私の承認欲求の強さは「精神の幼さ」から来ていた!





当時の私の承認欲求は強くて、常にだれかに見張られている感じがするというか、自宅の部屋に一人でいるときでさえ、誰かに見られている自分を意識していました。

やることなすこと全て人にどう見られるか、かっこいいとか、すごいとか、自分が賞賛される姿をよく妄想していました。

学生の頃はかっこいいと思われたくてギターを始めたり、容姿に気を遣ったり、すごい奴だと思われたくて高校の部活動紹介で「中学の頃リトルリーグに所属していました!」なんて言って、本当は入って数か月で嫌になってやめたのに見栄をはってしまって、実際全然ダメで後から周りに失笑されたり…

そんな本末転倒な恥ずかしい人生を送っていましたが、それでも当の私は誰かに認められたいという一心でした。

まさに必死でした。「誰か俺を認めて」「俺を素敵だと言ってくれ!」「誰か俺を必要としてくれ!」それを見たすだけのために生きていたような人生を送っていました。

私は特別自分で本当にやりたいと思えることなど何一つもっていませんでした。でも特別にはなりたかった。誰もが認めるような特別な存在になりたかった。

「一目置かれたい」「誰かからのまなざしを一心に浴び、ずっと注目されていたい」…なんとも非現実的で向こう見ずな欲求を本気で実現できると考え、そのためだけに生きていたのです。

しかし結局のところは、私は単なる一人の人間にすぎず、自分の思う他者の評価でさえも、所詮は幻想でしかなかったのです。それについては別のいくつかの記事で言及しておりあますが、今回は自分の幼少期から現在に至るまでの記録と、それまでずっと引きずってきた自身の幼さについて書いてみたいと思います。



幼少期の頃から止まっていた”精神の成長”

子供の頃はというと、いつも親から叱られ毎日叱られない日はありませんでした。

私の親、特に母親は支配的で、些細な失敗でもヒステリックに「なんでそんなこともできないの!」「そんな簡単なことも出来ない子は私の子じゃありません!」「それくらい普通でしょ!ちゃんとしなさい!」と、少しでも私が行儀が悪かったり、姿勢が悪かったり、ちょっと汚い言葉遣いをしただけで、鬼のような剣幕でしかられ、母親の言う正しさに常に従うことがほぼ義務付けられていました。

少しでも反論したりすると「親に向かってなんて口だ!」「今度そんな口を利いたら家を追い出す!」「言うことを聞かないならごはん抜き!」などと私の意見をきくどころからねじ伏せるような教育を受け、私は親の機嫌を取ることに必死でした。

そういう環境の中で育ったわたしは、私はいつまでも「自分が悪いんだ」「こんなこともできないなんてなんてダメなんだ」「自分はバカなんだ」「自分は何もできないんだ」と自己否定を繰り返して母親を怒らせないように非常に気を使いました。

自分がしたいことなんて考える暇はありませんでしたし、そんな発想すらありませんでした。

たまに親から「やればできるじゃん」みたいにほめられたこともありましたが、うれしかったというよりもホッとしたと言った方が適切かもしれません。暴力こそほとんど振られませんでしたが、言葉による暴力は毎日のように受けていたような気がします。

その経験から、誰かに認められないと自分はダメなんだという風に考えるようになり、それは成長しても変っていくことはありませんでした。私の根本的な精神面のそれはその時点から成長することをやめてしまい、友人に対してさえ、常に親のような自分の存在を認めてくれる象を求めようとする心が残り続けました。

そしてその残った”幼さ”は学校生活、社会人生活にも影響を及ぼしていきました。



女性と上手く話せなかった学生時代

承認欲求が強かったので、もちろん女性からもてたいという願望も強くありました。前述のギターを引こうとした理由もこれが大きな理由です。しかしその反面、私は女性に対して相当に口下手で、女性を前にすると何を話していいのかがさっぱりわからなくなってしまうような人間でした。

前述の通り、私は同級生にも私のことを認めてくれることを要求していました。要求といっても口に出しているわけではなくて、心の中で私を認めてくれることを期待していたのです。

