※ 2018/11/18現在 うつ関連の記事を書きなおし中です(本記事は修正済)。「うつ病の人を責めるかのような書き方をしている」部分があるところがあるので、つらくなってしまった方はすぐに読むのを中断して頂くか、その対象が著者である私に書き換えて頂いて読んでいただければと思います。お手数をおかけして申し訳ありません。
※ 2019/11/14 注意書き追記 この記事はタイトルにも明記している通り、「私自身のうつ病」に関する記事です。他の方のうつ病に対する記事ではありません。現在いろんな方からこちらの記事にコメントを頂いておりそれぞれ返信させていただいていますので、もし何かの参考にしていただけるのであればそちらも見て頂ければと思います。
私のうつ病は、幼い頃から変っていない幼い精神性が原因でした。他人に甘えることでしか、自分を認めることができていなかったのです。
自分は理解されているという幻想
会社で休職手続きをしたときの出来事
当時私はうつ病で仕事が全くできない状態になっており、休職の申請を総務部長にしている最中でした。
うつ病であると事前に宣言していたので、回りに「大事に扱ってもらえる」と思い込んでいました。
体がこわばり背中の激しい痛みと朦朧な意識の中、
「こんなにつらい思いをしているんだから気を使ってくれるはずだ」、
と考えていました。わかってもらえてるはずだと。
特に総務部長は私が入社当初から優しい方で「最近どうだ?」「仕事は順調?」と声をかけてくれるような気さくな人だったので、そう期待していたんです。
ところが休職の面談の中で行われたそのやり取りでは
「いつ復帰できそうですか?」
「休職は2ヶ月まで。それ以上伸びるなら退職してもらうから」
「君は優秀だったと聞いていたけど残念だね。将来有望だと思っていたんだけど」
と、終始淡々としていて、ねぎらいの言葉とか「大丈夫?」みたいな温かみのある言葉は一切ありませんでした。
いつものやさしそうな表情から、ゴミを見るかのような冷たい表情に変わっていました。
こんなにつらい気持ちでいるのに、正直ペンをもつことすら苦痛を感じているくらいの、こんな自分に対して、
なんでそんな冷たいひどい顔ができるのか。そんな態度が取れるのかって。
そんな自分の気持ちなど部長は1ミリも汲んではくれないようでした。
むしろ半ば脅しのようなことばかり言われたので、
「あの人がまさかこんな風な人だったなんて…」
とショックを隠せずにはいられませんでした。
今思えばその会社は離職率も高くて、社員が体調を崩すと辞めていくことが多かったのですが、そうやって人を使い捨てにしてきたのだと思います。
「壊れればもうそいつは人間じゃない」「役に立たない人間はいらない」
後から聞いた話では総務部長は自分の退職金にしか興味がなく、がめつい人だったことがわかりました。
「あの良い人柄は退職まで安全にすごすための見せ掛けにすぎなかったのか」
そう考えただけで「裏切られた」という強烈な感覚と吐き気に襲われ、
また回りの私に対する腫れ物を障るかのような、よそよそしい態度にも耐えられず、その日は会社を早退して家でずっと泣き崩れていました。

その後2ヶ月休職したものの、結局体調も万全に戻らず、退職の意を伝えたときには
「退職後の1年間は同業種での就業は禁止です。」
「ではここにサインと印鑑をお願い。」
「はいこれで終わりです。お疲れ様でした。」
と相変わらず淡々とした調子で進むだけでした、私の事なんかよりも他の総務のメンバーとおしゃべりすることの方が大事そうでした。
彼にとって私はほとんど興味ゼロ、既にほぼいないような存在でした。
親にも相談したけど…
親にも休職のことを相談しました。
うつ病になってしまったことも伝えて、ちゃんと話せば自分のつらさを分かってもらえて、同情してくれるだろうと。ところが…
「うつ病なんて情けない。ただの仮病でしょう?」
「会社やめたら家を追い出す」
「ニートなんて絶対許さない」
といわれ、私がうつ病で苦しんでいることなんて眼中にもなく、ただ社会人としてあるべき姿でいることを求められるだけでした。
親でさえも、自分のことをわかっていなかったし、わかろうともしてくれなかったのです。
「もう誰も信頼できない」
その日を境に一気に人間不信が爆発し、親とも一切口を聞かなくなり休職期間中にも関わらず衝動的に部屋探しを始め、約1ヶ月で家を飛び出して一人暮らしを始めていました。
一生一人で生きてやる。誰にも頼らず。
そういきまきながら。収入ゼロなのにね。
一応会社には在籍中だったんで部屋はすぐにみつかりました。とはいえ、今にして思えば相当に無謀なことをしたと思っています。
体もろく動かず、一日中部屋の中でじっとする日々が3ヶ月くらい続いて、ようやく体が動くようになったころには貯金も大分減っていました。
それでも実家にいるよりは精神的に相当良かったとは思います。
母親から離れて
今でも親とは連絡を取っていない状態ですが、今では関わる理由がないから関わっていないという感じです。
恨みなどではなく、単に興味がないから関わっていないというか。
不思議でした。当時は母親に認められたいという一心もあって、母親を見返してやりたいとかこんな風に育てた母親に復讐してやるとか、
母親に「あんたの教育が間違ってたから自分はこんなに苦しんだんだ」っていうことを証明しようとしてました。
無言の家出もその一環です。そうすれば「なぜそんなことをしたのか」と母親が考えてくれるかもしれない。自分が悪かったかったんだって反省してくれると思ったんですよ
でも母親は全くそんなことを気にしてない様子でした。突然電話をよこしたかと思うとあっけらかんとしていて、「たまには連絡してよ」と自分のことばかり
私の本心、心には無関心だったんですな。
私はそれにもイラだって、以来ずっと着信拒否するようになったんですが、
それでも認めさせたいという強烈な気持ちだけは残っていて、毒親関連の本を読み込んだり、掲示板を除いて他の人達の毒親経験談を読みあさりながら、母親の非を探すことに必死でした。
うつ病を治す中で起きた”変化”と”気づき”

しかし、アドラー心理学に出会い学んでいく内、自身のうつ病の原因が強烈な承認欲求から来ているということがわかってきました。
思えば部長や他の会社の人達への自分に対する思いやりの要求も、母親への復讐心も全て「自分を認めて欲しい」という欲求が根本にありました。
それが一向に満たされずひたすらに裏切られ続け、それが絶望感となり自身をうつ病に追いやったということに気づいたわけです。
それ以来そんな自身の認知の仕方、くせ、価値観を変える日々を送るようになっていきました。毎日がいろんな気づきの連続で、そのたびにメモに書き取り、多分100万文字は超えているじゃないかと思います。
気づきと認知修正をしていく中で少しずつ承認欲求が薄れていきました。するとそれと同時に母親に対する興味がどんどんなくなっていきました。
承認欲求から脱していけば脱していくほど、「母親に彼女自身の否を認めさせたい」という欲求が無くなっていったんですな。
その時気づいたんです。
私だって母親自身の気持ち、母親の心に無関心なんだってこと、
私は自身の承認欲求を満たすことにしか関心がない人間だったということに。
私は誰かにひたすらしてほしいことを求め続けていただけの人間だったのです。誰かのことを心から好きになったことなどなく、自分を好きな人を好きになるような人間だった。
行動の全ては誰かに好かれるためであり、そのために自分を偽ったり、がまんしたりしてきただけだった。。
私は人を承認欲を満たすための道具として使っていただけだった。それが自分の人生の全てだった。
