哲学:「愛される」ということは哲学的に不可能である





※以前書いた類似記事を書き直したものです。

人間の機能的限界

一人の人間から見た他者の内面は全て憶測である。つまり相手が自分に対して、どう思っているかを理解することは不可能ということだ。

人は自身の5感と、自身の思考でしか他者を感じ取ることはできない。その内の自身の思考はより不正確で、いくら他者の内面について想像を働かせたところで、実際にそこで行われているのは自分の内面を他者に投影しているということだけなのである。本人に直接気持ちを聞いたところで、結局それは変らない。なぜなら、相手がそれについて嘘をついているかもしれず、それを確かめる術がないからだ。さらに人間には、言葉に現れない相手の思考や、気持ち、感情までを理解することは決してできない。人間は他者に対して「想像」と「共感」までしかできないのである。

これは別の観方をすれば、人は相手の真の姿を好きになることもできないということである。一人の人間から見たある”好きな相手の姿”は、観測した当人の解釈によって構築されている姿であり、実際の相手自身が思う姿や本質をとらえているわけではないからである。自分の好意を相手に伝えて、「自分はそんな人間じゃない」と言われたことはないだろうか。或いは逆の立場を経験したことはないだろうか。実際のところ、そうなるのはごく自然の話なのである。

故に、人は他者を真に理解することも、されることもかなわず、人は誰であろうと本当の意味で”愛される”ことは決してない。「人に愛される」ということはそもそも愛ではない。ただの妄想なのである。人は他者の目に映っている世界や感じていること、考えていることを直接感じ取ることができない。自身が思っているよりもずっと、人間の見えている世界というのは狭いのだ。しかし人は想像することによって、さも相手のことを理解しているかのように錯覚してしまうのである。しかし実際のところ、人は自身が感じている世界しか認識することができない。故に人は孤独なのだ。



自分が誰かに好かれているかどうかを100%確かめる術はない。

「好かれている」、「愛されている」という状態は、人が観測できる主観的な世界において、妄想の世界にしか存在しないのである。全ては本人にとって”そう見えているだけ”であり、実際にそうであるかについて物的に完全証明する手立てはない。存在を証明できない以上、それは確定することのできない事項なのである。シュレティンガーの猫に少し似ているかもしれないが、決定的な違いがある。シュレティンガーの猫は箱を開ければ猫が生きているか死んでいるかを確かめることができる。しかし、他者の気持ちはいつ何時であっても理解することができない。人は超時間的にも他者や他者の考え、気持ちを理解することは不可能なのである。

素朴実在論という考え方

「人は目に見えているものを見たままに存在していると認識している」という考え方である。しかし実際のところはそうとは限らず、”逃げ水”のように遠くに水があるように見えて、実は存在していないということがある。このようにしばしば人は、自身の目に映った出来事と、実際に起こっている事象を誤解しがちなのである。

人はそれが誤った認識であったとしても、一度思い込むとなかなかその認識を改めたがらない。人に好かれることを気にするのも同じで、一度それが大事なことであると思い込むと、なかなかそこから抜け出せない。承認欲求に飢えることはつらいものだが同事に甘美で魅惑的でもあり、その虜になってしまう者も多く、抜け出すのは難しい。しかし実際のところでは、何度も言うが他者から自分に対する好意というものははただの幻、思い込みでしかないのである。

他者の考えや気持ちを基準に自身の行動を決定していると、歪んだ人生の道程をたどりかねない。なぜなら、相手の都合に振り回される人生を送ることになるからである。人生の目的もそれに伴って歪んでいくことだろう。永遠に不確かな他者の意志に翻弄され、気が付けばずっとそんな得体のしれないものの操り人形のような人生だった、なんてことになるかもしれない。本物の自分の人生を生きるためには人間の機能的な限界を正しく自分で解釈した上で、認知や思考の歪みを正し、確かなリアルな世界の中で生きていくことが肝心である。現実に誠実になって人生の目的を作り、それに向かって前に進んでいけば、もうそこに迷いは無くなる。

妄想というのは大抵において非生産的である

生産的な行為は常に現実の世界で行われている。自身の存在も、妄想の世界には存在しない。現実という物質的な世界は妄想の中では存在することができない。

自分の見えている世界を確かな現実のものとするためには、その幻を自ら意志で断ち切り、完全に破棄するしかない。それには勇気がいる。その勇気こそが自身に決定的にかけているものなのだ。



愛は与えるものであり、与えられるものではない。

愛されることはもちろん、誰かを真に愛することもかなわない。それでも、誰かを愛するという行為自体は確実にできる。たとえそれが相手にとって表面的な部分だったとしても、相手がそれを望まなかったにしても、それだけが人が確実にできることである。

今まで愛されることばかり求めていた人間にとって、人に愛されないという事実はつらいものだ。私自身少し前までそうだった。なぜなら「何かを愛する」ということを、今までやってこなかったからである。何かを愛するという事がどういうことかわからず、空っぽな気持ちになってしまうからだ。しかし人間はいつからでも愛することがどういうことなのかを学ぶことができるはずである。※ それについてはまた後日記事を書こうと思います。

愛する何かを見つけることができれば、何も恐れることはなくなる

愛する対象は人に限らず、モノでもなんでもいい。一寸の淀みすらなく、真っすぐ愛することのできる何かをみつけることができれば、後はただそれに与え続けるだけでいいのだ。人が人らしく生きることとは、何かを与えることを糧に生きるということなのである。

対象が人であればその人が喜ぶようなことをする、困っていたら手を差し伸べ、それがパートナーであればともに幸せに生きていくだけでいい。モノであればそれに情熱を注ぎこみ続ければいい。絵なら夢中でただ描き続ければいいだけなのだ。周りや脇に目も降らず、ただ目の前の愛するものに没頭することさえできればその瞬間人はすでに幸福なのであり、それこそが真の人間の姿なのである。

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元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

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