「嫌われることが怖い」
そのせいで素の自分がだせなかったり、いい子を演じてしまって疲れ切ってしまってはいないか
「なぜこんなに他人が怖いのだろう」
「世の中には他人に嫌われてもけろっとしている人がいるのに」
そう思いながら。
それは多分、自分のせいだと感じてしまうからではないか?
「きっと自分が何かしたんじゃないか」
「気に入らないこといったかな」
いつも一方的に自分を責めてはいないだろうか。
あるいは頭では相手のことを責めていても、
どこかばつの悪い、居心地の悪さ、後ろめたさを感じたりはしないだろうか?
私は少し前までそうだった。
嫌われること=自分が否定される、という思い込みだった
私にとって嫌われることは、自分を否定されたことと同じだった。
まるで私そのものが消えてしまうかのように。嫌われるだけで、胸の奥をぎゅっと握りしめられるかのような、まるで窒息しそうな感覚にいつも襲われた。
それが嫌われることを恐れる大きな理由だった。
だから私にとって他人の言うことは、ほとんど生命線のようなものだった。
他人に自分の生き死にを握られていた。
だから他人の言うことはそれがどんなものであっても常に正解で、自分はその正解に従う奴隷。
いかなる他人に対しても、それは同じだった。
だから私にとっては誰であろうと、誰かから嫌われることは実質自分が死んだことと同じことだった。
だから怖かったのだった。
いつも自分が”下”で”悪”だった
私はすべての他人よりも”下”だった。
だから他人はいつも完璧で、自分は間違った悪い存在だとずっと思っていた。
いつも自分に何かが不足していると思い込んでいた。
他人から”間違い”を指摘されると、反射的に「そうだよね」と体が受け入れようとしてしまうのだった。
「それはおかしいんじゃないか?」と頭では思っても、心が、感覚が許してくれなかった。
他人に逆らうのが怖い。怒られたらどうしよう。嫌われたらどうしよう。
本音を言うのが怖い。
素の自分が、怖い。
素の自分でいること自体が恐ろしくてたまらない。
「私のような”間違いだらけの人間”が、自分らしくあっていいはずがない。」
「他人様に意見を言うなんておこがましい。」
「そんなことをしたらきっと変な奴だと思われる」
「嫌われる、見捨てられる」
そうやって他人に服従することに身も心も支配されていた。
常に自分の粗探しをする癖がついていた
だから相手が何かの都合で怒ったり、ふてくされるといつも、
「何か気に障ったのかもしれない」「自分が何か悪いことをしたんだ」と、
冷や汗をかきながら必至に自分の粗探しをして、相手の気持ちを取り繕おうと奔走していた
何度も謝ったり機嫌をとったり、相手の言うことをたくさん聞いたりして、何とか機嫌を直してもらおうと必死になっていた。
ひとたびバカにされればその場で黙ってしまって、それを面白がったクラスメイトにいじめられたこともあった。
相手と話し合うこともせず、相手の悪いところをせめるなんて思いも浮かばず、
とにかく許してもらえるまで相手に一方的につくそうとしたり、我慢してやりすごすしかできなかった。
本当に私は、当時は完全な奴隷、みんなの奴隷だった。
皆に好かれようとしていた。私にとって、私を嫌う他人はあってはならないことだったから。
“いい子”になりたかった
なぜこうなってしまったのかといえば、それは私が小さいころから親にやっていたことがその原因。
“いい子”でい続けようとしたから。
それがいつのまにか、親だけでなく他人にまで同じように接するようになってしまっていた。
親との関係の延長線上に、他人との関係も構築してしまっていたのだった。
だからどんな他人にとっても”いい子”でい続けようとした。
もはや、世界にとってのいい子でい続けようとしたのだった。
反省=”人格自己否定”だと思い込んでいた。
私はよく母親に「反省しなさい」と何度も怒なられ、叱られた。
何度もあやまっても許してくれず、何日も口すらきいてくれないことがあった。
そういうこともあって、より一層自分は悪い子だと思うようになり、自分の存在自体が悪のように感じられるようになった。
許してもらうまで自分を頭の中で何度も何度も責めた
「自分なんて消えちまえ」というくらいに徹底して自分を否定し続けた。
自分という存在を消してまで徹底して叩きのめすことを、ずっと反省だと思い込んでいた。
そうやって出来上がった自分という存在は、何一つ自身が持てない表情の暗い根暗な人間であった。
共感の仕方すら、他人に従っていた。
そうやって自分を他人に合わせて、自身の人格否定まですることが普通の事だったからだと思う。
自分が何にどう共感するかさえ、ずっと自分で選んでいなかった。
