そいつ自身のためだよ。世辞を言った本人のためなんだ。

決してその相手のためなんかじゃない。これっぽっちもね。

褒める理由

例えば焚き付けるために褒める人。狡猾なタイプだよね。こういうのは組織のリーダーに多いよね。部下をいかに都合よく動かすか。やる気を出させるか。そのために、褒めるという手段を使うんだ。君にはもっとがんばってもらいたい。そうすればもっと利益が出るから。そうすれば、自分自身の部が評価されて自身の給与もあがる。仕事も安定する。だから褒めるんだ。

嫌味っぽく褒める人もいる。あえて失敗を褒めて醜態を馬鹿にするとか、そんな捻くれたタイプ。人が傷つくのが快感みたいな、そんな人。多くはないけどたまにいるよね。

後は単に褒める人だ。多分最もごく普通の褒めるイメージに近いのではないか。多分多くの褒められたい人が望む、最も欲しい称賛の形。

でもそんなごく普通に褒める人ですら、褒められたい人のためなんかじゃなく、その当人自身のため、自分のために褒めてるんだよ。

例えば自分より何かすごい、優れたことをやった人を見て、すごいなぁあの人は、と前向きにその対比である自身のコンプレックスを希望に変換するためにやったのさ。自分も褒められたいと思ったからなのかもしれないし、そうなりたいと思ったからかもしれない。あるいは単に同情心やシンパシーを感じてだったのかもしれない。

しかし結局のところはみんな、褒めることが自分にとってなんらかの理由で得がある、気持ちがいい、安心できると思っているからやるのであって、

自分の欲求を満たすためにやっているという部分においてどれも何一つ変わることはないということなのさ。

自分の得になるからやる。自分の良心が痛むから、それを和らげるためにやる。どれも全部その人の都合、欲なんだ。

要はその人の個人的な自己満足のためにやっていることなんだよ。

誰も褒めた相手のためなんかにやってないわけだよ。

褒めた相手自身のことなんか、人の脳の仕組み、認知の仕組み的に腹の底からどうでもいいのさ。

それが生物の本質だからね。自身の脳が感じる快感のため、自らの欲求のためにしか、生物は生きちゃいないのだから。

全て個人的な都合でしかない

賞賛というのは全てひっくるめてそいつ自身の個人的感想であり、個人的都合にすぎないんだよ。

もし誰かが誰かをすごい、優秀だと褒めても、あるいは使えない、無能だと貶したとしても、

それは何一つその人の能力だとか素質だとか才能だとか言ったものを保証しはしないと言うことさ。

何も知らない人間だから。

真実を知らない、無知な生物だもの。人間は。

人間の世界はつまり、人間の認知という世界は、主観的な世界にすぎないから。決して客観的世界などもっちゃいないから。

自分のことしか、自分の尺度でしか世界を測ることしかできないいい加減な生物だから。

すなわちそれは、この世に真に優れているだとか、真に劣っているものだとかいうものを知らない、ということも意味するんだ。

だからめちゃくちゃなんだよ。人の尺度なんてのは。バラバラなんだ。

そのはかり方も、その形、度量すらも、そもそも図る対象すらもすべてにおいて違うのだから。

そんないい加減な他人の匙加減を糧に、つまり褒められることを糧として生きるということは、その他人のいい加減な都合の道具、快感の道具に利用されて生きているだけというだけのことに過ぎないというだけなのさ。

褒められることでまるで自分が神か何かのように優れた存在であるかのように錯覚してしまっても、実態は全くことなるんだよ。

その人にとってただの都合のいい道具を演じたというだけだ。

実際には自分が単なる他人の都合を満たすための道具として利用されていただけだと言う事実を知らずに、何の保証もないいい加減な他人の尺度を信じて、そんな他人の個人的感想と都合に踊らされていた、悲しい裸の王様でしかない。

褒めておけばいそいそと仕事するし、貶されれば傷ついてくれる。

こんな操りやすくて、使いやすくて、反応してくれる期待に応えてくれるいい道具はないだろう?