そんな自分に気づいてからしばらくして、かつて私に冷たくあしらった総務部長や腫れ物扱いした社員達も彼ら自身の欲求に従って行動していただけにすぎないんじゃないか、と思うようになりました。
彼らは私みたいに承認欲求が強い人間ではなかった。だから他事に関心があったし、私のことに無関心でもなんら不思議はなかった。
ただそれぞれがそれぞれの欲求をもち、その形や目的が皆違うだけなんだと。
ただ皆自分の欲求にしたがって行動しているだけで、その点においては私も何も変らない。
根っこの部分はみな同じなんじゃないか、という風に考えるようになりました。
なんだ、人ってこんなに適当で自分のことしか考えてないんじゃないか。
そう悟った瞬間、肩の力がすっと抜けていったことを覚えています。
そしてその瞬間もう一つ気づきました。
「わかってくれるはずだ」
「この人なら理解してくれるはず」
「誰か私のことを認めてよ」
っていう、
他人の内面に対して何かを期待してしまう心。これが自分を苦しめていた本質だったってことに。
これを求めても、満たされないから苦しかった。
私はこれを心底渇望していました。これがなければ生きていけない。人が自分のことを良く評価してくればなければ自分には生きる意味がない。
そんな承認欲求に依存するレベルの人間だったんです。
私はそれにすがろうと必死でした。誰かにすがりたかった。みんなが自分を認めてくれる世界の中でそれに甘えて生きていきたかった。
私は親に許しを求める子供のように自分がしていること、自分が生きていてもいいという許可が欲しかった。
そんな他人の内面にある承認に縋ろうとする「甘え」が自分を苦しめていたんだ。と思うようになったんですね。
そうした自分自身の体験もあって、
「他人には他人の都合がある。その都合は人によって違うし、私には介入できない。」
「他人は自分の都合に合わなければ他人に対して無関心でいられる存在である。」
「他人にとっての根本的な欲求を満たす理由がなければ他人は動かない。」
という結論をだしそれについて納得することができるようになりました。
総務部長は自分の面子とか退職金のために会社を勤め上げるため、親は私に理想の子供像を求めていただけ。
それらは単に、彼らの都合というだけだった。彼らは彼らのしたいことを単にしているだけにすぎなかった。
それが人間。人間という欲求に忠実な生物の本質。
誰かが自分のことを見ててくれているという幻想
「人って自分の都合でしか生きていないんだ」
ということをほとほと実感させられました。
他者には他者の都合がある。
私のことを気にするよりも、彼らにとってもっと興味があることや、やらなくてはならないこと、私よりも大切な友人や家族、恋人、仕事、信条があるって事に気づきました。
そしてもちろん自分だってそれは同じなんだってことにも。
当時の私にとってはそれが「誰かに認めてもらう」ことが最優先事項だったというだけ。そうすることによって自分が満たされるから。
誰かのために何かをするという献身的な行動によって承認を欲してはいましたが、結局それもただの独りよがりで、
それがどんなに尊い行動だろうとなかろうと、結局のところそれを他者がどう思うかは他者の都合でしかない。ってことに。
私がどんなに苦労していようが他人には関係がない。
当時私は絵も描いていましたが(幸い今も続いている趣味であります)、自分がとてつもない労力をかけて描き上げた絵であっても、一向に評価されることはありませんでした。
それに対して「なんで評価されないんだ」「どうして褒めてくれないんだ」と一々悲しくなったりイライラしたりして絵を描くのが楽しくなくなったりしていました。

↑70時間くらいかけて描いていたものです。でもみんなほとんど興味を示すことはありませんでした。それが当時の私にとってはショックで仕方がなかったのですね。
でも私がどれだけ努力しようが、何をしようが実際に他者がどう感じるかはやっぱり他者の勝手なんです。それを見た他者がそれを見て気持ち良くなったり、感じるものがなければ
せいぜい多く見積もって「よく描かれた絵だなー」程度の認識しかされない。または無関心に目もくれないことがほとんどなんですね。
完全に他者に「甘え」きっていた私
人が見ているのはみんな自分自身のことだけ。
だから私が苦しんでいようがいまいが、「かわいそうな自分「苦労している自分」が存在していようといまいと、
それに関心を示すための都合を持ち合わせていなければ他者はどこまでも無関心。
私は、そんなうつ病である自分のことをみんな「わかってくれる」と思い込んでいた。「理解される」と思い込んでいた。
でも現実はそうじゃなかった。現実は人は人を理解できない、孤独であるという現実をただ突きつけるだけだったのです。
そしてそんな非現実の中に許しを求めようとしていた。それにすがって自分を肯定しようとしていたのです。
私はただの夢見がちな現実の見えていない「大きな子供」でした。
幼少期の母親から許しを求めて生きていた頃からなんら成長していなかった。
母親の都合のいい人間になるように生きて、他人の都合のいいように生きることが大事なことなんだということを無意識的に捉えていた。
それはただの「甘え」だった。
親のような私を認めてくれる人がいなければ、私は自分のことを一切決められなかったし、正しいと信じることも一切できなかった。一人で生きられない幼い子供同然だったのです。
鬱は甘えとの記事を読みました。
あなたが断定的に言い切る主張の根拠は何ですか?
経験談ですか?
主観を押し付けられる嫌な気持ちです。
ただ長いだけの何処かで聞いたような話だし、文章ももう少し練った方がいい。
思っているような、そういう意味の甘えじゃないと思う
アンカー勘違いでした。前のコメントは削除しました。お気を煩わせてしまっていましたらすいません。
実体験がベースですが、たしかに自分以外の人を責めるような書き方だととられても仕方がない書き方でした。それについては大変申し訳ありませんでした。
意図としてはうつ病の人の根本的な原因について自分で分析した結果を書いたつもりでした。しかし所詮私は一人の人間なので、自分のことしかわかっていないのでした。
結局は全部自分の話です。人間は自分のことしかわかっていないですもんね。
なので”完全実体験ベース”で改めて書き直そうと思います。「鬱は甘えは真実である」、は、「私の鬱は完全に甘えだった」に変更します。私にとっては間違いないことので甘えなのは変わりません。
他の記事の修正のポイントにもなりそうです。
あと、大変差し出がましいお願いかもしれず恐縮ですが、もし他にも何か意見をお持ちでしたら…遠慮なくコメントして頂ければと思います。
もしここでは何でしたらTwitterのDMでもメールでもかまいませんので…よりよい情報を発信していくためにお力を添え出来きないかと…
大変貴重なご意見ありがとうございました!
横からすみません。
わたしには著者の他の記事は助けになっており、たいへんありがたく思っております。
今日、この記事を読んで、モヤモヤ、ぐるぐるしてました。
本人が精一杯頑張っていても理想と現実にギャップがあれば鬱になりますよね。その場合、鬱は甘えとは言い難い(←変更前のタイトルについて。)。
著者さんは職場からの気遣いが期待したが、無い。これは鬱の原因でもないですし。
すでに鬱になっているのに、職場の応対で鬱が甘えって時事系列がおかしくないですか?この記事ならタイトルは「わたしの鬱は過度な期待で悪化」かと。
わたしの仮の結論としては「鬱が甘え」も「鬱は甘え」も間違っているかと。イコールで結びつけられないような?
