哲学:美とは何か?




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2020年04月25日~:
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それは「わかりやすさ」ではないか?

例えばマジョリティの思う美というものは「きれい」「かわいい」「かっこいい」という、見た目に関するものだ。

「見た目」は非常にわかりやすい。

なにせ「ひと目でわかる」

目でただ見る“だけ”で、美しいかどうかを判断することができる

その時間秒もかからない。これほどわかりやすく迅速な判断基準はない

だから多くの人に見た目は愛されている。

良くも悪くもね。

見た目の美しさとは、形状的な幾何学的法則である

整った顔つきとはよくいったもので、顔のパーツの位置、大きさがある幾何学的ルールにそって調整された形になっていることがマジョリティの美、見た目における美しさだ。

幾何学的であることはわかりやすい

「直線」という史上最もわかりやすい人類の美の発明品

世間一般で見られる人の顔の美しさの基準は、幾何学的なルールに基づいている。

Eラインなんかはわかりやすい。鼻先から顎が一本の線で結ばれ、間にある口に邪魔されることなく直線で通る形。

人は折れ曲がっていたりぐちゃぐちゃになっている何かよりも、一本の線できっちり整理されているものを気持ちよく感じる

各パーツの配置は黄金比というものがあり、これも幾何学的なルールに基づくものである。

眉間と両目それぞれの横位置、の大きさはそれが直線的な領域に並んで3等分であることが美しいとされているのも、そのような幾何学的な測量的解釈があるからこそだ。

人は直線が好きなのだ。

例えば絵を描くとき人は、大抵直線から入る

描きたい対象を図って描き、直線的な線を引いてあたりをつけていくのだ。

その図りだって大抵直線だ。

鉛筆だったりペンなど、直線的なものを使って測定し、大きさや距離感を図っている。

その他にも身の回りにある人が作ったいろんなものを見てみればわかる。

手元のスマホ、パソコンのモニター、キーボード、机、スピーカー

家の形、柱の形、箱の形、などなど…

そのほとんどが直線という特徴をどこかに持っているのだ。

直線はこれほどに日常に満ち溢れている。

人間の作ったものという世界において。

人間はこれほどにまで直線を愛しているのだ。

円はどうか?

円も突き詰めれば直線である。直線的であるといった方がいいか。

円は非常に小さな点のような線がある“一定”の角度をもって連続して並べられ、規則的な線を型作りそれが円として表れている。

ある定的な規則に従って線が引かれているという意味でも円と直線はほぼイコールなのだ。

 

人間は規則とか法則とか定義といった、一度決めたらそれについて二度と考えることなく繰り返し用いることのできる便利な何かが好きなのである。

物事への単純化。そのような趣向性にこそ、美は存在しているのだ。

数学における美

数学の本質は、ある事象の単純化である。

数学は古代ギリシャのユークリッド幾何学に始まったもの。

ユークリッド幾何学とは、現実という世界に対する数的な尺度を図ろうとしたものだ。それをもとに数学も生まれた。

つまり数学とは現実に対する測量であり、測量ツールであるが、

その測量の仕方に着目してみると、現実を「直線」や「点」、「面積」「体積」という「わかりやすい形」に還元することで世界を定義化、単純化しようとしていることがわかる。

実際には定的な形など存在しない“線的でない現実”に対して、“線的な測量定義”をこしらえることが数学の醍醐味だ。

そしてその過程で作り出される数式こそはその発展といえる

数式は、数式に親しみがない一般的な人からみると、まるで泥の中でミミズがうごめいているかのような、まがりくねった複雑な線の組み合わせの、見るのもおっくうな記号にしかみえないが

