哲学:人間関係は、一種の”道具(ツール)”でしかないということ






2020年04月25日~:
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私は人間のもっている本質的な目的は、自分の場所を求めることであると思っています。

関連記事:人は”場所”を求めて生きている

そのために時に人は、自分を不幸にすることで、自分の居場所を作ることだってします。現実世界から逃げるためにゲームなどの仮想世界に退避したり、どこにも居場所がなくて自ら命を絶ってしまう人もいます。

人間は目的を達成するためにあらゆるものを手段、道具として使っています。人間関係もその内の一つです。

恐らくこの記事をご覧の方は何かしら人間関係に悩みを持つ方ではないでしょうか。職場や学校、家に自分の居場所がない、友達がいないくてつらい、いじめをうけている…人との付き合いが苦手な自分に対して劣等感を感じていたりいたりはしませんでしょうか。

もしそうでしたら、是非本記事を一度読んでいただきければと思います。

「人と仲良くすることが”良い事”」という考え方はカルト的な価値観である

人と仲良くするこというのは、ここは強く言わせていただきますが、そもそも論として、「良い事」、「悪い事」であるという次元の話ではありません。人と仲良くするのは一つの「手段」であり、何等かの目的を達成するために使うもの、つまり「道具」です。これについて罪悪感を感じる必要は特にありません。そう感じてしまうのはこの国の独特の文化や考え方、教育などの要素がもたらしている一種の洗脳です。このようなことが一般に語られないのは、これらの本質の理解の仕方によって問題を生む原因になりえるために、だれも言いたがらないし、考えたがらないからです。人のことを「道具」のように扱うように聞こえますし、多くの人はいい印象は持たないと思います。道具は捨てることもできますから、まるで物のように扱うかのように見えるからです。もし人を物のように扱う人が増えてしまったら、この世はきっとよくない方向へ向かっていくでしょう。しかしそれは道具というものの本質への理解が足りていないか、間違っているだけです。道具は適切に効果的に使ってこそ最も効果を発揮し、そのためには手入れやいたわりも必要です。人と人の関係ならなおさら。人を見下すようなひとに人をいたわることはできないでしょう。このことをよく理解していれば、あらゆるものは全て手段して扱うことできる道具であるということを感じていただけるかと思います。

例えば「相手と楽しく会話をしたい」、という目的があったとしましょう。それを達成するために例えば初対面であれば、まずは相手に自分は敵意がないこと、好意をもっていることを、何らかの方法で相手に伝えようとするのではないですか。自己紹介したり、相手の好きそうなことを聞いてみたり。そうすれば相手も心を開いて、楽しく会話をしてくれる可能性があります。このようにして相手にも何かを与えながら、こちらの目的を達成していくわけですね。もし一方的に自分の面白い話をしたとしても、相手が興味がなければ聞いてくれませんよね。このように目的を達成するために有効な手段を講じていくわけです

そしてこれは「良い事」とか「悪い事」という次元の話ではない、ということは感覚的に伝わるでしょうか。「人と仲良くすること」についても、それは同じなのです。悪魔でこれらは目的を達成するための手段でしかないのです。人間の行動には全てなんらかの目的が備わっています。その目的を達成するために、様々な手段を人間は選択し使って日々生きているわけです。

「人に好かれること」も手段の一つでしかない

さらに追加すればこの手段は恐ろしく脆く、危険なものであると私は考えます。例として草食系男子という恋愛に奥手な男性で考えてみましょう。彼らの本質的な部分は受け身的な思考にあると思います。もちろん”そう呼ばれている”全ての男性がそうだとは限りませんが、本人に本当はしたいけど自分からは単に声をかけることができず、女性と恋愛のような関係を持ちたい意識があるのならそうなのだと思います。おそらく彼らは、彼らの思う”良好な人間関係”を結ぶために相手に好かれていなければならないという深い思い込みをしている可能性が高いです。

良好な人間関係といっても、それが本当に相手にとって、自分にとって”良好”なのかどうかについては、一度考えてみた方がいいでしょう。人に好かれるために相手や自分に嘘をついて接することで”良好な人間関係”を構築しているのだとしたら、それは果たして本当に”良好”なのでしょうか。

その嘘を最後まで押し通せるのでしょうか。それで自分や相手は本当に幸せなのでしょうか。

実際のところ人間関係は相手が好意をもっているかどうかに拘わらず、何等かの形で構築されています。道端ですれ違う赤の他人も、全くみたことも会ったことない人に比べればごく微小ですがしっかりと人間関係は生まれています。視認することで対象の人物が存在しているということを確認できますし、対象の容姿や身なりから無意識的にどんな人なのかを想像したりもするでしょう。道が狭ければ相手に気を使って、道の脇によってお互いの歩行スペースを広くとったりもするかと思います。このような微小な人間関係は日常に溶け込んでそこら中で発生しているものです。

会社や学校という空間であれば、もっと濃い人間関係が形成されうるでしょう。お互いをより知り合うする機会が増えますし、特に前述の微小な人間関係と比べて、実際に話をする機会が圧倒的に多いからです。よりお互いの性格や考え方について共有することになるため、友人や恋人になって時間を共有したり、反対に気が合わなければ直接関わることを避けたり、意見のすれ違いやふとしたきっかけで喧嘩になったりもします。

お互いに気があって友人のような関係を築いていたとしても、逆に気が合わなくて関係が希薄であったり険悪な関係があっても、それが明確な自分の意志によるものなら本人にとってその人間関係は”良いもの”であると思っています。自分の意志を殺して無理やり周りに合わせて「好かれよう」としているのは、例え友好的な関係を築けていたにしても“悪い”人間関係だといえます。

