哲学:なぜ人は分かり合えないのか – 言葉の曖昧さ編 –





意志を伝える”言葉”とその定義の本質

ある言葉が意味している本質が、自分が抱いているその言葉のイメージと同じものであるとは限らないかもしれない。

例えば「無償の愛」という言葉が連想させるイメージは、「相手のありのままをそのまま愛する」というような、大変崇高で響きがよい言葉であるように感じられる

しかし、"自分が抱いているそのイメージ"が本当にその言葉そのものを意味しているかどうかについてはもう少し考えてみる価値がありそうである。

実際にそれについて考えてみると、「気に入らないところはやっぱり気に入らない」「ありのままに無条件に愛するなんて到底無理だ」と、それを行うには相当に難しいと言う結論に至ったりすることもあるかもしれない。考えるだけでなく、さらに実際に経験してみればよりその難しさを感じて、よりそれが不可能ではないか、という結論に達することになる可能性もある。

ところでお気づきだろうか、上記のパターンは最初に抱いていたイメージは崇高でそれをすることはいいことだと賞賛していたのに、それについて真剣に自分で検討してみると、「こんなの非現実的だ」と手のひらを反して「否定」しているのである。

無償の愛が実行可能かどうかという可能性の話はここは一度置いておくとして、このように人の言葉の定義は不確定かつ朧げであり、個人によってその理解しているものや度合が違う。

言葉とは、最初にその言葉を考えたある人の持っていた思想を、少なくともただ言葉だけ伝えただけではそれを他者に継承することはおそらくほぼ不可能ではないか。と個人的に思うのである。

その言葉と言葉の意味や定義に対する説明を受けて「いい考えだ」「素晴らしい愛の力だ」と思ったにしてもそれは「共感」であって、「理解」ではないということなのだ。



偉人達の残した言葉

他にもこういう例がある。偉人の名言を読んで、なんだか自分がすごい人間になったとか、何かを知ったような気になったと感じるという経験をしたことがある人は多いんではないだろうか。少なくとも私はよくやっていた。偉人の残した言葉たちを読んだだけで、まるでその偉人たちが達したレベルに自分が引き上げられたような感覚があった。

でも実際には全くそんなことはないのである。私はその言葉にハッとさせられはしているものの、それは結局「共感」止まりなのである。

なぜその偉人達がその言葉を残すに至ったのか、どのようなことを考えていたのか、何をしていたのか、それまでの過程について、私は一切を知らないのだ。だからそんな言葉だけをいくら知ったところで、それについて自分で考えてみたり、思考、検討して、行動してもしないかぎりそこには成長はなく、結局寝て起きたら忘れているようなものになってしまっているのである。

言葉だけでは人は自身を”開発”できない

人は他者の頭の中を覗くことができない。それは、人は他者が考えていること、つまり"思考そのもの"について、一切を知覚できないし、理解できないということである。

思考をなんとか物質的形に変換して、外界に出てくるのが「言葉」「文字」の存在であるが、いくら思想を詳細に言葉にしたり、文字に起こしたとしても、その思想を"言葉や文字に起こすというフィルター"に既にかけている時点で、既に当人の思想そのものではなくなってしまっている。

人は少なくとも現段階において、"思想そのもの"を共有する方法を確立することはできていないのである。

そもそも、思想を全て文字に変換して出力するにも途方もない労力と時間がかかる。単にその答えに対する回答だけでなく、それに至るまでにあった数々のバックグラウンドや無意識的な思考、感情など、その人の思想を構成するすべてのものについても語らなければ、その人の思想全てを表現できたとは到底言えないからである。そしてその思想がベースとなってある言葉を生み出しているわけで、その言葉を知っただけではその本質を理解したとは到底言えないのだ

仮に思想そのものを完全に言語化、文章化することができたとして、次の問題は"読み手の解釈"というフィルターを通すということである。

読み手の解釈の仕方は千差万別で、著者はもちろん、読み手事にそれに対する解釈の仕方は異なり、さらにそれを解釈した人が別の人にそれらを同じく言語や文章を使って伝えると、その度に前述したフィルターを通す行為が行われ、人がそれを行うだけ延々と繰り返されていくわけである。

言葉による情報伝達とは伝言ゲームそのものであり、使用が繰り返されればされるほど、まるで何百回もファクスを繰り返された文書のようにすすきれていき、大元の思想からはどんどん離れていく可能性が高い。

いうなれば、人の言葉によるやり取りとは、本質的にはモールス信号などのやり取りのようなものであり、言葉による信号は単により複雑な信号のやり取りをしているというだけでしかなく、その解釈はそれを受け取った読者という”コンパイラ”独自によるなのである。



言葉の"発明者"と"それ以外の使用者達"