そうやっていろんな人たちの都合やコンプレックスを満たすための道具として、実に使い勝手のいい道具として機能しているというわけだからね。

褒める人の奴隷になってしまう

そんな褒める人の言うことに完全に依存すると、実質的にその人の“いいなり“になってしまうんだ。その人が言うこと、することに逐一反応し、一喜一憂してしまうんだ。

それが癖になって、それが自分の生きる意味みたいになってしまうと、何れは他人の言うこと、褒めてくれそうなこと、貶さないでいてくれそうなことをやることを常に求めてしまう。それしか頭にないようになってしまう。

他人、社会、周りの目にどう映っているか。自分がどう見えているかということが全てで、自分が本当にしたいこと、自分の本当の、純粋な欲求がかき消えてしまう。

それが他人がいない時、つまり誰も褒めてくれない、自分を見てくれる人が周りにいないと、それは猛烈な孤独感となって自分を苦しめるんだ。

他人がいないと生きている意味を感じられなくなる。使われない道具、見向きもされない道具に価値はない、と。

自分という道具の使い主である他人、つまり主人がいないなんてダメなんだ、と。

そうやって自分を追い詰めてしまう。

誰かや社会にとって都合のいい人間になれない自分を追い詰めてしまうようになる。

だから構築する人間関係が全て主従関係になってしまうというわけ。

よく誰かに使われるかどうかが関係性の全てで、それが必須条件だと思い込んでしまっているから。

人のため、誰かのため?

それはそれは…笑え…いや、笑えないかもしれない。

そもそも人に他人は救えない。救うために、例えば他人の人生を真に正当化したり裁くこともできない。そういう「裁きができんのは、法律というものが適用される場だけだ。

誰も人の人生に真に甲乙なんかつけられないし、ゆえにこれがいい人生、これが悪い人生なんてことも決めようがない。

それがだからどうだっていうことでもないかもしれないけど、つまり人間、いや生物は皆自分の生きることだけしかできることはないんだよ。

誰も真に何かが正しいとも間違いともいえないわけで、それはつまり他人を本当に正しい何かで導くとか正すとか、そんなことはできない。

他人の生きることに、真なる助言、真なる道をさし示すことなんて何一つできない。できるなんて思うのは一種の宗教みたいなもんで、ただの実現しない願い事みたいなものだ。

だから他人が他人の人生を救うなんてことはできない。他人を救えない。だって他人は自分とは全然違う宗教観をもって生きているわけだから

何をもって救いなのか、その定義が全然違うんだから。いくら他人を”背負った”って何の意味もないことなんだ。

背負っているものがそもそも違うのだからね。

え、じゃあなんであんたはこんなところでこんなことをくっちゃべっているのかって?

あんたの言っていることだって他人に言っているなら同じことでしょ。

ふむふむ確かにそうだ。

でもちょっと違うんだ。誰かのためなんかにやってないんだ。

誰かをしかるためでもけなすためでも説教垂れたいわけでもなんでもない。

これは単に私がしたいからやってるんだ。

誰かを救いたいからじゃない。”誰か”の事なんかどうでもいいんだ。

私がしたいことだからだよ。

それだけのことなんだよ。誰かの都合や、これを読んでいる誰かの都合、そんな他人の都合は一切介在しちゃいないのさ。

でもその誰かだってきっと同じなんじゃないかな。私の都合なんてどうでもよかったんじゃないか。私がどういうことをしたくてこれを書いたのかなんて、言われるまで意識すらしてなかっただろうさ。

意識にあったのは、自分が欲していた何かだけだったに違いない。何かが欲しくて、それを探して、なんとなくこのページにきて、なんとなくそれを期待して読んだ。その意気込みのほどに差はあっても、