数学者から見ればあれほど美しいものはない。

あの数式の中には、これまでに発見してきた様々な定的な数式化の積み重ねが美しく見組み合わさって造られている。

単純化の結晶みたいなものだ。

それを美といわずして何と言おうか。

一般的な美の基準である「わかりやすさ」を、数学はさらに求めてそれを作っているのだから。

人類が作り出した美の結晶そのものなのだから。

人はなんらかの定義に美しさを見出す。

人は定義することが好きだ。

「〇〇は〇〇だ」とすることが、人は好きなのである。

なぜかといえば、それは「楽だから」「楽になると思うから」である。

「〇〇は〇〇だ」だと決めておけば後で同じことを繰り返し考えるなくて済むからだ。

一旦定めた定義は、その定義された言葉を聞く、読む”だけ”で、それに結び付けた解釈を呼び起こすことができるからである。

それらはすべて「わかりやすいもの」「自明の物」として自身の頭の中に構築されるのだ。

それは自分に安心感や希望のようなものを与えすらする。

楽になる。だから好きなのだ。

何かを美しいと思うことも同じこと

「〇〇は美しい」

「〇〇は〇〇だから美しい」

というように、何かと理由をつけて美しさを定義するのである。

その都度いちいち考えずとも、そうやって美を分かりやすく定義しておきたいのだ。

そしてその定義を作るのも、そりゃ楽に定義できたほうがいい。

だから見た目がマジョリティになる。最も楽な美を見出す手段だからである。

美とは単純化への過程である

もはや楽の象徴。いや、美というものの本質を考えれば美の本質とは直線であるといってもいい。

直線ほど単純な測量はない。損な直線を多くの所で使っている人類が、直線が嫌いなわけがない。

単純であることが嫌いな人などいない。つまり美を嫌う人間などいやしないのだ。

人は単純、つまり楽が好きだ。

なぜ人は美しさを好むのか。その答えは単純で容易だからで、楽をしたいから。

そして何故楽がすきなのかといえば、快楽を感じたいのだ。

例えば容姿が良い他者と関われば自分は気持ちよくなれる、幸福を感じられるはずだ、というものなんかはわかりやすい。

イケメン、美女。そういうものが好まれるのは、その先に感じられるであろう何かに対する信用が高いからなのだ。

美とは、それそのものが目的なのではない

ある誰かの言う美しさというものの先にあるのは全てその当人の「得」なのである。

その先にある何かを求めるから、それを美が保証してくれると直感的に思い込むから、美が好きなのだ。

そしてその美に騙されるのも、また人間である。

いくら見た目がよくても、その内面までは保証されていないというのに、さもそのすべてが保証されているかのようにみてしまうのだ。

人はその「わかりやすさ」という魔力に魅了されてしまうと、そこから逃れることはできないようである。

(いわゆるハロー効果というやつだ

早い話が、美とは楽、快楽を求めるメソッドなのだ。

人間は楽するために美しさを発明した

美しさは「信用がある」と考えられているのだ。

美という信用を、人間は発明したのである。

だから多くの人が美という信用を得るために見た目を磨くのである

多くの人が見た目に執着するのは、楽で信用が高いからなのだ。

それを得た先に、自身が感じたい何か、得られる何かがあると信じているのだ。

つまり美しさとは、自身が求める何かの信用の担保でもある。

当人が何かを美しいと思い込んだ時、それには必ずその先に求めるなにかがある。

それは物欲的なものかもしれないし、単に美しさの先に何かを感じたいだけの感覚的都合、

もしくは学術的都合か、社会的都合なのかもしれないが、

何れにせよ共通しているのは、当人が欲する何かがその美しさの後ろ、向こう側にあると考えられているということ。

だから逆に、美しさを台無しにするかのようなものは信用されない、ということでもある

容姿が汚ければ当然信用されづらい。

汚い字は読みづらいとつっぱねられるし

よれよれのスーツを着た男は信用されない

そうやって皆、見た目で判断するのだ。

いわば見た目で判断するのは、人間の生理的特徴とその認知特性から、ほぼ自然であるといってもいいのだろう。

誰も他人のために、わざわざその他人の中身を探ってまで魅力を見つけてあげようなどとは思わないものだ。

たまにそういう人もいるようだが、そういう人はまた別の目的を持っているというだけ、いや、美の基準が違うというだけにすぎない。

内面にあるかのように見える何かに美を感じる。例えば知性だとかそういったものだ。

「見た目の美しさなんか安っぽい、嘘っぱちだ」と、見た目に信用を置いていないというだけの話である。

そしてその代わりに「知的であることは美しい」というような定義を定めたりしているのだ。

要は何を美とするのか、その定義に信用を置いている違いがあるだけ。

その先に自分を気持ちよくしてくれる何かがあると信じているその担保の形が違うだけだ。

何かがわかることが美なのだろう

何かがわかることによって、その先の何かを得ようとするその行為。

信用も、何か感じさせてくれそうなものがあるとわかったからそこに置くのである。

つまり美とは、そうやって何が美なのか、そしてそう見つけた美が何を感じさせてくれるのかを確かめようとする過程そのものなのだろう

美を追求することでその先にある何かを得ようとしているのである。

その正体はおそらく自分の何らかの感覚だろう。

美しいものをみて気持ちがいいと感じたり

美しいものを作って気持ちがいいと感じたり

美しいものを手に入れて自身を美しくすることで気持ちがいいと感じたり、

美しいものを探し続けることで人生の暇の中、楽しさを感じようとしたり

美しいものを発見し続けることで楽がしたいと思ったり。

そういった最後の最後に存在している自分の感じたい感覚を感じるためのツールの一つとして、美というものを使っているだけなのだ。

美は単なる手段にすぎない

つまり美とは自身のある感覚を求めるためのツールにすぎず

「美そのもの」なんていうのは存在していない。

なぜなら美とは、それを美であると認知したり、美である何かを求めているその過程に存在するのであって、

何も基底されてなどいないこの物質的世界には存在しない概念だからである。

数学も人間がそれを作らなければ存在しえない。

人間が数学的解釈を認知しなければ存在しない

認知とは今この瞬間何かを認知するということなのだから、今自分がそう認知しているかどうかの瞬間にしか存在しないものだ。

だから美も同じで、美であると認知したその瞬間にしか存在しないのだ。

美を追求している時だけ美は存在する。

つまり美とは、今自分が感じている何かにしか存在しないということなのだ。

今自分が現実で何を感じようとしているのか。

その感じようとしている何かに美しいと感じる何かがあれば美は存在する。

たったそれだけのこと。

美とはかくも刹那的で、自分の都合よりけりのもの。そんなツールでしかない。

自分だけの概念、存在なのだ。



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