人の認知問題:他人を機械とみることは”悪”か?





TIPS:人目が気になる…なら、「他人は機械である」という見方をしてみる?

人間の認知の仕方に絶対的正解はない

悪とは、間違いであるとも言い換えられる。つまり善とは正しいこととも言い換えられる

人間はある対象に対して「〇〇は〇〇である」、というような見方をする。それは人の行う「定義」というものの性質であるが、その定義の仕方や種類によっては、ある人間にとってはとてつもなく強い拒否反応や、嫌悪感を示すものもある。

その一つが「人間は機械である」という認知の仕方だ。おそらく一般的にはまるで氷のように冷たく冷血で、人を人とも思わないかのようなイメージを連想させるからである。

そういったイメージが、それを非人間的ではないというイメージをさらに呼び起こし、やがて“悪”という答えにたどり着く。

人間を機械と見なすのは間違っているのか?

まず、人間の定義に絶対的な正解はない。たとえ科学的な定義のような盤石なものであっても、それが覆らないとは言い切れず、実際にはその奥に本質的な定義があって、既存の定義が覆ることもある。

人間の行う定義とは実は相当に朧げで、人間とは何かを知ろうとしたり、考えたり、問いを出すことはできるものの、その本質的な真実、絶対的な正解については出すことができない生物である

人間が出す回答とは「とりあえず今立てただけの問いに対する納得のできる答え」でしかなく、仮に真なる定義、真なる善に到達することができていたとしたら、人間はとっくにそれを見つけていて、一切の「間違っていること」をやっていないはずだからである。

絶対善、絶対悪はない

例えば「人殺しはしてはいけない」という定義。現代社会では法律にもなっているほぼ当たり前という「正しい定義」。

しかし、一見絶対的な正しさのように見えるこの定義であっても、現実的に人を殺してしまう人は”いる”のである、むしろ戦争などといった、その人殺しが正当化される場面すらある。

定義とその定義に対する考え方や解釈は人の数だけ存在し、万人に共通する正しい定義も、間違いの定義も存在しないのだ。むしろその定義がそっくりそのまま逆転することすらもある。



定義は何のために存在するか?

人の行う定義というものは「社会をより良くするため」「生活を安定させるため」「犯罪を抑制するため」「何かの実現のため」などといったある目的を達成するために使われるものであり、

より単的に言えば自分がしたいことをするために使われる物である。つまり、単なるツールなのである。

「正しさ」を主張する、あるいは「間違い」を指摘する、つまり定義を何らかの形で”使用”することによって、人々を説得したり導くこと、或いはその先にある目的を達成するために使われているだけにすぎないのだ。

つまり、この記事のテーマでもある「人間を機械とみなす」ということにも何かをするための目的があるというだけ、なのである。私がこれを主張しているのだって同じで、ある目的があってこれを主張、考案しているにすぎないのだ。

そしてその目的とは、例えば「認知の歪みの修正のため」に行うというものなのである。それはこのページの最初にも貼ってあるリンクの記事のことを指す。

さて「人間を機械とみるのは悪」なのか、つまり正解なのかどうかという問題について立ち返ってみると、それは「正解でもないが間違いでもない」ということになる。そしてこの定義は、ある目的のために使用されることが想定された道具であり、他にも無数に存在する様々な定義達、道具たちの一つにすぎないのだ。

「罪」の意識はどこから来るのか

人間を機械とみなすことに、罪の意識を感じることもあるかもしれない。しかしその罪の意識とはいったいどこから来ているのだろうか?

それについて考えてみると、結局は人の決めた定義を使っていることから来ているだけという事実に気が付く。

ある何かをすることが罪であると定義することによって、例えば自分が実際に人間を機会であるとみなすことによって予測される何らかのデメリットを被ることを避けるためである

そのデメリットが実際になんであるかは個人によるだろうが、例えば「自分が冷たい人間になってしまうのではないか」ということが挙げられる。そうなることによって、今まで自分が感じていた人のぬくもりやおもいやりといったモノたちを手放さなければならないことになるかもしれないことが怖いからである。

「つまり人を機械とみなすことは罪である」という定義を、そういったデメリットに踏み込まないために抑止力として使っているのだ。

人間はみな自分の「欲求」をみたすためだけに行動しているだけ

人間は原則として、自分のある「根源的な欲求」が満たされる算段が着かなければ行動しない。これはマーク・トウェインの「人間とは何か」という本の中でも語られる、人間の第一欲求と第2欲求(この言葉事態ははうるおぼえだがそんな感じで語られていた)で分けられると言われている。

