自分を着飾ることに対する”大きなリスク”「ナルシシズム教」の恐ろしさ





人間はどれだけその身を着飾ろうと、その本質は変わることはない。それらがはがされてしまえば、そこにはただ一人の人間がいるばかりである────────────────

自身の身を着飾ることに魅力を感じ、流行りの服に身を包み、髪を整え、女性は化粧で顔を彩る事に多くの時間をさいて、相手の顔をうかがいながら生きている人々がは多い。

現代社会では進化したテクノロジーが様々な可能性を生み出し、InstaglamなどのSNSをはじめとする「自撮」が流行し、Snapchatなどのアプリを使って、素人でも簡単に写真を加工できるようになったことで、その着飾る”程度”にも限界が無くなってきている。

それはどんどん本物の自分の姿から遠ざかっている。確かにそれ自体は遊びとして考えれば楽しいものだが、そこに承認欲求が入り込むと恐ろしい中毒性を持ち始める怖い代物でもある。

なぜ着飾ろうとするのか

自身を着飾るということの目的が、単に他人によく見られたいとか、一種の自分を崇めてほしいという願望、承認欲であった場合、それは自身を偶像化しているということになる。

このゆがんだ自己愛に満ち溢れた価値観を、私はナルシシズム教と呼んでいる。

この宗教の面白いところは、ナルシシズム教信者が信じている”神”はどれも異なる唯一神を持つという点だ。その唯一神とは装飾された自分自身の姿、つまり、自己によって偶像化されたファッショナブルな自身の姿を”唯一神”として崇めているというところである。同じ宗教なのに神が信者ごとに異なるこの特殊な宗教は、この世で最も孤独な、なんとも奇妙な宗教と言えるだろう。



無自覚な入信者たち

ナルシシズム教の信者たちはそんな自己の偶像化には気づいていないし、もちろん自身がその信者であるということにも気づいていない。(もちろん”ナルシシズム教”という名前自体は私が勝手に名付けただけのものだが)

しかしこれが、後の人生に大きな不幸に落とす底なしの沼にはまりこむ危険性をはらんでいるのだ。

一度この沼に引きづりこまれれば、やがて自分がわからなくなり自分の本質さえも見失ってしまうほどのものである。

ナルシシズム教の”神”

ナルシシズム教の信者たちは唯一神 = 自分自身が常に成り立つことを常に意識しているし、願っている。日々のメンテナンスに気を配り、今日も偶像磨きにご執心である。しかしそれと同時にそれが成たたなくなることを恐れてもいる。

なぜなら自分自身はただの人間で、人間は老化していく性質を持つからだ。人間の老化は非常にわかりやすく外見に現れる。犬や猫のように晩年まで形質がほとんど変わらない動物たちのようにはいかない。

ナルシシズム教の信者たちにも聖書がある。それは「周りから賞賛される美とされる価値観、モノ」である。多くの雑誌やWebなどの「情報媒体」がその聖書にあたる。

日本の場合とくに女性においては「カワイイ」が主流か。そんな彼らにとって老化というものは“悪魔”そのものと言えるだろう。少なくとも、現在の彼らの聖書には老化は美を損なう劣化であるとみなされており、美の対局として扱われているのだから当然である。

“老化”という悪魔

老化という悪魔にとりつかれたナルシシズム教の信者たちは、やがて自身の本当の姿を直視することを避けるようになる。

彼らが真剣に自信の姿を見る時は、彼らの聖書に従って正しく偶像化された自分が目の前に構築されている時だけだ。理想的な容姿に整えられ、他人に見られても恥ずかしくないという偶像が鏡、または写真という対象に映し出されている時だけである。

そうでない自分の姿はまるで悪魔が写りこんでいるかのように否定されるべきものであり、その姿を目で捉えたとしても、無意識のうちに心で「自分はこんな姿のはずがない」と否定し、まるでなかったことのように振る舞うだろう。

しかし時と共にどんどんその偶像と本当の自分の姿の乖離は広がっていく。やがてはその偶像を手放せなす勇気すらももてなくなり、人前に姿を現すことができなくなる。現実の自分という悪魔を恐れ、安全な自分の住処に引きこもるようになるのだ。



自らを地獄の淵へ

そうしたことを繰り返せば繰り返すほど、ナルシシズム教の信者たちはじわじわと、意図せずとも己の身を引き返すことのできない地獄の底へと引きずりこんでいく。

もはや日々のメンテナンスでは覆い隠せなくなり、外出することを恐れ、遠出をすることもできなくなる。行動の自由を自らの偶像とその陰に存在する悪魔によって奪われることとなり、やがてその生涯を終える。なんとも惨めな最期だ。

皮肉なことに、人の老化という性質のせいで、自身を偶像化するプロセスは時間をかければかけるほど、より依存性が強くなり抜け出しにくくなり、その偶像をメンテナンスする労力は増していく。なんとかかつての偶像のような輝きを取り戻そうと、時にはロクでもないものに手を出しながらも結局老いを止められず露頭に迷い、最悪精神を病む。

そうやってどんどん自分を見失い狂っていく。熱心な信者であるほど、このシナリオを避けることはできなくなる。

鏡のもつ恐ろしい一面

鏡は、自身を偶像化するためのツールとして非常に有用なツールとなる可能性をもっている。他人から見た自分の姿をこれほど手軽かつ詳細に映してくれるものはないからだ。

しかしそれは、自身を偶像化している人にとっては前述で述べたような時として見たくもない真実を映しだす触媒となる。写真も同様だが、最近は全てデジタルで用意に加工可能なのでその対象からは外す。

鏡とは思うに、対象の見かけだけでなく、その人の心さえをも映しだす物なのかもしれない。

鏡自身には直接映らなくとも、鏡を見た自分の心にそれを映すからだ。素の自分を鏡越しに見た時、自分の心には何が映っているだろうか。

“こんなはずじゃなかった自分”か?なんてことはないいつも通りの自分か?その時自分の作り出した偶像の姿と、その恐ろしさに気づくだろう。

鏡は人を狂わせるという言葉があるが、これはいい得て妙だ。実際のところ鏡はこうして多くの人々を狂わしているだろうから。静かに、本人に気づかれないように、心の内側から少しずつ精神を侵食し、蝕んでいく。かくも恐ろしい怪物は、映画やドラマなどのフィクションの中には存在せず、こうして身近に、自分のすぐ近くに存在しているものなのである。

追記:ナルシシズム教は、何も自己陶酔行為に限った話ではない。真逆の自己否定する行為も当てはまる。自身のことを醜いとし、周りの目をきにするという行為も、醜い自分の姿を自身の言い訳のための偶像として崇めていることと同じわけだ。いわば悪魔崇拝である。自分はブサイクだから○○できない。という考え方はそれの典型例だ。自己陶酔とはその方向が違うだけ、プラスかマイナスかというだけであり、やっていることは全く同じなのである。ナルシシズムの本質は自己愛であり、自己を貶すこともまた、自己愛の別の形なのである。

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