しかし現実は残酷でした。特に女性というのは集団で気に入らなかったり気持ちが悪いものを素直に「きもーい」と言ってくる傾向が強いですが、私の身の回りの女性もそうでした。

私は人目を意識して、ましてやモテたいがためにより一層悪く見られまいとしてかえって挙動がおかしくなってしまい、何を放したらいいかも全くわからず終始無言、その陰険で奇妙で何を考えているかわからない不気味さが、彼女達の畏怖すべき対象となってしまったのでした。それでもめでたいことに。私は彼女たちから賞賛のまなざしを欲しがっていたんですよね。それに対する後悔もあって、高校の頃は容姿だけはそこそこ整えてまともにできたものの、所詮は形だけで肝心の中身は昔のままでキョドったままでした。

その経験から、女性不振が一層強くなり、自分から女性に話しかけることはほとんどできなくなっていました。それがマシになったのは社会に出た時くらいです。それでもまだまだ抵抗は全然あって、本当は自分のことバカにしてるんじゃないか、とか、この人も影では自分の悪口をいっているんだ、と勝手に決めつけ、本当に心を許せそうな人意外の女性に対してはみな一様に距離を置くことが多かったです。

幼い精神のまま大人になってしまった

私は誰に対しても幼い子供の頃から繰り返し続けてきた、誰かにほめられることで関係性をもとうとする人間関係の構築を繰り返してきました。それが仇となって、対等な人間関係の構築に失敗、というか自分と他人が対等であるという意識すらなく常に自分が下で、相手に気に入られなければならないという強迫観念を伴っていました。

それはつまり相手の価値観や趣向性、考え方などに自信の行動の決定権を依存させていて、主体性なんてものはまったくないものでした。

本心では自分がそれをしたくなくても、相手がそれを望むならちっぽけなその承認欲求を満たすために身をささげていたのです。自分の素直な気持ちなど話せるはずもなく、言葉を慎重に選んで嫌われないようにと必死でした。

子供の心を残したまま大人になってしまい、自分のことを自分で決定することができず、ゆえにいくら何かを学んだり経験しても、その根底にある“親の承認”を必要としてしまう幼さが変ることはなく、何をするにも人前では自分の行動の正しさの根拠を誰かが賛同してくれているとか、認めてくれているとか、バカにしないだろうことを選んでいました。

喧嘩や言い争いでどちらが悪いという話になって、こちらに正当性のある根拠が十分にあっても、相手に嫌われることを想像して、自分が相手に好かれていたという”支え”が失われることを恐れて、自分が悪いことにしてしまうこともたくさんありました。

そうして気がつけば、齢二十歳を過ぎても、自分の哲学も主体性も、自分が本当にしたいことが何なのかが一切わからないような、幼い自分をそこに残したまま体だけが大人になっていたのでした。

精神の未熟 = 自己を確立できていない

人目を気にしたり、相手の言う事に逆らえなかったり、褒められただけで有頂天になったり、けなされたりするだけで深く傷ついたりもよくしていました。

それは、それだけ相手の言うことに左右され、自分を確立することができていない証でした。

誰かの賛同がなくても、誰かから否定されても自分の目的のために意見を通したり、最後まで自分を自分で信じ続けることが怖かったのです。

それはなぜなのかと言えば、他者からの承認という後ろ盾がいないからで、つまり親のような存在に常に見守られていないと、行動したり、安心したりすることができなかったのです。

私の鬱は完全に「甘え」だった!

