人生には正解はなく、可能性があるだけである




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2020年04月25日~:
現在メンタルヘルス系過去記事を順次全書き直し中です。
上記年月よりも古い記事は順次修正予定記事になります。

人の行う定義に絶対的な正解も間違いもない

人生において本当に大事なこと正解は、本質的には存在しない。人の行う定義に、絶対的な正しさ、誤りは存在しないのである。

全ては自分がそう”定義”しているだけであり、その定義は人によって異なる。

もし万人に通ずる絶対的な定義があるのだとすれば、この世に生きている人々全員が既にそれに従っているはずで、間違いや正しさという概念すら起こりえなかったはずである

例えば守るべきとされる法律も、常に全ての人々によって遵守され守られているわけではなく、実際には犯罪を犯したり、法律の目をかいくぐったりする人はそれなりにいる。

それらの行為の良し悪しをジャッジする前に、本質的な正しさや間違いの存在の有無について考えてみると、仮に本当にこの世に一つの正解があるとして、それが自身の真実であったと仮定するなら、皆それを自分と同じように正解だと”思っている”はずなのである。

なぜなら、人は自分にとって正しいと思ったことややりたいと思ったこと、すべきだと思うことをやる生き物だからだ。人間とは本質的には自分の欲望には逆らえないというか、欲求に従って行動している生物でしかないのである。

故に皆が「同じ正しさ」をもっていたとすれば、つまり真の真実、万人にとっての真実があったとするなら、全ての人が常に”正しいこと”だけをやり続け、この世に”間違い”など一切起こらなかったはずである。

しかし現実世界では多くの「間違い」が存在し、それが既にこの世に絶対的な正解や真実がないことを証明してしまっているのだ。



つまり、犯罪を犯す人というのは「正解の定義」が平均的な多数の人間の「正解の定義」と大きく異なっていて、法に触れようがそれを無視してでも得られる利益や、当人の宗教観や哲学など、トータルで考えて目的を達成する上である法律を破ること必要となれば破ってしまう。それが当人にとっての「正解の定義」であるからである。

よって、この世に絶対的な「正解の定義」が存在するということを望むということは、そういった自分以外の「正解の定義」の存在を拒否する、存在してはならないと考える行為である。

社会平和や他者のためを思うものなら、崇高な意識で誉れ高い定義なのは確かだと思う。しかし、いくら自身がそう思おうとも、実際にそうでない人間はいるわけだ。

現実と理想は違うのである

そしてここに、「理想と現実のギャップ」が発生するのだ。ここに対する思い込みが強いほど、いわゆる完璧主義的になってしまう。

別に犯罪などのわかりやすい例に拘らなくとも、世の中に無数に存在する人によって、さらに無数の様々な正しさや間違いが存在している。常識や社会規範など、これらと無縁の価値観をもつ人間もいるし、「人には優しくしよう」とか、「むやみにひとを傷つけない」など、一見当たり前のように見えるこの概念ですらもそれに従わない人間というのは自然にいる。

そんな世界があることを知ってはいながらも、それらに対して拒絶反応を示し、あってはならないことなのにと一々悲観的になったりしていたらきりがないし精神が持たない。

いわゆる真面目すぎるほどこの渦中におぼれやすく、その真面目な気質が身を亡ぼすことにつながるのだ。

正解というのは過去の出来事に対する評価である

人が物事について正しいこと、間違いであることについて考える時、それは大抵過去の出来事について考えている。過去に起こったこと、過去に自分の身の回りでおきた事。

そういった経験に「正しかった」「間違いだった」と定義、装飾しているのである。

未来におこりうる事に対しても同じように定義ができる。例えば「〇〇をしてはいけない」という行動を抑制する、あるいは律するための定義がそうだ。しかしこれも結局のところは過去の経験に正しい、間違いという定義を根底に算出して定義しているだけである。

だがこの定義が実は通用しない瞬間がある。それは今という瞬間だ。

今という瞬間に存在し続ける”可能性”

今というのはまさに今起こっていることを指す。今こうして文章をお読みになっている瞬間である。この起こっている瞬間について、人は実は「正しい」「間違い」であるという定義をできてなどいない。

今という瞬間に強い意識を向けて、「今自分は正しいことをしている」「今自分は間違っていることをしている」と思考してみたとしても、それは自分が実際に今何かをしたという「結果」に対して意味付けをしているにすぎず、結果とは既に過去に起きた出来事なのである

人は5感を駆使して世界を感じ取っているが、感じ取った情報を一旦脳が解釈するわけである。それは視界だったり音だったりするわけであるが、既に「起こったこと」に対して解釈、思考しているのだ。

それがどんなに一瞬の差であっても全ては過去の出来事でしかなく、人間は常に過去の出来事について思考しているのである。

では「今という瞬間」はどこにあるのかというと、それは5感について感じている”その瞬間”や、それについて解釈、何等かのことがらに対する思考を行っているまさに今という”この瞬間”のことである。その瞬間に人はそれが間違いであるか正しいであるかという定義を割り込ませられない。そう定義した瞬間には既にそれは過去のものだからである。

「今という瞬間」から結果が生みされ、その結果に対して意味付け、つまり、正しかった、間違いだったを定義しているだけなのだ。

つまり今この瞬間に存在しているのは、その結果を生みだす種である「可能性」だけなのである。

今を生きる = 可能性の上に生きる

「今を生きる」という感覚は、まさに”この一瞬”について生きる生き方と言えるのだ。というか人間は、本質的には常に今しか生きられなどしないのである。

人は”今”しか生きられない

正しさや間違いは過去にしか定義できず、未来に対する予測はその応用にすぎない。そして今という瞬間にはそれを用いることができない。

「生きていること」とは「自分が存在していること」とも言い換えられる。つまり今この瞬間しか生きていることを証明できない人間という存在にとって、正しさや間違いという過去のものはその存在を証明することができないということになる。

正しさや間違いとは、存在ではなく概念である。定義は常に過去に対して行われ、全て結果論にすぎず、自分の今後の行動を決定尾する際に使うための単なる道具であり、自分が今を生きる上であらゆる可能性を選定するための指標としているものにすぎないものなのだ



常に可能性を選択している

人は可能性の上で生きており、常に一つの可能性の上でしか生きていない。つまり、多くの様々な可能性の中から一つを選んでいるという事である。そう意識せずとも実際にはそうしてしまっているのだ。

こうやって私の記事を読んでいるのも、他にも実行可能であったはずの様々な別の可能性達を捨ててまで、たった一つのこの記事を読むという可能性を選び取ったのである。

人間にとって生きるということは、可能性を選定しながらその可能性の上に生きることを繰り返すことなのであり、そこには正解も間違いも存在しないのである。

人は今しか生きられない。今という瞬間にしか、自分という存在は存在などしてない。故に人の人生はには正解も間違いも存在することはなく、

過去に起こった出来事を記憶してそこに定義という意味付けを行うから、正しさや間違いがそこに存在しているかのように錯覚しているにすぎないのだ。



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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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