箇条書き哲学 – 第2弾 – (脱:承認欲求編)




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2020年04月25日~:
現在メンタルヘルス系過去記事を順次全書き直し中です。
上記年月よりも古い記事は順次修正予定記事になります。

チェックリスト的な意味も込めて。今までに気づいた承認欲求から脱出するためのノウハウを箇条書きでまとめています。

承認欲求を求めるのは人間の本能などではない。自らの意志で求めているのである

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承認欲求を求めている自らの意志に気づくことが、承認欲求からの脱出のカギとなる

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人目を気にする時点で承認欲求を求めている。嫌われること好かれることを気にしたり批判を気にしたり、それに身構えること、人間関係で悩むことも全て承認欲求を求めていることが原因である。

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監視されようがされまいが、人に観られていようがいまいが、自分の心を変えるべきではない

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自分を見ている誰かの存在を、自分の頭の中に作り出してはならない。存在すると思ってはならない。常に自分の心の中に存在する意識ある人間の存在は、自分以外に存在させてはならない。

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人の目など、初めから存在などしていない。存在していると考えること自体、何の意味もない。

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人ができるのは共感だけである。人は共感を通して人間関係を構築している。※4 理解はない。そこを見誤るから人は悩むのだ。

共感と理解の違い – 人の限界 –

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目の前に映る単なる物質世界に他者の目という余計な装飾をしてはならない。装飾するのは自己実現の何かに対して行うべきであろう ※2

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承認欲求は大抵当人を苦しめるものである。満たすことができない苦しみはもちろんだが、仮にそれが満たせたとしても、そんな一瞬ばかりの他者の承認を得る時間に比べて相当に長い間苦痛に苛まれている自分がいる現実に気づけば、それは明らかである。

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承認欲求を求めない事で必要なのは、心理的な孤独感を受け入れることでもある。

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自分を真に肯定できるのは自分だけである。どうあがいても他人には不可能である。※1

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人に嫌われるだけで自身を否定したり、好かれるだけで舞い上がる時点で承認欲求を求めてしまっている証拠である。

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他人に自分の本質を理解することは不可能である ※1



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人は他人を真にバカにすることも褒めることもできない。できるのは自分に対してだけである。※1

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人は他人を評価している時、実際にはそこに映る自分の内面に評価を下している。人にとって他者は鏡でしかないのだ。※1

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受動的な欲求ほど非生産的な欲求はない。大抵それは満たされることはないためだ。

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受動的な欲求から繰り出されるあらゆる行動は他者と自分両方を不利益にする。仮にお互いが受動的になればお互い相手の行動をまつことになり、ただ不満しか溜まっていかないからだ。

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自分のことは自分で満たすことでしか真に満たされない。承認欲はそれを担保に自分を満たすための理由でしかない。

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承認欲求を捨てることができれば主体的欲求だけが残る。それが本当の自分である。

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人に好かれたくてしょうがないのなら、一度冷静になって相手が自分のことをどう思っている関係なく、自分が純粋に好きな人間のタイプを考えてみるといい。それから実際にそういうタイプの人が実際にどれだけいるかを。相当に少なくなるのではないか。ひょっとしたら一人もいないかもしれない。

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資源が限られているように、人が関心をもてる事柄も限られている。

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人間は常に一つのことしか考えられはしない。そう思えないのだとしたら、実際には複数のことを頭で無意識的に切り替えながら並列に処理しているだけのことを錯覚しているだけである。

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人に依存して、受け身的になることは危険である。その瞬間から相手に操られる人生を送っていることになる。対等な人間関係など築けるはずもない。

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自分が何かを好きか、何を嫌いかということは確実な事実である。自分が人に好かれているか、嫌われているかはただの妄想である。

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人生に最も必要なのは何かに愛されることじゃない。自分が何かを愛することである。

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人は誰も愛されなどしないない。人は何かを愛することはできるが、愛されることはかなわないのだ。

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愛されることを求めあう関係ほど不健全なものはない。愛し合う関係ほど、良好な関係はない

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同じ人生を歩んでいる人間は一人もいない。自分の人生は自分だけのものである。

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誰も他人の人生に責任などもてない。他人にとって代わって人生を送ることなどだれもできないのだから。

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承認欲求を捨てることは自分の心に対する大掃除である。終わってみればいかに無駄なことをたくさん考えていたかを実感するはずだ。

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承認欲求なぞ、初めからその概念自体がなかったものとして考えるのだ。自分を好きな人間も、嫌いな人間もそんなものは初めから存在しないと。人間は存在しないものを思考できるようにはできていない。

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人間は関心のない事には驚くほど無関心になれる生き物だ。それが人の生死ですらも。

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承認欲求を捨てて生きてみて初めて分かることは、承認欲求なぞなくても全然生きていけるどころか、より精力的に生きていけるようになることだ。