例えば、誰かが悲しそうにしていたら、大抵は悲しくなる、と思う
一見普通の事のように見えるけど
私はいつもそこに義務みたいなのを感じていた。
「悲しそうにしとくべきなんだ」みたいな意識が働いて
相手の心に無理やり共感しようとする自分の姿があった。
私は今だからわかるが、それほど涙もろくはなく、心から他人に感情的に共感することはあまりない。
私にとって、相手の悲しみに共感することはとてつもなく不自然だった。
しかし、当時の私は悲しんでる人を見て悲しくならないのは、人として普通じゃないと思ってしまった。
それが”普通じゃない私”との対比となり、強烈なコンプレックスになっていた。
「自分はおかしい、普通なら悲しいって感じるはずなのに、なんで自分だけ」
そうやって周りと違う自分、周りと同じように共感できない自分を責めてしまった。
しかし自分を変える過程で、「他人に合わせる必要なんてなくて、自分の好きに共感する」なんてことができることに気づいたときは、すごく肩が楽になっていくのを感じた。
同時に、今までなんてつらいことを自らの手でしていたのかと途方にくれた。
承認欲求の正体
かつての私の強烈な承認欲求は、このようにして作り上げられていったように思う。
他人が怖いから、他人に許してもらうために承認を得る。
そんな消極的なものだった。
私はいわば、飴と鞭で動く”機械”だった
「怒られそうだからちゃんとやろう。」
「褒めてくれるかもしれないからもっと精いっぱいやろう。」
そうやって自分を動かしていた。
それが私の日常だった
漠然とした不安感が普通の感覚、日常だった。
そしてそれを解消するために恒常的に承認欲求を求め続けていたのだった。
そして私はそれを「気持ちのいいこと」だと、
つまり「快感」であると錯覚していたのだった。
何せいつもどこか不安な中で、唯一自分が「心から安心できた瞬間」が「人に褒められた時、許されたとき」だったから、
私にとってそれは報酬以外の何物でもなかった。
だから私にとって承認欲求は自分の生活のすべて、原動力の全てだった
何時も他人の言うことを聞いて、他人の都合を満たした。
だから他人の目を気にした。自分の都合よりもずっと大事だった。
気にしたというよりは、そこに自分の価値があると信じていたから。
社会に出てもそれは変わらず、いい子でい続けるために身を削って仕事をした。
そんな自分の無意識に気づかず、20年以上にわたって生きてしまっていた。
私にとって自己否定することは当たり前のことで、生活そのもの、正しいことだった。
心の癖の自覚
しかしそれも、うつ病になったことで大きな挫折を味わうことになった。
今まで自分が感じていたこと。漠然とした不安。快感だと思っていた誰かの承認。
それは自分を苦しめていたものの根源でしかなかった。
他人に対する恐怖感は、他人からの承認を欲しがろうとするために感じようとしている前準備のようなもの、飴と鞭の思い込みからくるものだったことに気づいた。
私は、これをずっとどうしようもないことだとおもっていた。
あらがえないこと、本能みたいなものだと。
自分が根本的に悪いから、自分がいつもダメだから、だからそう感じてしまうことはしょうがないことだと思い込んでいた。
この世は弱肉強食で、生まれたときからその立場はきまってる。
自分は弱くて悪い人間だから、こうなって当然なんだ、と感じていた。
しかしこれが本能でもなんでもない、単なる自分の癖でしかないことに気づいてからは、あっさりと捨てることができてしまった。
反省は自分の”行動だけ”でよかった。
何かを反省するにしても、自分の人格、心まで反省する必要なんかなかった。そもそも反省とは、人間関係の中で「これはしないでほしい」ということをその関係の中で取り決めるための”宣誓”行為でしかなかった。
ようは行動の制限のみであって、自分の人格の制限ではなかったのだ。
だから自分自身を否定する必要性は全くない。
今の自分で全然大丈夫なんだ、ということにきづいた。
そもそも、他人には自分の人格、心なんてのは少しも見えちゃいない。
自分の心を否定しても、それが相手にはわからない
相手は、目で見える表情とか姿勢だとか、「外見」からでしか”態度”を判断できない。
“心の態度”なんてみえてなかった。
同じ人間である私だってそれは見えてなかったのだから。
他人が、人が見えるはずのないものを、自分は見られているかのようにずっと錯覚していた。
それは親に叱られたときに、反省している態度を何度も求められたからこそ、
まるで見破られているかのようにずっと錯覚していたからだった。
他人の言うことを一方的に聞く必要もなかった
