日本の恋愛観から見る”他人事思考”と恋愛離れの関係





日本の、特に若者の間で支持されている恋愛は男女がお互いに恋愛に適したそれぞれの像、つまり恋愛に特化した模範的男性像、女性像を求めているか、その像に習わなければならないという意識があるように思う。

つまり、その人の本質的な姿よりも、作られた姿の方をもとめているところがあって、それをベースに関係が作られているきらいがある

日本の恋愛は自由恋愛といわれているが、自由というその言葉とは対照的に、その形はあまりにも制限されたものになっている。

恋愛の形は主に女性向け雑誌など情報媒体に沿った形で行われていて、服や髪型のセンスはもちろん、相手との付き合い方、そのプランまでもが定型化されており、それ以外の選択肢の可能性を塞いでしまっている。

つまりそこには各個人の主体性やユニークな資質が反映されたものではなくて、どの人の恋愛もまるで教科書にそって受ける退屈な授業のように、似たような形でしか行われてはいないのである。



また、その形にそわない人はこんなパートナーは失格と社会的に烙印を押されてしまっている現実があり、

恋愛におけるこんな男性は、女性はNGというような記事はWeb上でたくさん見つかる。これが現代社会の生きづらさの演出にも一役買っているようにみえ、恋愛から人を遠ざけてしまっている役までをも担っているように見えるのだ。

自分を着飾ることに対する”大きなリスク”「ナルシシズム教」の恐ろしさ

他人事思考

日本人の思考形態の本質は基本的に他人事である。

この特徴は日本語という言語形態にも現れていて、日本語は主語が不在でも文章として成り立ち、かつ主語の不在がその発言者の責任や行動を曖昧なものにしてしまっている。

故に日本で日本語で交わされている様々な真実は「誰がいったかもわからない毒にも薬にもならないモノ止まり」であり、様々な問題解決の場において「ナァナァで済ます」という結論を導かせている。

誰も悪くない、誰も責任を取る必要がないという“大人不在の幼稚社会”が形成されていく。

やがてそれは人々の日常生活にまでも浸透し、自分の考えで何かを決めたり、自分の発言に責任を持つということから逃げるという行動が普通になってしまう。むしろそれに正直に向き合って行動しようとする人間をあざ笑うものすら生まれてしまう。

“村社会”、”島国根性”は日本のそんな幼稚性を体言しているものだといえる。

自分と違うものを許せないと感じたり拒絶するのは、自分にとって都合がいい世界以外は一切認めないという、赤子の精神そのものだ。

そうやって日本人はその幼稚さと無責任な思考形態をもつようになり、自らの選択や考えによって間違うことを恐れる。

よく海外から来た人が日本人の悪いところを挙げる例として、「全然自分の意見を言わないから話しても面白くない」という指摘がある。日本のマスメディアはこのようなネガティブな事実を伝えたりすることはないが、実際にある。そしてここに日本の幼児性の本質が見え隠れしている。



外の人達は日本人に比べればずっと自分に自信をもっている。自分を強くもって主張し、戦うこともできるし、議論もできる。合理的で、建設的な意見があればそれを聞き入れる余裕もある。しかし日本人にはこれを出来る人が極端に少ないように見える。

なぜ日本人は議論、ディスカッションが”下手クソ”なのか。その本質はこれだ

結果、日本人は常に他人事でいるために、恋愛の場に置いても常に「ベターな選択肢」つまり雑誌や多数の人間から支持されている恋愛の形を選択することになるのである。

例:なぜか恋愛にお金をかけることが”前提”であるという思考

例えば恋愛をしない若者が増えた原因にコスパが悪いというモノもある。これも突き詰めれば、彼らが他人事思考であることを証明している。

「模範的な恋愛の形」の一つである、「お金をかける恋愛すること」が前提にあってそれと比べているから、そう考えてしまうのである。

お金がないのが理由なのであれば、お金を使わない相手との付き合い方を自分で考えればいいだけのはずだ。

しかしそれができないのは、それが「模範的な恋愛の形」ではないからだ。

こんなことをしたら嫌われてしまう。ケチな男はダメ、普通じゃないと考える。

まったく日本の恋愛ほどつまらないものはない。皆形式的で、その形式にそうか沿わないかで恋愛するかしないかを決めているのだ。

こんなつまらないことを、自分をだまして、相手に嫌われないために自分を偽ってまで相手の都合に合わせて自分のリソースを失ってまですることだろうか。

多少の配慮はあってもいいだろう。本当に相手を愛しているのであれば、そもそも相手に与えることそのものが幸せのはずで、苦にもならないはずである。

しかし、本当はめんどくさい、したくないと考えているのなら、本当は相手の事を愛してなどいないのだ。

哲学:「愛されたい」は「愛」ではなく、「承認欲求」である

自分をだましつづけて、本当はしたくもないことをするなんて楽しいのかそれは。

楽しくないのならなぜ続けるのか?

人生の貴重な時間をそんな苦痛の中で過ごす理由は何か?修行?

