「甘え」は楽に見えて実は苦しい。だから捨てて楽になろう。




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2021年06月25日~:
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他人に許されたら安心できる気がする

他人に褒められたらうれしい気がする。

そうやって他人に甘えられているときは幸せだと感じられる気がする。

でもそれを求めている間はどうだろう。

甘えられないときはどうだろう。

とても不安だったり、とても苦しいんじゃないだろうか。

甘えは実は結構苦しい

他人に期待して他人に自分の人生を守ってもらおうとして生きようとすることは、一見楽に見えるかもしれない。

自分で考えなくても他人が代わりに考えてくれるし、誰かや社会のの決めたことに自分を合わせていれば、それで自分の人生が保証されるような気がするから。

それで何かがあったとしても、その人や社会に何とかしてもらえばいいと思えるし、その選択した責任を押し付けることができると思えるから。

だからそのために誰かに好かれて、誰かに認められることをして、嫌われなように生きて、誰かに自分のことを認めてもらって。保証してもらおうとする。

それで自分の人生は豊かになる、安全になる。保証されると思えるから。

でも実際は違う。なぜなら現実は

他人の都合で生きること≠その他人が自分のことを守ってくれる、保証してくれる

他人の都合で生きること=他人の都合に沿って自分が使われるだけ

だから。

他人がその見返りとして、自分の都合を”常に勝手に察して”用意してくれるとは限らない。

いくら自分が他人や社会が求める都合を満たしても、それで彼らが自分のことをお返しとして守ってくれる、保証してくれるとは限らない。

他人や社会の言った通りに何かをして、”普通”に生きて、それでうまくいかなかったとき、その責任をその人たちがとるとは限らない。

いや、とらないだろう。誰も。自分の人生の選択は自分の人生の選択。それが誰かがそういっていたから、普通はこうするもののはずだから、社会がそうさせた、他人にそう言われたから、という理由で自分の選択を正当化しても、それで自分の人生の選択が”清算”されるわけでもなく、

それをもとに自分が自分の人生を決めた、という事実は変わらない。そんな自分の選択の責任なんて誰もとろうとなんかしない。

結果、ただその人たちに合わせて人生を選択して、その人たちの都合で自分が使われて、自分が勝手に期待して我慢して、結果何も得られなったという事実しか残らない。

「ずっと我慢して他人のために、社会のために尽くしてきたのに、その仕打ちがこれかよ」

「誰も私の苦労に気づいてくれない。いたわってくれない。冷たくされる。嫌われる。白い目で見られる。どうして誰もわかってくれない?なんで自分がこんな目にあわなきゃいけないんだ?」

そんな不満が生まれる。妬みや憎しみといった感情がうまれ、生きづらさが増していくようになる。

そもそも他人の都合にこたえ続けること自体、そんな簡単なことじゃない。

全然楽じゃない。

自分を犠牲にして、我慢を自分に強いて、やりたくないことでもそのためにだまってやる。そんな風に自分を苦しめながら生きるわけだから、実際は楽な時間よりも苦労している時間が長い。

そんな自分が払っている犠牲、我慢に対してなぜ誰も自分に「お返し」をしてくれない、となると。

何度も裏切られ続けると、他人が信用できなくなって、他人が怖くなってくる。

そんなのおかしい、理不尽だ、と感じてさらに苦しんでしまうことになる。

何かに甘えようとするのも苦しい。さらにそれに裏切られるとさらに苦しい。

甘えの人生はその見かけに反して実は結構大変で、苦労が多い人生になる。

自分が応えていると思っている他人の期待は、自分の思い込みかもしれない

そもそもの話、自分が本当に他人の期待を理解しているんだろうか?そしてその見返りが返ってくるということは確定していることなんだろうか?

相手のためだ、社会のためだ、周りがそういうから、普通のことだから、常識だからといってやっているそれは、本当にそうみんなが思っていて求められていることなんだろうか。

直接誰かに何かをしてほしいと言われたならまだしも「そう言われている、普通だから、常識だから、と自分がただ思い込んでいるだけ」だとしたら、それはただの自分の妄想ってことになる。

それに、自分の犠牲に対して得られると思っている”見返り”は、本当に確かにもらえるものが確定していることなんだろうか?