もし精神が大人であったなら自分が本当にやりたいこととか、実現したいことをしっかりと持っていて、それについて説明ができるはずなんです。

私はそれを何一つもっていなかった。将来なにかしたいことはあるの?と聞かれても、「わからない」が私の回答だった。

ただなんとなくで自分の人生の道をきめて、「無難」なものを選んでいるだけだった。「これが自分がやりたいことだ」なんて口で言えたことはあっても、今にして思えば本当にそれがやりたいことではなかった。

そのやりたいことですら、誰かに認められることを意識してのことでしかなかった。

当時私が本当に、心からやりたかったのは家でゲームすること以外になかった。でもそれは誰にもほめられないから言わなかったし、言えなかった

私はそんな「自分がない人間」でした。



そしてうつ病になった

そんな自分を変えなきゃいけないと思うようになったのは21の頃にうつ病を発祥したことがそもそもの原因でした。当時ある職場の先輩と上手くいっておらず、ついにその先輩に嫌われ、さまざまな嫌がらせを受けるようになったのです。

私はとにかく嫌われたくありませんでした。嫌われないために色々と根回しをしようとしたり、とにかく毎日が必死でした。しかしその努力は報われず、会議では明らかにみなの前でその先輩によってのけ者扱いされ、仕事も意図的に回してもらえず、私は非常に肩の狭い環境の中、激しく体をこわばらせ、極度の緊張状態の中仕事をしておりました。当時の私にとって誰かに嫌われることは何より優先してそらしたい課題であったため、相当のストレスでした。

そしてそれも半年以上続き、ついに私の精神はそれにもちこたえらなくなり、ある日突然、パソコンで仕事をしている最中、キーボードを入力する指が止まってしまったのです。

当時は先輩もあまり社内におらず、比較的和やかな環境ではあったんですが、極度の緊張状態の中でずっと仕事をするうち、それが癖になってしまったのか、家に帰ってもずっと緊張している状態が続き、毎日猛烈に疲弊し、ストレスで体重は10kgも増え、顔からは完全に生気が抜けていました。

そしてその日を境に一切の仕事ができなくなってしまい、休職を余儀なくされ、それでも治ることがなく会社を自主退職という形でやめることになりました。

それからの約7年間はまさに地獄。毎日が激しい頭痛、けだるさ、極度の緊張と背中の激しい痛みにさいなまれ、もはや生きているのかどうかすらわからない極限の状態の中暮らしていました。それでも休職するなかで多少の回復はあり、かつ一人暮らしであったため仕事をしないわけにもいかず、親にはその時点で怨みしかなかったため頼りたくもないと拒否し、その症状を引きづりながら必死に仕事をする毎日でした。

アドラー心理学との出会い

でもこの状態のまま生きていくのは難しいかもしれない…「それほど遠くない未来に自分死ぬんだろうな」。おぼろげな思考の中そう考え、ついには自殺しようと部屋のベランダから身を乗り出そうしましたが、死ぬのも高いところもあまりにコワすぎてそれは断念しました。

もちろんこの期間、うつ病を直すにはどうすればいいのかについて色々調べましたし、病院にも言ってお薬も一時期もらっていました。しかしそれもどれも効果はなく、お薬はかえって自分の頭が余計回らなくなるなど逆効果でした。

打つ手なしの絶望感にさいなまれ、もう後がなかった自分でしたが、しかしそんな時ついに「嫌われる勇気」という本に出会います。その本に書かれていたことを読んだときは、今でも思い出せるくらいに強烈に記憶にのこっています。今まで自分が感じてきた生きづらさ、そしてうつ病になり、絶望のどん底に今いる自分を、こうも的確に、的を得た説明で解説してくれたのです。

私が承認欲求の虜になっているということに気づいたのも、その本をよんだおかげでした。

自分がこれまでごまかしてきた人間としての弱さに向き合う機会をあの本は私に与えてくれたのです。それから私はその本をベースに、人に嫌われることを気にすることがどんなに意味がなく、自己中心的発想で、なんら生産的でないことであったことをかみしめながら、自分を変えるためにあらゆる自己分析をし、それをブログにも書きながら日々自分を変える毎日を送りました。

一人の大人として生きていく

そうして私は承認欲求が自らの幼さ、アダルトチルドレンの気質からきているということに気づき、「自分のことは自分で決める」「自分で自分の正しいことをきめる」、とにかく自分という存在が自分を創っている。自分の人生は自分で生きなければ私は自由になれない。そう信じ、それを達成するためには自分のどこを治していけばいいのかを日々考え実行し、生きてきた結果が今になります。

