この世に”与えられる人”なんていない。人は「与えること」しかできないんだよ




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2020年04月25日~:
現在メンタルヘルス系過去記事を順次全書き直し中です。
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現代社会は無意識的か意識的かに関わらず、多くの人がそれぞれの役割をこなして何等かの生産活動を行うことによって作られた、「多くの人々の協力によって成り立っている社会」だと思います。

人間はおそらくずっと昔から色んな誰かが”作り出してきたもの”を積み重ね、それが文明として成り立っていたと思いますが、人が何かを作るという事は、「何かを何かに与えること」と言い換えることができると思います。

この何かには人、もちろん自分自身も含まれます。人間は常に他者や社会に何かを与え続けてきたことによって、今日の社会は形成されているのだと思います。

ですがその逆の、誰かから「与えられること」というのは、その性質までもが逆で利己的で廃退的結果を招くものです。

愛されたいとか、好かれたいなどの「与えられたい」という欲求は、この人々が今までに積み上げてきたものの本質を見失ってしまうような危険な考え方なのです。

「与えられること」を考えて行動するのは誰かのためになりにくい

例えばブログを書く目的。これは人によって様々だと思います。日々の日記、思いついたアイディアのメモ、販促や宣伝活動のため、自身の考えをだれかに知ってもらうためなど様々だと思いますが、

これが例えば「お金を稼ぎたいから」とか、「誰かや社会に自分の考えを認めさせたい」というような、独りよがりなものになってしまうと大抵その願いはかないません。

自分がほしいもののために活動したとしても、その自分の欲しいものがどこから出てくるのかを考えてみれば、それが間違った考え方であることは一目瞭然だと思います。

「お金を稼ぎたいから」というのも、そのお金の出どころは自分以外の誰かの財布や口座からしか出てきませんし、「自分の考えを認めさせる」だって、それを認めるのは自分以外の誰かです。

自分の都合を相手に通すということを無条件にはできないのです。

物乞いだって、お金をもらうために自らを弱者であると訴え相手の目の前にひざまづき、自信を小さくみせ慈悲を乞うことで、相手の自尊心、または同情心を満たすという「与える行為」をやっているからこそ、それを哀れに思った誰かによって、かろうじてその取引が成り立っているわけです。

ただ何もせずだまって過ごしているだけでは誰もお金をくれることはありません。

何事も全ては「与える」という行為から始まっているのです。

誰かにとってうれしいことや本当に欲しいものは何なのか、つまり「自分が誰かにとっての欲求を満たしてあげられること、問題を解決してあげられることは何なのか」を考えないと、いくら尽力したところでそれはかなわず、ただいたずらに空しく時間だけが消費されていくだけでしかないのです。

「与えられたい」は間違っている

人と人との関係はgive and takeの関係が大原則であり、何事も与えることをしなければ始まっていきません。

固いgive and takeの関係を結びたいのなら、お互いが与えあう事を締結するという形で取り決めておく”契約”としてすべきです。例えば雇用者と被雇用者間に交わされる雇用契約、金銭で取引される商品の売買契約などです。

ただ独りよがりに「与えられたい」と考えるのは何も解決しない自分も含めて誰も幸せにならない行為なのです。

これは何も物的なものや金銭的なものに限った話ではありません。

例えば友達になりたいけど恥ずかしくて自分から声をかけることができない、などの基本的な人間関係の問題においても、もしお互いがそう思っていて何もしなければ、その友情は永遠に始まることはありません。

どちらかが話しかけるという「与える行為」をしなければいくらそれを待っていたところで意味がないのです。何も与えず、ただ受け身で構えていても何も変わっていくことはありません。

誰かから「与えられるもの」を保証することはできない

先程述べた「契約」の関係を結んでいれば話は別ですが、それ以外の場面において人から与えられることを保証するものはどこにもありません。

自分が良かれと思って作った何かが、必ずしもその良かれと思った形に添ったものに、他者にとって扱われるかどうかはわかりません。他者には他者の感性や価値観があって、捉え方も目的も違うからです。

例えば私はうつ病関連の記事をよく書いていますが、自分がこれがうつ病治療に役立つよ、と思って書いても、それが本当にそれを見た人にとって有益かどうかはわかりません。人によっては不快感を感じることも考えられます。

人によってはうつ病を治すどころではないくらいに精神が衰弱し、癒しを求めてそういった情報を探しているのかもしれないし、現在のうつ病の自分でも認めてくれる何かを探していることもあるからです。私の記事は全て自分でうつ病を治すためにはどうすればいいのかという”治療”を前提として書いているので、そういう場合はその人達の役にたつことはほとんどないのだと思います。

だからいくらこちらが何かを「与えたつもり」であったとしても、それは相手に全く響いていないことは普通にあります。

さらに言えば、例え相手の欲しいものを与えることができたとしても、契約を交わしていない限り、それに対して相手が何かを返してくれるかは保証ができません。

例えばブログもこう書けば必ずたくさんの人に観てもらえるとか、SNSで広めてくれるかもとか、アクセス数があがるということはなく、それを見てくれる人達の都合に依存しています。

誰かが「与えるもの」は本質的に自分が関与できるところではないのです。

「お金」はなんのために存在しているのか

与えられるもの、与えるものの両方の側面を持つものとしてポピュラーな、お金について考えてみます。

お金は物を購入したり物を売ったときの対価として受け取るもの、または財産として残すためのものとして使われますが、

その本質は経済活動の活性化にあります。もし人々がお金という手段を使わなかったら、物々交換や物を直接寄贈するなどの物的資源同士による直接的な交易関係を結ばざるをえません。

しかし、人によって欲しいものは異なるため、物々交換による交易はスムーズにはいかなくなり、今のような経済社会を作ることは非常に困難を極めます。

つまりお金とは経済活動の活性化のための一つの手段でしかないのです。そしてその経済活動とは、人々の生活をより快適に便利に、幸福にすることを目的として作られたものなのであり、人々の幸せのための活動が経済活動の本質、本懐なのです。

「与えること」こそが人の幸せの本質

つまり「与えること」を行うことは、その経済活動の本質に従った最も理想的行為の形なのです。それが経済社会への最も効果的”参加”であり、社会貢献なのです。

逆にただ「与えられること」を期待するというのは、この経済活動の性質、いえ、人間の幸せの本質そのものから完全に外れてしまっている考え方ということです。

人が社会の中で幸せに生きていきたいというのなら、それは「与えること」を人生の主軸にすることなのです。「与えられたい」という欲求を自ら外していき、与えることのためだけに生きることで、人は意図も簡単に幸福を手にすることができてしまうのです。



アドラーの心理学を論理的に実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学だといわれています。

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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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