日本のENTPはむしろ”うんと嫌われた方が幸せ”なのではないか – MBTI考察 –





ENTPは日本社会でいうところの「出る杭」

ENTPのサジェストを検索すると、「ウザイ」だの「頭おかしい」だの、「サイコ」だの、自虐なのか他虐なのか、

冗談なのか本気なのかはわかりませんが、ENTPに対する印象はどちらかと言えばネガティブなものが多いように見えます。

もし仮にそれが本気だったのだとしたら、少なくとも日本で生活しているENTPは随分肩身の狭い人生を送っているということになりますが、

果たして、それで当の本人達は楽しいのでしょうか。人目を気にして生きているってことだと思うのですが、それは楽しい事なのですか。

「自分の人生を楽しんでいる」と自信を持って言えるのでしょうか。自己否定ばかりの人生だとしたら、それが楽しいことだとはとても思えないのですが、どうなのでしょうか。

ENTPが「出る杭」である、つまり嫌われやすい資質をもつというのなら、むしろ受け入れてしまった方がずっと幸せなのではないでしょうか。



自分を否定して何が楽しい?

自己否定に走ることが楽しい事かどうかは疑問です。疑問というか、99%面白くないものだと思います。

自己否定の源が、自身の成長のために必要な、自己の問題に気付くための気づきのためのものなら、その過程のために一旦は必要ですが、

自己否定そのものが目的になってしまっているのだとしたら、それはいったいなんの得があってそれをしているのでしょう。

嫌われることを「悪い事」だと思っているのでは?

この世には本質的に「良い事」も「悪い事」もありません。

嫌われるのは悪い事?

そのすべては思い込みでしかなく、それぞれの人間が勝手に決めた価値観でしかない。

嫌われることを”悪”だとしてしまうと、必然的に人間の自由意志はそこに制限された形になってしまいます。

「普通」の中に眠る”異常性”に気づけるのがENTPの資質だ

「普通」とは、現在では習慣的、形式的なものという意味も含まれた言葉であると思います。

それはENTPの指向性を強く持っているほど、それらが実際には合理性であるかどうかとは遠いものであると認識する機会は多いのではないかと思います

「普通」とされているものに違和感を感じて、それをおかしいと誰かに論じたり、そういった行動、態度を取れば大抵はその「普通」の支持者たちから反感を買ったり怪訝な態度を示されるものです。

しかしその「普通」を信じる人達にとって、こちらの考えが「異常」だとしても、

それが自分の信条に直接捻じ曲げることができるような、直接影響を与えられるものではありません。そうあってはならないと私は思っています。

他人に言われたからという理由で、そうやって自身を否定するのは相手に言われたことをそのまま受け容れ自らの手で自己をへし折り、それに屈しているだけにすぎません。

「普通」に折れなくてはならない、屈しなくてはならない絶対的な必要性というものは存在せず、ただ考えず何の疑問ももたずにそれに従い続け生き続けなければならないという縛りはこの世のどこにも存在しません。

そもそもこの世には絶対的な正解も間違いもない以上、本質的な異常性というものまた存在しません。それがあるのだとしても、それは単に統計的に少ない事例だということでしかないのです。

普通という言葉の意味

「普通」の意味は、世俗的だとか大衆的であるとか、大多数の人に支持されているという統計的概念を示す言葉であって、絶対的な価値観や正しさを指すものではないし、本質的にそれとは無関係です。

悪魔で比率の問題であって、それがイコール全ての人の信条となるわけじゃない。

つまり何が言いたのかというと、「普通」だからといってそれが自分にとっての「正しい」というわけではないということです。

「正しいこと」というのは実際には人によって異なるものであり、その違いこそが各個人がもつそれぞれの本来の信条であり、宗教であり、自由だと私は思っています。



闘うこと

「普通」に異を唱えることが、誰かにとって「普通」だろうと「異常」だろうと、自分達が立っているその土俵は皆同じだと私は思っています。

同じ土俵に上がっているならそれらと闘うこともできる。数が違うというだけでそれが戦えないという理由には直結しない

「普通」という巨大勢力を前に異を唱えて闘う事を、自分は選択することができる。

圧倒的な数に必ず屈しなければならないということはないし、例え自分が最後の一人であったとしても戦い続けることを選択することができる。

例え敗戦に終わろうと選択することは常にできるのが人間だし、そもそもそこで得られた勝敗という結果そのものは一瞬の出来事であって、自分が生き続けている限りその後も世界は続いていく。

自分のみている世界は自分という存在の持続性という、今この瞬間をを生きる自らの行動によって構築されているのだから、

そんな時々の結果にこだわって生きるのは人間の本懐としてどうなのだろうか。

続いている今という世界に目を向けた方が、より自然的で人間らしいと言えるのではないでしょうか。

人の生きる目的とは

人の生きる目的は、「己の正しさのために生きること」ではないでしょうか。(以前は”自由のためだ”と他記事で書いていたのですが、それを願わない人もいるみたいなので)

