なぜ日本人は議論、ディスカッションが”下手クソ”なのか。その本質はこれだ





日本人は議論が下手クソだと言われています。というか日本人が行っている議論のようなものは、議論の本質からずれています。なぜなら日本人にとっての議論は各個人の中で既に答えが決まっていることについて行われるケースが多く、議論の場がどちらの意見が正しいかを証明する場として存在しているからです。

異なる価値観をもつ人の意見を取り入れてよりよいアイディアを思いついたり、問題解決の材料、或いは議論者同士の見識を広げたり、人間性の向上のために行うというような生産的目的ではなく、相手を論破し、自身の正しさの証明することで、その場における社会的な支持を得るために行ってしまっているからです。これは日本のsns上でも普遍的にみられる現象で、お互いの否定合戦をしている現場は簡単にみつけることができます。

なぜそうなってしまうのかというと、それは日本人の画一的な思想である巨大宗教、「普通教」の影響が大きいと私は考えています。キリスト教のような分かり易い宗教団体のようなものではなく、日本特有の風土的概念ともいえる存在のことです。特にそれに名前はついていませんが、この記事ではあえて「普通教」と呼称する事にします。その影響力は絶大で、日本人の思想の根底に根差しているような非常に根深いものです。現代における日本人の多くは自分自身のことを無宗教、あるいは仏教徒だというかもしれませんが、私個人の推測では99%の日本人がこの「普通教」の熱心な信者であると考えています。

「普通教」にどっぷりはまる日本人

多くの人が自分の世界に存在する正義と悪、ルール、何が正しくて何が正しくないのかという価値観、思想を持っていると思います。これ自体は国を問わず共通していると私は推測しています。問題は、多くの日本人の場合、自分のもっている正しさやルールを「普通」であると思い込んでいて、自分の正義は他者の正義である、自分の正しさに他者も追従していることが当然であるということを前提に物事を考えてしまっている節があるというところにあります。

日本人は直接的な物言いをせず、”阿吽の呼吸”という言葉もあるように、自分の言葉を伝えなくとも相手はわかってくれることを美徳してとらえているところもあります。これ自体は確かに美しいかもしれませんが、これを期待したり縋ったりするなら、それは完全に「甘え」です。人はそれぞれ自分自身の人生、目的があり、そのために日々を生きています。なのにも拘わらず、相手は自分のためにこうしてくれるはずである、こうあるべきである、こうでない人は人間ではないというように、相手が自分にとって都合のいい行動をしてくれることを期待する。これは一方的な例ですが、他にもこれだけのことをしてやったのだから相手からお返しがあって当然だというものも含まれます。

自ら行動することをリスクだととらえており、そのリスクを避けるために先に相手が行動してくれることを求めます(受け身的思考)。それはリスクを負うこと、責任を放棄したいという欲求から来るものであり、自分の行動すら自分の判断で決定することのできない、幼稚的な性質をもっているということでもあります。

普通とは

そもそも普通とは何であるのかというと、それは”一般的である”とか、”常識”という別の言葉にも置き変えられますが、普通であるということの本質は表面上の統計的な概念でしかありません。例えば日本人の平均身長は〇〇だから、自分の身長は普通だ、というような、物理的に観測可能なもの、感じることができるもの、人間のもつ5感で感じられる「共感」という範囲で観測可能な、統計的に多数的あるいは平均的な事象が本来の「普通」という概念です。しかし、日本人はそれが人の5感の外にある自分では理解することも計ることもできないはずの他人の意識や価値観、宗教観にまで及ぶと考えてしまっているところが大きな問題なのです。人への「共感」ではなく、「理解」という領域は人の5感の範囲を超えてしまっています。人は自分自身を除いて人の内面を理解することは不可能である以上、そこに「普通」という計りを適用することはできません。「理解」したつもりでも実際には単なる「決めつけ」でしかないわけです。

自分がされて嫌だと思うことや、うれしいと思うこと、間違っていると思うことを「普通」なのかどうかと心配したり、自分の意見を述べることで他者からの批判を受けないか非常に恐れたりします。理解できるはずのない相手の内心を勝手に想像して疑心暗鬼になってしまうことも同じです。自分が「普通」という概念から外れてしまうと考えて、それによって社会的な孤立に陥ってしまうことを恐れているのだと思います。しかし実際の「普通」とは前述にもある通り単なる統計であり、ルールでも真理でもありません。にも関わらず、これを指針に自分の価値観や宗教観を構築していくことは自分の人生を生きるというところにおいて厄介な障害になりえます。

上記のような誤った認識をもっていると自分と他者の人間関係の構築が円滑に進まなくなってきます。相手の価値観を否定することに何の疑いももたなくなり、自分の意見に対する相手からの否定的な意見を自分自身の存在否定であるととらえるようになります。自分の価値観にそぐわない人間は無価値である、人間ではない、といった見方をします。

アドラー心理学という学問では、他者と自分の課題の分離が正しくできていないことを、「認知の歪み」としています。恐らく多くの日本人はこの歪みを持ってしまっているのが現状であると私は推測しています。

まとめ

日本人の議論とは、前述の日本人独特の性質から、こうした歪みをもった人によって行われる機会が統計的に多いのだと思います。ゆえに、正しいのか誤りなのかというテーマでしか議論しません。日本人は歳を取ればとるほど勉強するということから離れていくという傾向がありますが、そういうところからも察するに、常に学び続けようとする姿勢、自らの成長や、共同体の貢献という意識が薄いゆえに、学ぶことをしないための口実として、現在の自分が正しいことを証明することにこだわるのかもしれません。或いは社会的に認められているという人間の”アイドル性”を重視する偶像崇拝的な価値観や、自分が良ければ周りはどうでもいいというような官僚主義的な価値観も影響しているのかもしれません。しかし成長することを放棄するということは成長することを選択した他の人から置いてきぼりをくらうということでもあります。国際社会においても、日本人は外交があまり得意ではないという話を聞きますが、その問題の本質も本件と似ているものだと私は推測しています。特に西洋諸外国では自ら学ぶ文化がありますから、置いていかれても不思議ではありません。国際社会から置いていかれたくないというのなら、単に今の教育を強化するという付け焼刃的な措置では不十分でしょう。もっと抜本的な日本人の意識を改革しない限りはいつまでたっても優れたリーダーが育つことはなく、ずっと置いてきぼりを食らい続けるだけだと思います。

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