不幸な人はなぜ不幸なのか、”日本人という宗教観”から考察する





突然ですが、宗教とはなんでしょう?

宗教という言葉がさす表面的な意味については既にご存知である方も多いと思います。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教など他にも様々な宗教がありますね。

しかし宗教の本質的なものは、このような形ある宗教というよりも、もっと根源的な人間の基本的な機能である「認識」「価値観」「道徳観」など、人が思考するという根本的部分から既に存在しているものです。

その理由は、人は今こうして生きている瞬間にも、何が正しくて、何が間違っているのか、何が好きで、何が嫌いなのか、考えや価値を“定義”していることにあります。

その定義こそがまさに宗教の本質であり、キリスト教などの”形ある宗教”にも戒律や教えなどを使って同じく「正しいこと」「間違っている」ことを“定義”しています。

人はこの世に生まれ自我をもった瞬間から既に宗教的思考をもった生物なのです。

“宗教的思考をもつ人間の本質

形ある宗教もない宗教も、違うのは信仰の対象である偶像が”神”か”それ以外”かの違いだけ

形ある宗教、つまりキリスト教などの宗教は、抽象的な宗教の本質を多くの人間にとってわかりやすく具体化したものにすぎません。

その多くは大抵神を信仰の対象としていますが、別に神を信じていなくとも人は何かを考えたり、正しさや間違いを求めたり、好き嫌いを定義することができ、そうしている時点でその特定の何かを崇拝していることになります。

形ある宗教との明確な違いは、神という対象を信仰しているかどうかというだけであって、何かを正しいことだとか、間違っていることだと信仰しているという意味ではどちらも同じですし、信仰する対象が神ではないだけです。

具体的な例を私の事例で説明致しますと、私自身は特に何の宗教もやっていませんが、最近はMBTIなどを使って自己理解や他者理解などに努めています。

それはMBTIという概念を肯定的に見ているわけで、自己理解、他者理解に対して何らかの価値を感じているわけですから、

私はMBTIや自己理解、他者理解することを”信仰”しているということになります。

人間は本質的に宗教的思考をもつ生物であり、人間として生きている時点でこの制限から逃れることはできません。

仮にこれらの思考を取り去ってしまうと人間には「ただ何も考えず、虚無だけを感じるように生きる」ことしか残らないでしょう。

何も考えず、まるでスリープ状態のPCのようにCPUだけが回転しているような、ただ一点だけを見据えているだけ何の思考もない状態で生きることなど、それは到底不可能な話です。

哲学:素朴実在論から見た人の本質

日本人の”宗教観”

典型的な日本人の宗教観を考えると、「正しさ」や「間違い」といった定義がどこにあるのかといえば、

それは自分自身の論理や合理から来るのではなく、自身の外にある”常識”、”普通”、”社会規範”などから決めているところがあります。

日本人の多くは無神論者と言われていますが前述にも書いている通り、人は宗教的生物であるため、神を信じていないからといって宗教的概念を持たないという事ではありません。

さてそれらをふまえて日本人の”宗教観”について考えてみると、日本人は常識や社会規範という全体主義的なものを絶対的なものだと信仰していて、それらから外れることを非常に恐れていたり、

またはそれに強く拘りを見せそれを他人にも強要する社会を良しとする、いわば”普通”や”常識”を”神”とする、カルト的な宗教観を持っているということがわかってきます。



カルトの”危険なところ”

カルトのやっかいなところは、それを絶対的なものであると考えてしまうあまりに、物事に対する他の見方ができなくなってしまい、“盲目になる”ことにあります。

それはそれを利用した誰かの思惑に簡単に洗脳されてしまう側面をもっていて、かつ本人はそれに無自覚なところにあります。

知らず知らずのうちに洗脳されており、気が付けばそれ以外の思考を制限されてしまうわけで、もしその宗教観の中で幸せになれなければ、一生不幸であり続けなければなりません。

なぜなら本人はそれを”絶対的である”と信じ切っているわけですから、それを異常であると認識したり別の価値観を使って物事を考えたりすることはできないからです。

特に日本はその定義を外部にある(と思い込んでいる)“常識”などに頼っているので個々が思う正しさや間違いを定義する力に欠けており、一層その強さを増します。

こうした全体主義的でカルト的な思想で自身を染め上げてしまっている多くの日本人にとって、その思想に添わないということは自身の否定となってしまい、実際にそうなってしまうと自身には価値がないという結論に陥りやすく、