自分が欲していた何かを得るためだったに違いない。

私のためなんかじゃない。自分のためだったはずだ。

つまり、独り言なんだよ。

人に褒められたって、それで自分が正しい何かになれたわけじゃない。

人にけなされたからって、それで自分が悪い何かになってしまったわけじゃない。

ただの他人の個人的感想でしかないんだ。その他人の尺度で誰かをみて、勝手につぶやいた、ただの個人的な独り言にすぎないんだよ。

そしてそれは自分も同じだ。自分がいくら正しいと信じていることでも、間違いだと信じていることでも

それはすべて自分の個人的な感想、尺度、考え方、もののとらえ方でしかない。

褒められたいを捨てると楽になる。

他人を主人としてしまっているうちはどうしたって迷う悩む。

いくら主人の希望にこたえても、どんなにつくしても。いつも都合のいい何かを与えてくれるとは限らないから。あっちだってただの人間。自分のことは理解できても、相手のことなんで理解できない。だからそういったすれ違いは、どんな関係性を構築しようが避けられるものなんかじゃないから。

どうしようもなく都合の悪い他人に出会うことだってある。そういう人間と付き合わざる得ないことになることって決して少なくない。

そんな人にまで尽くそうとしたら、どう考えたってこき使われて、ぼろ雑巾のように使われて終わりだ。そういう人間と付き合わなきゃいけない状況化にあるとしたらなおさら。それで絶望しても何もおかしくはない。

それでも自分にふさわしい主人が欲しいならそれでもいいのかもしれない。でもそれって本当に存在するんだろうか?

自分はそれを、本当に存在すると、希望を持って信じているだろうか?

もう他人が今までのような形で”信用できる”だなんて思えないんじゃないか?

だったらもうやめたらいいじゃないか。奴隷をやめて、自分で生きてみれば。

独りで生きてみればいいじゃない。

別に物理的な話じゃないんだ。隠居生活をしろだとか、山奥で誰とも会わずに暮らせなんて言うつもりはさらさらないんだ。

精神的な話。心の話。いつ何をしていようと誰といようと、その時分の心にいるのは自分1人。

そこには誰にも住まわせない。存在させない。

他人の目を自分の頭の中におかない。自分の頭の中に他人の目を作り出さない。

他人の都合を自分の目的にしない。

自分の心から他人を追い出し、捨て去ることなんだ。

自分という聖域を他人という澱みで穢させないということ。

自分の頭の中に他人の目を作り出して、その他人に自分を見張らせたりしないということ。

自分を他人に監督させないということ。他人と主従関係を結ぶことをやめるということ。

自分自身であるというのは、そんな”自分の上にいてコマンドしてくる他人”を自分の心の中に作り出さないことなんだ

他人のコマンド無しで生きる。他人の賞賛無しで生きる。

つまり、独りで生きる、ということなんだよ。

独りで生きて、ようやく自分だけの目的を持つことができる。

それによってようやく自分で生きるごく自然な生物としての生が、始まる。

生物は皆一人だ。誰も自分の代わりになんかなれないし、それは一瞬だって変わることはない。

自分は最後の死ぬ時までずっと自分で”しか”ないんだ。

自分で”しか”ないし、自分”以外”にない。

誰かにはなれない。自分以外の誰かになることも、変わることも、変わってもらうこともできない。

だからもう他人はもう関係ない。自分を褒める他人は自分のためにやっているわけでも、自分の代わりに自分の人生を生きてくれるなんてことを言っているわけでも、自分の人生を安全にしてくれるわけでもない。

他人が欲しいものを褒めるというやり方で得ようとしているだけだ。だからそんなのは自分には何も関係がないし、自分には何の得もないんだよ。

他人の賞賛は、はっきりいって自分の人生の中において、少しの価値もない、少しも関係のないことなんだ。

何も保証できないただの個人的感想で、かつ他人の都合でしかないものなのだから。

自分の人生は自分で生きるほかないんだ。褒められようがけなされようが、そこに正しい人生であることも間違っている人生であることも何一つ保証も、決めつけもできはしないのだから。

誰も代われないんだから。誰も自分の人生を知らないんだから。

自分だって他人の人生をしらない。自分が知っているのは、今まで自分が生きてきたことだけだ。

誰も先のことなんてわからない。

誰も人生なんて知らないんだよ。

だから自分で決めて、自分で歩いて、自分で続けていく。

そうしていくのが生きるってことなんじゃないかな。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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