「気にする」というのはそもそもしなくていい感覚の使い方です。




「何かを気にする」のメカニズム

人目を気にしたり、相手の考えていることを気にしたり。

クラスメイトの視線が気になったり。会社の評価が気になったり。

SNSの反応が気になったり。どれだけいいねがついたか気になったり。誰かのツイートがきになったり。

社会情勢が気になったり。株価が気になったり。同世代の人がどれだけ結婚しているかが気になったり。

なんだか気にするというのは、想像するだけでも「落ち着かないこと」が多いですね。疲れます。何かを気にすると、不安になってきて苦しくなってきます。

それでも気にしてしまうのは、気にする何かが安全かどうかを確かめたいからだと思います。

クラスメイトの視線が変じゃないか、評価は悪いものになっていないか、そんな感じですね。

それを気にしていないと落ち着かないからだとおもうんですよね。落ち着かないから気に”してしまう”。

この気にするっていうのは、どこかせかされているというか、抗えない感じじゃないかと思うんですよね。もう気にしない!と決めても、なかなかやめることができなかったりはしないでしょうか。

それは多分不安からの感情だからなんだと思うんです。不安や恐怖は、意思だけで単純に無視できるようなものではないですよね。

「何かが不安である」という認知を自分で作り出して感じようとするのが「気にする」

自分にとって怖い何かが起こっている気がする。だからそれが気になってたまらなくて、逐次チェックをしてしまう。

ひょっとしたら嫌われているかもしれない。ひょっとしたら変なリプがついているかもしれない。ひょっとしたらフォローが外されているかもしれない。SNSが「気になる」のは、実は不安や怖いという感情が根底にあってそれで「気にしている」んです。

そしてそれがそうじゃなかったことが確認できたとき、あぁなんだ大丈夫そうだ、嫌われてなさそうだな、自分は大丈夫だな、だなんて自分を安心できて、満たされた感覚を感じることができる。

「気にする」というのは、この恐怖を原動力にした行動ルーチンなんです。

気にすることで何をしたい?

でも気にしたところで別に現実は変わりませんよね。自分がいくら願掛けをしようと、その願掛けをした対象は別に何も変わりません。

明日晴れになってくれと願掛けしても天気はそんなのどこ吹く風。晴れなr晴れですし、雨なら雨です。

嫌われるときは嫌われますし、フォロー外されたりするときは外されます。暴言を送られてくることもなくはないですし、それを予測したり防止したりすることはどんなに願掛けをしても関係がないのです。

でもそれでも気にしたい、確認したい、と思っているわけですよね。自分にとって都合のいいことになっていることを願って。

その願う気持ち。それがかなうことがないのに自分の思い通りになっていてほしいと思うその欲求。これは一体何なのでしょう?

願掛けすることで他人や結果を思い通りにできると無意識に思い込んでいるのかも

人は大抵、自分が何かをしたいと思うこと、できるかもしれないことに対して興味を向け、実際に手を動かすなどしてそれを実現しようとします。

それはつまり、自分の中でそれが「できうる」という確証があるからで、それが全くなければ興味も向けません。

例えば人はかめはめ波はうてませんし、レイガンも打てませんし、魔法も打てませんよね。それが現実の世界ではできないことを知っているからです。

でも幼いころって現実と妄想の区別が曖昧なところがあって、「本当に撃てるかもしれない」なんて思っているところがあるから、結構本気でそれをやってみようとすることがあるんですよ。めちゃくちゃ体を力んだり、漫画の説明通りに指に意識を集中して見せたり。実際私自身、こっそりレイガンの練習をやっていたものです。中二病まっさかりでしたからね。

でもそれは、成長していくことでどんどん「ありえないこと」ということがわかってきます。やがてはそれに対して関心をむけることもなくなり、より現実的に実現できそうなことに関心を向けていくわけです。

そういうものと同じなんですよ。「何かを自分の思い通りにできる」というものも。願掛けすることでそれが実現できるという確信があるからやるんです。

先のことや他人のこと、何らかの自分が想定する結果の通りに思い通りにすることができるという思い込みは、魔法やかめはめ波を本気で打てると思っているのとほとんど違いがないのです。

そしてその何かをどうにかできる、という思い込みは、すべてひっくるめて言えば「何かを支配できる」という思い込みなんですよね。

気にすることで支配できると思い込んでいる

気にするのは何かが怖いからですよね。そして気にすることで安心できると思い込んでいるからやるんです。

気にすれば、その気にしたものをコントロールできる、掌握できる。支配できる、どうにかできる、気にすれば常に安心をたもつことができる、どうにかなる、あるいは誰かがどうにかしてくれることを確認することができるとか、そんな感じの形かもしれない。