ぐるぐる考えた結果、鬱は「(不安を手軽に満たそうとする甘えや)認識や期待と現実とのギャップから生じ」「ギャップがうめられたり甘えが満たされることで解消しうる」というものかと。
「甘え」は不安解消の過程や手軽な手段でしかなく、鬱そのものではない。直接原因とも言い難い。
休職中に対する配慮を当然と考えていたのなら、(相手によるという意味で)勘違いか見込み違いというものでこれまた甘えとも言いづらい。結果的に甘い考えではあった。
しかし余裕があればツラい状態の人に配慮するのは普通ですしね。お互い様ですし。
甘えるのが手軽な手段であり、相手かまわず手軽な手段だけに頼るのが甘えかと言われれば甘えかも?(でもわかっててやってるわけじゃないからなあ……)なんかこの辺で自分の考えがごちゃごちゃしてます。
「不安の解消をするために満たされない相手に対し承認欲求を満たそうとすることや配慮を求めることは不毛になりかねないアホな考え」という話なら納得しますけど。甘えさしてくれる相手が居て鬱が解消できるなら甘えさせてもらってもいいんじゃないでしょうか。それも駄目なんでしょうか。
いまのわたしの甘えに絡んだ認識は、「鬱を軽減しようと手軽な方法に頼ろうとする甘えという感情?手段?」云々です。「他人に頼ること・期待すること」そのものは甘えではないですよね。
なんにせよ、「鬱が甘え」という表現は誤謬をまねくのではないでしょうかね。(言葉が足りないだけかも?)
きちんとした結論も無く、とりとめなくてすみません。
理想を現実のギャップをどこにおいているのかがポイントになってくると思います。
私の場合は、職場、とうか他人に何かを期待するというところですかね。理想の中に自分に対して他人にして欲しいことがあるかないか、という感じです。
今の私は自分の理想の中にそれがほとんどない状態なんです。
当時の私は自分が精神的にまいっているのだから、相手はそんな自分に気を遣って当然だ、という考え方をしていました。
でもこれはアドラー心理学的な話なんですけど、他者の課題に踏み込んじゃってるんですよ。
相手は相手の都合で生きているのに、その相手の都合を自分の都合のいいように動くことを前提にして考えてしまっている。自分の行動のベースが相手の行動になってしまっている。
確かに休職に追い込まれた人間は健康ではないのだから、もう少し丁寧に扱ってくれてもいいのでは、というのはわかります。実際私もそういう人を見たらそうすると思います。
しかしまぁ世の中にはいろんな人がいるもので、部長みたいな人もいますし、冷たい対応をする人もいる。
でもそれはそれでまた人間の“普通”の一部だと思うんですよ。だって現実に起きた事ですからね。あるべき姿とかではなく、実際に起きた姿なんですから。
みんな自分の欲求に従って行動しているにすぎない。
うつ病の人にやさしくしたいと思うのも、そうしたいという自分の欲求がそうしているだけにすぎず、
「人間は自分のために生きている」という点においては何も変らない。
だから自分の中に他者に対する「甘え」がある限り、私は死ぬまでずっと人に振り回され続けなければならない。
このままでは根本的に問題を解決できないと考えたわけです。だから、人に認められなくても、人に与えられることを期待しなくても生きていけるようにと。
実際、それは私にとっては大当たりでした。
後、この議論の本質は言葉の定義の問題なんじゃないかとも思います。
「甘え」とは何か。その定義に私とコメント主さんでズレがある。私は他人の承認に頼るとか、他人がこちらに尽くしてくれることとか、
「誰かかラ与えられることを期待して行動すること、考えること」が甘えだと思っています。それが私の欝を作り出す原動力だった。
恐らくコメント主さんの思う甘えと、私の定義は違うのではないでしょうか?
しかし、コメント主さんの甘えの定義が間違っている、などというつもりもございません。
私の考えなんですが、人間って言葉の定義を共有しているようで一切していないんですよ。共有しているのは言葉という目に見える、耳に聞こえる「記号」たちだけ。
その意味、解釈そのものっていうのは自分の頭の中にしかない。ある言葉についてどうとらえているかという解釈そのもののことです。
他人のそれは自分の目にも耳にも感じ取れるものではない。誰も人の頭を直接除くようなことも聞くこともできませんから。
故に私達は誰かと同じ解釈をしているとか、違う解釈しているとかを確かめる術をもたない。
唯一言葉だけはそれを可能にしてくれそうですが、言葉は単なる記号ですので、解釈者の都合によっていくらでもかわりますし、加えて発信者もその定義全てを言葉にするのはほぼ不可能でしょう、
仮に同じ解釈を偶然にもしていたとしても、やはり確かめられない以上永遠にそれはわからない。
となると、先ほどわたしがいった「間違い」というのも本質的には存在しないということになります。
相手の思う「間違いの定義」が何なのか。自分はわからない。相手も自分の思う「間違い」の定義がわからない。
わからないのだからそれを絶対的な間違いだとか正解だとか言うことをいえない。
となると人の解釈に本質的な間違いも正解もだすことはできない。言葉って言うのは単に人にある解釈をうながしたり導いたりするだけの道具に過ぎないと思うのです。
まとめると、私の「欝は甘え」とコメント主さんの「欝は甘え」に対する意味や考えはお互いに間違っているとも正しいともいえない。ということになります。
哲学者として有名なニーチェも「真実は存在せず、解釈だけしか存在しない」といっていますしね。
記事タイトルを変えたのは、他人のうつ病の原因までを全て「甘え」だと断定するのはあまりに身勝手で不確かなものだったと反省したためです。
私は私のことしかわからない。だから私のことしか書けない。それに気づいたからでした。
他にもご質問等あればどんどんしていただければと思います^-^
素早い返信ありがとうございます
うーん。やっぱりモヤモヤしますね。
まあ、色々と考えてみます。主に期待をやめる心構えとか理想の中の自分云々について。
定義の問題ってのはわたしも考えていてあえて書かなかったのですが、
やはり期待することがイコール甘えという解釈にはぴんときませんでした。これについてはこれでとりあえず自分の中では終わりとします。甘えという解釈で納得できるのかもしれない、というところに(考えと希望をw)とどめておきます。
ありがとうございました
いえいえ。私の説明があまりよくないのでしょう。私は根本的要因や結論を説明して包括的な問題を解決しようとするので、そこに至るまでの細かい過程の説明は省いて書いてしまうことが多い野田と思います。他の記事にここに至るまでの過程が色々散らばってしまっているというのもあります。
ただ結局のところこういう問題は「自分がどうしたいのか」って問題に行き着くんだと思うんですよね。
他人に甘えたいとして(期待との違いはここでおいておくとして)それ満たされるから十分なんだ、というのならそれも一つの道なんだと思いますし。
ただ私の場合はそれだとずっと不幸でい続けるしかなかったし、同時に「自由」にもなりたかった。他人の目、承認という縛りから自由になるためにはその他人に対する甘えの思考を徹底的にたたきなおし、既存の価値観を捨てる必要があった。
で、実際に変ってみて、私のうつ病の原因は甘えだったと強く自覚できた。
この記事はそんな私の単なる実体験でしかないんです。
なので、私の記事にモヤモヤを感じられているのであれば無理にあわせようとする必要はないのではないかと思います。コメント主さんにはコメント主さんのお考えがあると思いますし、私にはそれをどうこうできませんしね。
ご質問などありましたらまたいつでもお気軽にどうぞ!
あっと、補足です。
まだわたしはブログの全記事を読んだ訳じゃありません。
いくつか読んだうえでのコメントでした。
鬱イコール甘えと言うパワーワードに惹かれて来ました。
折角に貴重な実体験を書いて居られ言いたいことも分かりますが
鬱甘えというハラスメントまがいのタイトルのせいで全て台無しになってる気がします。
ギョッとするタイトルは検索で見に来る人が多いので利用したいのかもですが
鬱と言っても色んな種類があり貴方のように考え方を変えるごときで治る軽度の方も居れば
外傷や脳溢血の後遺症などで物理的な脳の損傷が原因で発症する人も居て
鬱を一括りにして甘えというタイトルは非常に乱暴に感じました。
ちなみに私は自己愛性人格障害の親からDVや暴言はもとより日常的に殺すと脅され見せしめに目の前でペットを殺さた事もあり、最終的に鬱になりましたが
物心ついた時から親に一度も甘えた記憶は無く期待なんかした事もない。
期待どころか何時殺されるんだろうと常時ビクビクしていました。
給料や貯金も使い込まれて無一文で引っ越し資金が無かったのでサラ金で借金をし強引に引っ越しを決行、夜逃げ同然で絶縁に成功したところ短期間で劇的に鬱やパニック、強迫性障害など諸々の精神的な病が回復しました。
私の場合は毒にしかならない人脈と縁を切る事が薬になりましたが
本当に鬱になる原因はケースバイケース人それぞれです。
医師でもない人が何種類もある鬱を一括りにして語るのはちょっと無理があるのではないでしょうか。
タイトルをもう一度、よく読んでください。「私の鬱」ですので。
これですべての鬱をひとくくり、と言うのなら匿名さんのおっしゃる意見もその点において全く同じということになりますが…そういう見解でよろしいのでしょうか?