例えば「女性は化粧をするものである」概念が“普通”として語られれば、その言葉を鵜呑みにして、本当はしたくもないと本人が感じていたとしても、それが”普通”だからと化粧を自身に義務付けたり、

男性もそれを”普通”であると考えて、化粧しない女性を否定的に見ようとするようになります。

また、そうした日本人の性質をよく知っている人間の思惑に、簡単に操られることにもなります。最近だと未婚者を焦らせるような広告なんかがよく見ますが、あれに惑わされているなら、そういった価値観に洗脳され、操られている証拠です。

普通でないことを恐れるのも、それは普通であることを絶対視しているということを意味していて、人の目に映った自分がその普通な人から外れた、“変な人”と映ることを恐れていることを意味します。

そして実際に誰かに変な人だとみなされると、たちまちに現在の自分を否定したり、なんとかその変の状態から抜け出そうと今までの自分がしていたことを投げ出して、その普通に染まろうとしてしまいます。

それは誰かに”変”であると見られる自分を”絶対悪”だとみなしていることを意味しています。

人前で自分の意見を主張する人をいぶかったりするのも、「”和”を乱してはならない」とする外部に存在するであろう常識や価値観を意識して、それを絶対視していることが根底にあるからですし、

そうした形式的なルールに従うことを好む思考は、論理的に物事を考え、追及することを毛嫌いしたりします。

多角的な視点を失いやすく、自分のアイデンティティを自分で開発することもしないので、自分で何かを決定する力も弱くなり、

外部にある常識や普通という基準に達しない自分がそこにいれば、人生をずっと不幸の中で過ごすことになってしまうわけです。

このように日本は封建的で、多様性が生まれにくい全体主義的なカルト的思想であるため、

一度それを真実だと思い込んでしまうとそれ以外の考え方ができず、「勝ち組」と「負け組」などとプラスとマイナスという二極化する思想が生まれ、敗者になった人々は一生その苦痛を味わいながら人生を生きることになります。



日本人の孤独を恐れる理由

“常識”に従って生きるという事は、だれかの承認に沿って生きるという事とも言えます。

“常識”とは自分の外にあるであろうと“信じられている”概念であり、その概念は他者に共有されていると考えられているものです。

つまり”常識”に従うということは、他者の思惑に従うということになるため、他者の思惑の元で生きることを絶対視しているわけです。

常識に沿って生きるという事は、己を肯定するために常識を必要としているということでもあり、

それは他者の思惑を自己を肯定するために”必要としてしまっている”ことを意味しています。

孤独はその他者の思惑の元で生きることから離れることですから、それは多くの日本人の価値観にとって、自身を正しいと肯定することができる後ろ盾する概念を失う事を意味しており、

まるで自分が間違ったことをやらかした異教徒にでもなることのように、非常に恐ろしいこととして定義されているわけです。

またそういう意識から、他の常識に従って生きる仲間たちから後ろ指をさされて生きることに不安を覚え、ますます恐ろしいこととして避けようとします。

価値観の再構築によって日本のカルト的思想から抜け出す

冒頭にもお話した通り、人間は宗教的生き物です。人が信じている概念や価値観は自分と同じ人間によって作り出されたものであり絶対的なものではなく、本人が望むならその信仰対象を変えることができます。

しかし一度構築した自身の信仰を根底から変えていくというのは非常に骨が折れる作業で、自分が今まで生きてきた中で考えてきた数々の思い込みを、”思い込みであると自分で自覚”した上で修正する必要がでてきます。

