「日本の政治家は頼りにならない」
そう言われ続けて数十年になります。その大きな要因は圧倒的なリーダーシップ不足にあるのだと私は思うのですが、なぜそうなのかと言えば
それは単に政治家が悪いとか無能であるとかという話というよりも、もっと根本的な「日本人の思想」という階層まで潜って考えなければならないと思います。
己の無知に気づかない者が権力をもつこと。
最初の民主主義が起こった古代ギリシャに発生した衆愚政治

民主主義の原点である”民主制”ができた古代ギリシャ、アテネでは言論、知識が大きな力をもっていて、言葉で民衆を動かすことが当たり前の時代でした。
論理によって相手をねじ伏せ、知恵によって政治的権力を勝ち取ることが当たり前の政治形態であったため、そのためにもっとも手っ取り早い手段として、人々を焚きつけたりその気にさせるような話術や説法などを習うことが必要とされ、それを習うために徳を教えるソフィストという職業に需要がありました。(元々の民主制は評議会という得を詰んだ人達による慎重な会議の元に政治が決定され、うまくいっていたようですが、ペロポネソス戦争が始まってからその性質は変わっていったようです。)
つまりそういった論法失くしてはアテネでは成功することはできない時代でした。裕福な家庭の生まれの人達は皆こぞって彼らに大金を払い、その教えを請うたそうです。
しかしそうやって得られた知識は、物事の真実を見極めようとする知への愛や徳を積むことを目的とするものからではなく、民主制というシステムに対する一種のハッキングをするための行為のために取得され、
自分の成功のことしか眼中にない人々の自己中極まりない発想の元に、彼らはシステムを悪用して利益をえるためにソフィストを利用しました。ソフィストとは人に徳や説法について教えることを生業としている人のことを指します。
そうやって結果として彼らが身に着けたのは本来の徳などではなく、付け焼刃程度の薄っぺらい詭弁や民衆を扇動するための方法論でしかありませんでした。
やがてそのようなうすっぺらな知識を身に着けただけの権力者や市民がその大半をしめるようになると、人間の幸福や物事の本質を理解していない人々が政治を担うこととなり、
哲学、得を持たない張りぼてだらけの論法だけが飛び交う愚行、愚かな政策が当たり前のように打ち出され、やがてアテネは滅びの道をたどるのでした。
まるで今の日本の縮図のようなことを古代ギリシャではやっていた時期があったわけです。今滅んでいないことだけは大きく違いますが。
この時代に生きていたソクラテスはそうした人々のそれを間違っているとし、多くの”知識人”達を訪ねながらその歪んだ思想を論破して回ることをしていました。
彼は無知の知を提唱し、知を愛し徳(アレテー)を積むことが人間としての大事なことであると説いた人です。

しかしそれが自分たちを”知ある者”だと信じてやまない権力者たちの歪んだプライドを傷つけることとなり、愚かな彼らはソクラテスに死刑を言い渡しました。
民主制であったため彼の死刑は市民たちの投票によって決められることになりましたが、やはり民衆たちも同じく愚かであったためその大半が彼の死刑に賛成と票してしまったのです。
「あいつムカつくから死刑!」直接民主制が最悪の形で出た瞬間です。
ソクラテスは別段何も悪いことをしたわけでも、アテネの不利益になることをしたわけでもないのに(むしろ人が幸福に生きるための方法を説くような有益なことをしていたのに)死刑となり、やがて彼を無実の罪で死刑にしてしまったことに彼らも負い目を感じたのか、彼は哲学者の祖的存在として語り継がれることになりました。
とまぁこのように、愚かな民衆によって民主主義が行われると、様々な愚行や政策を何の疑いなく行ってしまいがちであるということです。かわいそうなソクラテス。
でもソクラテスはそんな逆境的状況の中で最後まで自分を通すことのできる強さをもつ人として非常に尊敬できる人ですね。
日本の付け焼刃にすぎない民主主義政治