見返りを誰が与えてくれるのか?その誰かには自分でちゃんと確認したうえだろうか?年月日、具体的なお返しの内容、そういったものをすべて確認し、確定させた何かなんだろうか?

それを確認しておらず、何の話し合いも約束事も、契約も何もしていないということなのなら、それだってただの妄想勝手な決めつけでしかない。

「これだけやったんだから当然見返りがあるに違いない」と自分が勝手に期待しているだけ。相手の頭の中にある相手の都合を、自分の都合になっているだろうと一方的に思い込んでいるだけだ。

人は皆最初から最後まで自分のことしか考えてない

「他人のために自分は生きている」

「人はみんな、誰かのために生きているんだ」

でもそれ実は、嘘なんだ。本当はみな自分のために生きている。自分の欲求を満たすために生きている。それだけの生き物。

日本では他人に尽くすことが美徳とされているからそう思いがちだけど、それはまずありえない。それは生物という仕組みにそもそも反しているから。

「他人のことを常に第一に考えて生きている」、そう思っていたとしても、なぜ他人のことを第一に考えようとしているのかといえば、「自分が他人に好かれたい、嫌われたくないから」という欲求が第一にきているから。自分を不安や恐怖にさらしたくないという根本てきな欲求が最初に来ているから出て着る欲求でしかない。

仮に他人にどう思われるかということを全く気にしておらず、単にその人を助けてあげたいだけ、というものであったとしてもそこにはまた別の欲求があって「自分の良心を満たすため」「平和な社会を作りたい(それによって自分の生活を豊かにしたい)」などのやはり自身の欲求がまず第一にきている。

結局みな、自分の欲求でしかない。最初から人間は自分の「したい」という欲求でしか動いちゃいない。

自分が自分の欲求を常に最優先事項としているように、他人だって他人自身の欲求を最優先事項としている。

「あなたのためを思って言っている」なんて言い分は全くの嘘で、すべてその他人自身の何らかの都合のためだ

親が子供にそう言ってしつけているのは、本当に子どものためを思って言っているのではなく、その親自身の思う幸せとか常識といったものを子供に押し付けて、その通りにしろと言っているだけにすぎない。そうしないと、自分のむしがすかないから、落ち着かないからそうするんだ。

そうやって子供を自分の価値観で支配して、安心したいからというのが本音であって、子供の人生を本当に考えているのなら、子供が何をしたいかをまず聞いたり、子供の意志を尊重するはずである。そしてそんな子供のためを思う欲求すらも、結局は親が子供に幸せになってもらうことで自分が幸せを感じられるから、楽しい人生を送る子供に共感したいから、良心からくる欲求であることは変わらない。

結局同じ人間である以上、自分の欲求を満たすために生きているという、生物的仕組みは誰でも親でも子供でもなんでも変わらない。

皆自分の欲求を満たすために生きているだけだ。

だから他人に自分の都合を満たしてもらうことを期待したところでそれはすれ違うものなんだ。

“自分の都合と他人の都合のミスマッチ”が起きることは、現実の世界でごく自然的な話。もともとマッチするようなものでもなく、それぞれが個別に独立して盛っている欲求にすぎないのだから。

「こうしたらこうしてくれる」という理屈は、現実のものでは全くない。何か契約書でもない限り、そこには何の強制力もない以上、その人の都合次第でしかないから。

それでも他人に期待し続けてしまうと、永遠にこのミスマッチに振り回されることになる。

そうしている限り不満のループから抜け出せない。苦痛のループから抜け出せないんだ。

甘えをもっている限り満たされない不満だけが蓄積し、我慢し続けて苦痛を感じ続けるだけだから。

ずっと苦しいだけ。何も解決せず、ただ苦しんでしまうだけだ。

他人の都合を満たすこと自体は何も楽しくない

他人に期待して他人の反応待つ人生、甘えの人生を送っていると、自分で何かを主体的に楽しもうとしてもできなくなる。

理由は他人から何かもらうことを期待して好かれたり褒められるためでしか行動することができなくなるから。それ以外に行動することができなくなってしまうから。

他人の都合を満たすために行動するだけで、自分の素直な気持ちで何かを楽しむことができなくなってしまうから。

仮に自分で何かをし始めても、今自分がやっていることは果たして誰から評価されることなのか、必要とされているのか、ほめてくれることなのかということばかりが気になてきて、罪悪感や不安におそわれて全く目の前のことに集中できなくなるようになっていく。

