人は”今”しか生きられない





人は今を生きようとしなくても、すでに今というこの瞬間にしか生きてなどいない。

過去と未来の存在

一般的に私たちが生きている物質的世界には「時間」という一定の流れがあると考えられている。

しかしこの「時間」とは、人が1日というサイクルの中で、定量的かつ効率よく行動するために考案された一種の発明であって、時間という”存在”が実際にあることを証明しているわけではない。

となると果たして私達の思う「時間」という存在は本当に存在しているのだろうか。

私たちが知っている「時間」とは、一定のペースで流れ続けているものだと考えられている。

過去から未来にわたって脈々とその時を刻み続け、流れ続けているものであると考えられている。

人は時間の存在について何を担保にそれがあるといっているのかというと、現代社会ではまず「時計」という存在があげられる。

一定の規則的なリズムで針を刻み、その一定の”時”を刻む性質を頼りにして、時間を測り記録している。

時計は24時間で1日を刻む。この「1日」という概念はどこから来たのかと言えば、日が一度上がってから沈み、また再び上がってくるまでの時間を1日としていることからくる。

つまり私達が時間と呼ぶものは、太陽の動きを元にして作られている概念であるといえる。

では太陽の動きとは一体何によってそれが実現されているのか。日が空に昇り、反対側の空に沈んでからしばらくするとまた昇ってくる。

これは主に、地球の自転と公転によって達成されている。地球は太陽の周りをまわっているが、同時に地球も自ら回転し、その回転が時計でいうところの24時間に該当する。



つまり時という存在、時計の針の一定間隔で進む距離の定義などは、地球の自転と公転の回転速度を一定間隔で刻んだものである。

となれば時間とは、時間として存在しているのではなくて、より正確には地球の動きによって刻まれているといえる。

となるとその地球の動き、自転や公転が時間の正体であるとすると、それらは突き詰めれば物体の動きが時間の動きという根源的性質を担っているということになる。物資的世界が物理法則にしたがって動いていてそれを人間が地球上からみた太陽の動きを測定し、それを「時間」と呼んでいるだけだといえる。

時間と物質の運動

時間の流れに見えているものは、実際には連続する物質の運動の結果の連続である。

例えば物が腐るのは、時間が経過するからというよりも微生物がその物を分解すると言う行為の連続性における結果である。つまり時間の流れという概念はそれらを構成する微生物の行動だとか科学的作用だとかそういった要素一つ一つについて突き詰めれば、それは原子や分子の運動の連続性によって達成されていることを意味し、例えば、時間を止めるということはそれら物質の運動の動きを完全に止めるということになる。

例えば「コールドスリープ」という、人を冷凍保存して長期間生きたまま保存しようとする仕組みはまさにこういった時間の本質をとらえたものであるといえる。時間がとまる、つまり原子や分子の運動が完全に停止すれば、人の成長や老化などの変化が進行することはない。そして一度そうした人間を再び生命活動を始められるように蘇生、つまり原子と分子の動きを再開させ、時間を再び進めることができれば、人は世代を超えていくらでも眠り続け、また目覚めることも可能であると考えられる。

そしておそらく、人はその間、意識というものが全くない状態でそれを過ごすことになると思われる。思われるというのは実際に私がコールドスリープなるものを経験したことがないからであるが、おそらく自分が想像しうる中でその感覚に最も近いのは疲れ切って熟睡し、気が付けば朝だった時の感覚ではないかと思う。

あるいは、あれよりももっと一瞬で、ちょっと目を閉じただけのつもりが、再び目を開けると既に300年という時が経過していた、という感覚なのかもしれない。

さて仮に、そういう自身が眠っている、自意識を自身が自覚することのない空白期間を過ごしていた場合、果たして自身はその間生きていたといえるのだろうか。

コールドスリープという技術が完成したと仮定して、実際にそれによって”眠っている”人間は、生命活動を一時的に止められている状態、つまり仮死状態である。

仮死というのは死んでいる状態のように生命活動が停止しているためほぼ相違なくて、唯一の違いは再び蘇生できるかどうかということである。

となれば人というのは、仮死状態である間は生きているとはいえないのではないだろうか。生きているという定義を、少なくとも自意識があることを自身が自覚していることであると仮定した場合、それは少なくとも本人からすればその間は生きていたといえないのではないだろうか。

