“絆”や”つながり”はただの思い込みである






2020年04月25日~:
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昨今では人々はSNSを通じて不特定多数と、それこそやろうと思えば頻繁にコミュケーションを交わすことができるようになった。

自分の好みの人間を探すことも現実世界で行うことに比べれば比較的簡単で、共通の趣味をもった人や、尊敬するだれかと関係をもつことも比較的簡単にできてしまう。

これだけ簡単に、自分と近しかったり合う人とかかわることで強い一体感を得たりなど、そのようなことが実現できてしまうと、人はまるで自分は一人ではない、つながっているのだと考える人が出てきても不思議ではない。

ほかにも親子のつながりなど、血を分けた人間同士には何等かの超次元的なつながりがあるのだと信じてやまない人もいる。

しかし、いくらSNSがそのようなことを容易に可能にしようと、いくらその”つながり”とやらを信じようと、人間は永遠に”つながる”ことはない。人と人の心の距離は、それらを物質的に直接接続でもしない限り永遠にその距離を詰められるものではない。そもそもそれをするには人の心という概念を科学的に証明することから始めなければどうつなげればいいのかすらもわからない。

これは何もネガティブな見方でものをいっているわけではなく、単なる事実である。



そもそも人はつながることはできない

人は他人と繋がる能力を有していない。

私たち人の生きている世界について考えてみると、この世界は人間が論理的に認識できるレベルで言えば、皆物理的世界の中に生きていると言える。

自分の目の前にあるもの、例えばテーブルとかこのページを見るための端末、それから発せられている光、自分自身の肉体の存在などが該当する。人はそれを5感で感じ取っている。逆に言えばこの器官でしか世界を感じることができていない。特に視覚や触覚によるものである。

人は物質的存在と科学的事象の世界に生きていて人間も同様に物質的存在であり、他の無機物と違うのは生命活動という科学的事象を行っている点だけで他は無機物のそれと変わりない。

息をしたり食事をしたりして、外部からエネルギーを取り込み、生命維持や行動のためにそのエネルギーを消費するサイクルを繰り返す一連の化学反応を起こしながら生命活動を続けている物質的存在である。

さてこのような物質的世界において、”つながる”ということについて単純に考えれば、それはシンプルに、物質的につながっていることを意味する。

ではそれはどのような時か、肌と肌が密着していればいいのか。しかしそれも繋がっているかと言えば、見かけ上はそのように見えるかもしれないが決して分子レベルで結合などしておらず、密着している部分が融解して一つになるなどはしない。

人は0距離まで互いを近づけても(厳密には0ではないだろうが)決して1つにはなれず、いわば結合してつながることはない。むしろ仮にそれを無理やり実現しようとしたら、生命活動の維持が難しくなる可能性すらある。

肉体という物質的壁を人は越えられず、故につながることはできない。

世間で言われている”つながり”とは霊的なつながりを指している

しかし世で言われている”つながり”や”絆”は、このような物質的なつながりをイメージしたものとは違うであろう。

物質的つながりというよりはもっと目に見えないもの、それは心だとか魂だとか、そういったもの同士が繋がっているという、霊的なつながりと説明した方が近い。

人はつながっている。絆がある。そう人がイメージしている時、例えば何かを共同で成し遂げた時、密接な友好関係を築いている時など、一体感を感じている時などであり、決して肉体的つながりを感じている時であるとはいえず、むしろそうでないときの方が多いであろう。

しかしそういった霊的なつながりという概念が人間は物質的存在であることを否定できはしない。むしろ物質的世界に人は生きているという事実を再び踏まえれば、実は存在などしていない可能性の方が限りなく高い霊的なつながりこそが否定されるべきと言わざるを得ない。

“存在するもの”というのはこの物質的世界において、やはり物質的存在である。故にそれ以外の“存在しない”ものは存在しえない。(未発見の未知の物質などはまだまだあるかもしれないが、結局のところは”物質”である)