何れにせよ、気にして注意を配っていれば何かを思い通りにできるようなきがしていて、安心をキープできると思い込んでやっているわけです。

でも実際はできないんですよね。全く少しもできてない。だから気にしても恐怖を感じるだけで、それが一向に解消されないから、ただただ不安ばかりが募るわけですよ。

精神的苦痛にしかなっていなくて、生きづらさを作り出してるだけなんです。

「気にする」はいらない

よって、だからこそ「気にする」は要らないといえるのです。

気にしてもどうにもならない」とよく言われる言葉がありますがこれは文字通りの意味なんです。本当になにもどうにもなりませんし、どうにも変わることはありません。

ただ自分が恐怖を感じ、結果を前に足がすくみ、精神的苦痛を感じて何もできなくなってしまうだけの認知なのです。「何かを気にして思い通りにしたい、支配したい」という欲求は、おおよそ現実に対して敵うことのない望みであり、持っていても自分が疲れてしまうだけです。

他人の目を気にしても、それで他人の目が自分の都合通りに変わるわけじゃない。他人の評価を気にしても、それで他人の評価が変わるわけではありません。そんな願掛け自体は、何も自分の外のものたちに影響を与えはしません。

なので何かを気にすることで何かを支配できるという思い込みをあきらめて手放し、外の世界を自分の縛りたいという欲求から自由にしていいんです。自分から外への支配欲を切り離して、ただの環境であると受け入れる。最初からそう存在し、自分の思いとは常に関係なくただ流れ続け、自分はそれに何もできないものだとして受け入れる。

自分ができることはその環境の中で「することを考えてするだけ」です。

気にするのではなく手を動かしてやることだけを考えて実行する。何かやることを考えて実行するだけ。それしか自分にできることはありません。

何かをどうにかしなくていいんです。

何かをどうにかしなくても、別に自分のやることは変わることはありません。如何に何かをどうにかしようと、思い通りにしようと、支配しようと行動しようと、その反対にすべてをありのままに受け入れ、どうにかしよう思わずにただすることを考えて行動しようと

現実で起きている「自分が何かをする」ということは何も変わりがないからです。

要は自分の頭の中の世界の話、認知の仕方の問題でしかなく、それが現実には何ら影響を及ぼすことはないということです。

だったら必要ないんです。しなくてもしても外は変わらない。何かを支配しなくてもいい。思い通りにしなくても変わることはない。

つまり自分は元から安全なんですよ。不安因子があると思って気にしているかもしれませんが、それは悪魔で思い込みにすぎません。支配なんか実際は何一つできていないわけで、でもこうして生きているわけではないですか。

もし直接的に安全でなさそうなところ(暴力をふるう人がいるとか、抗争が起きているような場所)に今自分がいるのであれば、そこから逃げてしまえばいいだけの話しなのです。人間は結局、「今ある何かを使って自分の行動を決めて実行するだけの生き物」にすぎません。

だから「今自分がしたいと思う事をし続けるだけで、おのずとその脅威に対しても対処していけるんですね。

何かから身を守る必要もないです。

誰かから邪魔されるんじゃないか、否定されるんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないか。そう気にすることで脅威をイメージして身を守ろうとして足を止めてようとすることも、すべて必要ないのです。

他人の目を気にして自分にブレーキをかけてしまう心。その警戒の心は最初から必要ないものなんですよ。

“外”に対する支配欲をすべて手放す

他人の気持ち。他人の評価、他人から見た自分

社会の評価、社会から見た自分、社会の動向。

経済の動向、社会情勢、最近大流行のコロナパンデミックなど、

様々な自分ではどうにもならない様々な「気にしていること」、気にすることでどうにかなると思っている、コントロールできると思い込んでいる自分の認知。それに対して恐怖を感じようとする自分の認知

そのすべてをあきらめ、外の彼らはすべて「そういうものである」ということを堰堤とし、切り離し、残った自分の目の前のことに集中するということを始めていけばいいんです。

気にするを捨てれば捨てるほど、「何かしたい」という欲求が自然に出てくる

この「気にする」という認知が、自分のやる気や気力を奪い続けていたりします。

気にするというのは自らを不安や恐怖の感覚に晒すわけですから、当然体は緊張し、無駄にエネルギーが消費されていくだけなのです。

だからそれをやめていけばやめるほど、無駄に消費されていくエネルギーを別のことに使うことができるわけです。素直な自分に課している”枷”が外れていくことになるから、自然とやる気や気力に満ち溢れてくるというわけです。

いわゆる無気力というのはこのような恐怖に晒されている自身の精神状態からくる状態なのではないか、と個人的には思います。

もし何に対してもやる気が出ない。そんな自分を変えたい。

もしそうお考えなのであれば、「気にする」をやめて、自分を楽にしていくことから始めてみてはいかがでしょうか?



自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間うつ病でしたが、多くの自分の歪んだ思い込みに気づきそれを捨てることで独学で立ち直りました。その「気づき」の記事を本ブログにて日々更新中です。
一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のことで疑問に思うことなどなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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