日本は無宗教国家ではなくて、”普通教”国家だよという話






2020年04月25日~:
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人の宗教的思考

人間は己の価値や行動の正当性を求めるためにそれらをなんらかの形で定義しなくてはならず、それをもっぱら宗教的価値観に頼っている。

不幸な人はなぜ不幸なのか、”日本人という宗教観”から考察する

例えば、キリスト教などの宗教はそういった人間の抽象的かつ本質的な宗教的性質をより具体化し、形にしたもの

そういった宗教に存在する戒律や掟は時に権力者たちによって人々を操作するために使われたこともあったものの、(おそらく現代もそういった側面はあると思いますが)

宗教の元々の本質は人間の信じる正しさや間違い、信条、生きる目的、術、人間が幸福を感じながら生きるにはどうすればよいかという問題を解決するための方法論を体系化したものである

例えばキリスト教は「赦す」という概念を用いることによって、価値観の相違などから複雑化しうる人間関係の問題を比較的単純化して解決することに成功している。

全知全能である全ての究極の父たる神という存在からの赦しによって自身の存在やその正当性を証明することによって、それらに対する絶対的信頼度を完全に近いものにすることができる。それは自己肯定感を高め人間関係で発生しうる自身の精神的な問題などについての悩みを減らすことにつながり、自身を幸福へとを導くことができる

宗教とは、自身の人生を豊かにするための一つの方法論、生き方なのであり、道具である。

(一応誤解の内容に明記しておきます。私の宗教観は”自身の哲学”なのでこういう考え方、宗教観をもつだけであって、宗教そのものを否定したくてこれを書いているわけではないということをここに明確にしておきます。悪魔で宗教の事象の本質的な要素を自身の哲学で分析しようとしているだけであり、他意はありません。)



しかし特に日本ではオウム真理教が起こしたサリン事件などの痛ましい出来事もあって、“宗教”そのものに対して不信感を持っている考え方は未だ強くあり、

故に新興宗教やなんらかの宗教団体に所属している人は奇異に観られ、何れの宗教団体にも属さない無宗教であることが人の自然の姿であるという風に認識している人々は多い

しかしだからといって宗教的価値観を人は捨てることはできないから、それは同時に自身の幸せの定義、行動の正当性の担保を”それ以外のところに求める”必要があることを示していて、

その対象を多くの日本人は“普通”、”常識”などに頼っている。私はこれを個人的に“普通教”と呼んでいる。

“経典”の無い”普通教”のもつ問題点

しかしこの”普通教”というのは他の宗教のように物質的で明示的な経典なるものが存在しない。

キリスト教の聖書、イスラム教のコーランのような誰の目にも明らかに識別できる文字で書かれた何かが存在しないのだ。

ではこの“普通”、”常識”はどのように他者や社会と共有されているものなのかと言えば、そのような共有書物や情報媒体がない以上、本質的には各個人の頭の中だけに存在しているものであり、各々が”普通と思っているもの”が何であるかにゆだねられている。

何が”普通”であるかについてのリストのような、明示的な定義をした書物は一切ないため、客観的に検証できるものはお互いに普通や常識についてコミュニケーションしたりしたときだけ。

つまり普通教とは経典の存在しない非常に曖昧な戒律の元に成り立っている宗教であり、全員が同じ概念を共有しているようにみえて実際には個人差がある

もしこの”普通教”に経典があれば「ここに書かれていないものは普通、常識ではない」と言い切ることができたはずだ。

そうすれば例えば自分はどこかおかしいのかもしれない、普通じゃないかもしれないと、相手や社会の思う常識や普通を態々探ろうとして顔をうかがうようなことをしなくても、単に経典に書かれているかどうかで普通かどうかを判断すればいいのだからこちらの方がずっと簡単だし時間もかからないし精神も磨り減らない。

(※ しかし書かれている内容の解釈の仕方でこじれることもあるのだが。現にキリスト教に複数の宗派があるのもそういった聖書の解釈の仕方が違うところからきている。)

余談ですが、この普通教がもたらす独特の「自分が普通だと思う事を当然のように相手も共有している、あるいは共有しているべきであるという意識」は、

いわゆる、“毒親”になる人間の要素として比重の重いものであるものだと思う。

子供に対して過干渉であったり自身の価値観を子供に押し付けるだけで子の話を聞こうともしない親の心理には、自身の価値観こそが普通、スタンダードであると信じていて、それ以外の価値観は間違っている、異常であると確信している認知の歪みから来ている物と考えられる。

彼らは子供に子供の好きなようにはさせておくことができない。仮に子供の意思を尊重しようとして子供から話を聞いたとしても、結局は自分の思う正しさに従わせようとしてしまうし、

自分から見た相手の行動が自分にとって受け付けない者の場合、すぐにそれを”間違い”だと否定的にとらえてしまう癖があるから、ましてや無垢で多くのことを知らない子供の”ありのまま”など受け入れられるはずもないのだ。

また、子供は親のいう事を聞くものという”普通”に従い、論理的に思考することよりも形式に従って生きることに重点を置く意識も関係しているのだろうと思う。

自由への道は”「毒親」からの解放” と “「大人」への成長”である

現代社会の”普通”は元々あった”普通”からほど遠いものになってきている

昨今の日本では主にSNS上で様々な”普通”が独り歩きしている

人々はさも当然のように”これが正しい”と自身の意見を主張し、社会が自分の意見を”普通”、”常識”として広く認めてくれることを期待しているかのように見える。

(※ 少なくとも”私の目にはそう見ている”。これはかつて私がそのように考えていた経験からきている。人は相手の思考を想像している時自分の今から過去の間にかつて存在した自分自身を思い返し、それを他者という鏡に映して批判、評価を行うからだ。)

