5感という世界
人は世界をどうやって感じているのか。
それは5感という感覚機能によってである。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚
それ以外に世界を感じる機能を人は持ち合わせていない。
そしてこの5感で得られた情報を用いて何かを考えるのが人間の思考という機能である。
人は5感があるからこそその思考によって世界があると認識し、行動している生物だからだ。
人にとって5感とはインプットのすべてなのだ。
だから仮にこれを遮断されてしまえば、人は”世界というインプットそのもの”をすべて失ってしまい、それ以上のことについて考えることはできず、行動することもできなくなるのである。
5感で感じられるものとは
では、その5感で感じている”世界”とは、そもそも一体なんだろうか。
それは、物質である。
光も音も物も匂いも味も、全て物質をもとに感じるものである。
それが人の感じている世界のすべてだ
「他人の理解」とは
まずはじめに「理解」について。
理解するというのは、一体それが何なのか考え、知ることによってできることだ。
そしてその「何か」というインプットは、人間にとっては先程あげた5感から得られた情報だ。
人は5感というインプットをもとに思考し、行動する生き物である。
さて、言われている「他人の理解」とはその人の考えていることや感じていることを理解する、ということをさす。
つまりこれが意味するのは、他人の理解とは自身の5感の世界に存在する他人をもとに、他人の心を考えて理解するということになる。
人の心を理解することは可能か
では、人はその5感という情報と、何かを理解するという行為によって、
人の心を理解することが可能なのだろうか。
そもそも、それは「感じられるもの」なのか。物質なのか。
つまり、5感で感じられるものなのか。
それができないのならそもそも話にならない。
先程も書いたとおり、人は5感以外のインプットを得られる器官をもたない。
感じることができないのなら、元情報がないということになる。
人は感じることのできない何か、”無”については考えることすらできない。
「全く知らないもの」のことを、人は想像することも考えることもできないのだ。
だから仮に人の心というものが「感じられないもの」であったとすれば、それは「理解できないもの」ということになる。
自分の心は?
より詳細をつめていくために、「人の心」ではわかりにくいので、まずは最も身近で確かな「自分の心」について考えてみよう。
自分という存在が今「ある」と自覚している自分自身や自分の心というのは、5感で感じているものか。物質か。
科学的に意識とは脳の電気信号であるとして説明されている。であれば自分の心は物質であるといえるかもしれない。
ではそれを自分自身の5感で感じっているのだろうか。感じ取れるものなのか。
そうではないだろう。自分の意識は単に自分がただ世界を自覚しているというだけのものだ。
むしろ5感のすべての情報を集約しているのが意識とすら言える。世界があると感じている、今自分がこうして生きているという、この感じている物すべてだ。
つまり、自分という自覚している存在からみて、自分の意識は5感で感じ取っている外の世界のものではないということになる。
では他人のそれはどうだろうか?
他人の心という”虚像”
人の心が物質的に存在しているとして、それが脳内の電気信号のことであり、意識そのものがそれだと仮定する。
そうしたとき、他人の心というものは、自分にとって存在しているといえるだろうか。
それは自身の5感で知覚できるものだろうか。
先程も行ったとおり、人は外の世界を5感で感じ取っている。
他人も当然その外の世界の存在。他人は物質としては間違いなく存在している。
その「物質の他人」を5感で感じ取っていることは間違いない。
さてその人間が、他人の意識、つまり他人の心を知覚することのできる手段をもっているのか。
仮にもっていると仮定した場合、それはどのようなものなのか。
他人の心も電気信号であると仮定したとして、例えば誰かと対面で話しているとき、その電気信号を感じ取ることができるだろうか。
肌でビリビリと伝わってくるのだろうか。仮に伝わってくるとして、それで相手の思考が”わかる”のだろうか
肌ではなく、仮にその電気信号を”読み取る”ことができているとして、それは一体どのような感覚なのだろうか。
相手の思考が透けて見えるかのように理解できるだろうか。
まるで相手の意識が自分の頭に乗り移り、他人が見ているものや感じている何か、他人が感じている世界のすべてを自分が感じられるのだろうか。
そんなわけがない。少なくとも私の経験では、そんな風に他人を感じたことなどない。
そんなふうに他人を「感じ取る」ように、人はできていない
人は他人の心を感知できる感覚器官をもってない
人はその持って生まれた身体機能的に、他人の心を感じ取るものなどもっていない。
つまり人は他人の意識も思考も感覚も感情も理解するどころか感じ取ることすらできておらず、
外界を感じ取る手段が5感しかない以上、どんなに理解できるように“見えても”、ただ自分にとってそう見えている、そう見ようとしているだけにすぎない。
他人を理解できる、というのはただの思いこみにすぎない。ただの個人的な願望でしかなく、かつそれは叶うことのないものだ。
人は他人を全く感じていないし知りもしない。
それも永遠に。人は生まれたときから死ぬまで他人のそれについて、
表層にあらわれている肉体という、それも日常生活なら皮膚組織や粘膜組織の「目に見える物質的情報」を除いて、一切感じもせず、知りもせずに生きていくのである。
他人を理解するという行為の実態
つまり人の言う「他人を理解する」というのは、実際には他人の心や考えについて行っているものではないということになる。
全てはただの思いこみ。
しかしではなぜそう思い込めたのだろうか?