> ギョッとするタイトルは検索で見に来る人が多いので利用したいのかもですが
それは匿名さんがそう見ようとしているだけだと思いますよ。正直なところ、その指摘は目から鱗でした。
私としては、単に自分の思考を分析した結果、自分の鬱の本質的原因はコレだ、と思ったものを書いているだけなのですが。
勘違いされているかもしれませんが、別にこちらに「他者の甘えを責める」意図はございません。あったとしても、それは他者でなくて「私自身に対する甘えに対する責め、戒め」でしかなく、
仮にそちらに甘えがあるにせよないにせよ、その事実は私にとってはどうでもいいことなのです。
「他者の甘えを責めることそのもの」が私の最終的な目的ではないので。
目的は自身を苦しめている要因はどこにあるのかの発見です。私の場合のケースは甘えだった。
「他人が私に○○するから私は欝になった」なんてことは事実ではない。「他人が私に○○することを理由に、私が自分自身を責めることでうつ病という症状を作り出した」にすぎないと。
「他人にお膳たてしてもらわなければ何も出来ない」「常に受身思考」「他人のせいにして自身の本質的問題に向き合おうとせず、先送りにする」という自らの甘ったれた思考を、甘えであると表現しているわけです。
そして、そういった自分の経験とそれに対する”気づき”が誰かの役に立つかもしれない。過去の私のような要因で悩んでいる人であれば。
「自分のことを自分でどうにかしたいが、どうすればいいのかわからない」という人の何かの参考にと、自分の経験をベースとしてこの記事を書いているしだいです。
そのつもりがある方ならただ参考にするかどうかを判断して使うだけですし、
そのつもりがないのならその人にとっては何の価値もない文章というだけのこと。
ただそれが人によっては、まるで自分が攻撃されているかのように感じたり、匿名さんのように暴力的だととられることもある。
そしてそのバリエーションこそまさに「ケースバイケース」です。そこに各読み手ではない私は、介入することはできません。
ゆえに、読み手それぞれの個々のケースに合わせた書き方など到底不可能でしょう。
結局のところ何をどう書いたところで全ては読み手である方達がどう解釈しようとしているかだけでしかありません。
更に突き詰めれば、各読み手が今自分がどういうつもりでこの記事を読もうとしているのか、これに尽きるというわけです。
匿名さんはどのような目的でこの記事を読まれたのでしょうか?
——–
また、コメントで指摘いただいている「考え”ごとき”」とか、そういった発言は「私に対するハラスメントまがい」じゃないかと思うのですが、どうなんでしょうか。
ケースバイケースとおっしゃいますが、例えばこちらをそちらの理屈で屈服したい意図で書かれているとしたら、それは暴力的ではないんですかね。
他人の言ったことに対する指摘をするよりも、ご自身の認知の見直してみてはいかがでしょうか…。
このコメントを書かれている時、一体どのような気分でしたか。
私自身のことは気にしなくてかまいません。私は私の面倒を見ているので匿名さんが何かを考える必要はありません。匿名さんご自身のことです。
決して煽りとかではないのです。他者は自分の鏡ですから、その鏡にしたことはそのまま全て自分に返ってきます。今回のケースでは私がその鏡ですね。
仮にその鏡を殴ろうとしたのなら、それはそこに映した自分を殴っているようなものです。
相手を屈服したようでも、実際にはそこに映った自分を屈服させてしまう事になってしまう。
そういったことは今後もどこかで自分に返ってくると思います。例えば今後の匿名さんの人生において今回のケースのようなことが今回とは立場が逆の状態で起こった時、匿名さんは自身を屈服させてしまうことのではないかと思います。
その時に精神的苦痛を味わうことを望みますか。そうであればそれでよいのでしょうが、そうでないのなら、やはりご自身のことについて考えてみる価値はあるのかもしれません。
—–
おっしゃるとおり、脳機能に関連する遺伝的要因や、もしくは外傷などにより欠落した欠陥などによってある脳内物質の放出が妨げられることによる症状自体は確かに緩和することは不可能なのでしょう。
今後の医学の発展次第では直せるのかもしれませんが…。
しかしそれで自身の認知の歪みまでが修復不可能なものになる、というわけではないと思います。
ある部分が致命的に直せなかったとしても、それでその他の直せるところまで全て直せなくなる、ということは意味しないとは思います。
認知の歪みは単なる思考、解釈にすぎません。
「致命的な脳の機能疾患」が「ハードウェアのエラー」とするなら、「認知の歪み」は「ソフトウェアのエラー」ですから。
後者は変えられるものです。
最初に私のと付け加えていても、鬱は甘えと言うワード自体が現在鬱と戦っている人に対してハラスメント以外の何物でも無いです。
オウム返しみたいにハラスメントと言う貴方がハラスメントーという感じの
浅い返信を見て正直ガッカリ会話するだけ無駄な方と言うのが分かりました。
これ以上は書き込むのも無駄そうなので失礼いたします。
なるほど。匿名さんのおっしゃることを素直に解釈すれば、
私の経験かどうはどうでもよく、さらにタイトルにそれを明記しているかもどうかも関係なく、
文脈も全てにおいて無意味であり、「うつは甘え」という言葉が付いてさえいれば全てのうつ病患者を傷つけることになる、ということかと思いますが、この解釈は合っていますか。
…面白い解釈ですね。…ひょっとしてタイトルしか読んでらっしゃらないということは…ないですよね?
しかし他の可能性も考えられるのではないでしょうか。
例えば、「この人以外の鬱は甘えが原因じゃない」という解釈をする人だっているかもしれませんよね。
匿名さんと似たようなケースである別の読者が、この記事の意図や目的とは全く関係ない、「あくまでこれはこの人の場合の話だから、この人以外の全てのうつ病は甘えが原因じゃないんだ」、という感じの解釈をする可能性ですよ。
「私のは甘えじゃないんだから私の鬱はしょうがないんだ、だから大丈夫だ!」と思ったらそれは“匿名さんの頭の中にあるうつ病患者に対しての救い”になる可能性だってありますよね。
仮に匿名さんの要求を呑んで削除をしたとして、その場合は今後訪れたであろうその読者たちに対しその可能性をつぶすことになりますが、それはいいのでしょうか?
この可能性は0なんでしょうか?これもオウム返しになるんですかね…。
なぜ”そう読もう”とするのでしょうか?なぜそれだけ一方的に?他人の経験としては読まず、まるで自分事のようにとらえられているとか?