こう考えてみると、ある疑問が生まれてくる。

人が生きているのは「いつ」なのか。それはその個人にとって、自意識が存在することを自身が自覚できる瞬間であり、それは自意識を維持するために物質的世界の中において自身の体を構成するあらゆる原子や分子の運動の連続性が保たれている状態であるといえる。

となれば、人が実際に生きているのは、過去や未来の中にはなく、全ては今この瞬間にしかないということになる。

世界が確かにあることを自らが感じ取り、証明できるのは、今この瞬間にしかないからだ。

つまり人は、物理的に常に今という瞬間にしか生きることができないものなのである。



今を生きることしか人はできない。

時間という存在はその考え方から、過去、未来が存在しているかのように見えるが、時間という概念が物質的に存在しているわけではなくて、この世界、自分という存在は、実は今という瞬間にしか存在しておらず、未来や過去には存在などしていない。

過去があると考えられているのは、人々が起きた現象を脳に記録し、それを思い返す機能を持ち合わせているからである。

例えば脳などの記憶装置をもたない単純な微生物などは、過去や未来という概念をもたず、ただ今この瞬間に動き続けているというだけの存在である。

未来は人間が過去をイメージする処理の応用版であり、過去に起きたことなどを思い返すことを応用して、先に起こりえる事柄について想像することで、それがこれから先にあるかもしれないということを脳が描いているにすぎない。

過去と未来とは、所詮は人の脳の中でイメージされた虚構でしかなく、本当のリアルというもの、本当の外部にある物質世界という世界は、今この瞬間にしか存在することを許してはいない。

つまり人は、過去にも未来にも、初めから生きて等おらず、生きることもできない。

今こうしてこのページを見ているあなたも現在進行形で、人は今というこの瞬間にしか生きていないのである。

死という概念

私達にとって死とは、そういった現実の世界という存在が目の前から完全に消え去ってしまうこと、自意識の完全なる消失であると私は推測している。

推測しているというのは、私は死というものを経験したことがないので、実際に死んだ時に自分はどうなるのかについて全く分からないからというところから来ている。

それが達成されるのは現実的な観点で考えれば肉体的死によるものだが、

例えば、この世がゲームのようにスイッチ一つで存在そのものをオフにできる仕組みでできていたとしたら、そのスイッチがオフにされた瞬間私達という存在は無となり、それは死であるともいえる。

しかもそれを私達は一切探知することもできないままに終わってしまうだろう。

また、死という状態が生きている状態の反対であると考えた場合、

未来や過去の自分のことについて考えるということは、ある種自分が死んでいる状態の時について考えていることともいえる。

なぜなら過去にも未来にも人は生きていないからである。

今を生きるのに、自己を否定をしてはならない

そして今この瞬間にしか生きていないのだとすると、その瞬間に生きている自身を否定するというのは、ある意味自身に消えてなくなれといっているようなものなのである。

自分の行動について否定することはいい。それは反省であり、適正するうえで必要だからである。

しかし自分自身を否定するというのは、替えようのない自分自身を否定することでありこんな俺はこの世にいちゃいけないといっているのとかわらない。

そんなことをすることは今生きる行為とはいえない。そんなことをしても自分そのものが変ることはないのだから。

今を生きるということは今の自分が確かに存在していることを素直に受けいれ、全肯定している状態でなくてはならない

今を生きるということはまず第一の前提として、今の自分を受け入れていることがまず第一条件にある

今の自分は本当の自分じゃないという理屈は通用しないのである。今というこの瞬間にしか生きていない以上、自分という存在もまたその瞬間にしかそんざいしない唯一無二の存在であり、それ以外に自分という存在はいないのである。

ゆえに人は、いかなる状況においても、真に今を生きたいのなら、自分そのものを否定してはならないのである。

今生きているこの瞬間の自分。それがどのような痛みにまみれていたとしても、自分の存在を否定してはならない。

それがどんなに間違った状態、惨めに感じられる状態であっても、自身を否定したりひげしたりすることだけはしてはならないのだ。真に否定すべきは自身ではなく行動や考え方における部分だけであり、変えられるものだけにすべきなのである。なぜなら否定とは、問題を発見して明確にするために使うからである。

人は自身に条件を課すから不幸になるのだから。幸福で痛いなら自分自身を否定することをいますぐやめなくてはならない。いかなる状態の自分であってもだ。

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