“悪い”人間関係を構築し続けている人は精神疾患を患うリスクが高く、その期間が長ければ長いほど、治療するのに時間がかかるのではないかと私は推測しています。上記で上げたごく微小の人間関係についてさえ、「変にみられていないか」「おかしなところはないか」と常に周りの目に気を使い続けてはいませんか。そうやって様々な人間関係の構築において誤った考え方のまま費やした時間が多ければ多いほど誤ったその理論に基づく経験とその方法論が上積みされていくことになります。根幹的な治療をするには、今まで積み上げてきた”歪んだ積み木”を全て崩し、新しい積み木を新しく基礎から積み上げていかなければならないからです。各個人の人間関係の構築方法を学ぶ過程については幼少期からの教育による積み重ね、習慣が大きく影響していますが、[リンク:日本の義務教育はこのような考え方を生みやすい環境にあると思います]。習慣化した悪い人間関係の構築によって、やがて社会に出て自分の持っている「人に好かれる」ための方法が適用できないケースが多くなると、それが社会不適合障害、精神障害として現れるのだと思います。こうなってしまった場合は「人に好かれたい」という目的そのものが間違っていたということになります。この場合は本人の人間関係構築の前提や方法を変えていくことで解消されていきます。

私個人は、人に好かれる必要は全くないと考えています。自分が対象を好きか嫌いかだけでいいのです。ただし、自分が好きなら相手に何をしてもいいということではありません。その反対も同じです。これについては共同体意識とそれらへの貢献がポイントになってきますがそれは別の記事でも書いていますので省きます。

「道具」に使われてはならない

道具は「使うもの」です。自分の目的達成のために自分に使用されるものであって、ツールそのものに縋ったり、崇拝してしまうかのような行為は愚行です。

人間関係に悩んでいる人の大半はこの手段と目的の混在状態で混乱してしまっている状態にあると思います。道具に縋り、かつコンプレックスをもってしまっているケースは、使われる側にあるはずの道具に、逆に使われてしまっていると言わざるをえません。こういった思考は劣等感を生みやすい傾向があり、現代社会でもその片鱗はあちこちで見られます。容姿をやたらと気にするのもそうですし、ネット上で見られる「炎上行為」、他者への「マウント」や「レッテル張り」がその典型ですね。

「人と仲良くすること」そのものを目的としてしまうのは、その行為そのものに価値があると考え、大抵はそれが「良い事」、「悪い事」という計りをかけ、自分自身の存在意義や価値観を計ろうとする目的にあるためです。しかしこうした価値観は全て人間が作り出した偶像でしかない、非常にカルト的な価値観です。

この世には絶対的な神という存在はありません。正確にはそれを証明できないからという意味になりますが、ほとんどその存在がないと言っていい以上、絶対的な宗教的正しさというものは存在しえません。

現代社会に存在するあらゆる人が認識している価値というものは全て同じく人が作り出したもの。現代を生きる人々は他人という、自分たちと同じ人間が作り出したルールをマニュアル的かつ無意識的に、そして絶対的なものとしてとらえている節があります。まるで神のような絶対的存在が決めたことのように。例えば「人として正しくあるべきだ」というものなんかはそうでしょう。

人として正しくあることはいいことだ、当然のことじゃないか、と考えている“だけ”の人達は、そうした過去に人が作り上げた価値観をそのまま鵜呑みにしているだけで、その本質を理解できていないか、考えもしていない可能性があります。「人として正しくあること」の目的は、それによって個人の道徳観や倫理観、社会的マナーを向上させ、社会の治安向上などの社会貢献を目的としたものであり、その本質は単なる”行動”でしかなく、絶対的に守らなければならない、この世の真実ではありません。

物や人の作り出した概念をただ愚直に崇拝してしまうのは非常に危険です。そうなってしまうとずっと誰かの作り出した概念や道具の操り人形となってしまい、自分の人生を生きることが難しくなります。

人間は道具を選べる、使える、作れる

この記事を書いている私も、読んでいるあなたも同じ人間であり、道具を選んだり、使ったり、または道具そのものを作ることもできます。世の中に存在する宗教は全て同じ人間が作り出したもので、社会的地位や価値観なども全てそうです。現代社会にいきる私たちは、生まれて物心ついた時から既にそれらが存在しているので、まるで空気のように、当たり前のものだと考えています。ゆえにその”当たり前”を信じて疑わず疑問も持たず過ごしてしまうと、いつのまにかその道具たちの操り人形とかしてしまいます。

しかしこれは逆説的というか、他の見方をすれば自分でも新しい価値観を作ることができるということでもあります。社会という通念概念が人間の作り出したものである以上、同じ人間である私達もそれを作りだすことができる可能性をもっているわけです。だから自分たちで何かを作り出すことは何も不自然なことではなく、むしろ作らない方が不自然といえるでしょう。既存の自分に合わない価値観に押しつぶされ、自分自身を否定し続ける人生を送るのか、固定概念に縛られず自己実現のために前向きに人生を送ることととどちらが幸せでしょうか。

自己実現のために人生を生きる

私は、「自己実現」とそれを使った「社会貢献」を目標に掲げて生きていけば幸せを感じながら自分の人生を歩めると考えています。道具を作り出す行為に自分も参加するということです。自分は本当に何がしたいのかを考え、それにむかって着実に突き進んでいく。それを達成するために回りの環境や人間関係といった、様々なツールを有効活用することです。



アドラーの心理学を論理的に実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学だといわれています。

管理人が実際にアドラーの教えをもとに実践した内容の記事を残しております。

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私のうつ病の主原因は「甘え」だった。甘美に感じられた「甘え」が私を苦しめていました。

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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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