ナルシストを直したい!自惚れない、意識高い系にならずに素直に生きるには?




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2021年06月25日~:
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なぜ人はナルシストになってしまうんだろう?自己愛に陥ってしまうんだろう?

それは自己評価が高すぎて、他人のそれとあまりにも乖離しているためにおこる、一種の人格障害ともいわれている。

そうなってしまった要因はきっといろいろ。そうしてしまう要因もいろいろ。

異性にもてたいから。ちやほやされたいから。認められたいから。

つまり、他人のことをとても気にしていて、他人の気持ちを自分の思い通りにしたいわけなんだけど、そのおかげで苦しんだりすることもある、そんな障害だと思う。

ではなんでそんな風に苦しまなきゃいけないんだろうか?苦しもうとしてナルシストになろうとしたわけではないはず。

もっとそれが自分を豊かにしたくてそうしたはずなのに。気持ちよくしてくれると思ってそうしたはずなのに。

でも現実はなかなかに冷たかった。誰も自分を見てくれなかったり、空回りしてしまってかえって恥をかいたりするだけだったり。

そのナルシストや自己愛っていう在り方は、本当にどうしてそうしてしまうんだろう。自分でもいやなのに、苦しいのに、やめたいのに。なんでやめられないんだろう。

何ですごくないといけないんだろう。かっこよくないといけないんだろう。かわいくないといけないんだろう。優秀でないといけないんだろう。

それは他人の気持ちについて、自分がそれをどうにか”できる”と思っているからなのかもしれない。だからやめられない。他人をどうにかできる、自分の思い通りに支配できる。そんな気がどこかでしていて、そこに希望や期待を持ってしまっている。

他人のことを”自分の力”でどうにかして他人に褒められることができると、そう思っているからなのかも。だから褒められそうなこと、好きになってくれそうなことをして「私ってすごいでしょ!、かっこいいでしょ、かわいいでしょ!」と思って他人にもそれを求めようとする。

でもそれって本当に自分に”できること”なんだろうか?そうすることで他人の気持ちが自分の思った通りになるっていうのは、本当にそうなんだろうか?

それが実はただの思い込みだったとしたら。”それ自体が”、実はすべて思い込みだったということに気づいて納得ができたとしたら?

そうしたらナルシストや自己愛を捨てることができるかもしれない。

自分ができることって何?

自分ができること。

それは一体なんだろう?

異性にもてること?スポーツが得意なこと?勉強ができること?

仕事ができること?家事ができること?

いろいろな「自分ができると“思っている”こと」というのはあるのだと思う。それは人の数だけ、ユニークな形で存在しているのだと。

ではその自分自身が思っている「できると”思っている”こと」は、本当に“できること”なんだろうか?

例えばさっきの「仕事ができる自分」とか。

その仕事できるっていうのは一体何のことを指しているんだろう?なにができるから仕事ができる自分なんだろう?何が仕事ができる自分というものを成り立たせる根拠なんだろう?

仕事ができる自分だと”思っている何か”を、かみ砕いてバラバラにしていくと、その中にそうじゃないものが見つかることもある。その中に自分の虚勢や妄想、”できるフリ”みたいなものが見つかることがある。それが自分の虚栄心やナルシストな自分の心を成り立たせている要因だったりすることもある。

仕事が”できる”って具体的に何?

例えばプログラマーの仕事をしていて、自分はその仕事ができると思っていたとする。「私はできるプログラマーだ!」みたいな感じ。

では具体的にはプログラマーとして一体何が”できる”のか?というと、例えばC#(数多くあるプログラミング言語のひとつの名前)ができる、とかそういったものになる。

ではC#で何ができるのか?どんなコーディング手法を知っているのか?それを用いて具体的にどんなプログラムを”かける”のか、”かいたことがある”のか?どんな実績があるのか?ほかの言語ではどうなのか?アプリ系、汎用系、Web系、組み込み系のプログラムは組めるか?組んだことはあるか?

そうするとC#でアプリ系はやったことがあるけど他の言語のものは組んだことがない、とか、その品質を担保するテスト手法自体にはあまり詳しくないとか、設計書を見ないと実はプログラムを書けない、とかいろんな細かいことがわかってきたりする。

そうやってかみ砕いて洗い出した実際にできること、事実たちが自分のできることってことになる。

自身のできることという”事実”の具体化をしていくと、自分が“思っているほど”実際にできることは多くなかったり、逆に思っていたよりも多くのことができていたことに気づくこともある。

実際に自分ができることが何なのかを知っていけば、実際にできないことをできるといってしまうことも減らしていける。

背伸びしている自分にも気づける。

しかし”できる”という言葉の裏には…

「できる」という言葉の意味にはほかにも「優秀」だとか、「有能」だ、といった意味が含まれていることもある。

できる社員、できるプログラマー、できる課長、できる部長…などなど

それは“何かができる”という何らかの「具体的事実」に対して向けられた言葉というよりももっと漠然とした、誰かから見て優秀であるというイメージの「評価」にあてられた言葉だ。

そしてその評価っていうのが曲者で、実はこれ自分のできるという情報には含まれていない。自分が手に入れたものじゃないものだから。

「いやいや、評価っていうのは自分の仕事の結果っていう具体的な自分の成果をもとに行うわけだから、それで優秀と評価されたんなら名実ともに優秀な人間でしょ?」と、思われるかもしれない。

ではその自身に下された他者の評価というのは、果たして”自分がどうにかできたこと”、だっただろうか?