となれば、その物質的形容が一切ない、物質的に全く存在などしていない”つながり”や、”絆”とは何なのか。

存在はしていないが、存在しているだろうと考えられている概念ともいえるこの矛盾そのものともいえるこれらは、いったい何なのだろうか。



絆の存在の証明

もしそれでも、他人の絆があるというのなら、それは一体どういうものなのかについて考えてみる。恐らくそれは他者の気持ちが相互接続され、つながっているということだと思うが、

では仮にそれがあるとして、それはいつ、だれと、どれだけの気持ちがつながっているのか。

常に繋がっているのか、誰とでも繋がっているのか。では電車に乗っている時はそこにいる全員とつながっているのか。

仮に接続可能な距離があるとして、それはどの距離まで近寄れば繋がるのか?距離が関係ないのであれば、地球上の全ての人間と全員がつながっているのか?

では距離は全然関係ないと仮定した場合、何かをしているときにつながるのか?

誰かと話すことで繋がるのか?友人や恋人と楽しく談笑したりしているときか。では嫌いな人間と話している時でもか?

何か特定のことを誰かと一緒にしている時だけ繋がるのか。サッカー観戦や人が多く始まり同じ目標にむかっていく一体感が絆なのか。ではしたくもない仕事しているときもそれは同じか。仕事も一種の”一体感”をもとめられたりすることはあるだろう。そのときにも絆を感じるのか。

問い詰めていけばいくほど、絆と呼ばれているそれは実に、そう呼ぶ当人にとって非常に都合がいい時だけ存在しているという性質を持つことがわかる。

当人が絆があると思う時、いや、思いたいときだけ絆は存在し、それ以外の時は存在しないのだ。

そしてこの事実に、絆というものの本質がある。絆とは単なる共感なのだ。共感とは主観的な感覚であり、単に自分がそのように感じているだけというものである。

共感と理解の違い – 人の限界 –

全ては人の思い込み

矛盾を体現するかのような本質をもつこの”つながり”や”絆”というのは、信頼という言葉でも置き換えられる。それは、個々の意識がもつ主観的観測に基づく「認知領域」の話である。

認知とは完全に閉じた自分の脳内の世界の話である。つまりこれらは全て自分の意識の中にのみ存在するのであって、それ以外の外に存在するものではない。もし仮にそれが存在しているというのなら、それは物質的世界の法則に従ってなんらかの形で我々が5感で感じられる”形”になって現れていなければならない。

絆やつながりの本質は、実際にそれが存在しているという物的な確証によってなりたっているのではなく、「ただ本人にとってそう見えている」という認知的確信によってでしかないのである

自分がある物事をどういう風に認識しているかどうかという話であり、そこに絆があると感じるのは、例えば自分が他者とのかかわりやある環境の中にそれを感じさせる何かを見出し、それに”絆”という記号を付けてそう定義している、他者や組織、社会によって作られたり紐づけられるものではなく、自分自身がそのように認知しているにすぎない。

よって”絆”や”つながり”とは、人によってあるようにも、ないようにもみえる。人の認知は千差万別であるからだ。いわばこれらは、幽霊や心霊のような存在とほとんど変わらないのである。

だから絆という言葉を聞いて、それを尊んだりありがたがったりする人もいれば、それを信奉する他者やメディアがくどいように連呼しているのを見て、「押し付け」だと感じる人もでてくるのである。

絆という言葉に嫌悪感を感じる?