本とか一体どうやって読まれておりますか?…特に小説などのストーリー物など…。
話が脱線しました。意図としては、私と匿名さんを一緒くたにとらえて考えたり感じようとしたりする必要ないですよ、ということだったんですが…恐らく「課題の分離」をされていないのでしょうね。
しかし人というのは、ある言葉や事象にたいして、本当に色んな解釈をするようですね。
実に興味深いです。嫌味とかではなく、純粋に。
正直な感覚をもう上げますと、感銘すら受けています。
やはり他人には一切の期待をしないことが、恒久的な幸福の道であることのようです。
全員にいい顔をしようとしたら、それこそ自分を殺すことになってしまうでしょう。
話を戻して、とにかくそのように受けとられたのならおっしゃる通りこの記事は匿名さんにとって“害”で、“無駄“なのでしょう。
ご返信内容から何となく察するに、何を言っても「オウム返し」と受け取られると思いますので、これ以上の対話は必要なさそうですね。
多分他の記事もそうなんじゃないかと思いますので、ブラウザのブロックリストに入れてもらった方がいいと思います。
匿名さんの今後の幸福を願っております。
(divinity enhanced editionを始めて、どうせなら英語でやろうと思って色々調べていたらこのブログを見つけました)
中学時代に鬱っぽくなって不登校を経験した現在高校生の者です。中学一年の秋から卒業まで二年半ほとんど寝たきり生活でした。今は学校には行けているものの、完全に治りきってはおらず辛い学校生活を送っています。僕は未成年で、周りに理解のある人がいたので、主さんの経験談を見て、そのような状況でよく耐えたなと尊敬します。
そんな主さんとの境遇や考え方の違いがあることは重々承知していますが、人に期待する事は良い事だと言わせて欲しいです。
僕も鬱になって、今まで仲良くしていた友達が冷たくなって悲しんだり、親に責められたりと傷つく事がありました。それで病んだり捻くれたりしたのですが、聖書を読んで救われて、今までいろんなところで神様が助けてくれていた事や、これから助けてくれる事を知りつつ、人ではなく神のみに期待する事で回復していきました。しかし、本当にそれだけでいいのだろうか?と思ったのです。
この前、親に自分の弱さを責められて、傷つく事がありました。「俺には神がいるから親が理解してくれなくてもいい」と思ってやり過ごそうと思ったのですが、心のモヤモヤは残ったままで、何か違うなと思ったので、玉砕覚悟で試しに「お前達は僕が苦しんでいるのに、責め立てるだけで何の役にも立たない。助けようとは思わないのか」と我儘に、しかし正直な思いで非難してみました。すると心がスカッとして、意外なことに親も話を聞いてくれました。僕の場合、神のみに期待するとか思っていながら、やっぱり人に期待したいと思っていたんです。そこで正直になれなかったのが僕の弱さでした。どうやって俺自身を彼らが助けるのか俺もわからないし、それで彼らが助けてくれたって事はないんですけど、それは確かに真実なんですよ。どうしようもない事だから、事実を認識しないってなると、正義を見失う気がします。
人は人が期待できるような存在になるべきだし、人に期待していくべきだと思います。(無理のない範囲でですが)
あとdivinity英語版はなんとなくはわかるのですが僕には難しすぎました。
なるほど、期待するのもいいのではないか、というご指摘ですね。
少なくともゲーム好きの弱者さんが納得されているのであれば、何も問題はないと思います。
いえ、より正確には、そんな私の評価というか承認というか、そういったものそのものが必要ないのだと思います。
結局のところは自分がどう生きようとしているのか、という自身の人生のことだと思いますので。
多分「期待」という言葉に対する解釈は人によって違うのではないかなと思いますので、そちらも交えながら私自身の話を少しさせてください。
期待というのは、「自分の都合通りに他人が動くことを期待すること」という事だと思います。
ある期待に対する感覚の強さが強烈だったりすると、それが満たされた時はよいのですが、満たされなかったときはまるで裏切られたかのように、かなりつらいものになるかと思います
それが一時のことや、まだ次があると思えればそれを受け入れてまたそれに挑むということもできるので、それでもいいのかなとは思います。
ただ私の場合はそれが到底かなうことはない、他者が自分のことを自分の都合のとおりに見てくれることはないなど、様々な他者への期待に対する思い込みの解消をしていくうち、そもそも他者が私のために何かをしてくれるという考えそのものがありえない、という結論に至りました。
その答えをえてから、約10年の間感じつづけた永遠に続くかのような激しい倦怠感、抑うつ気分、頭痛、背中の痛みと絶望感というこの苦しみを乗り越えるには自身の甘えの思い込みを徹底的に解消し、他者に対する期待を打ち消し、他人の目を無価値化するしかないだろうと思ったのです。
私の大変勝手な言い分で恐縮ですが、おそらくゲーム好きの弱者さんは「人に何かを与えることが出来る人」なんだと思います。
ご自身の気持ちに正直になってご自身の思ったことに素直になることができ、それでいてご自身のことも客観的に見る視点をお持ちに見えますし、親御さんともその点において割りきられている観点もおもちのように見ます。
相手の事を決めつけずに、相手を思いやることができるかたなのではないかと。
其れも交えながら「自身の素直なその意思を伝えるということ」それができているというだけでも、きっとよくご自身のことをご存知なのかなとも思います。
私は「期待」の代わりに、「信用」という感覚をもって日々を過ごすようになりました。
信用というのは「ただ理屈抜きに何かを信じる」ということです。その“何か”というのが、私の場合は「自分と言う存在、自分の行動、自分の思考、自分の意志、自分の感覚」というものになりました。
では他者に対してはというと、それについては「他者が存在している」という事実に対してのみ信用を置くということをしています。それによって、それ以外の他者の行動や解釈、思考、都合などそれらについて期待を抱くことはなくなりました。
他者からの見返りのために行動をすることはなくなり自分を信じ、自分のしていることを信じ、そこに目標、達成感を置いて生きる。
「自身を信じて行動し続ける」というのが今の私の人生です。
—–
あのゲームの英語は難しいですからね…もしPC版なら日本語と英語を同時に出力することもできるMODを制作されたかたの話を聞いたので、そちらを導入して勉強しながら楽しむのもアリかもしれません。
ゲーム内のテキストの文章表現は美しさすら感じましたから、おすすめです。
追記:すいません、日本語と英語の同時出力は2のほうでした。前作はちょっとあるかわかりません
「人に何かを与えることができる人」なんて大層なお言葉を頂き恐縮です。
もし私がそう見えるのだとしたら、それはキリストのおかげです。
コメントに少し書いたとおり、私も主さんが自分を信じているように、理屈抜きに信じているものがあります。それはキリストです。私はキリスト教徒です。神は真理で、キリストは神の子で、この世界は神の被造物で、自分の命やもってるものすべて神に与えられたものだと思ってる狂信者です。(普通の人からみたら)そういえば、これを書いているpcは不思議な与えられ方でした。