他人は上でも下でもなかった。ただ自分がそう思い込んでいただけ。
親との関係性の中で、そう思い込んでしまっただけだった。
他人の言うことを一方的に聞く必要なんてなかった。
自分に素直になることの方がずっと重要なことに気づいた。
なぜなら、自分に素直になるだけで、他人からしか得られないと思っていた”承認されたときの感覚”、
つまり人のごく普通のありふれた状態である安心感を、ただ感じることができることに気づいたから。
自分一人で自分の感覚は感じられる。
自分を犠牲にして他人から得ようとしていたこと自体が思い込みで、最初から必要などなかったということに気づいた。
承認欲求はただの回りくどい、自分をさんざん苦しめて少しだけ安心を感じるように自身を制限する、悲しい自作自演行為でしかなかった。
ムチを欲しがってもいた
他人からたたかれないと、自分から動くとができなかった。
自分を脅迫しないと自分を動かせなかった。
私にとって他人は、自分の行動のトリガーの全てだった。
自分が何をするにも他人の決定を頼ってしまうのは、他人に「やれ」といわれたことでないとダメだと思い込んでいたからだった。
そしてそれは恐怖が原動力だった。
怒られないために。否定されないために。いじめられないために。
自分のみを守るために行動する。そんな消極的な原動力しか、私は持ち合わせていなかった。
ムチはなくてよかった。自分が何をしたいか決めてよかった。
他人に与えられた課題をこなすことでしか、生きていけないと思い込まされ続けていただけだった
でもそれは全くの間違いだった。自分の好きなことを自分は選べた。
当時選ぶことができなかったのは、経済的に親に頼る子供だったというだけ。
社会に出てお金を自分で稼ぎ出してからは、もう親のムチは必要なかった。
だから誰にも、もう何にもケツをたたかれる必要はない
ただの自分だけでよかった。
何をするのか、どうするのか、どこまで、どの程度で、どんな感じでやるのか
全部自分が自由に決めてよかった。
そして、試していくうちにずっとこっちのほうが楽だということに気づいた。
ムチをたたく他人がいらなくなって、他人の目がなくなってしまったから。
他人の目は自分がそれを見出そうとしないだけで、簡単に消えてしまうものだった。
人間関係は“薄っぺらかった”
自分が思っていたよりも人間関係は薄っぺらなものだったということにも気づいた。
相手の心を理解していると思っていたけど、実際的には何も理解できてなかった。
だって人間は5感でしか世界を感じていないのだから。
それでしか他人を感じ取っていない。
これまで想像していた相手を深く理解しているかのような、”深い関係性”のような人間関係など、どこにも存在していなかった
他人に自分が見透かされているかのように、ずっと思い込んでいただけだった。
反省の態度を何度も親に求められ、「ごまかしても無駄」「あなたのことはよくわかっている」と何度も親に脅されたから、
それを愚直に信じてしまっていただけだった。
心まで自分を”演じる”必要すら全くなかった。
いい子でいようと演じる必要はない。
だって相手には表面しかみえていないわけなんだから。
嫌われても、間違っても、もう何も怖くない
嫌われてもいい。間違えてもいい。
なにが外で起ころうと、自分の内側にある自分という人格には届かない。
外と内である自分の心は全く関係がなかった。
自分は何も不足などしていない。不足のしようがない。
ただ自分があるだけなのだ。
他人に嫌われても、ばかにされても、笑われても、いやみをいわれても、いじめられても、否定されても、怒鳴られても
自分の存在を否定することは他人にはできない。彼らが見ているのは全部上っ面でしかないからだ。
それを見ているのは自分だけ。それをどうこうできるのも、自分だけなんだ。
誰も何も悪くない
自分という人格。自分という価値観、自分という存在
それを責めないでやってほしい。他人にそれはできない。全部自分がやっているんだ。
貴方は何も間違っていない。あなたは何も悪くない。
何も足りないことなどない。
そんなのは外に転がっている自分でないものを指しているにすぎない。
自分を否定する癖はやめていいのだ。自分を苦しめているだけなんだから。
それを望む人がいたところで、それはその人の都合。自分には関係ない。
自分が悪いと感じなくていい。
自分がおかしいと感じなくていい。
自分が間違っていると感じなくていい。
そんな風に自分の存在そのものを否定する必要は全くない。
嫌われても、もう自分を否定する必要は全くない。そう感じようとしなくていい。
そしてそれは他人に対する自分も同じ。