ただこの言葉に嫌悪感を感じているのなら、その嫌悪感がどこから来るのかは一度冷静に考えてみたほうがいいだろう。

そして大抵それは、突き詰めると結局のところは嫉妬心から来ていることが多いのだ。

本当は彼らのいう絆が欲しい。しかしそれが手に入らないから、それを持っているように見える人を恨めしがるか、持っていない自分と相手が同じになることを望んで、相手をこちら側に引き込むために相手を蔑み否定するのである。

単に絆が存在しないという事実を信じているというだけなら、そこには嫌悪感も嫉妬心もないはずである。

絆が存在しないことは単に事実ということでしかなく、事実でないことだとしても、人はそれが事実である、存在すると信じたりすることもできるという、矛盾に満ちた生き物だからだ。

そして実際に人がそれを知っていようがいまいが、どうするのか、何をするのかは完全に個人の自由であり、勝手なのである。

「私は事実を信じる。あの人は虚構が在ると信じる。」

それだけのことであり、そこには本質的な差はない。

自分と他人は違う。自分と他人は同じ人生を生きてはいないのである。

そういう事実を認められていれば、違うなにかを信奉したり、信じたりする人の存在を恨めしく思うこともなくなるはずだ。

だから仮に嫌悪感を感じるのなら、それをそのまま他者に向けるのではなくて、そう感じてしまう己の未熟な幼い精神を見直すべきだろう。

人間のあらゆる行動や価値観がいいか悪いかという話は、結局のところ個人の趣向でしかない。人がどう生きるのかは、完全に個人の問題なのである。



人間という矛盾を背負う生き物

絆やつながりは、いわば宗教的概念であり、神の存在の有無の話と相違ない。それでも人はそれが実在する充分な物的証拠や根拠をもっていなくとも、それが存在するのだと信じてやまないと考えたりする生き物でもある。

それが存在すると思う人にとっては在るように見え、存在しないと思う人にとっては無いように見える。ただそれだけの話なのである。

思うに人は、こうした「存在しないが存在することを信じている」という、多くの矛盾を抱えながら生きている生き物なのだろう。むしろ人にとって真実とは、実はかなり重いものなのかもしれない。物質の存在の証明は、実は哲学的には存在などしていないという考え方もあるくらいであり、真実に近づこうとすればするほど、その実存の基底が揺らぎ、ただ問いばかりが乱立していくことにもなる。

そうした矛盾を抱えながら生きることがある種の人間らしさともいえるのかもしれない。少なくとも、そのように生きて難なく過ごしている人は存在していて、さらにそれは圧倒的多数であるだろうし。

しかし、その純粋な無知さが時に、自身の人生を狂わせることもある。人が悩むときは大抵、このような事象に対して悩むことが多い。

人のつながりもそうだ。しかしそのつながりが、一体何をもって実際には”つながっていられる”のかについて考えてみればもう少し冷静にその状況を見ることができるようにもなる

そんな時、自分が信じていることは本当に真実なのか、存在しているのかについて考えることで、その渦から抜け出すこともあるかもしれない。

例えばSNSのつながりは、アカウントを削除してしまえばその場でぷつりときれる。いきなりあるアカウントが削除されると、なんで消したんだろうと周りは一時は思いを寄せるが、それも持って数日程度であることがほとんどだろう。

SNSにおけるそんな”つながり”を定義するとしたら、それはフォローしているとかされているとか、何等かの情報を発信しているという電子情報的関係でしかない。フォローの関係性にあっても何も情報を発信しなくなればほぼいないのと変わらない。

SNSでは、関係をもつこともボタン一つで簡単にできてしまう一方、それを切ることも同様に簡単にできる。そうして簡単に忘れられてもいくものなのだろうという事を考えてみると、それにそれほど強くこだわることは果たして自分にとって良い事なのかどうかについて再考する価値が得てくるかもしれない。

とはいえ、多くの人にっては、そのような”不都合な真実”には興味はなく、つながりや絆といった”輝かしいもの”が存在していることを前提として生きている人がほとんどだろう。その人達にそんな”事実”を伝えたとしても毒にしかならないか、すぐに忘れてしまうだろう。私が巷で人気のアイドルや芸能人、スキャンダルなどにほとんど興味がないように、彼らもこういったことに興味はないだろうから。

人によって絆やつながりのような形なきものは、その捉え方も、重さも違う。そして実際にそれを「重い」と考える人もいるのだろう。もしそう考えるのなら、一度それらの正体について考えてみてはいかがだろうか。



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元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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