「自分が今まで絶対視してきた何かというのは絶対的なものではなかった」

「所詮は人が勝手に作ったルールにすぎなかった」

という事に自分で気づく必要があります。

この気づきは人に教えられて気づくものではないと、個人的には考えています。

自分で考え、自分の中で組み立てた論理の中から導き出された答えによってそうではなかったということに気づく必要があるということです。

思い込みに対する”気づき”を得るには

自分で気づくことが基本ですが、1つ基本的なやり方について私がご紹介できることを説明したいと思います。

それには、一度今まで自分が信じてきた外にあると思っていた価値観、常識などの存在に対して、一度疑問をもつ必要があります。

自分が「当たり前だ」、「常識だ」と考えてきたことに対して、それは本当にそうなのか、真実なのか。当たり前なのかについて考えていくのです。

例題:なぜ人目を気にしてしまうのか

例えば人目を気にすることについて、「人目を気にすることは本当に意味があるのか」について疑問を投げかけます。

「なぜ自分は人目を気にしているのだろう」。それについて考えていくと、やがてそこに間違いや矛盾が見つかることがあります。

シミュレートしてみましょう。まず自分が人目を気にしていたのは、人目を気にすることで他者に肯定的にみられていたのかについてその真意を確かめようとしていたからだと考えられます。つまり承認欲求を満たすためであると。

それをどう判断しているのかと言えば、相手の表情や言動、仕草を観察して読み取りそれを根拠としていたからで、

ではその”根拠”が真実であるという証拠、100%真実だと肯定できる検証材料があるのかと言えば人の頭の中を自分は覗く手段などどこにもないため、それがわかることはなく、そんなものは存在しないということに結論にたどりつきます。

では自分が読み取っていると思っていた相手の思考は何だったのかと言えば、例えそれがどんなに説得力を伴ってそう見えていたにしても、結局は「自分にとってそう見えているだけ」にすぎず、全て自身の頭の中で行っていた推測の域をでないということ、

ではその推測だって相手の内面について考えて推測しているはずなのに、その分からない相手の頭の中をどうやって推測できていたのか、それについても考えてみると

その推測元ですらも実際には相手の内面ではなく、相手の内面を自分の頭の中で想像、推測していたにすぎない、単なる自分の妄想にすぎないという事実に気づき、

「人目を気にしたところで実際に相手が自分に対して思っていることを理解することはできない」、という解が得られるわけです。

となると、今まで自分が人目を気にすることで満たそうとしていた承認欲求の元は単なる自身の妄想であったということになるわけで、

承認欲求そのものが、自身の妄想を担保にしたものでしかなかったという事に気づくわけです。

自分が信じていた真実だと思っていたことは真実ではなく、ただの妄想であった、ということに気づくと、ではそれは自分が信じるに値する信仰の対象であったのか、「人目を気にすることは自分にとって価値があることだったのか」について再考することができるわけです。

このように、今まで自分がしてきたたくさんの思い込みについて思考、分析し、それが本当に真実であったかどうかを見極めることにより、

自身が定義する正しさや間違いを訂正していくことで、カルト的価値観から脱出していくことができるということです。



哲学がそれを助ける

先程説明した内容は、「哲学的な思考」としても説明できます。哲学とは、自分がそれを揺るぎない真実や価値観であると考えていた事象について、

「本当にそうなのか」と疑問を投げかけ、そこの奥に眠る真実について考えていく思考方法です。

哲学はそうした人間の様々な思い込みを解きほぐし、自身の物事に対する視点を広げてくれます。

哲学も結局は人間の作り出したものである故、宗教の一つには変わりないことには違いありません。日本のこうした価値観のありようはともかく、少なくとも本人がそれに納得しているのであれば無理に変える必要もないとも思います。

ただ少なくとも日本人のもつ全体主義的な宗教観と哲学の宗教観の違いは、簡単に説明するならその”定義”のソースを外に求めるか内に求めるかというところにあります。

より平たく言うなら、自分で考えているかどうかということです。自分で考えるのが哲学です。

自分で考えるということは、自分の見えている世界に対して哲学することを意味します。

そうすることで他者や社会という存在に操られることもない、自分だけの人生を歩むことができるようになります。

どう生きたいのか

自分はどう生きたいのか。誰かに管理される人生がいいか、自分で考えて生きてきたいか。自身の目的によって生きる道を決定することが個人の幸せにつながっていくことでしょう。

もし自由に生きたいなら哲学という考え方はその自由を手に入れるためにも非常に有用なツールとなります。是非哲学について学んで、実践していくことをおすすめいたします。

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より踏み込んだアドラーの実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学です。

それは人の解釈という、実際には他者と全く共有できていないものの問題だからで、最終的には自分が気づく必要があるからです。

当サイトでは管理人のElepanがアドラー心理学を元により深く、より根本的な思い込みの解消、哲学を実践実施した結果、その考察と気づきをまとめております。

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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

MBTI : ENTP

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