大半の人は自分のためにしか行動しませんが、キリストは違います。しかも罪を犯さない人間なんてありえないので、キリストは何でも許してくれます。
自分の力で期待してるみたいな書き方でしたが、結局キリストっていう超強力な後ろ盾のおかげで僕は人に期待できるんですよね。宗教勧誘のつもりじゃありませんが、(もちろん聖書の言っている事に救われた身としてはめっちゃおすすめしたいですが)
主さんは自己啓発や、真実を探求する事に興味をお持ちだとお見受けしますので、興味があれば、聖書を手にとって見ることをおすすめします。持っていなければ、youversionというスマホのアプリで読めます。
新約聖書から読むのがおすすめです。
これは旧約ですが神と人間の関係をよく表していると思います。
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。(申命記30:19)
では、主さんの幸を祈りつつサラバだ。
ーー
Modは残念でした。しかし代わりにCapture2Textっていう有能フリーソフトを見つけました。(やったぜ)
いえいえ、正直に思ったことを申し上げたのみですよ。
ゲーム好きの弱者さんはご自身を一歩引いたところから観察する、メタ的な視点をお持ちのようですね。自身を客観的な視点で見ることが出来る人は、「人に与えること」が出来る人なんじゃないかなと思っています。
ゲーム好きの弱者さんはキリストを信じていて、私はアドラーの教えや自身の哲学、自分自身を信じている。
信じている何かは違っても「何かを信じる」ということによって日々生産的な、幸福な毎日を送ろうとしている点については私達は同じ方向をみているのかもしれませんね。
実は聖書は以前から興味があって、いくつか書籍を購入したのですがどうも宗派などによって微妙に解釈がことなるみたいとかで書籍も他にいくつかあることを知り、何から読めばよいか迷っているところでした。
教えていただきありがとうございます。参考にさせていただきます。
—–
そういえば私もそれを使って勉強していました。わからない文章は翻訳ツールで訳して表現について勉強しながら遊んでいましたね。
そのおかげでゲームのほうは最初は中々進まなかったですが…w
でも後半になってくると、読めるようになってきてそのスピードも上がっていきましたね。モチベーションもどんどんあがって、とても楽しく遊ぶことが出来ました。
私からもゲーム好きの弱者さんの幸福を強く願っております。
お互い自分の信じる道を行きましょう。
いくつか書籍を持っているのですね。
余計かもしれませんが書いておきます。
聖書の訳については、読み始めは現代訳がオススメです。現代訳は当時のユダヤ人の独特の表現などを意訳して訳されてあるので、大意が掴みやすいです。これと逆なのが新改訳で、独特の表現を直訳してあります。これは聖書の原語の意味から調べたい時とかに役立ちます。僕のイメージですが。
他にも口語訳、新共同訳など沢山の訳があります。それぞれに訳の癖はありますが、書いてある事の意味は同じです。(しかしエホバの証人の新世界訳は改変されてるのでおすすめしません。キリスト教の聖書とは違うものです)
解釈についてですが、確かに聖書はキリスト教の考え方などを知らなければわからない事も多いかもしれません。普通は教会で牧師さんのメッセージを聞いたりして理解しますが、それ以外だと、私はよくロゴス・ミニストリーさんと言う牧師がやっているサイトの聖書解説を参考にします。個人的に的確で良い解説だと思います。僕自身キリストや聖書について説明したい事が沢山あるのですが、このコメント欄で言うのも迷惑だろうし、ここは専門家が解説しているので、より正確です。ですので気になったらここの解説を見てみてください。
それとは別に(ここからは信仰の話になってくるので興味がなければ無視してください)、聖書を読んでいるときは神様から自分への個人的なメッセージとして、自分の状況に当てはめて読むと、神様が自分に語っておられる事が分かったり、気づきがあったりします。クリスチャンは普通このような読み方をします。こうすると毎日の励みになったり、自身の問題点が浮き彫りになってよく分かったりします。
では今度こそ切り上げます
聖書に興味がおありのようなのでつい嬉しくなってしまいました。
長々とすみませんでした。
ありがとうございます。英語の勉強がてらにいくつか買ったんですが、そのアタリのモチベーションもあって中々読めずにおりました。
現代訳面白そうですね。読みやすそうですし、私自身ユダヤ教にも興味があって、彼らはなぜあれだけ勤勉なのかについて調べたいと常々思っていましたのでちょうどよさそうですね。
エホバの証人は訪問で勧誘受けたくらいでしか知らないんですが、似ている(?)別の宗派のモルモン教は一回勧誘されて協会までついていったことがあります。
ただ会費があり、年収の1割と高額だったんで、入会はやめておきました。
解釈は牧師さんから聞く、または調べるのがいいのですね。
なるほど…神が語りかけてきていることをイメージしながら読む、という感じでしょうか?おもしろいです…
こちらこそ貴重なお話をありがとうございました!
来ないと言っておいて失礼します。
「私はうつ」と言いたがる人たち という本があるので良ければ検索してください。
内容の一部抜粋
――ある日の診察室
「私うつ病みたいです。休職したいので、診断書ください!」
この思い込みにまわりは迷惑、ほんとうに苦しんでいる人が泣いている。
__________________
↑上記の抜粋で私が言いたいことが分かりますでしょうか?
最近はうつに似た症状のうつモドキが注目を浴びています。
①「擬態うつ」=「甘え」
②「新型うつ」=「適応障害」
このうつモドキは従来の脳の機能障害から発症する鬱病とは違う病気です。
本来の鬱とモドキを混同して一まとめに鬱と称する方が多く迷惑しています。
鬱とは似て異なるうつモドキの大きな特徴は
自分から「わたしはうつ病です。だから優しくしてね」と明言したり、あからさまな態度でアピールするところだそうです。
特に①偽装鬱は病気であることで利得を得るので周囲が甘やかすほど症状が悪化します。周囲に偽装がばれて冷たくされと利益を得られなくなり自然に治る。
これブログ主さんの体験に似てますね。
私もそうですが本来の鬱病患者は体調を崩した自分が悪いと自分を責める傾向が強いのでブログ主のように優しくして貰えると期待なんて在り得ず非常に違和感を覚えます。
そもそもブログ主さんは専門医で診察を受けて本当に鬱と診断されたのでしょうか?
私は自責の念が強く自殺未遂を繰り返していましたが心療内科に通いパキシルを処方されてから随分と良くなりました。今も薬は欠かせませんが医療費の負担を減らすための自立支援の更新に必要な診断書も毎年出してもらっています。
まさかと思いますがブログ主さんは医師に診断をされていないのに
素人判断で勝手に鬱とアピールし自分の鬱はあまえだと書いているという事では無いでしょうね?