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承認欲求をのない世界は至ってシンプルである。静かであり、ノイズは一切ない。それまでにあったざわつく感覚はない。最初はそれを切なく思うだろうが、すぐ慣れるだろう。 ※3

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「自分は何も間違ってない。」それで正しい。そう自分が決めたからである。それこそが自分の人生を歩むということなのだ。

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人は何をしていても常に一人である。誰かと一緒にいようといまいと。しかしそれでも人は、単純に幸せになれてしまうものだ。

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孤独は決して不幸ではない。孤独を不幸とするのは、人と一緒にいなければ幸せではないと自分で定義しているだけである。

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自分の感知できる世界に存在する”意識ある人間という存在”は、自分しかいない。人の5感では他人の意識を知覚できないからである。

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共同体感覚を得れば得るほど、承認欲求から遠ざかる。全体の奉仕者としての自覚を持てば、自分に何があろうがなかろうがどうでもよくなる

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人に批判されて落ち込むのはそれを自己否定するための担保としており、結局はただ自己否定しているだけである

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自分を優れていると考えるから人を見下すのである

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自分を劣っていると感じているから他者承認を求める

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人は既に今の自分で既に幸福感で満たされている。幸福であること、満たされていることに条件をつけなければ。

※1 他者と自信を入れ替えた場合でも同じである。

※2 例えば創作活動は、自分の描きたいように作ることができる。そのために装飾を施すことはとても有意義でおもしろいものとなるだろう。

※3 自分の場合、ただ自分の自己実現のためだけの視点がそこにあるだけであった。

※4 共感するからこそ人は人と関係を結ぶ。痛みや心地よさを共感によって共鳴しているのである。しかし同じ感覚や気持ちを感じているという保証はどこにもない。それは理解の領域であり、人は人を理解できない。



アドラーの心理学を論理的に実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学だといわれています。

管理人が実際にアドラーの教えをもとに実践した内容の記事を残しております。

孤独 認知論
私の「甘え」うつ病治療


私のうつ病の主原因は「甘え」だった。甘美に感じられた「甘え」が私を苦しめていました。

そんな私が自分の甘えから脱し、

精神の安定、自由をつかむためにやったことをまとめています。


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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

2 件のコメント

  • こんにちは、こちらのブログに出会ってから2ヶ月弱経ち、他人という存在や意識の理解を含め、精神的な辛さから本当に開放されています。elephan様の経験と発信に救われています。ありがとうございます。
    しかし、承認欲求や罪悪感にふとした瞬間に支配されそうになります。
    仕事中など他人の輪の中にいる時は、話したくない愚痴に参加せず、黙々とやるべき事に没頭できるのですが、いざ、他人と会話をしたり直接面と向かうと、会話や態度に飴と鞭の反応が出たり、自分と他人の境界線が曖昧になってしまう時があります。
    アドバイス頂けたら嬉しいです。

    • 私の経験上のお話になりますが、3つほどお話しさせていただきますね。

      1つは、承認欲求に苦しんでいたころ、相手と話している時に相手の言うことや考えに「ひっぱられる」ような感覚がありました。

      その正体は、相手を”受けよう”としているという在り方の問題でした。

      自分の目的をその時点で一旦すてて、他人の目的に挿げ替えてしまってましたね。

      相手の言ったことや態度に対して受けようとする。それは相手の意向に沿うため、相手の求める自分象になろうとするためのものでした。

      これも、飴と鞭の思考からくる「相手の要求に常に応えないといけないという思い込み」からでした。

      なので、その「受けようとする」ことをやめました。

      常に自分の目的だけを目の前に、頭においていいと。それ以外に考える必要はないと。

      もう1つは「相手のことを理解しなきゃいけない」という思い込みですね。

      相手と話している時、相手のことを察しないといけない、とか。極度に気を遣おうとするんですね。

      それもやめました。

      相手のことは、人は生涯理解できない。理解しようとつとめようとしまいと、どのみちわからない。

      なので、相手のことを一切気にしない楽なかかわり方をするように、相手のことは全く理解せずに自分の思うことだけで完結するように変えていきました。

      最後の1つは相手の感覚の上に自分の感覚を感じようとする癖です。

      例えば、何か面白いと思ったとき、その面白いというのが、自分以外の誰かが面白いと思ったかどうかを確認してから、それを面白いと思うようにする、そんな心の癖です。

      確かに先ほどまで面白いと思っていたのに、誰かが「おもしろくない」といっただけで急に冷めてしまったりしていました。

      そうやって相手に自分の感覚をのせて感じようとするので、感情すら相手の都合に振り回されていました。

      なのでこれもやめました。

      自分の感覚は自分だけで閉じている。なので、相手に乗せて感じる必要はない、と。

      自分が感じたいように感じればいい、と。

      何も感じるものがなければ、なにもなしでもいいと、自分の癖を治していきました。

      と、私の場合のケースを述べさせていただきました。何かの参考になれば幸いです。^-^

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