だとすると、人生においてもっとも重要なポイントは、自分にとっての「正しさ」とは何なのか。これを明らかにしなければ、自分の人生を生きることはできないということになります。

自分の正しさを折って多数派の正しさに服従し、己を削って生きるのは自身の信条を否定していることになるのだから、自分の人生を生きているとは到底言えないし、つらいだけだと思うのです。

私自身の信条

私もENTPの指向性です。私の信条は、「真の自由のために生きること」それが今の私の信条です。

そのためには己の物質的な身の自由や社会的自由よりもずっと前に、自分自身の心が自由でなければならないと考えています。

だから私は何らかの縛りによって自分の自由意志を削ぐ何かを、できる限り排除していきたいと思っています。

それは他者や社会に対してではなく、己自身、己の内に眠る意識に対してです。その中には「嫌われることを恐れること」も含まれていました。

嫌われることを恐れているということは、人に好かれることしかしないということです。

過去の私はずっと、「普通」に従っていたわけです。にもかかわらず、「普通」という多数派に支持されていることしかせず、少数派のすることはできない自分が嫌でしょうがなかったのです。とても窮屈で、自己否定にさいなまれる毎日でした。

自らの行動を阻害しうる、そういった自意識というのは私にとって最悪なものでしかないわけです。

そういった自身の内面に存在する、自身を不幸に陥れている「歪み」を取り除き、真の自由に向かって突き進むのが、今の私の信条です。

私には、社会で言われている様々な「普通」が、時に論理性にかけ、合理性に欠けることばかりのように見えることがあります。

もちろん「普通」と言われているの中には納得できるものもたくさんあります。でも全てがそうじゃない。

だから私はこの「普通」という概念の中に巣くう「異常性」を引っ張り出して、それを叩き潰したいと考えているし、実際そうしようとブログでいろいろと書いているわけですが、

そうやって実際に叩き潰しているのは、他者や社会のそれではなく、普通に従おうとする自身の意識であり、そうすることで自身を再構築し、自身の自由の糧にしているわけです。



私の思う自由

自由とは他者や社会によって与えられるものでもはなく、もっと精神的な自分の問題に帰結するものであると考えています。

つまり自由とは自分の認識を変えることによって、意図も簡単に手にできてしまうものということです。

大金を稼がなくても、働かなくても暮らしていける環境を整えなくても、意識や考え方さえ変えることができれば、人は究極的には今この瞬間から自由を手にすることができるわけです。

しかし実際のところその自由を手にするには、今まで自分がしてきた様々な思い込みや思考の歪みを解いていく必要があるので時間がかかります。

私の経験上、自由を手に入れるには今まで自分が”大事にしてきた何か”すらも手放す必要があると思っています。

“誰かが自由を得るため”の助けをしたい

例えばこのブログは、そんな自分の自由をえるためにどうすればいいのか、そう考えればいいのかについてそれをまとめ、発信していますが、

前述しておりますが私はこれを使って誰かの助けをしたいという気持ちの他にも、自分を変えるためという目的もあってやっています。

過去の自分を引っ張り出し、「お前はなんて不自由で哀れで愚かで無知なんだ」と、過去の自分自身を糾弾して、二度とあんな奴には戻らないと、そう言い聞かせている側面もあります。

しかし、そうやって残した何かが、時にそれが誰かが変わりたいと思うきっかけになるのではないかと考えて、ここに文章を残している次第なのであります。

「本当は自由になりたいけど、どうしたら自由になれるのかわからない」

「自由になりたいけど怖い」

────そう考えている人の何かの力になれればと思っています。それが私の自由意志であり、人生の目的なわけです。

「おかしな普通」と闘う

ある「普通」が、自分のしたいことに反しているのならそれは真っ向からぶつかるところ。

出る杭だと言われようが関係ない。

自分を曲げたら、自分にとっての本当の自由なんて一生やってくることはない。ずっと自分をだまし続ける人生を送ることしかできなくなる。

「普通」にその身も心も折られるくらいなら、自分を通して結果他人に中傷されるほうが100倍マシ。

ただし、そのしたいことが自身の思考、認知の歪みから来ているのなら、それは別の話なので注意が必要だということもわかっています。そういう場合は自己の認識を修正して、自分の自由の定義を再定義することも必要だからです。

いわゆる「反省する」ということですが、これは自分の目的のためにしなければなりません。誰かの許しを得るために行うものではないのです。

自分にとっての正しさを磨き、通すことが自由の本質だとおもいます。

それは多様性ある社会にもつながっていくと思います。そういう世界がENTPの指向性にとってももっとも適した環境といえるのではないでしょうか。

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約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

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