その対価のあなたの貴重なリソースと時間だが、それに見合っているのか。

恋愛離れが進んでいる原因の本質

こうして人々はありのままの自分ではなく、取り繕った自分で恋愛しなければならないと考えており、そういう意識が恋愛する価値を見出せない代物へと変化させているように見える。恐らくコレは、このような日本人のなかにも合理的な思考をもつ人々が増えてきていることも影響している。

そもそも自分を取り繕ったり、よく見られたいがために無理をして洒落を決め込もうとしている心理の奥には、自然体である本来の自分の姿に嘘をついているわけで、暗に自己否定してしまっているということである。

自己否定感が苦痛を伴うことで、わざわざそこまでしてやる必要があるのかと考えはじめ、結果、「恋愛は面倒くさいもの」という認識がなりたったのではないかと思う。

加えて離婚率が上昇している理由も、お互いに、或いはどちらかが自分を取り繕って関係を構築してきたために、結婚した途端その鍍金がはがれ、「想像と違った」という理由で離婚してしまうことが要因なのかもしれない。



恋愛は一種の自己陶酔でもあるし、その行為の中では自分を取り繕うことにそれほど抵抗を感じない人は多いのではないのかと思う。

しかしそれは「日常」とはほど遠い。日常というのはもっと地味で、他人に気を使わない気楽な現実の自分の姿がそこにあるはずだ。結婚はその「日常」の上にあるのだから、言い換えるなら、人にもよるだろうが、恋愛は一種の酔っ払い状態だ。とてもシラフではできない。

恋愛の次は結婚というプランを考えているのなら、結局の所、最終的に素の自分で相手と接する機会は間違いなく来るのだから、だったら最初の恋愛の段階から何も取り繕わない素の自分でいたほうが、「無駄な付き合い」は減っていくのではないだろうか。

世の中は広いのだから、別にあのような情報媒体の形に一々沿わなくても、良い関係を構築できる人間はどこかにいると思う。もちろんそれは、探さなければ見つからないと思うが。でも今後の人生をずっと共にするというのならそれくらいする価値はあるのではないか?

あるいは筆者の例で趣味に生きるか。私は趣味が多すぎて、それに時間を使うだけで一日が終わってしまう。今となっては人と多くの時間を割く時間を持つことが出来ない。20代の頃に色々と挑戦してはみたものの、結局私は人よりも物とか考え事をすることが好きなタチだったのでうまくいかず、短い期間で終わってしまった。

でもひょっとしたら、私と同じように人よりも物や旅行、行事に興味がある人であれば、そういう時間を共有する形で関係を築くことはできるんじゃないか、と最近は思っている。私は自分の考えをしっかりもっていて、自分の言葉で話ができる人が好きだ。そういう人は私にとっては面白い人だから。しかし、束縛されるのもするのも死んでもゴメンなのでいわゆる深い関係を築きたいとも思っていない。

そういう自分に合った関係を築こうとしたら、自分を取り繕ってしまってはそれも難しい話になってしまう。自分に合うものはどこの恋愛系情報媒体にも載っていないのだから。

20代の頃にした私の経験では今のがんじがらめの恋愛の形は全くフィットしていなかった。私は理屈っぽいので、それが相手の受けも悪かったようだし、私自身もそんな相手と話していても何も面白いと感じなかった。いろんなことを話したのかったのだけどお互いの会話は完全にすれ違っていた。

今思えば相手は多分感情的な共感を求めていたのかもしれない。現代社会の恋愛は多分ほとんどがそのようなものを求めて行われているのだと思うが、私はそういったベタベタした関係には耐えられなかったし、興味もなかった。最初から合うはずがなったのだ。

これからは”人間関係の形”を自分で作る時代

時代的に今の現代社会は昔に比べると合理的になってきているといわれている。それはつまりその社会を構成する人々が合理的な思考をもつようになったということであり、個々の価値観がバラバラになってきていることを意味する。

各個人で哲学観が違うという事でもあり、もはや形式的な生き方をするのは各個人にフィットせず既に時代遅れ、古い習慣になってしまっているのではないかと思う。恋愛という決まりきった形を守って相手と関係をもっても何も面白くないのなら、自分にとってしたいことは何なのかを自分で考えて実行していかなければ人と関係もつメリットは生まれ得ない時代なのではないだろうか。

だとするとこれはもう、その形を自分で作っていく以外にないだろう。自分は誰とどのように関わって、何をしたいのかを当事者意識をもって考え、実行していくことが今の社会には必要なのではないだろうか。

社会は”人間一人一人が作っている”

日本人は自分が社会を構成している要素の一つであるということを、もっと自覚した方がいい。

それを私は当事者意識と表現している。一人の人間は無数にいる人間の中の一人にすぎないというのは事実だが、その一人が確かに社会に微小なりとも影響を与えているには違いなく、そういった無数な微小なもの達が与えた様々な影響の姿が「社会」として現れている。

「塵も積もれば山となる」という言葉もある通り、一人一人が自分の問題に向き合い、自分で考えて行動するということができる人がこの世に一人でも増えれば、それは確実に社会になんらかの影響を及ぼす。

だからもし自分が生きづらさを感じているのなら、変わるべきは他人ではなく、まずは自分自身なのである。他人に変わることを待ってもほとんど期待できない。他人は他人の都合でしか生きないからだ。

経済学について学んでみると、自分達が生きている社会の本質が見えてくる。経済学は人間社会を体系的に学ぶことができるいい学問だと思う。

日本の恋愛事情は色々とおかしい – 愛のない恋愛、結婚観 –

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