もし医師の診断もなく鬱とアピールされているだけだとしたら本当のうつ病患者に迷惑ですので
私の鬱は完全に甘えでしたと言うタイトルを
私の自称鬱は完全に甘えでしたへ変更お願いしたいです。
もちろん、精神科に診療を受けましたよ。
当時は救われたい一心でしたからね。
診断結果としてはうつ病であることと、自律神経失調症、さらにパニック障害であると診断を受けました。
うつ病のメカニズムについて医者から説明を受け、薬は匿名さんと同じでパキシルを処方され、それで改善されるだろうと言うことを言われました。
薬の効果は三ヶ月後くらいから出ますと言われて飲み続けましたが、症状は悪化し、
医者にそれを訴えると、では薬を増やしましょう、別の薬を試してみましょう、ということで一日の飲む量を増やす、薬を変える、他の薬と併用するなど勧められ、しましたが、さらに症状はひどくなるだけでした。
1年半ほど薬を飲み続けたものの症状は改善されず、何の解決にもなりませんでした。
私も自己嫌悪はとても強かったですよ。何毎においても自分が悪い、反省しなければ、という教育を鵜呑みにしてきましたので、それが普通のことだと思っていましたね。どんどん自分を追い詰めていきました。
それが社会に出て会社ではいじめなどにも合い、現実に打ちのめされ、
常に周りに全てを監視されているのではないかという極限の緊張感、不安感を感じながら生きているうちに、その状態から抜け出せなくなってしまい、抑うつをはじめとする症状が生まれました。
家にいようがどこにいようが、ずっとその極度の不安、緊張状態が解けなかったのですよ。
唯一解放されたのはわずかな睡眠の時だけです。
最もひどい時期は呼吸すら常時ろくにできなかったです。常に息苦しい状態が続いていて、あまりに呼吸が浅すぎて寝ているとき心臓が止まりそうな感覚で目が覚めて飛び起き、すさまじい動機と冷や汗を大量にかいた日もありました。
仕事をやめようかと思いましたが、一人暮らしであったため親にも勘当されると思い帰れず、頼ることもできませんでした。
お金がなければ生活すらできない状況だったのであの地獄のような会社にも行き続けました。
仕事なんてまったくが手がつきませんでしたよ。一日中デスクに座ったまま何も出来ず1日が経つ、なんて普通で仕事も当然進んでいかないので上司からは叱られる毎日。周りの目もどんどん白くなって症状もさらに悪化して、
常に感覚が過敏になり風が吹くだけで痛みを感じるほどでしたよ。
服を着ることすら辛かった。体を洗うときも特に頭を洗うときすさまじい痛みが走ったものです
頭痛にくわえ、顔はまるで上から吊り上げられているかのように突っ張った感覚が常にあり、それには呼応するかのように背中の左側が、まるでつねり上げられ、血液が底に充血でもしているのではないか痛みを、これまた常時伴うというような酷い状態でした。
髪もたくさん抜けて、円形脱毛症にもなってしまい、ますます人目が怖くなって悪化しました。
その症状にくわえて重い倦怠感。インフルエンザにかかったことはありますか?あれが毎日続いているような状態だと想像してもらえればそれが近いと思います。
今思えば、本当によく生きてたな、と思いますよ。誰にも、医者さえも自分を助けられない。
あれだけ絶望的な状況はもうないと思います。
10年間ですよ。ずっとこの状態で生きていました。後半の2年は自身の治療でよくなっていきましたが。
何度も賃貸のベランダから飛び降りようとしましたし、休日は寝たきりで体がまったく動かせませんでした。
そんな生活も長く続けられることはなく、最終的には退職せざる得なくなり、収入は0。
貯金を切り崩しながらのニート生活です。といっても蓄えもそれほどなく1年の期限付きでしたが。
正直ここには少しの期待もありました。仕事をやめ、環境を変えればよくなるんじゃないか、と。
ところがそんなことはなかった。確かに仕事に対する責任感という肩の荷はおりましたが、体の状態は少しも変わらなかった。
思い切って遠出して見たり、無理やり体を動かして無理やり立ち直らせようとももがきましたが、一時は多少の改善が見られてもすぐに元に戻ってしまいました。
絶望でしたよ。もう自分にできることは何もないんじゃないか、と。
このままずっと治らないままなのか…
このまま誰一人頼れず、絶望の中自分は死んでいくしかないのか…
その矢先に出会ったのが「嫌われる勇気」でした。
そこにかかれていたことは今でも思い返せるくらい自分にはまさに”衝撃”だった。
まるで自分の無意識について書かれた説明書のようでした。なぜ自分がこんなに悩んでいるのか、何について悩んでいるのか。それが書いてあったように感じました。
そして同時に「もうこれしかない」と思ったのです。極限まで追い詰められ、誰にも頼ることのできない状況の中「自分を変えること」以外、この状況を打破することはできないと。
それからはずっと自身の弱み、他者に対する甘え、期待感、認知の歪みとの対話、戦いでした。
毎日ずっとそれについて思考し続け、気がついたことをメモし続ける日々が続きました。
今や気づきのメモは日課となりもう何年も続いているライフワークと化していますが、数えていないですが多分1000万字近くあります。
広辞苑の3分の2くらいですね。
このブログに書いている内容はそのほんの一部でしかありません。
かつてないくらいに考え事に耽っていたため、1日の時間がとてつもなく長く感じ、1年が10年くらいに感じられるほどでした。
そうしていく中で一つ一つ思い込みが解消されていくと同時に、自分の症状が少しづつ軽くなっていったのです。
その時の解放感といったら無かったですよ。今まで生きてきて、あんな解放感と達成感を感じたことはない。
同時に自分がいかに他者に期待していたということ、それによって自分自身を自分自身の手で不幸に陥れたということがわかったのです。
私の様々な思い込みが自分を追い込む感覚を作りだしていたにすぎないと。
このブログはそんな私の経験と気づきがベースとしてあります。
何度もいいますが、これは私のうつ病です。あなたのでも、ほかのだれかのものでもない。
そして何より私のブログです。
もう私は他人の都合で自分を曲げるのはやめたのです。
他人に甘えられても、それに答えることはやめました。
私がどう考えるか、どう役に立ちたいか。それがわたしにとって重要なことです。
私は匿名さんの役に立ちたいとはもう思っていません。より正確には役に立てないことがわかったからというだけですが。
そして同じ理屈で、匿名さんのようにタイトルを一部だけ切り取って読んで傷つく人の面倒も私はみません。
私が手助けしたいのは、どうしても今の自分の「ある窮地」を脱したい。もう他に頼れる人もいない、でもどうにかしたい、幸福になりたい、
その手段を知りたいという人を助けたい。
なので、どうぞお引き取りください。匿名さんには不要なものでしょうから。
もしそれでもまたここにいらっしゃるというのなら「嫌われる勇気」を読んでからまた来てください。
そうでなければ、私は匿名さんと対話するつもりはありませんので。
主の言わんとすること、ぴんと来る気がする。
このエントリー読んでいると、自分の考えや感じたことを客観的になぞってるみたいで、
とても私は助かった。他のエントリーも読んでいて面白いです。
コメントまでつい読んでしまったけど、
言葉の表現変えろって、筋違いなコメントだよな、と思ってしまった。
「私が受け入れられるように、あなたの文章直してください」
って要望は、例えば、論文の審査ならわかる。
だって、リジェクトされたら論文は学会誌に掲載されないから。
そして、論文通したかったら、表現を変える必要がある。
だけど、これは主のブログだから、
主が思ったことを書く場所だし、それについてより知るために、質問することはあっても
「変だ!」ってわざわざいうこと無いよな、と思う。
その表現を受け入れられるかどうかって、その人によると思う。
これからも記事楽しみに読みます。
何かのお力になれたのならうれしいです。お気遣いありがとうございます。
論文については私はあまり詳しくないのですが、何らかの機関内で行うものに対しては決められたルールがあるでしょうから、きっとそうなのだろうなと思います。
人の言葉の受け取りかたは、本当に多岐にわたるのでしょうね。最近はそれを強く自覚する毎日です。
新しい記事の作成は時期は未定ですが、まだいくつかストックがありますので、思い出したときにでもいらっしゃってくれればと思います。
こんにちは。
突然のコメント失礼いたします。
Elepanさんの記事、読ませていただき、自分の現状と近いものがあるなと感じました。
私は24歳会社員です。
今まで生きてきた24年間、他者に認められること、周りからはみ出さないことだけを考えて生きてきました。他の人より優れるにはどうすればいいか、他者と比較して優れている自分だけが認められる、自分の価値観を全て承認欲求に傾けてきたような人間でした。
恥ずかしながら、私も周囲の人間やモノを全て道具を満たす道具、としか捉えていなかったように感じます。
なので、自己を満たせられないものは不要、と無意識に判断してしまい、いつしか自分で自分を判断することや、他人の言っていること理解することすらできなくなってしまいました。
自分は、価値観は他人軸でありながら自分の承認欲求という「欲望」にしか目を向けなかったとんでもない人間だったのです。
今まで24年間生きてきて初めてこのことに気がつき、しかし自身の力では無意識の状態をどうにもすることができず絶望の日々。しかもそれを頭が本質的に理解出来ていないこともわかり、本当にどうしようもない状態です。
あらゆる書籍を手に取り、どれを見てもしっくりこない(無意識的に排除しているだけなのかもしれませんが)といった状況でしたが、先日「嫌われる勇気」を初めて読み、かすかに道が拓けた感覚が致しました。
Elepanさんに、少しお伺いしたいことがあります。
①自分の認知をメモ書きに残すライフワークは、いつから続けられていますか?
