なぜ承認欲求を捨てたくてもなかなか捨てられないのか?




承認欲求は本能だといわれるくらいに強烈なもので、決して自分から切り離せるものではないと思われている方は多いと思います。

でも承認欲求は捨てられるものです。私個人の経験から言えるというだけのことですが。けれどすぐに、という風には難しいかもしれません。捨てようと舞認知何かに取り組んでいる方もいらっしゃるのかもしれないですが、なかなか捨てることが出来なくてそれで苦しんで毎日を生きてしまっていることもあるんじゃないかと思います。その原因について、私の経験から考えをまとめてみました。

他人に対する恐怖が根源だから


承認欲求という言葉をどう解釈しているによりますが、承認欲求を他人の目や世間の評価が気になる、心配でたまらなくて不安になるというようなもの、

つまり他人や社会から嫌われ、見下されることによって自身の存在価値を否定されてしまうことや(つまり生きていてはいけないと思い込むこと)、仲間外れ、村八分にされることに対する恐怖のことを承認欲求だととらえているのなら、その承認欲求は他人に対して抱いている恐怖がもとになっているものだと思います。

褒められないとか好かれていないと自分は価値がないと思い込んでいて、自らの生存権を他者の評価にかけているかのようなものになってはいないでしょうか。

人は恐怖という感情にはとても敏感に作られている。

人にとって最も退避したいものは「恐怖」だと思います。もし今この瞬間恐怖の対象が目の前に合ったら、それを真っ先にでもなんとかしたくなるのが人間の性。例えばゴキブリが突然目の前に飛び込んできたら、それこそ自分の意思に関係なくおもわず、反射的に反応して目の前の作業を中断してでもまずはゴキブリをなんとかしようとするでしょう。みそ汁を食べている途中でそんなことが起きたら、多分目の前は大変なことになっているんじゃないでしょうか。

それと同じことです。承認欲求を本能だと思い込んでしまうのは、そのような感覚からであるということもあるのだと思います。といっても、唐突な反射的なものとは違う、じわじわとした「不安」というものによるものではあると思いますが、同じ恐怖が対象であることは変わりありません。

誰かや何かにまるで急かされるような、焦燥感によって求めているもの。それが承認欲求ではないかと思います。居ても立っても居られない様な気持ちで求めてしまって、自分の意志では制御ができない、そんな状態ではないでしょうか。

加えて、他人ありきの欲求ですからただでさえ感覚的に、生理的にコントロールできないこの欲求を、さらにコントロールができないものに仕立て上げてもいます。人は他人が自分に対して考えていることをコントロールなんてできませんから、何もできも解決もせずひたすら思い通りにならない他人という恐怖だけがつのっていくからです。さらに他人は無数に存在するため、仮に他人全員から好かれたい褒められたいと、求めてしまうと、その人生は他人という恐怖だらけの地獄になってしまいます。不安要素である他人の目という存在がどこにいてもずっと付きまとう恐怖に囲まれた状態になります。

自らの他人への恐怖の認知と他人に対する支配欲。この2重奏によってとてつもなくセンシティブな欲求が作られているわけです。

また承認欲求は目の前の害虫を駆除するかのように何かで無理やり取り除く、というような方法では消せるようなものでもありません。他人に対する恐怖の感情を動機として排除するどころか求めてしまっているという自己矛盾的な欲求でもあるので、難しいんですね。

自分の弱みや歪みに向き合う必要がある

承認欲求を求めてしまうその心は、その自己矛盾的な思い込みに始まり、複雑な他人に対する恐怖を根源とした様々な思い込みでなりたっています。なのでなぜ自分が他人の目が怖いと思っているのか、その思い込みが一体何で成り立っているのか、それについて自分で自分のその”弱さ”と向き合って、それを捨てていくことが必要になってきます。

いつ、どんな理由でそれを思い込むことになったのか。様々な自らの頭の中にある他人に対する恐怖の根源の思い込みを分析する必要があるんです。そしてその正体を突き止めたら、その思い込みや、その欲求を求めること、そう感じようとしてきたことをやめていくんです。

恐怖というのは理由なく感じているものではない、何かしらの無意識の思い込みがトリガーですから、それを突き止めて捨てることが出来ればその恐怖からも解放され承認欲求からも解放されて行きます。

強く恐怖を感じた何かがきっかけかも

ではその恐怖の思い込みとは一体どのようなものなんでしょうか。私の個人的な見解になりますが、他人に対する様々な恐怖の思い込みはおそらく他人に対して何らかの形で強い恐怖を感じた出来事をきっかけに思い込み始めた可能性が高いです。

私の個人的な経験上では、七五三祝いの時に人が大勢いる前で母親から「そんな姿勢じゃ恥ずかしいでしょ!ピシっとしなさい」と怒鳴られ、それでとてつもなく恥ずかしく、苦しく、恐怖を感じたことが鮮烈に残っています。そこから消えてしまいたいという感覚と思いがありました。その思い込みを起点に、他人の目をとても気にするようになったように今は思います。その思い込んだ時の自分の瞬間を思い出して、「人にそう言われたからってそう感じる必要もないし、恥ずかしいこととかダメなことだとか思わなくてもよかったんだよ」と、過去の自分を他人の都合に合わなくてよかったのっだということを許していくことで解消していきました。