他人を否定する必要もない。自分を否定する理由がなくなれば、他人を否定する必要もなくなっていく。
心の在り方は完全に自由
自己否定することを、何の意味もなくやめていい。
ただ何の意味もなく常に自分は正しい、正常であると感じ続けていいのだ。
>いろんな自分の自己否定に気づき、それをすべてやめてしまおう。
たった今自分が何らかの否定感を感じているのなら、それらはすべて感じなくていいことなのである。
いつ何時においてもそれは変わることはない。
自分であり続けていい。今の自分であり続けていいのだ
自分を他人の罪悪や都合から解き放って自由になろう。
ありのままで
自然体の自分でいいのである。何も心に着飾る必要はなく、張ったりも必要ない。
外にある何かのために自分のこころを何かにあろうとする必要などないのだ。
いま存在する自分でいいのだ。他人に何を言われても、自分を変える必要はない。
他人のために何かにあろうとしなくていいのだ。
記事を見ていると泣けてくるほど心強いです。
こんなところで申し訳ないです。相談なのですが、いま浪人という身分です。2月の失敗を繰り返し親に罵られてやりたいこと(今の塾をやめたい)も否定されます。入る前は大丈夫だろうと思って一年通うと言ってしまったのですが、やってみたら自分の求めてるものではなくて。
結果を出すという義務を果たしていないからと言われてやめたいと言ってもだめだと言われます。親の論理があるみたいで。
でもこれ以上嫌に思いこむと自分も嫌になってくるし。なので良いところを積極的に見るという手もあります。
自分勝手なんでしょうか。自分勝手なのは当たり前か。
現在に自分に嘘をついてはいません。立場の上な親は変えられないものと割り切ってとりあえず結果で黙らせるのが特策ですかね?
正直今冷静でなくて、不安感に包まれてしまっているので内容もよくわからないかも知れないですが…
想像とのギャップに苦しんでいる状態とお見受けしました
まずはそのギャップが何なのかを考えてみるといいのかもしれません。
例えば、それは勉強の内容が想像と違っていたのか。
塾の雰囲気だったのか。
何かに対して感覚的にマイナスな何かを感じていらっしゃると思うんですよね。
それがどこからきているのかを考えてみるといいかもしれません。
ご両親の煽りやご両親のいう義務については、
ベストなのは「気にしない」なんですが、多分難しく感じてらっしゃるんですよね。
ご両親の期待に応えないと”いけない”…
どこかにそんな罪悪感のような不快感はあったりしますか?
もし心のどこかでそう思われているなら、そこは切り離してしまっていいと思います。
義務に応えないといけない、と”感じなくても”別に構わないのです。
自分の心の態度まで、ご両親に合わせる必要はない。
ご両親とは「会話」「言葉」で情報をやり取りするだけでいいんです。
それ以外のことを”察したり”、”想像したり”する必要はない。
それで自分が苦しくなってしまうならなおさらです。
相手の感情や意思、考えてることまで想像して、それに合わせようとはしなくていい。
そう”共感”しようとしなくていい。
「ご両親が求めているかもしれない自分の心」を汲む必要はないんです。
そこは完全にりんごの星さんの自由ですから。
外の都合よりも、ご自身の心を最優先に、まずは楽にしていく試みをしていくと、心が落ち着いていくかもしれません。
そうすれば、ひょっとしたら、塾の勉強が楽しくなったりすることもあるのかもしれない
何れにせよ、私からそれを決めつけることはできませんが…
私にできるささいなこととして、りんごの星さんのご武運をいのります!
そうですね…。
現在は自立していなくて、結構追い詰められやすいです。(T-T)
確かに、相手の感情とか意思の言葉をシンプルに捉える必要がありますね。
落ち着きは大事ですね。
自分の心をねじ曲げることって本当に苦痛なので、心が感じる嫌な感じを受け入れて工夫していこうと思ってます。
本当に、まずは自立目指すことかなと思ってます。親の縛りは好きじゃないので。
そしてElepanさんのような私が共感できるような考えを持つ方の支えがあることで心も軽くなりそうです。
こらからもElepanさんから学んでより自分の自由を追求していきます。
アドバイスとこのブログの執筆ありがとうございます、これからも少なくとも浪人の一年間は環境に心を消耗させられやすいと思うのでブログよんで心を軽くしていきます!(^_^)
お役に立てれば何よりです。
今後も古い記事の修正を中心にしてあげ直していく予定なので、もし何か知りたいことをお探しでしたら私のブログでよければどうぞ^-^