私を例にして考えてみると、「無償の愛」という言葉は、少なくとも私にとっては誰かから聞いた言葉である。それはつまり「無償の愛」という言葉の発明者が自分ではないことを意味する。

その時点で私は、「無償の愛」の本質的意味やその定義を知っておらず、かつ前述の通り他者の思想を完全に理解する術はない以上、それを知る術が無いのである。

(余談:言葉は本来単に「言葉」であって、「言葉」にその意味が定義されていると感じるのは一種の思い込みである。なんなら人は、ある言葉だけを発明して、その意味を持たせないこともできるのである。

例えばある言葉について考えてみると「かるすまる」という言葉を今私は考えた。そして、その意味の定義を放棄すれば、この言葉には何の意味も定義ももたない、ということである。

   

言葉に意味を与えたのは人間であり、人間は言葉という「道具」を使って、自分の意思を誰かに伝えたり、後世に残したいという欲求を実現しようとしてきたのだろう。

人は、ある言葉が何かを意味する言葉であるというように解釈すると、その意味の本質的な意味、つまりその言葉を最初に生んだ人間のもっていた思想や定義を理解するのではなく、自分にとって腑に落ちる解釈を行うために探ろうとするといった方が適切である。

結局のところ、言葉は全ては記号以上の意味をもたず、それに付属してくる定義や意味といったものは、全て個人の解釈次第でしかないということになる。

言葉というものの本質、人の会話や文書によるコミュニケーションは相互理解などではなくて、信号通信である。言葉という信号のよるやり取りとそれに対する個人というコンパイラによる解釈の繰り返しでしかない。その信号に意味を持たせるのも、その信号に意味を見出すのも、全ては結局のところ個人がそう解釈したいという目的によるものでしかないというわけなのだ。

故に人は、全く同じ話題について会話、メールなどの文書によって意見交換をしていても、どちらも厳密には同じ内容について話してなどいない。

全ては発せられた言葉、文書に対する個々の解釈でしかないため、それを共有などしていない。そういう意味ではたとえ誰かと話をしていても一人で壁に向かって話しているのと本質的には変わりないのである。

違うのは他者という一種の言葉発生装置、文章出力装置という未知の出力があるかないか、というくらいであり、どちらにせよ個人の脳という閉じた世界の性質が変わることはないので”やっていることは変わらない”のである。

言葉の定義は変わり行くものである

結局のところ、言葉の定義、つまり思想は個人の中にしか存在しない。一切共有などしておらず、そう見えているだけである。

別の他者に伝え歩けば歩くほど、それだけ多くの定義が生まれ、かつ独り歩きしていく。彼らがそれを同じく文書化、言語化することによって他者の定義に影響を与え、その形を変えていっているのである。

言葉とはそのようにしてどんどんその定義を変えていくものなのだ。故に人はほとんどの言葉の真の定義について、本質的には何も知ってなどいない。

既に使い古されている言葉の大半の発明主は既に死亡しているだろうし、彼らにそれについて尋ねることができたとしても、より本質に近づくことはできるかもしれないが、思想と言葉の間にあるフィルターは想像するよりもずっと分厚く、その人のもつ定義や思想の理解に届くことはないのである。

それでも、その言葉の本質的な意味を"知りたければ"、それはもう自分で探求すること他ない。

自分の思うある言葉の"自分にとっての本質"、"自分だけの正解"、自分にとって"腑に落ちる言葉の定義"は、自分にしか出せないのである。



人間は記号しか継承できていない

人間が継承していると思っている思想、例えば民主主義や社会主義など、人の頭の中に存在するようなものたちについて、人はそれを本質的には一切継承などできていない

人が継承できているものとは全て物質的形を伴うものだけであり、それは文字とか言葉なのである。人間は文字や言葉といった複雑なパターンを作ることの出来る道具を使って、後世の人間達にそれらについて解釈、開発をさせることを”教育”と称して行い、もっぱら彼らのコンパイラに頼っているだけなのである。
最も、人間である以上は言葉による解釈は「大体同じになる」。人の思想の奥深いところまでをそっくりコピーすることはほぼ不可能だが、外界に現れてくるものに対してならあわせることはできるからだ。

自分で考えない限り、成長も理解もない

結局のところは、やはり物質的な、形あるものだけが人間に継承可能なことであり、人の思想や思考、考えることそのものについては、自分が開発する以外にはできないのである。

こればっかりは人間はどれだけ世代を重ねようとも、一から始めるしかない。受け継がれているように見える、あらゆる書籍、学問所などの存在は、言語化によってただそれらを「学べばいいだけ」にしただけであり、一種の効率化である。

それを「発見する」ことや、体系化して「精査すること」を省略することができているというだけなのである。

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