背中の痛みや欝の症状も治り、今では健康的に暮らしています。今の私は例え誰かに認められなくても、それが自分にとって正しいことなのであれば曲げない、他者の正しさとは他者の正しさでしかなく、それに従う必要はない、全ては自分のしたいこと、すべきことだと思うことだけで完結するのだと。自己実現のために行動することこそ、自分の人生を生きる、自由を生きるということをしりました。

自分のケツは自分でふく、ということがどういうことなのかを知り、自分の思う「大人」に生まれ変わることができたのです。

大人として生きていくことできるようになってようやく、頑固な油汚れのようにしつこくつきまとっていた承認欲求から解放されました。そしてもう誰かの承認に頼らずとも、自分で自分の答えをだし、かつ自分のやりたいことも見つかって、今はそれに向かってひたすら突き進むことができるようになりました。よって、承認欲求から解放されること = 大人になるということが私の出した結論です。

誰かの後ろ盾も、加護もいらない。大人として生きていくということは、承認欲求の存在、つまり架空の親のような存在を自身の脳内から排除し、一種の孤独になることでもあります。

自分しか自分を認められない。自分しか自分を正しいと言えない。誰の承認も必要としない孤独の状態で自分という存在だけで他者と対等にぶつかり、関係を築き上げていくことで、大人になった後の経験が蓄積され、

より成熟した大人へと成長していくのだと思います。

そして私は私にできることを考えて、誰かに貢献できたらなと今は考えて行動しています。当時の幼い精神だった私からすれば、まるで想像もできないことをしているわけです

当時の私はふてくされてもいて、何か都合の悪いことが起こるとその原因や責任を外に求めていました。親が悪い、社会が悪い、上司のせいで自分はこうなったんだ。しかし嫌われたくはなかったのでそれを表に出すことはありませんでした。ただ内心に真っ黒の恨みだけを抱えて、目は据わって犯罪者のような顔つきでした。今にして思えば、相当にいやしい精神の持ち主でした。

今の私は確かな自身と自分という存在を武器に、日々を送っています。他者の正義に屈してはいけない。私と人は常に対等である。その意識を忘れず自分の人生を生きています。

哲学:「愛されたい」は「愛」ではなく、「承認欲求」である

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より踏み込んだアドラーの実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学です。

それは人の解釈という、実際には他者と全く共有できていないものの問題だからで、最終的には自分が気づく必要があるからです。

当サイトでは管理人のElepanがアドラー心理学を元により深く、より根本的な思い込みの解消、哲学を実践実施した結果、その考察と気づきをまとめております。

孤独 認知論
私の「甘え」うつ病治療


私のうつ病の主原因は「甘え」だった。甘美に感じられた「甘え」が私を苦しめていました。

そんな私が自分の甘えから脱し、

精神の安定、自由をつかむためにやったことをまとめています。


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承認欲求を捨てよう


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「人は生まれた頃から死ぬ時まで孤独である」

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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

MBTI : ENTP

5 件のコメント

  • あなたが 誰かの役に立つようにと発信している情報も、誰かにとっては ただの[承認欲求]で[幼稚]と受けとめられているかもしれませんね。

    思い込みや、観測地点によって解釈が変わるものですね。

    これからのご活躍ご健康も願っております。

    • おっしゃる通りだと思います。思い込みや、観測地点によって解釈が変わるという点については。

      人が何をどう解釈するのはその当人の解釈や、目的に依存するからです。

      なので、ある誰かが私の記事を内容を”ネガティブ”に解釈したり、”ポジティブ”に解釈したり、解釈の形は人の数だけあるのだと思います。

      そしてそれは、読み手の方がそのように読もうとする目的や都合がそうさせるのだと思います。

      なので、「この記事は著者の承認欲求を満たすために書かれたものだ」という解釈もあるでしょう。

      より直接的に言えばその読み手の方にそのように解釈したい目的があるからそのように読めるのだと思います。人は他者を自分の鏡のように使っていて、自分がある他者の内面を理解しているかのように見えても、実際には他者に映る自分自身を見ているだけにすぎないのです。