第一欲求というのは、原始的なその人間の気質、根の部分から来る欲求と説明すればいいか、例えば「誰かを助けたい」という欲求は実際には第2欲求で、「誰かを助けたい」という欲求を沸かせている根源的な欲求が第一欲求であるということである。

第一欲求とは第2欲求を満たせば自身がそれで満たされるというもので、端的に言えば「自己満足」である。というか人間の欲求は全て「自己満足」が基本原則であり、人の役に立つというのは、自分が何かをしてそれについて満足した事のついでに、他者の欲求が満たされることがあるということでしかないのである。



絶対的な善、悪はない

人を機械とみるのが悪であるかどうか、本質的にそれを判断するための定的で完全な定義がどこにも存在しない、いや、存在しえない以上、善とも悪とも定義することができないということである。

絶対善や絶対悪があるのかないのかということついて真面目に考えて答えを出そうとする発想から既にお門違いなのである。本気で語ること自体がバカげているというか、最初からできないことが自明のものついて大真面目にそれができるはずだと考えているというか、

例えるなら「ある日滝の水が一人でに全てワインに変わることはあるのではないか」ということについて大真面目に検討をしているようなものなのである。

最も、それを実際に自分で考察、検討することで当人にとって何らかの意味はあるだろうけども。考えたところでお望みの答えが出てくることはないだろうが、それによって自身の理想と現実のギャップを埋めることはできるかもしれないし、なんにせよそれをしたいのならするべきだとは思う。

正しさや間違いとは所詮は個人がある事象を悪と定義しているか、正義と定義しているかでしかなく、世間で言われている悪や正義も、そういっている人の数が多いだけである。

単なるツールであり、より本質的に言うと、人は実際には他者のことを理解などしておらず、定義を共有しているように見えて、実は全く共有できていなかったりもする。常識というものですら、実際には個人差があって、一度常識とは何かについて、話を誰かとしてみると自分と違う認識があったりすることはよくあるのだ。

それについては別の記事で書いているので一旦省略するとして、“定義”というものは全ては個人の中にしかない、個人の中で完結しているだけのものにすぎない。

哲学:なぜ人は分かり合えないのか – 言葉の曖昧さ編 –

哲学:いかなる人間も、何もわかっていないし、何も知ってなどいない

人間は人間全体にとって、万人にとっての「真の正しさ」「真の間違い」を本質的に定義することはできない存在なのである。また人間とは「〇〇は〇〇である」といった「結果」の上に生きているのではなく、その結果が生まれうる可能性の上に生きている存在なのだ。

人生には正解はなく、可能性があるだけである

人間はその可能性の上に生きて、その結果出力されたある過去の事象たちについて、「正しかった」とか「間違いだった」などと意味付けしているだけに過ぎない。

人間が人間である瞬間、人間として「生きている」ことを自覚している瞬間は今この瞬間だけだ。

人間は今しか生きられない。つまり正しさや間違いの上には人間は生きられないのだ。人間にとって生きるということは可能性の上で生きることであり、無限にある可能性の中から自分が知覚している物事についてそこから選びとり、実行していくことでしかないのだ。

余談:マークトゥイエンの「人間とは何か」と、アドラー心理学を世に広めた本である「嫌われる勇気」は、いうなれば論理的分析から人間の認知領域について解析をしたもの、

心理機能の分析をすることによって得られた、それぞれが同じ対象、つまり人の認知領域に対してそれぞれ別の視点から分析、考察したものであると言える。

「人間は目的があって行動している」「人間は無から有を作り出してなどいない」「人間は創造などしておらず、全ては気づき、知覚と、それらを結合する脳の作用でしかない」

これらの事実はいろんなことを考えせてくれる。人間は「火」を作ったのではない。「火」を”見つけた”のである。人間は道具を創造したのではなく、ある何かが道具として使えることを発見しただけにすぎないのだ。

双方の分析によって出力された人間という生き物に対する”答え達”がまるで全てつながっているかのように感じられる。まさに異なる視点をもつ知性同士が奏でるそれはまさに芸術的だと言ってもいい。

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