自分がその人の評価を得るために何かをしたことで、”直接どうにかして”、得たものだったのだろうか?

「そりゃそうだろ」と思うのではないかと思う。他人が自分のしたことに対してある一定の評価を下した。それが優秀なら優秀というだけ。他人が優秀というんだから、優秀。それは自分がえたもの、自分の力でえたものでしょ?と。

でも本当にそうだろうか?本当に自分の力自体が、その人からのその評価を引き出した。作り出したんだろうか?

評価は他人が他人の好き勝手にくだすもの

まずはじめに、評価というのは自分と同じ人間である他人がくだすもの。別に他人は神様ではない。

例えば仕事での評価で、上司から君は優秀だ、無能だからといわれたからといって、それでイコーリ自分は優秀、無能である、ということにはならない。

悪魔でその人にとって、というだけにすぎない。ただの個人的感想だ。

そして評価はそもそも何のために行うのかと言ったら、査定のために行うものであり、それは大抵何らかの組織の中でその評価を用いてなんらかの調整を行うことが目的。そのための材料、資料が評価なんだ。

さらにその評価は先ほども少し話した評価者の価値観に基づくもの。そしてそれは大抵、公的な評価であっても、自分や評価者が在籍している組織特有の価値観や評価基準に基づくもので、どこもかしこの組織でも同じ評価をうける、というわけでもない。その組織で目標にしていることや、どんな仕事をしているのか、どんな文化か、風土か、その様態、要因によって、どんな人が優秀という評価をつけられるのか、その基準が違ってくるためだ。

つまり、誰かに優秀だといわれようと、それが自分の能力そのものが優秀である、つまり自分は本質的に優秀でどこに行っても優秀であることは変わらない、などということを保証しはしないということ。

完全にその環境たちに依存した基準で作られたもの。絶対的基準なんてのは、評価というものにはない。

誰かにとっては優秀でも誰かにとっては優秀じゃないなんてことはごく普通にあるということ。

自分は仕事ができる人間だ、無能でダメな人間だ、という評価はそんな他人次第でバラバラになってしまうということ。

つまり何が言いたいのかというと、「自分は仕事ができる」あるいは「仕事ができない」というイメージには思い込みがあるということなんだ。その場では、その環境では、という補足説明がつく。ほかでもそうという個とは意味してない。

評価なんていうのは他人がどう思っているのか、どう評しているのかという領域の話しで、自分がどうこうできていることじゃないし、他人次第でバラバラであてにもなるものでもないいい加減なもの、ということなんだ。

そしてそれはつまり、自分がどれだけ自分をすごいと思っていようが、どれだけ評価されてきただろうが、

それは別の他人からしてみれば関係がない。他人はあくまで他人自身の評価基準に従って他人の都合で評価をするだけ、それを自分の行動で他人の行動を直接動かして支配するようなことはできないということなんだ。

ただの”相性”の問題

自分に対する他人のあらゆる気持ち、考え、評価というものに対して、自分のできることは実は全くない。干渉できるように見えるだけで、実際は一切干渉できない。

他人にいくら自分が望んだ形で評価されたいと思っていても、その他人がどういう形で、どういう理由で評価するなんていうのはその人の考え方や価値観次第のもので、自分がそれに直接何かをすることはできないばかりか、その人の頭の中にしかないブラックボックスなので、それが一体何なのかわかることすらもない。