      なので、正直私はあるがままよさんの指摘に面食らいました。そんな風に書いているつもりは私にはありませんでしたので…

      また、「誰かのためになる」というのも、実はかなり曖昧です。個人の視点から見た「誰かの役に立つこと」とは、より正確に言えば、「もし自分がある他者の立場だったらこういうことが役に立つだろう」ということであって、結局は自分の役に立つことでしかありません。

      悪魔でその他者は仮想であり、その正体は主観、自分でしかなく、実際に相手の立場に立てる人というのはいないと思います。

      この記事の読み手の話にもどりますと、私を含め人によって記事をどう読むのか、何のために読むのかはそれぞれでしょうから、私自身を除いてそれぞれ読んだ方にとって具体的にどう役に立つのかもわからない。

      私の想定した目的に近い形でお読みになるかもしれないし、全く違う解釈をされて、(例えば何らかの攻撃性があるように解釈した等)却って気分を害したり、不利益になってしまうかもしれない。

      しかしやはりそこは、読み手の方である他者の都合なので、その方々がどう読もうとするか、どう考えるのかはそれぞれの課題であって、私にそれをどうこうすることはできない。

      と、こう私は考えております。

      つまり短くまとめますと、あるがままよさんのおっしゃる「誰かにとっては ただの[承認欲求]で[幼稚]」がどうだろうと、それは私の課題ではないということです。あえていうならそれはあるがままよさんの指摘する誰かにとっての課題でしょう。或いはあるがままよさんご自身の課題かもしれません。

      ところでもし差し支えなければ、もう少し具体的にありのままさんご自身のお考えをこちらに書いていただくことは可能でしょうか?

      特に「誰かにとっては ただの[承認欲求]で[幼稚]と受けとめられているかもしれませんね。」が何故そう思われるのか、どこから来たのかについて、より詳しくお聞かせいただければと思うのですが…どうでしょうか?私はあるがままさんの頭の中を覗くことができないので全くわからないのです。

      ぜひご教示頂けないかと…

  • 大丈夫ですよ。
    多分そんな深い意味で、なんとなくコメントしてるだけだと思いますから。笑
    あなたは良く考えているし、いい記事だと思いますよ。読んだ人の1%でも、為になったら、それでいいんじゃないですか。
    別に承認欲求があることが悪いこと自体は悪いことじゃないですから。その強さの問題でしょう。
    人に迷惑かけたり、不快にさせたり、自分を必要以上に孤独にさせるレベルの承認欲求なら問題ってことだと思いますよ。
    ですからあなたの記事ややっていることは、それに当てはまっていないし、正常範囲の欲求、ということだと個人的には思ってますよ。
    そのまま突っ走ってください。

  • 若い時間をそうやって過ごしたのは、その時の心身の苦しみも、多分その後の後悔も、本当に辛かったでしょう。
    同じような人生を歩んできた者として、お察しします。(途中まで自分の話かと思ったくらいです。文章できれいに表現されたものを見ると、他人事ながら少し救われたような気持ちになりました。)
    あなたの「ガンコな油汚れのように付きまとってたもの」が落ちて、本当に良かった。おめでとうございます。
    これから健やかな毎日が続くことをお祈りします。

  • 私は17歳の時に初めて『嫌われる勇気』を読み、あなたと同じように衝撃を受けました。そして承認欲求を求めることの無意味さを頭では理解したつもりでしたが、今までの生き方をそんなに簡単には変えることができず、19歳で鬱になりました。その時思ったのは、承認欲求を求めるべきではないということを頭で理解できても、実際に行動することはかなり難しいということです。しかしもう一度本気で自分を変えようと思い、『嫌われる勇気』の内容を一つ一つクリアしている最中でこの記事と出会いました。あなたの記事で私は勇気づけられました。ありがとうございます。私も頑張ります。

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