承認欲求を捨てた先に見つけた純粋な幸福





承認欲求から脱出した後のリアルの世界は空虚なものに映ると思います。今聞こえているもの、見えているもの、肌で感じるているもの、舌で感じるもの、そんな素朴なところにしかないのがリアルの世界で、それはひたすらに地味に見えると思います。

リアルとは本来はとても静かで、何もない意味をもたない世界であることがわかってくると、誰かが決めた価値観も正しさも、本当に正しいものでも間違いでもないという世界に見えてきます。ただ世界がそうあるだというだけの物的な存在だけが真実。

妄想の中に作り出した他者と格闘したり、自分を見る人の目から相手の思考を妄想して、あることないこと考えたりしていた時と比べるとあまりにも静かで平坦です。

承認欲求から自身を解放しよう:人と人の距離感をつかむ

そういった”ノイズ”が全くなく、常にクリアな自分の思考がそこにあるだけという世界。それはまるでこの世に自分しかいないかのような空虚感を伴うものだったように自分は記憶しています。

あまりにも静かなのでまるでこちらのリアルの世界が間違っているかのように感じることもありましたが、、しかし本来はこちらが正しいのです。かつて真実だと信じていた妄想世界を恋しく思うこともあるかもしれないですが、でもそれも何れは引くもの、なぜ自分はあのような世界を真実だと思っていたのかと疑問すら湧いてくるでしょう。



幸福がある場所はどこだろう?

私の経験上、真の幸福はあのような妄想の世界にはありませんでした。その世界にあったのは「仮初の幸福」で、自身の一人よがりな妄想を担保に作り上げられたものです。

妄想であるがゆえに現実との乖離は大きくなりがちでちょっとしたきっかけで簡単に現実に裏切られてしまうほど儚く、実際にそうなってしまった時の喪失感は計り知れないのものです。

となると、幸福とは本質的に自分の内面にしか存在しないものなのではないか。なぜなら、幸福は自らの意志で内側から感じるものであって、他者や何かによってもたらされた何かによって直接感じるものではない。そう感じたとしてもそれを自身が幸福なことであると解釈する自分の意思が介在していてるからそうなるのであって、全ては間接的な要因です。

外にある幸福の形とされている様々な概念、もの達はすべて自身の幸福とするための間接的要因でしかなく、もしそれが直接的要因であったとすれば、幸福発生装置みたいな、一種の外科的な解決手段が開発されていてもいいはずで、例えば熱いものに触れたら熱いというように、単純な方法で人々に幸福感を与えることができるはず。

しかし現実はおそらくそうはなっていません。ひょっとしたらこの先そんな技術が発明されたりするかもしれませんが少なくとも今は存在していない。

個人の幸福とは、おおよそ外にある他者や社会が与えられるものではないのだと思います。

幸福の定義を外に求めるのは危うい

例えば”見た目を気にする”のはなぜかについて考えてみます。

考えられる理由の一つに、相手に媚びようとしているからということがあります。他人が好きそうな恰好をして「好かれようとしている」ということです。

そして、うまく媚びることができた証を「他者からの承認を得る」という形で証明することで達成し、それを自身の幸福の形として定義しているのです。

しかしそれは、対等な人間関係が構築されることは永遠になく、主従関係のような関係性を常に他者と結ぼうとしてしまっています。

他者や社会の様々な意向に沿うことでしか自身の価値を見出せず、いつまでたってもその渦から抜け出すことができない。

好かれる、嫌われる、評価される、評価されない。それらはすべて自分の外にある何かに幸福の形を定義していることを意味します。これは非常に不安定な考え方で、環境によって簡単に不幸になったり幸せになったりを繰り返し、なにより自分が存在しないので。、つねにどこか空っぽな自分を感じながら生きることにもなります。

一方、好きな物、嫌いな物、正しいこと、間違っているもの。自分が主体的に感じることができるもの、「内側にあるもの」であれば、それは非常に盤石な考え方になり、自分という確かな存在を己の内側に定義できます。

(余談:欧米のファッションは相手に好かれるためではなく、自分が着たいものを切る、自分を表現するものとして着るという考え方が一般的で、好かれようとして着ることはあまり一般的ではありません。むしろ媚びるという考え方自体が、あちらから見ると人権的に問題のある考え方であるという見方もあるくらいです。縦のつながりではなく横のつながりで人間関係を構築するのが一般的です。)