ご自身で「改善されてるかもしれない」と感じられるまでになったのは、はじめてからどれくらいになりますか。
②認知を記録するライフワーク、を、Elepanさんは具体的にどのように行っておられますか。意識していること等ございましたら、ご教授下さい。
私もこれから始めようと思っているのですが、主観が入ってしまいそうでなかなか難しく…。
最後に、率直にElepanさんのご意見をお聞かせ願えればと思います。
私は、今の「自分の価値観や感情を持たず、全て承認欲求に傾倒させ他の事象を受け入れないとする他人軸+承認欲求人間」から
「自身の感情を感じ取れるようになり、承認欲求を手放す」人間になりたいと思っています。
アドラー心理学の力を借り、私は変われると思いますか。
長文になってしまいましたが、何卒宜しくお願い致します。
①
多分5年くらいだと思います。改善できてきていると思い始めたのは1年後くらいからだったと思います。
ただ、始めたころから無我夢中で必死であったので、その時々で確信的に改善があったと自覚していったというよりは、
ある時点で気が付いたらいろいろ楽なってきた、という体感のほうが近いかもしれません。
これしかないと思いつつも、最初の1年は半信半疑の中で模索し続けていたような気がします。アドラーの考え方は当時の私にとっては救いの光ではありましたが、同時にとても遠いものでもありました。
当時の私自身、自分が他者に甘えているという自覚すらありませんでした。甘えだったことに気づいてから確信をもてたのは2年くらい前だったと思います。
最初の1,2年は自分を変えると思いながらも、その時に「気づいた」と思った多くの気づきたちは「他者に対する当てつけ」のようなものだったように思います。
どういう感じかというと、「他人は自分のことをきにかけてくれないんだから、だったら気にする価値もない、だから私も気にしない!」みたいな感じです。
要は不貞腐れだったんですね。自分が気にしないって態度をすることで、その態度を誰かがわかってくれる、理解してくれると思っていた、
誰かに気にしてほしかったとい甘えがありました。自分の理論を理解して欲しい、そうすれば自分は「正しい」、そう思いたいという思いもありました。
つまり「頭ではわかっているけど、感覚が他人の承認、つまり他人への甘えを求めてしまう状態だった」のですね。
ただその思いも度重なる自身への気づきの中で解消されていきました。
日々の生活の中でも「本当に他人は他人自身のことしか考えていないんだな」という気づきを見つけていく度に、
やはりそれが現実なんだなと腑に落ちて行って、感覚的に受け入れられようになりました。
そして「他人はそうだけど、じゃぁ自分は?」と考えてみると、
それも突き詰めていくと自分だって自分のことしか考えていなかったんだなってことに気づいていきました。
「他人のための行動」であったとしても、なんで自分はその他人のためになることをしたいと思ったんだろうと考えると、
理由がどうあれ、最終的には「自分がしたいと思ったからした」という自分の決定があるだけだったという事実に行きつきました。
誰かにさせられているなんて事実はなく単なる思い込みで、すべては自分が最終的にそれをすることを決定しているという事実に気づいていきました。
他人の御託も都合も本当はどうだっていいことで、今まではそんなどうだっていいことを理由に自分の行動を決定していた自分がいた、ということに気づきました
結局肝心なのは「自分が自分のすることを選ぶこと」でしかない、
「何を選べばいいのか」ではなくて「自分がいま何を選びたいのか」がカギなんじゃないかって思えるようになりました。
それがここ最近の2年での気づきですね。このころには日常生活での支障はなくなりました。
そこからさらに発展して、重要なのは思考や理論じゃなくて自分の感覚。
考えるのではなく自分の感覚を最優先に感じること、それをもとに行動していくこと、自分に素直になることがカギだ、というのが最近出した答えです。
②
ライフワークの認知のゆがみのメモの取り方は
「自分がなんらかの不快感を感じた時」とか「あの時自分があのように感じたのは、こういうことなのかもしれない」と頭をよぎった瞬間とかですね。
まずはその瞬間にパッと気づいたことを忘れないようにメモしていきます。
後でメモした内容についてさらに考え、さらにその原因を突き詰めていきます。
その繰り返しですね。私のブログの記事はたいていそんな感じで書いていますので、何かの参考になれば幸いです。
ちなみに、主観が入ってしまうことを心配されていると思いますが、人はどこまでいっても主観の生物ですよ。
他人の目なんて、誰も知らないのです。では客観的視点とは一体なんなのかというと、「一歩後ろから自分を見る視点」のことです。
メタ認知といいますが、こちらはネットで調べていただいたほうがわかりやすいかと思います。
変われるかどうかですが、私は変われると思いますよ。ただ変わるのに必要なのは、私の思いは関係なくて、mさん自身の思い、「どうありたいか」だと思います。
変わるためには、今までに信じてきたものを捨てなきゃいけないこともあるかもしれませんし、それは怖いと思いますが、
それでも前に進むための「勇気」をもつことが大事なのではないかと思います。
追記:一つ忘れてました。「人間はあらゆる価値観、思想を捨てることができる」も重要な気づきでした。
大事なものとかそういうもの、「思考の中にあるもの」というのはすべて絶対ではないものである、ということに気づいたことも重要でした。
何かを捨てるのは一見デメリットしかないように聞こえるかもしれませんが、
何かを捨てるということは同時に自分に変わりのものを代替えすることができるというメリットも同時にもたらしています。
デメリットではなくメリットのほうに目をむける癖をつけるのも重要です。
実際他者の期待を捨てると、自分のすることにより集中できる、というメリットが得られます。
さらに、自分のすることに集中できれば、他者に期待していたころにあった不安感も消し飛んでしまうので、こちらのほうがずっとメリットがあると感じられます
人はそうやって「なんらかの道具」を使って生きている存在です。
物的な道具だけでなく、考え方や価値観なども、「人が何等かの目的に使うもの」であれば、皆そうです。
それが人であっても、人からみた他者というのは”誤解を恐れずに”いえば、みな道具の領域でしかないわけです。
他人と一緒にいたり、遊んだり、付き合ったりするのも、
突き詰めればすべて自分のためなわけですから、それはつまり自分のために他人を使っている、ということにまりますしね。
ではなぜ人は道具を使って生きるのか、自分のためにとは、いったい何の自分のために使っているのかというと、それは自分の感覚を満足させるためでしかないわけです。
人がご飯を食べたり、睡眠をとったり、住み心地のいい環境を作るために家を作るのも、料理に味付けにこだわるのも、芸術や仕事にいそしむのも、何か目標を立てて突っ走るのも、みな自身の感覚のためです。
ご飯を食べるとき、生きるために食べようとするのではなく、単に「おなかが減った」からご飯を食べようとするでしょう?
それを「生きるため」だとかいろんな理由を人は思いついて定義しようとしていますが、
人が本当に得ているのはそういった定義ではなく、単なる感覚です。
満腹感とか、味覚とか、心地よさとか、達成感とか、そういった感覚だけなんです。
それを満たして今日までたまたま生きながられているだけです。
感覚を満たすために様々な道具を使う生物。それが人間。
人が生きているのは思考の上じゃなく、「今生きていることを感じている感覚」しかないということです。
それを自覚すると、「細かいことにこだわる必要なんてないじゃん」なんて、私は思えるようになりました。
「道具なんて別になんでもいいんじゃないか」と。自分の感覚を満たすための道具は、いくらでもころがっているし、なければ作ればいいのです。
人生はシンプルにとらえられればとらえられるほど、その輝きを増し、可能性も広がっていくものだと思います。
なので気楽に、自分の感覚に従って生きることが、最も自分らしく、最も自分が心地よく、自由でいられる生き方なんじゃないかと私は考えています。
Elepanさん、ありがとうございます。
「変わりたい」とは思いつつも、根底では周りの目を気にして踏み出せてない理由を作っている自分がいます。
が、Elepanさんの返信を見て少し勇気が湧きました。ありがとうございました。