愛を与えることで得られる”愛という感覚”。





愛を与える時の瞬間とは、純粋な興奮と多幸感み満たされた状態といえるかもしれない

人は基本的には今こうして生きているだけで既に幸福を感じられる生き物。

承認欲求を捨てた先に見つけた純粋な幸福

しかし私は、さらにその幸福の状態を超えた先にあるものが「多幸感」であると最近思うようになりました。私は趣味で絵を描いているのですが、絵を描きたい対象が愛おしいければ愛おしいほど、それだけ夢中にかつ幸福を超えた多幸を感じられることに気づいたんです。


※最近描いたものです。大したものではないですが、丸二日ずっと噛り付いて描いていました。描いているときは本当に夢中で、終わってみるとつき物が落ちたような感覚でした。とても充実感に満たされていました。


これは一種の興奮状態であり、ある対象に自身の愛をささげようとすることで、愛という感情で自身が満たされている状態だと説明できます。

純粋な「好き」

何かを好きになるということは、そこに誰かの許可だとか人目みたいなものが一切ない、ただその対象を愛おしく思い、夢中になることなのだろうと思います。

これは私にとって「好かれること」、「愛されること」を求めている時の感情とは似ても似つかないものでした。

実感して初めて分かりました。完全に別物です。しかし私はかつてこれを”愛”などと呼んでいたんですな。好かれることが愛、愛されることが愛なんだと思っていました。

でも考えてみればそれはほとんど苦痛しか与えてくれませんでした。誰かの愛を求めれば求めるほど、空回りし、自分に嘘をつき続けキズつけていたんです。

恐らく、「愛される」ことを求めることほど、自らを腐らせていくものはないのでしょう。求めれば求めるほど自分がなくなっていきます。

人間はおそらく自身の外から自分に与えられることがあると期待したその瞬間から、既にその身を腐敗させていっているのでしょうね。

そんなものは外のどこにも転がっていないというのに…

転がっているのは自分自身の心の中だったんです。

他人にではなく、自分で自分を愛することこそが愛の本質だった。他人に自分はどうがんばっても愛せない。

なぜなら人は人のことを理解することはできないから。人が人に対して行う愛とは、相手の姿に自分が想像した相手の内面を投影して作り上げた「虚像」に対して行われているものであり”相手そのもの”じゃない。そしてその虚像も突き詰めれば自分自身だからなのです。

共感と理解の違い – 人の限界 –

「自分で自分に与えること」。これこそが私が探していた、いえ、探すべきものでした。

そして、それを他人やものに対しても応用し、与えることも愛だったんです。そしてその瞬間こそが人が最も多幸感を得られる時なのではないかと私は思います。

求めるのをやめて、与えることだけに専念する

人が感じられる最も多幸な瞬間とは「自分が愛を与えたいと感じることのできる対象に愛を与えている瞬間」なのだと思います。

逆に人が感じられる最も不幸な瞬間とは「何かから愛を与えられることを期待する瞬間」なのだと思います

だから不幸から逃れたいのなら、「求めること」はもうやめること。金輪際求めることによって自身を満たそうとすることをやめる。

もう何からも、誰からもそれらを求めてはいけない。そしてこれからは「与えること」だけに専念する。

何かを愛すること。それだけに専念して他は全て捨てていいんです。

といっても、最初の頃は与えることによってその見返りを欲しがると思います。

それはまだ「求めること」が抜けきっていない証拠、というか、与えるという行為を手段にして、与えられることを期待しているだけで、

結局は与えられることを求めることをしてしまっていること同じです。

与えることで幸福になるというのは、与えること”そのものの行為”に多幸を感じること。

それをしているだけで幸せ。愛しているだけで幸せ。愛することのすばらしさはこの与えることが根幹にあると思います。



愛を与えるだけでいい。

だから、そういう気持ちになれる「与えたい対象」を見つけられたら、とにかくそれを愛する。与える。

何の見返りも期待することもなく、ただ与え続ける。もちろん自らの素直な与えたいという欲求によってね。

不思議なことに見返り無しでもそれだけで多幸感を得られる。それが”愛という感覚”だと私は思います。

自分が愛を与えているということを実感すること。それだけでよかったんです。

それが人にできること。与えることだけが人にできること。多幸感とは与えることで得られるものなんですよ。

愛に見返りはいらない

本当の愛の前に見返りなんて初めから必要はないんですよ。見返りっていうのは、ある投資と引き換えに何らかを受け取ることを期待すること、それによって自身を快楽に導こうとしているのが本質。

つまり愛していることと引き換えに相手に何かを求めるのは、愛することを投資だと考えているわけです。

それは”フリ”であって本当に愛しているわけじゃない。

愛することを相手から与えてもらうための手段だと考えているわけです。

そういった見返りを求める愛は愛じゃなくてただの承認欲求なんですよ。相手に愛されるために愛しているフリをしているだけ。

本当の愛とはそんな承認欲求を満たすための”手段”なんかじゃないんです。

本当の愛は愛すること自体が既に目的なんですよ。何かを愛することで自分の脳内に快楽物質を発生させることができるわけですから、それだけで充分に自分を満たしうるんです。

愛することは誰にだってできること

誰でもできるんですよ愛することなんていうのは。お金がなくたって、どんな容姿の人間だって、無教養であろうがなんであろうが何者だろうが誰でもできる。

多分人間以外の動物だってできるんじゃないかと思います。犬や猫だって人間とやっている基本的なことは同じ。おなかがすけばご飯を食べる。眠くなれば寝る。家族や仲間を大事にしようとしたりもする。

全て自分のそうしたいという欲求に素直に従っているだけ。

むしろ人間みたいに自身の面子なんて気にしてもいない分、動物はずっと人間よりも素直に快楽を感じているかもしれません。

人間よりもずっと素直で無垢な分、愛がなんであるかにも既に気づいているかもしれないですね。

つまり、何かを愛することも同じなんです。自分が気持ちよくなるから、何かを愛する。

そして何かを愛することで既に快楽を得られるわけですから愛に見返りなんて初めから必要ない。既にその時点でゴールなんですな。

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