幻に縋ろうとしても縋れない

幻は厄介なものです。なぜなら、永遠にその存在を”在る”と確定できないからです。

「あるように見えるが存在しないもの」「それが本当にあるかないか確かめようがないもの、わからないもの」

例えば他人の考えや気持ちなどがそうです。

それに縋ろうとして、例えそれに触れているように感じることがあっても、「実は触れられていないのではないか」のような空虚感は永遠に付きまとい、決して満たされることのない器にどれだけ注ごうと、永遠にその手ごたえを感じることはないでしょう。

存在そのものが不確かであることが既に自明のものについて縋ろうし続ける限り、死ぬときまで永遠にそれに振り回されることになり自身の人生を不幸にする可能性をずっと高くしてしまいます。

とりわけ、縋るためにその不確かなものが確かかどうかを必死で見極めようとすればするほどに、強力な思い込みが伴いその傾向は強くなります。そしてそれに準ずるかのように自信の幸福の定義はどんどん湾曲し、自分では修正できないレベルに客観性が失われた形になってしまうかもしれません。例えばわかるはずもない他人の頭の中で考えていることを無理やり想像しようとし、それに媚びようと、気に入られようとすればするほどどんどん歪んでいきます。

幸福の形が歪で、かつ条件が複雑であればあるほど、その達成をより不可能に近いものとし、それは自身の精神すらも捻じ曲げる力を伴って、自身を破滅へといざなうかもしれないような恐ろしいものへと変貌していきます。そんな人生を歩みたい人などこの世にどれだけいるのでしょうか。

不幸は「幸福の定義の複雑化」である

今不幸な人はなぜ不幸なのか。それは幸せであることの条件をそれだけ複雑に、かつすくなくとも現在の自分にとって達成困難な条件を定義しているだけです。

人は意識的にしろ無意識的にしろ、自分の幸福を達成する条件を自ら定義をしているのです。

例えば伴侶がいないとか、金がないとか、友人がいない、容姿が悪い等を仮に自身の不幸の条件としているのなら、その逆の条件を達成することで幸せになれると信じてやまないのだとしたら、それが自身を不幸にしている本質的要因です。

企業や国、あるいは他人が提示する何かをしなければ自分は幸せになれない、例えば結婚して家庭を持たなければ不幸、人として欠陥であるという定義は単なる彼らの都合による刷り込みであり、勝手な押し付けでしかなく幸福の本質ではありません。ただの彼らが課した条件でしかありません。

仮に他人の決めた幸福の条件に沿うことが幸福の本質なんだとしたら、無垢で何も知らない赤子はそれらを何も達してはおらず生まれた時から不幸という事になってしまいます。大昔の、結婚などの近代的価値観が何もなかった時代を生きた人間達は、ずっと不幸の中で過ごしてきたということになってしまいます。

しかし赤子は何も知らなくても純粋に笑うことができるし、楽しく遊ぶことができる。自分を不幸だと思う余地など、おそらく彼らにはない。自分が幼い子供だった頃、”純粋だった頃”を思い出してみればそれは簡単に想像がつくのではないでしょうか。大人になって人生が楽しくないと感じるのはそれだけ自身が純粋ではない考え方をするようになったということ、幸福の定義を複雑化しているだけなのです。

故に、ある何かをすれば誰でも幸せになる、或いはしなければ誰でも不幸になるということは成り立たない。誰かにとって幸福かもしれないし、不幸かしれないといった方が正しい。

幸福の定義を単純化することが幸福実現への最短距離である

最も単純な、誰もが達成可能である幸せの定義とは「生きていること」です。この定義を自身の幸福達成条件、定義として用いることができればその瞬間から幸せになることができます。



人の純粋な幸福とは、人間の本質的で純粋な、謂わばもたざる状態、真っ新な、今そこにいる自分そのものを自身が肯定できていることを指すものだと個人的には思っています。

むしろ人は充分な幸福感を感じていればこそ、長期的に最大限の生産性を発揮できると思います。

何かをしたり達成することによって幸福になるのではなく、幸福であるから何かをしたり、達成したりすることができるのです。

幸福であれば何事にも本気で取り組むことができ、それは人生に充実感をもたらします。

しかしこの充実感も幸福感とは厳密には別物で、仮に充実感=幸福だと定義した場合には、充実感を得ることでそれを幸福であると定義しているにすぎません。結局は自身の中にある幸福の定義の問題でしかないのです。

幸福は特に何かをしているかしていないかにかかわらず、全ての人間が今この瞬間に得ることができる無償で平等な存在です。謂わば人間の本質的機能なのです。

幸福とは謂わば人の精神エネルギーなのです。そのエネルギーの燃費をよくできるかどうかは全て自身が幸福とは何か、どうとらえているかというロジックによります。

よって、幸福の条件を単純なロジックである「生きていること」として定義すれば、自分が以下に過酷な環境に置かれていたとしても、病気を患っていても、人は死ぬまで幸福でいられ、エネルギッシュに最後まで生きられるのです。