古代ギリシアがハマった衆愚政治の渦中にいた市民達のように、日本人の大半は民主主義の本質をおそらく理解していないと思います。しかしそれも無理はないと思うのです。
民主主義の本質は一人一人が政治的決定に参加できるという権利をもっていることにあるとおもいます。
つまりそれは一人の王や権力者など、特定の人ないしは集団だけで政治が決定されるのではなくて、
一人一人が平等な権利の元に自分の答えを持ち寄りながら意見ぶつけ合い、よりよい政治方針、政策を決めていくことで、国を作り上げていこうという思想であって、
そうすることで民主主義はその時代に欲しいとされているニーズや抱えている問題を素早くくみ取り効率よく吸収して問題解決していくことで機能していくものだと思います。
つまり民主主義には国民一人一人に考える力、自分のことや自身が考えている問題などについて淀みなく理解しているための哲学を有していることが必要であるということを意味していて、逆に一人一人が愚かであれば立ちどころに衆愚政治となることを意味してもいます。
平たく言えば国民一人一人が賢くあろうとして、政治的関心を示していることが前提にないと、民主主義は正しく機能しなくなってしまうわけです。
自分で考えて自分の答えを出したがらない国民性

長らく民主主義の歴史がなかった日本
日本人は大昔から民主制とは程遠い封建的な政治体系を築いてきました。小難しいことを考えたり答えを出すことに関しては権威ある上の者達にまかせ、それに身を寄せながらせっせといわれるがままに働き、暇があれば娯楽に日々を費やしているだけでよかったのです。
しかし近代において唐突に日本は民主主義を取り入れました。
これの意味するところは、今まで上が考えていた小難しい問題について考えもしなかった国民たちに、突然何の教育も施されもしないままに上の人間達が考えていたことについて考えさせられたことを意味します。
日本の民主主義は上辺をマネしているだけ
西洋には古代ギリシャから継承された西洋哲学があったので、西洋諸国が民主主義を取り入れることについてはさほど苦労はなかったのではないかと思います。
彼らの生み出した学問や宗教には西洋哲学が根本にあるものもありますし、それは人々の日常の意識や言語体系にまでも広がると思います。
英語もその一つで日本語に比べれば非常に論理的な言語です。日本語のような阿吽の呼吸と言われる、言わなくても伝わる文化はなくて、できる限り自分の考えを正確に伝えようとする目的をもっていた背景があるからこそ、正確な情報を伝えるために論理性を獲得する必要があったのだとも思います。
そうする必要があったのは人と人は違うからせめて会話をしてお互いの考えを少しでも知ろうとしたり、自分の考えを相手に知ってもらおうとしたからでしょうし、そういった各個人間で異なる様々な考え方や価値観をもつことが普通とされる世の中が、民主主義の土台にあるのだと思います。
さて、そんな西洋哲学的思想とは程遠い思想で生きてきた日本人がいきなり民主主義だと言われても、当然正しく運用できるはずもなかった。
日本人には民主制を実行するための基礎をまるで築いてこなかったのだから当然です。
今日本人が民主主義と呼んでいるそれは、しょせんは上辺だけのもので、その本質は全く別物です。
人はゼロから何かを知ったり作ることはできません。いきなり縁もゆかりもない国で起こった西洋哲学を元とする民主主義をやれなどと言われてもその勝手がわからないままに押し付けられたところで、それが有益に機能するとは言い難いでしょう。
原始時代の人間に何の説明もしないままにパソコンを渡してプログラムを書けといっているようなものです。
もし民主主義を有益かつ効率的に実施するのなら、もっと根幹から日本人の思想を再教育する必要があると思います。
そしてそれには個人が哲学的探求を行うことが重要な要素となってくるのだと思います。
自分の幸せの本質、人の幸せの本質、己の人生の意味について問答を繰り返し、生きる目的を自分で見出していく思想がないと、民主主義なんてできないと思います。
今の日本は既存権力やブランド力のある権威ある誰かが考えた幸せの形に、自分がどれだけ沿っているかどうかばかり気にしていて、その本質は封建的で、社会主義的です。
自由とは程遠い価値観であり、民主主義の皮をかぶった社会主義でしかありません。
歪んだ民主主義を受け入れている日本国民
しかしこれを日本国民たちは”民主主義”というどこか歯切れのいい響きと、それに付与されている”自由”というその言葉の華やかさからなんとも都合よく受け取って、
まるで自分たちにとってどんな望みもかなうような夢の思想を思い描き、誤った民主主義を受け入れることになってそれは現在にも至っているのだと思うのです。
大体日本人はよく考えもせず、表面的な印象だけでなんでもかんでも取り入れようとする癖があります。
キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うことは既に言われつくされてますからご存知でしょうが、クリスマスがどのような日なのかを体系的に説明できたり理解できている人はほとんどいなかったりします。深く考えるひつようのない華やかな装飾や見た目でわかりやすく、なんとなく良さそうならなんでもいいみたいな国民性。
そうなってしまうのはやはり、個人の哲学的思想に欠けているからだと思うのです。
自分という存在がはっきりしないからなんでも受け入れてしまうし、”ノリ”が重視されている国民性なのもそういったミーハー気質が影響しているのだと思います。
民主主義は都合のいいユートピアではありません。単なる政治体系、思想の一つであり、国民の幸せや国家が豊で強くあるための手段の一つにすぎず、民主主義、自由であることがそのまま個人の幸福に直結するわけではない。
むしろこの政治体系においては一人一人が自分で考えることを実行する素養を持ち合わせていなくてはならず、これができない人達は政治決定機会から爪弾きにされてしまう側面もあるくらいです。仮にこれを国民全員が持ち合わせていなかったとしたら目も当てられません。
一人一人が哲学し、自己を確立しない限り本当の民主主義は実行できない

