
つい最近人気YouTuberのLogan Paul氏が、やらかして炎上していましたね。”we found a dead body in the japanese suicide forest”(訳:日本の青木ヶ原樹海で死体を見つけた)という動画にて、本物の死体を映してしまったことや、それを前にしての彼の態度や行動が問題だと言われて大きく話題になっていました。
今回の騒動について個人的に思うことを書いてみます。
今回の騒動で致命的だったこと
YouTubeの規約に触れた動画を投稿してしまった。
YouTubeの規約の「暴力的で生々しいコンテンツ」には以下のように明記されています。
以下引用
生々しい描写や暴力的なコンテンツ
衝撃を与えること、世間を騒がせること、もしくは不当に不快感を与えることを主な目的とする暴力的または残虐なコンテンツを投稿することは許可されません。生々しく不快感を与える内容の動画には、コンテキストや情報を補うことが必要です。報道、記録、科学、または芸術を背景に過激な描写のコンテンツを投稿する場合は、その背景事情を十分に説明する情報も提供するよう心掛けてください。ただし、コンテンツが非常に暴力的または衝撃的である場合は、該当する背景の扱い方にかかわらず、そのコンテンツは YouTube のプラットフォームから削除されます。また、他のユーザーに対して特定の暴力行為を助長しないでください。
https://support.google.com/youtube/answer/2802008?hl=ja
「”死体”が映った動画を撮ってはならない」というような明確な規約がないので曖昧な部分ではありますが、多分規約の”生しい描写”という部分が「実際の自殺者の死体を映した」にひっかかったのでしょう。彼に視聴者を不快を与える意図があったかどうかについては不明ですが、多くの人が動画を視聴して不快に感じ取ったということですから、意図があったかどうかにかかわらず結果的にはそうなってしまったということでしょうね。
彼の他の動画を見てみると
WE FOUGHT IN THE MIDDLE OF TOKYO!
私個人の感想を述べさせていただくと、彼の事はあまり好きにはなれません。というか嫌いですね。上の動画では食べ物(生魚とタコを両手に握って)を粗末にしている点と、それを建物のガラスに押し付けたり、タクシーのトランク部分にワザと置き去りにしたり。不潔ですし、自分で買った物を最終的にどう扱うかは彼の勝手なんですけど、ああいった周りに直接迷惑をかける行動をする人とは付き合いたくないですね。
仮に実際に彼と直接会って話す機会でもあればまた少し印象は変わるのかもしれませんが、まぁほとんど実現不可能な話でしょうから考えても仕方がないですね。
彼の炎上の背景には、今までの彼の素行において多くの人が不振に思っていた部分が今回の件で爆発した、というものもあるんでしょうね。
と、いろいろ書いたけど
彼の人間性云々や過去の彼の素行の話題は抜きにして、実際にあの動画で私が見て感じた事、純粋に思ったことを書いてみます。
結論から言うと、あの動画に関しては私は観てよかったし、自殺について考えるきっかけができてよかったと思っています。あの動画には本当に”生々しい”本当の死体が映っていましたが、あのような強烈な現実があのように映像化されると「自殺ってこういうことなんだ」ということをリアルに考えさせられるのです。彼はあの動画内でもお調子者な感じを良く出していましたけど、自殺者の死体を前にした時はショックを受けていましたし、そういう部分に関してはシリアスなメッセージ性が伝わってきたのも確かでした。
自殺は日本では深刻な問題な一つとして扱われており、年間の自殺者は毎年3万人を超えていますけど(最近は2万人台になったみたいですが、それでもたくさんの人が死んで行っている現実は変わらない)、単純に数字だけでそういう事実を突きつけられてもそれだけじゃイマイチ実感がわかないんですよね。なんだか遠くの世界で起きているような気がして、自分には関係ない話だなんて頭のどこかで考えてしまう。
でもあの映像はそんな私のどこか”他人事的な意識”を晴らすには十分な動画だったんです。中東の戦争でたくさんの難民が犠牲になってしまった無残かつ残酷な映像、第2次世界大戦の日本の原爆投下によって多くの人が犠牲になった惨たらしい惨状の映像よりも、私が今生きて生活しているこの時間に、同じ国に住む人間の一人が自ら首をつって死んだという事実を映像を通して知ることの方が衝撃的なものでした。
日本のリアルな闇の部分に改めて気づかせてくれたことについては、私は彼に感謝をしたいのです。実際あれから自殺者についての本を読むようにもなりました。
今後の彼について心配なのは、彼が周りのパッシングに耐え切れず、最悪の場合自殺してしまうんじゃないかと思う事。確かに彼の人間性についてはあまり好きにはなれませんでしたけど、後の彼の謝罪動画では今回の件について十分謝っていますし、今後の彼の歩み寄りを期待して、少なくとも私はこれ以上彼について悪く言わないでおこうと思います。やってしまったことをいくら責めたところで、何も変わることはない。私は彼に死んでほしいなんて思いはこれっぽちもないですし、精神的に病んでほしいだとか傷ついてほしいだとか、報復を望むような歪んだ欲望もない。前にも述べましたが充分謝罪はしているわけですから、後は迷惑な行動をしてしまったことなどについて認識し、今後の行動を改めてくれるだけで十分です。
こういう炎上案件は燃料が投下され続ける限り燃え続けるでしょうが彼がこの先でまた似たようなことをやってしまうならそれはどう言われようとしょうがないですけど、例えば変えようのない過去のことを掘り返して燃料を投下するようなことはあってほしくないなと思います。
…でもまぁありそうだなぁ。ニュースサイトとかってこういうのを食い物にしますからね。そういうニュースが流行るのは、そういうニュースを求める人がいるからなんですけど。実際、彼についてはまだ怒りをあらわにしている人はたくさんいて、彼のチャンネルを削除するまで絶対許さないという人もかなりいらっしゃいますしね。他にも、単に悪質なタイプのもので、人の不幸を笑いたかったり、求めている人が世の中たくさんいるのもこの世の現実。こういう人達がいるのも自殺の原因に関係しているのかもしれませんね。
本件とは直接は関係ないですけど、最近の世の中全体になんとなく感じる”息苦しさ”はこういう余裕の無さというか、失敗は許さないという窮屈さとかそういう部分からきているのではないだろうかと思うことがあります。人を許さないということは、案に自分の失敗についても許さない、許せないということであり、他人にそれを強いれば強いるほど、同時に自分自身をも縛り上げ失敗することを恐れて何もできなくなってしまうなんてことにつながることもあるのかもしれません。そういった窮屈さ、不自由さを解放するには誰かを許す心を持つことではないかと、最近は強く思います。罪憎んで人を憎まず。ですね。
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