それが本来の人のあるべき姿であり、最も幸福な姿だと私は思います

幸福な中で人生の時間を何に使うか

では、常に人は幸福であるのならば人は何もしなくていいのではないか、という考えがわいてくるかもしれませんが、それは少し違います。人は確かになにをしようとしまいと幸せではありますが、行動と幸福は別物です。

そもそも、考え方は逆説的には人は何かをしなければ幸福ではないという、行動と幸福が繋がっているという意識が根底にありそうな気もしますが、その当たりの話は前述で既に触れているのでここでは置いておきましょう。

まず現実的に、人は時間的生物でありエネルギーを消費し続けるので、それが足りなくなればエネルギーを補給したくなります。補給せずエネルギーが無くなればやがて人は死に至ります。腹が減れば、何か食べたくなります。

つまり生きていくためには人はエネルギーを定期的に摂取する必要があって、それを得るために何かしら行動をする必要がでてくるということです。

そのために例えば仕事をして、食料や住まいなどを手に入れるためのお金を稼ぐとか、ひょっとしたら無人島で自給自足の生活をするのかもしれませんが、

それは生きるために行動する、あるいはより生活を豊かに、便利な暮らしを得るために行動するのであって、幸せになるために行動するわけではありません。

自己実現も単なる一つの欲求であって、ある欲求を満たすことも厳密には幸福と直結するものではありません。そうである場合は自分が幸福をそのように定義しているだけにすぎません。

私としては幸福感は何事に対しても常に先立って存在しているものである方がも望ましいように思います。できる限り幸福な人生を送りたいのならなおさらです。

幸福感の中で生きている上で、自身に残された時間、人生をどう生きるのか。例えば仕事であればワークライフバランスを考えて自分の時間を多くもつのか、バリバリ働いて仕事に時間を使いお金を稼ぐのか。

何をしたいのか、するのか。それを自らの意志で選び実行していくのが人間という生き物の本質であると個人的には思っています。そしてそれは幸福感と直接関係はしないし、関係させてはならないとも思います。

私の思う純粋な幸福「純粋幸福論」

幸福についての考え方は人それぞれなので私の答えが絶対的に正しいとは言い切れません。よって私は他の幸福についての考え方達と自分のそれを大別するために、

この考え方に「純粋幸福論」と名付けます。

人の幸福とは人がもつ純粋な身体的機能であり、人が自身の意識を当たり前のように認識できるかのように、全ての人に持って生まれたものであるということ、

不幸とは、他者との比較や、外的定義によって自身を幸福であると定義する、幸福の不純化によっておこるものであるということ、

幸福は独立しているもので、行動や物的欲求などの度合いに左右されたり依存するものではないという考え方です。

私は人間という長くても100年程度で終わる短い人生をできる限り幸福を感じながら生きるにはどうすればいいのかをずっと考えていました。

そして、最も長く、かつ最も高い幸福感を得るためにはどういうことをすればいいのかを考えていったその先に、この答えにたどり着きました。

ひょっとしたら不幸を感じながら生きていたいなんていう人もいるのかもしれませんが、そんなに多くはないだろうという風に推測しています。

もしこれをお読みになっている方が自身を不幸だと感じているのなら、その複雑で実現が難しい不幸の定義、幸福の定義を全て捨てて、いますぐ幸福を感じてみてはいかがでしょうか。

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より踏み込んだアドラーの実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学です。

それは人の解釈という、実際には他者と全く共有できていないものの問題だからで、最終的には自分が気づく必要があるからです。

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孤独 認知論
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そんな私が自分の甘えから脱し、

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約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

MBTI : ENTP

2 件のコメント

  • 少し前から拝見させていただいてます。
    表にこそ出しませんが、10年以上、生きづらさを感じ苦しんで来ました。
    が、こちらの記事を読むと、スッと腑に落ちます。そうだったんだ、と心から納得出来、気持ちが楽になります。
    どうぞこれからも、こちらを続けて発信していただけたらありがたいです。

    • ありがとうございます。稚拙な文章で読みにくかったかと思いますが、読んでいただいて光栄に思います。
      少しでも誰かのお役にたてればと記事に残しておりましたが、実際にコメント頂いて大変うれしく思っています。
      まだまだ伝えていきたいことはありますので、今後も更新は続けていきますよ~
      コメント、本当にありがとうございます。

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