全ての人間関係は”共感”によって成り立っている

いまや現代社会の多くの人々が、自分の提唱した理念や価値観、考え方を「”普通”の経典」に書きこもうと躍起になっているのではないか。

“普通教”を捨てる時がきたのかもしれない

日本人の多くが”普通”を崇拝していると思われる。キリスト教の唯一神がキリストなら、日本人の唯一神は“普通”そのものだといえる。

普通教とはかつて日本において万人に通用する宗教観であった。特に一昔の村社会の色が強かった頃は、”普通”や”常識”を掲げて自分の意見を主張すれば比較的問題なくコミュニケーションし、社会を営み、日々の生活を送ることができていた。

しかし現代社会はそうもいかなくなってきた。各個人間で価値観が実際には異なることがSNSの登場以来その彩色を強め、しかし普通を信仰する形だけはそのまま残り、“様々な形の普通”が独り歩きし始めるようになった。

テレビなどのメディア媒体が登場したころは、テレビからの一方的な”偶像”の配信だったので、まだその一枚岩な性質の”普通”は通用した。

しかしSNSによる個人間の双方向のやり取りが実現し、個人がお互いに信条や価値観、つまり自身の思う様々な偶像を発信し合うことを可能にしたことで、

自分の思っていた”普通”が誰かには通用しないという現実をより簡単に感じることができるようになった。



どんどん歪になる”普通”という偶像

しかしこのような現実であっても自分の価値観こそが普通である、スタンダードであると信じてやまない、そうであってほしいと願っている人も中にはいるだろう。

例え口ではそうは思っていないと言ったにしても、実際のところでは無意識的にそう考えてしまっているのかもしれない。

自分の価値観こそが世のデファクトスタンダードとして通用すべきであり、それに対抗したり反するかのような思想は間違っていると信じてやまないかもしれない。

仮に彼らの主張する様々な価値観、宗教観を全て”普通”に取り込んだとしたら、そこは普通の名を借りたつぎはぎだらけで矛盾に満ちた巨大な偶像の塊がそこにあるだけであろう。

誰かにとっては普通なのに誰かにとっては普通ではないという、”普通”のという言葉の定義からは想像もつかないような歪な概念が出来上がりつつあるのではないか。

そうやってどんどん変容していく”普通という偶像”が「おかしい」ということに気づくのも、もはや時間の問題ではないか。

そもそもにおいて、人々がもつ各々の価値観に絶対的な正しさというものは本質的に存在せず、故にどちらも間違っているととれるし、正しいとも取れてしまうためにそれらは何れ衝突する運命にあるように見えるが、

ここ日本においては「馴れ合い」の文化が、討論のような和を乱す要因になりかねないそれを危険因子とみなすので実際にそこまでには至らない。

しかしそうやってごまかしながら問題を先送りにし続けてきたものの”しわ寄せ”が現代社会に蔓延する様々な”生きづらさ”、”不幸”という形となって現れているのだとしたらどうだろうか。

無理に周りや世間に合わせようとし、しかしその価値観に本当は従いたくない自分がいる。

或いはその価値観の基準に自分は到底及ばず自身を否定し、それを発端とした不満や劣等感が自身の内にどんどんたまっていく。

そうしたマイナスの感情が人々を取り巻き、様々な精神疾患の要因となっているのだとするなら、

もうこんな“イカれた宗教”を信じるのはやめるべきなのではないか。

宗教に対する不信感

日本人の多くは現行の宗教に対して一種の“不信感”をもっている。新興宗教は人々の人生を狂わせるイメージがあり、経済的にも精神的にも支配されてしまうのではないかという恐ろしさがある。

そんな日本人に例えばキリスト教のような”神”を信じるだのと言われても余計にこじれるだけのように思える。

かといって今更こじれにこじれた”普通”をまた信じることができるのか、ということもある。普通が普通として通用しない世の中になりつつあるというのに。

自身の正当性を全福の信頼をもって保証することを可能にする宗教はここ日本においては、もうこの世には存在しないのではないか。

しかし人間は宗教的生物である以上、“宗教的定義”をすることから逃れることはほぼ不可能だ。少なくとも幸せでありたいなら自分が何を正しいとするか、自身の価値観の正当性を定義することは必要不可欠である。

であれはもうこれは自分で自分の正しさ、正当性を定義するほかないのではないか。

つまり自分だけの宗教、“自分教”を自身によって興す必要があるということだ。入信者は自分ひとり。教祖も自分だけ。自分だけの孤独でユニークな宗教をここに定義する必要があるのではないか。



自分だけの宗教”自分教”(自由教)を興す

個人的には“自由教”といってもいいと思っている。なにせ戒律の内容や正当性やその根拠の全てを自分で決めるのだから、自由という言葉はまさにぴったりだ

自分にとって本当に正しいことは何か。大事なものは何なのか。自分の人生の大目標は何か。何のために行きたいのか。

そういったことを念頭に、それを達成するための戒律やルールを定義し、日々の生活で実施していく。

“経典”という形で何か文字で残すとさらによくなる。メモでもなんでもかまわない。人は忘れる生き物だから、人生で迷いそうになった時にその経典を見ることで自分が正しいことをしているかどうかを思い直せるのだ。

自分で決めたそれによって自身を定義し、自身を律し、外にある偶像たちに惑わされることなく我が道を行く

それを自然かつ心地よく満たされた自由な自分の世界の中で実行する。この宗教は自分だけの幸福を感じながら人生を歩むための自分だけの宗教だ。

現代社会は既に外に正しさを求めてもつらいだけの時代になってしまったのかもしれない。

となれば、本当に信じられるものは自身の内側から発見していくほかないのではないだろうか。



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