仮に狙ってうまく評価されたとしてもそれはたまたまであり、逆にされなかったのもたまたま。全く真逆の評価をされてもやはりそれもたまたま。

たまたまその人の評価基準に自分が合ったり合わなかったりしただけだ。

偶然の一致にすぎず、自分の力でその他人の評価をを自分の思い通りにできた、なんてわけではない。

つまり人は他人に自分の力で自分を自分の基準と価値観で評価させる、なんてことはできてない。

他人の価値観や基準、心を支配する力なんか、人間には少しもないんだ。

自分の力で他人の評価をどうにかなんてできてないんだ。

できるのは、相手の評価基準という要求を呑んでそれに自分を必死で合わせていこうとすることくらいが関の山。

それでも、絶対に評価されるなんて保証はない。何処まで行ってもそれは他人の都合次第でしかないから。

だから「自分は仕事ができる」といった評価は、自分の力で得た評価でも何でもない。

たまたまそういう環境に自分がフィットして、たまたま優秀という評価を得た、その環境と自分との相性の問題というだけのことでしかないんだ。

評価された=自分の力じゃない

「君はできる、君は優秀だ。君は実にダメだな、なんでそんなに仕事ができないんだ。」

そんな評価はあくまで他人が勝手にくだすもので、他人の持ち物であるといえる。

自分の持ち物じゃない。自分の財産でもない。自分がどうこうできることじゃない。たまたまそのように評価する人がいて、たまたまそうラベルを付けられた。というだけ。

仕事ができる自分、何かができる自分。その中に含まれている、優秀さというのは、自分の持ち物、財産じゃない。ただその環境の中でつけられたただのラベルだ。社員証とほぼ変わらない。

その組織、会社、環境を離れてしまえば、ただの人。そこに「できる自分」なんて虚構はなくなる。

ただの人になってしまうんだ。人はどこにも属していなければどんな人でもただの人。

すごい人でも何でもない。ただの人でしかないんだ。

本当に自分ができることを受け入れることで、ナルシストを捨てられる

かわいいとかかっこいいとか、美人、またはその逆の意味をもつ不細工だとかダサイといったラベルたちも、ある環境の中でつけられたただのラベルにすぎなくて、自分自身そのものなんかではない。

そして自分自身なんていうのは、そんなラベルを何一つつけていないただの人間である自分だ

そこには「すごさ」も「しょぼさ」も何もない。淡々とした特に何の意味もない自分。そして自分の目の前のなんらかの作業だけがあるだけ。それだけのことなんだ。

現実の世界というのは、実はこのように地味で無色、他人の目や評価といったものは存在しないんだ。

仕事ができる自分、すごい自分、かわいい自分、かっこいい自分。

そんな自分は最初からどこにも”いない”。それは他人が付けるラベルにすぎないから。

そんなラベルを捨て去った自分。それが本当の自分。それが本当に自分ができること。

そしてそこに、本当の自分の好きなことやしたいこと、面白いこと、楽しいことというものがある。あるというか、ようやくそれを自分で決めて楽しむことができる心が出来上がる。誰かに褒められなくても自分で決めて自分で行動して満足できる心が出来上がる。

他人に愛されたい、かっこいいと思われたい。そんなタイプのナルシスト、自己愛というのは一種の承認欲求。そして承認欲求は他人に対する恐怖の思い込みが根底にあってなりたっているもの。そして他人の気持ちをどうこうしようとしているところから、一種の支配欲でもある。

他人が怖くて、自分に自信がない、だから他人から認めてもらうことで自分の自信のなさを埋めてもらう、でも他人がほめてくれるかどうかわからない、そんな恐怖から来ているものだ。

その恐怖を捨てれば、ナルシストのころにずっと欲しがっていた他人からの永遠の承認を介して得ようとしていた、安心感を得ることができるようになるんだ。

できることから堅実に。堅実に生きた方がずっと楽だよ

今本当に自分ができること。何もラベルが張られていない自分。これまで自分がやってきた事実たちからもラベルの付いた思い込みたちを引きはがしてしまおう。そうすれば手堅い事実だけをベースにして自分を見据え、自分を図り、仕事の計画だってより正確にできる。取り繕わず、虚勢も張らず、自分を卑下することもなく誰かに自分をアピールすることもできるはず。

他人からの評価を自分の人生の意味にしなくてもよくなって楽に生きられるようになる。そのために何かをする必要もなくなる。

他人から好かれる、愛される自分よりも、もっと自分自身のことを自分が好きになれる。

他人の都合よりも自分の都合。他人の思惑よりも自分の都合だ。自分を自分で好きになろう。

それができたらきっとナルシストや自己愛に頼らなくてもよくなるし、意識の高い自分を演じる理由もなくなるし、自虐的にもならなくてすむ。

ただ今自分がたっている足元をよくみて、一歩ずつ着実に、堅実に生きていくことができるようになる。

自分がたっている場所は絶対に変わることはない。どれだけ評価を受けても、どんな評価を受けても、それで自分自身がレベルアップしたりダウンしたりすることはない。

自分はどこまで行っても自分だ。他人が自分のレベルを上げてくれやしないから。それを保証することもない。

別にすごくなくてもよかったんだよ。そんな誰かにとって素晴らしい、優れた自分なんか別にならなくたってよかった。それらは皆他人の感想で、ラベル。他人の持ち物。自分には関係ない以上、それになろうとしてもなれはしないし、他人の勝手にすぎないのだからならなくてよかったというわけ。

だから自分にできることなんて、ただ堅実に素直に目の前のことに取り組んで生きることくらいなんだ。自分で自分のことを好きになって、素直に生きることが堅実で自分らしい人生の正体なんだから。



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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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