また承認欲求とは他人軸の思考なので、他人軸の思考になっている自らの何等かの思考にも気づく必要があります。褒められたい、好かれたいは簡単な例ですが、例えば「社会人として恥ずかしくない人間」などといった、普通や常識のような外の概念に従って生きようとするのも、他人という明確なイメージが存在しない他人軸の思考、承認欲求になります。これは他人が決めた慣習や価値観といったものに従わなければいけないという間接的な承認欲求の思い込みなので、これについても気づいて捨てていく必要があります。

概念的に説明するなら、自分の内以外の”外のもの”に従おうとする心。外的動機を理由に自身の行動を決めようとしてしまう心の癖という感じでしょうか。

外的動機の一つである他者にとっての自分という偶像も捨てていくことになると思います。他人に見られている、評価されている自分という考え方や、そこに感じていた価値も捨てる必要があります。

また他者によって自分の価値観や考え方が覆されてしまうとか、他者によって自分は苦しまされているのだという自分の精神的苦痛に対する認知の歪みにも向き合い、自身の心の問題は他人の問題ではなく自分の問題であると受け入れていく必要もあります。

自分で決めて自分で楽しむ、という経験を積む必要がある。

そして捨てると同時に、自分”だけ”で決めて何かをするという経験もしていく必要があります。心を自分だけにし、他人に決めてもらおうとしたりなどの他人の動機のをイメージを捨てて、自分で常に決めて行動し続けていくようにするんです。他人を自分の心、動機から切り離し、自分の意志で行動して安心と幸せを感じられるように、自らを再教育する必要もあります

誰かに認められることなんかよりも、自分が手足や頭を使って何かをしていること、自分で決めて自分で行動できることがとても気楽で自由で楽しいことである、ということを体感しながら気づいていく必要があります。

過去の生き方にしがみつかなくてもいいように、自分で何かをするということに自信をもっていいということに気づいていく必要があるのです。それを否定し続けてきたから承認欲求が必要になっていたわけでもありますしね。

承認欲求を捨てるには時間がかかる。

承認欲求を捨てるには、これまで思い込んできた数々の他人軸の思い込みや他人に対して抱いてきた恐怖の思い込みに気づいて、新しい自分軸の生き方を実践することで、できるようになってできます。

自分の中で納得のいく形で捨てられたと実感できるようになるまでにはおそらく年単位の時間がかかると思います。実際私自身は5年ほどかかりました。

今までの人生で積み重ねてきた様々な思い込みたちと向き合うことになりますし、それに向きあうことはやはり怖いと思います。なかなか向き合う事自体が難しく、また捨てるのもまた怖いと思います。過去の自分の生き方を捨てることと、新しい生き方を実践するのにはそこには多分「躊躇」があると思います。

それを乗り越えるのが大変、時間がかかるところだと私の実体験からは思います。

それでも少しずつでもいいのです。すこしでもできると、少しは効果を感じられますから。

全部できないと手ごたえを感じられない、ということはないです。捨てて新しい生き方を少しずつ実践していけば確実に体感は少しずつできていくので、そこは安心していいと思います。

時間はかかるけど、着実に進む

要は、ただ時間がかかるというだけです。少しずつでもやっていけば、確実に承認欲求から解放されていくし、精神的苦痛からも解放されて行って、自由に近づいていきます。

だから大変だとは思いますが、もし承認欲求を捨てたかったら、気長に取り組むことをおすすめします。

無理をする必要はないです。焦る必要もありません。早く健康な自分にならなきゃ、自由にならなきゃ、なんて「しなきゃ」で考えなくていいです。そのしなきゃが、早く社会復帰しなきゃ、とか周りにおいてかられるからと、その背後に他人の目を感じさせて自らを焦らせていると、それは結局他人軸でやってしまっていることになるからです。

なので”しなきゃ”をとにかくやめてみましょう。その時に自分がどんな気持ちでいるかを吟味しながら、他人から解放されている感覚がどんな感覚化を少しずつ体験して、過去の考え方を捨てていくんです。

義務の思考を捨てるのは労力と勇気がいりますが、やり続けていけば完璧にはできなくとも効果は絶対あります。

なので希望を捨てなくていいです。少しずつよくなっていくので。無駄になることはありません。

後これは私の個人的な経験ですが、「吹っ切れた瞬間」がありました。

ある日「私は褒められたかったんじゃなくて、褒められなきゃいけないと思って承認欲求を求めていたんだ」と自分の思考に客観的に気づいたとき、しなきゃいけないっていう自分の感覚を本当にすべて捨て切ろうと思えて、そうしてみた瞬間、スイッチが切り替わったかのように解放されたので、そういう瞬間はひょっとしたらあるかも。多分個人差があります。

とにかく、ご自分のことだけでいいです。ほかの人のことは考えなくていい。ありのままやってみてください。



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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