日本人はその大半が、自分が無知なる存在であることに気づいていないと思います。
より正確に言えば、自分が無知なる存在であることに気づこうとしている人はほとんどいない。
むしろ自分は全能であるかのように振る舞おうとする人の方がはるかに多いでしょう。“意識高い系”なんて言われる人はその典型例。
自分がさもすごい人間であるかのように振る舞い、かつそれを他者にも認めてもらおうとする。そんな歪んだ偶像に従って生きようとしてその本質は一人よがりであり愚かそのもの。
そんな人が権力まで握ったら目も当てられない。裸の王様と相違なくて、様々な愚行が実行され誰の役にも立たない何かが作られていくだけでしょう。
馴れ合い主義、他人事思考
日本人は古来から、己の哲学を磨くという経験をほとんどしませんし、する必要がありませんでした。
なぜなら古来より続けられてきた日本人の思想の本質は馴れ合いであり、同調圧力、村社会と言われるように、
ある一つのステレオタイプ的な価値観に全員が染まることを良しとしてきたからです。これは独り自分の世界を探究、解釈し自分の人生の道を導き出す哲学の世界とは相対するものです。
自分の問題を社会のせいだと嘆き、その問題を作り出している自分の思考の歪みを疑おうともしないし、それを正そうともしない。自分を変えようだなんて思う人はほとんどいません。
変わるべきは常に自分の周り、環境であって、自分が何もしなくても周りが自分の都合のいいようになってくれることを望んでいる人すらいます。
洗脳されやすい国民性

そしてこういう性質は、権力者から見ると非常に操りやすいわけです。流行っているというだけで簡単になびくし、みんながやっているというだけで自分の大事だったものすらすぐに投げ出してしまう。
民主主義という個々の自由を認められているはずの社会形態であるにもかかわらず、そこで実際に行われているのは非常に限定された、企業や権力ある組織が打ち出した形に添ってしか行われていない。
日本の新卒の就活活動なんかを見ると、毎回その異様さを感じ取ることができてしまう。
まるでそれをすることがさも当然のことであるかのように皆疑いなくそうしているように見える。
あれだけ一様に同じ姿で決まりきった人格に己を染め上げて企業面談に臨む没個性的な彼らを見ているとこの国はやはり社会主義的であるということを意識せざるをえません。
国民はそうやって無意識的に自らの手で自分の自由意志を捨て去って、ありのものの価値観の基準に自らを染め上げようとし、それに縋り続けているのが現代社会の姿で、そこに真の自由意志は存在してなどいないでしょう。
表向きは民主主義を名乗っている日本ですが、その実態はやはり社会主義で昔からの封建的社会の本質からほとんど変わっていない。
変わったのは国の制度である”側”だけで、その中身である国民の意識はほとんど変わっていません。
むしろ民主主義、資本主義になってからは昔に比べて、上の人間が下の人間達を思想レベルで操っている構図であることが垣間見える今の日本は昔よりもむしろ“不健康”ですらある。
思うに現代の日本人はその積み上げてきたその価値観や文化的背景から、民主制というすこぶる相性の悪い生き方をどこかの国から押し付けられて生きているに過ぎないのかもしれません。まぁ、どこかの国っていうのはアメリカのことなんですが。
経済社会を太らせるために”個人”が犠牲になる社会的思想