何度も言うように、人は知らないものについては思考することができない。
しかし、思い込めたということは、何かについて知っていたから思考できたことを意味しているわけである。
その何かとはなんだったのか。
これまでできていると思いこんでいた他人の理解、その正体。
それは、他人を使って自分の心を他人に投影して、さも他人がこう考えいてるに違いないと「想像すること」だったのである。
他人と自分が同化しているかのように見ていただけ。
その本質は、「他人になったつもりの自分」をロールプレイをしていた。それが他人を理解するという行為の実態。
つまり人から見た他人とは自分の心を映し出す”鏡”なのであり、
他人を理解するというのは、他人という鏡に写った自分の心を理解するということだったのだ。
他人を使って自分を演じるだけ
他人の感情も思考も、善意も悪意も、全ては自分の想像したもの。
他人という鏡に、自分の悪意や善意を投影して、それを”見ている”のである。
AR技術のようなものだ
AR技術
拡張現実というコンピューターの世界の技術のこと。現実世界にコンピューターによって作り出した3Dモデルを投影して、あたかもそこに存在しているかのように見せる技術。
他人という鏡への投影は、これでやっていることと非常によく似ているのだ。
他人という存在は人にとってはひたすらに物質であり、その他の心や思考といった”情報”はすべて鏡に写った自身の虚像にすぎない。
ピエロを演じる
人が他人と関わるとき、人は“ピエロ”になるのだ。
他人を使った独り相撲に講じ、勝手に悲しくなったり楽しくなったり気持ちよくなったり苦しんだり
他人を使って自作自演をしているわけである。
他人に対して、人はあまりにも、完全に無知な存在なのだ。
そしてその人の無知さが、人の自由でもあるわけだ。
他人を自由に解釈できる自由
人は他人を理解できない。
しかしその“限界”のおかげで、人は”ある自由”を手にしているのである。
それは他人のことをどう考えるかということに対する自由。
道化を演じる自由。他人を依り代に自分を想像し、遊ぶ自由だ。
他人のことをどう思い込もうが自由。
他人のことをどう感じようが自由。
悲しく感じようが楽しく感じようが
気持ちよく感じようが苦痛に感じようが
人はそのすべてを好きに選ぶことができる自由をもつということだ。
故に人は他人を勘違いし、勝手に決めつけるのである。
しかしあれこそ、まさに自然の姿なのだ。
わからない=答えは無限
わからないということは、何をどう考えても”正しさ”にたどり着ことはないということを意味する。
どう考えても真に正しいとも間違いとも言えない。
それは別の角度からみれば、どう考えても良いわけでも悪いわけでもなく、何一つ決まってなどいないということでもある。
その良いとか悪いといったことすら、なんでもありえるということなのだ。
それが人の自由。人の選択できるという自由だ。
選択できるという自由
他人をどう捉えるか。どう認知するか。定義するか。
どう”使っていく”か。
他人を単なる物質と見ることも、心があると見ることも、自分が自由に決めつけて定義することができる。
「この人は物質。この人は心がある」なんて人を選んでそれぞれその見方をかえることだってできる。
そんなふうに自分に都合よく捉えて世界を構築できる自由を人のすべてが持っているのである。
つまり、それで他人と調和しようとしようが、馴れ合おうとしようが、
闘おうがぶつかり合おうとしようが、現実にストレートに孤独に生きてみようが、
そんな全てのパターンが自由なのであり、選べるのだ。
他人をどうとらえるかも、どう扱うかも、どう関わるかも、そもそも何もしないのかも、その中からいくつか選び取るのも、ちぐはぐに組み合わせて支離滅裂であるのも、それ自体に対した違いはない。
言ってしまえばどんぐりの背比べのようなものだ。すべてはただの思い込みでしかなく、そんな違いなど、とるに足らないことである。
別に肩に力を入れて考えなきゃいけないことでも、考えちゃいけないことでもなんでもない。
そんなすべてを人は思いつく限り、現実という物質的法則の中において選ぶことができる。
良かれと思って他人を知ろうとするがゆえに、他人に囚われ発生する不自由。
他人を知らない事を知り、身勝手に生きることによって発生する人の自由。
なんとも皮肉なものだがその程度のことであり、だからこそ縛られる必要もなく自由なのである
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