だから何かを始めようとしても続かない。集中できない。常に人肌を求め、自分を愛してくれる人を求めて、人に依存し、SNSに依存したりもする。

他人に褒められることしか頭に描けず、今現在自分がしていることを否定してしまうために、「楽しむこと」が全くできなくなってしまう。

例:絵を描くこと

甘えの生き方をしている状態で趣味で絵を始めようとしたとする。

てもほとんど続かない

なぜならうまく描けないから。褒められるためにうまく描こうとしてしまうから。

全く絵を描いたことがなければ当然、そんなうまい絵なんてものが描けるわけがない。まるでミミズがはったかのような、それこそ下手っぴな絵しか描けないだろう。

そんなうまく描けない自分を目の当たりにしたとき、それで自分が否定「されている」ような気がして、絵を描くという行為が一気に苦痛に変わってしまう。

無駄なことをしているように感じられようになり手が止まってしまい、最終的には絵を描くことが嫌いになってやめてしまう。

自分で決めるとずっと楽でずっと楽しい

反対に、他人に対する一切の甘えをもたない、「自分で決めて自分で行動して自分で楽しむ」という人生は気楽で楽しい人生になる。

何せ他人の都合も世間の目もすべて気にすることなく、気楽に自分の好きなことに何の違和感もためらいもうしろめたさもなく時間を注ぐこむことができる心を持っているから。

絵を描くことも、それがどんなに「下手」だろうが、「上手」だろうが全く関係ない。

下手か上手かというジャッジの意識すら描いている最中にはない。

そういうものは振り返った時の反省の時にしか意識されない。そしてそれはすべて次の「目標」という形に変換される。

次はこうしてみよう、ああしてみようと、新しいやりたいことになるだけ。単に自分が常によりよく自分の描きたいものを描きたいしたいという欲求の元になるだけだ。

全ては今を楽しむというだけのため。手を動かし続けている今という瞬間、今描いていることだけにフォーカスして、その世界で自己満足し、完了し続ける、そんな純粋な自分の気持ちだけがある。

そして何より、その自己満足だけで存分に絵を描くことを楽しむことができるようになる。

自分で何かを本気で好きになるというのは、自分独りで周りの目なんて気にせずに好きだと思える素直な心を持っていることなんだ。

人を愛することだってそうだ。誰かを本気で好きになれるのは、甘えを捨てた心でこそ。

甘えがない方が人生は自由で気楽で楽しいんだ。

幼児の心にある大人の心

そういう意味では生まれて全く日がたっていない幼児というのは、実は割と大人だったりする。

なぜなら、自分で自分のやっていることに夢中になって楽しむことができるから。彼らは人と自分を比較するということを知らないし、それに価値があるなどという思い込みももっていないから。

だから目の前のことを純粋に楽しんで、あんなふうに楽しそうに、無邪気に笑えるのだ。余計な雑念がないからこそ彼らはたとえその絵がどんなに下手っぴでも、楽しそうに描く。クレヨンでも与えれば、その色選びが”ふさわしくなくても”好きなように色を選んで描きたいものを飽きるまで描き続ける。

そう考えると、大人になって甘えという思い込みをもつというのは、ある意味では「退化」とすら言えるかもしれない。

「童心に帰る」という、大人が無垢な子供のころの心にいったん立ち返って純粋な自分を取り戻す意味を指す言葉があるが、

あれはそんな大人に成長して心が「退化」してしまったそんな自分をもとに戻すという行為だといってもいいかもしれない。

彼ら彼女たちのように、気兼ねなく何かを楽しむ自分を取り戻すということだ。

それはずっと他人に対する期待や甘えを持っているよりもずっと楽で自由なものになるだろう。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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