未婚率を問題視したり労働人口が減少することをさも”悪”そのものだとメディアは伝えたりする。でもそれは経済のためであって個人の幸福のための報道ではない。
日本の経済は”個人の自由意志の犠牲”の元に成り立っている側面が強く、個人の自由意志や哲学を削ぎ落としてあちらが提示する画一的な方向へといろんな人達が扇動しようとしているきらいがある。
例えばメディアは未婚者に結婚しないことに対するデメリットをあらゆる方法を使って吹き込もうとするし、未婚者に不利な社会的空気を作ることに必死になっている。
ニートなどを社会的弱者だと定義して叩くだけ叩き、彼らの本質的な問題とその解決方法について考える姿勢などみじんも見せず、自分たちの価値観にそぐわないものに対しては異常に冷たく、完全に蚊帳の外扱いにしている。
そしてそういう価値観を多くの日本人が共有してしまっている。やれ勝ち組だの負け組だのと、人間を2極化して、片方は捨てていい存在だとする歪んだ利己主義、拝金主義が蔓延している。
経済社会の奴隷
彼らにとっては個人ごとの幸福の実現など眼中になく、現行の価値にそぐわないいわゆう”おちこぼれ”に対しては、全ては自己責任の一言で片づけられ、自分だけがブクブク太ることだけしか頭にない。
経済社会がうまくまわっているかどうかしか考えていない。自分がお金持ちになれるかどうかだけが人生のすべてのように考える人がこの国にはたくさんいるのではないか。
彼らは現行社会の経済社会における奴隷であり、金という道具に使われてしまっているもっとも信頼できない存在だと個人的には思っています。
そしてそんな人々が作り上げた価値観にただ屈して、自分をだまして生きていくことがどれだけ愚かなことであるかという事だと考えています。
経済の動向に作用され、それによって自分の主張を変えてくるのだから、こんなものに翻弄されていたら人生がいくつあっても足りやしない。
そしてそれを真に受ける国民性もその最もたるもの。自らに哲学があればたとえそのような歪んだ情報たちに翻弄されることもなく、自分の人生に没頭することができるのにそれができない。
他人の幸福や人生をマネしようとし、それを欲しがるばかりで、それは社会不安や劣等感を生み出す温床にもなっていると思います。思想というのはそれほどに、それこそ国というレベルであればその影響力は計り知れないものです。
エセ民主主義を続けるのか、真の民主主義を目指すのか

このまま歪んだ民主主義を続けるのか、それとも真の民主主義に向かって歩き始めるのか。それは今を生きる現代人一人一人の双肩にかかっているのだと思います。
既存の普通とされてきた概念に抗い、見事それを打ち破って自分の道を知ることができれば、自分だけの新しい世界が見えてくることでしょう。
そのためにも自分を知るために、そして世界を知るために、哲学的思考を身に着けることは人という一人の生き物にとって、非常に重要な”仕事”なのです。
正直なところ義務教育などという洗脳教育に9年もついやすなら、今の義務教育を6年で終わらせ、3年を哲学に充てた方がよっぽど人の幸福のためになるし、それはひいて国のためになるのではないでしょうか
人目を気にして生きるよりも、自分を信じ続ける方が個人の人生においてずっと大事であることを知るだけでも、哲学をすることは価値ある事だと思います。哲学は誰でもできる門出の広い考え方ですから、是非トライして頂くことをおすすめします。
売り上げランキング: 2,589
日本は政治制度からしてエセ民主主義だから
中産階級が選挙で勝って国政に進出する事が出来ない
国政どころか地方の首長になる事すらハード
供託金と選挙法を改正するか国民が一様に賢くなるかしないと無理だから詰んでるかなぁ
供託金というシステムの存在すら知らない人がほとんどだからね・・・大半は民主主義の本質を理解していないというのはその通りだと思う
原始人にプログラミングの例えは言い得て妙で面白い
供託金や選挙周りもそうだけど、請願も整備されてないしな、インターネット請願の導入どころか、請願には議員の紹介がいるとかいう民主制とはとうてい思えないシステムやね。国政進出の参入障壁+一般人の請願無理&無視+24時間ニュースメディアなし+文化的にデモ無理とか数えてもきりないね。