「自分の人生を生きる」とは






2020年04月25日~:
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幸せとは

例えばこの国では結婚することが幸せの実現方法として広く普及していますが、反対にそれができなければ不幸であるという風潮もあります。

しかし実際に自分にとって何が幸せか、何が不幸なのかは、世間や他人が決めることではありません。

自分が決めることです。いくらそう外野が叫ぼうが、最終的にそれを自分に定義しているのは他でもない自分自身でしかありません。

承認欲求を捨てた先に見つけた純粋な幸福

自分が本当にしたいことを選択し続けること

自分は何をしたいのか。何をしていきたいのか。それは本当に心からしたいと思うことなのか。

人生は選択の連続です。いくつかの選択可能なカードの中から選んで実行していく。

人間は今というこの瞬間に生きています。逆に言えば、今という瞬間以外を人は生きられません。

人は”今”しか生きられない

人間には本当は過去も未来も”ない”。“ある”と思うのは、人の脳がもつ記憶という機能を「過去」と認知しているだけにすぎない。未来はその応用版ですね。



本当に”ある”のは今この瞬間だけ。

そして、今実行しているのは常に一つのことだけです。例えばこうしてこの文章をお読みになっていること。それと同時に別の文章を読んだりすることはできない。

過去を悔んでいる時と同時に今を起きていることを考えることはできない。未来を思い描いている時も。

機会損失、機会費用ともいいますね。ある選択をするということは、その瞬間に選択可能であった他の何か達を捨てているわけです。

例えば人目を気にするということは、同時にその時に気にできた別のことを気にすることを捨てているのです。

人目があるからできない。人目があるからそこにいけない。そんな風に自分にそれを選ばせない選択を自らしてしまっている。

人間は選択可能な多くのカードの中から常に一つしか選んでいないんです。

それが人間という仕様の限界です。

世間体を気にすれば、選択可能なカードは狭まります。誰かに褒められることしかしなくなるからです。

できないことと、しなければならないことが増えるだけです。

自分の人生を生きるというのは、世間体や人目などといった他者承認に縛られることなく、自分が純粋にしたいと思う事、自分の心の声にだけ耳を傾けて実行していくことだと私は思います。

他人というのは本当に当人に都合よく生きているだけの存在であることを知ること

ある電気の無い村の話。街頭もなく小さな電球すらない村の話です。そこである一人の村人(“A”とします)が、電気を使えるようにと日夜開発にいそしんでいました。

村の人々はそんなAを笑い貶しました。

「そんなことしても無駄だ」

「お前にできるわけがない」

「他にもっとやることがあるだろ。すべきことをしろよ」

「夢見てんじゃねぇよ」

無責任なもんですね。Aのことを何もしらずに自分の基準で他人を語り、あわよくば邪魔しようとしているのですから。

しかしAはどこ吹く風、あきらめず日夜開発にいそしみ、ついに電気が使えるようになりました。

電球で明かりをともし、夜間も明かりに困ることはなくなりました。

すると今までAをバカにしていた他の村人たちが

「俺たちにも電気を使えるようにしてくれないか」

とAにねだり始めたのです。やれやれ…



…とまぁこんな感じの話を昔聞いたことがあったので、覚えている限りで書きました。

なんとも勝手な村人たちの話なんですが、人間ってのは基本的にこれです。勝手なもの。

まず最初に、他の村人たちはAをバカにすることで自分たちを正当化しようとしていた。Aのようなことをすることが愚かであるとすることによって、自分たちは正しいとしたかったわけです。

つまりAを自分たちが気持ちよくなるためのサンドバックとして使用していたにすぎません。これは私たちの世界でもよく見られる光景なんじゃないかと思います。見たことがある人、あるいは思い当たることがある人は多いんじゃないでしょうか。

ちなみに私はその両方です。どこかの掲示板やSNSで特定の人をボコボコにこき下ろすような光景をみたこともあるし、そんなその他大勢に混じって批判、糾弾したりしたこともある。

そうしたのはそうしたいと自分が思ったから。そうすれば気持ちよくなれると思ったから。ただそれだけのこと。

「相手のためだ」「社会のためだ」なんていっちょ前に考えたこともありましたが、結局のところ自分がなぜそうしたいと思ったのか、その要因を突き詰めればやっぱりそれは自分の快楽のためでしかなかった。

人間は死ぬまで快楽とそれを求める欲の奴隷なんです。快楽を得るために手段や目的を考え行動し、生きている。ただそれだけの存在。

アドラー心理学の目的論の先で見つけた「快楽欲求」

さて村人たちの話に戻りますがついにAが電気を発明すると、今度は村人たちも電気が欲しい、明かりが欲しいと言い始めAにねだり始めます。

つい最近までAを批判していた彼らが手のひらをかえすかのように態度を改め懇願し始めたのです。でもこれは最初の冒頭の村人たちの本質と何も変わりありません。

村人たちはつねに自分の欲求に従い、快楽を得ようとせんがためにAを”使っている”だけです。

Aをバカにしたのも、電気を欲しがったのもそうすることによって村人たちが気持ちよくなりたかったから。

人間というのは自分が快楽を得るためなら人間をも道具として使う生き物なわけです。

人間なんて生き物は少しも高潔なものでもなんでもありません。それこそ”残虐”と言われるようなこともできるようにできている。

常に自らの「欲」に従っている。その形は様々でしょうが、聖職者などの人達でさえも、自分がそうしたいという「欲」にしたがって生きているだけにすぎない。

人間は基本的に動物です。他の動物たちと違うことがあるとすれば、より詳細な「気づき」を得られるように脳が設計されているくらいです。

欲に従い快楽を得るという本質的な仕組みは変わらないんです。

だから他人の言うことを真に受ける必要なんてないわけですよ。

他人は他人自身の欲求に従い、こちらのことを少しも理解せずに好き勝手に言っているだけにすぎないわけですから。

共感と理解の違い – 人の限界 –

正しいとか間違いとか語るのも、所詮は自分の主張を通したりするだけの道具の域を出ないわけですよ。そうすることによって快楽を得ようとしているにすぎない

自分と他者は対等です。だから自分も自分の都合を通せばいい。自分も他人たちと同じ人間であり、快楽を求め欲求に従っているだけにすぎないからです。

だから自分が本当にしたいことがあるなら、それをするために行動したらいい。考えることで不快な気持ちにさらされるなら、それを考えるのをやめてしまえばいい。

それを強制してくる人間がいようがいまいがかまいはしない。精々フリをしておくくらい。それもそうすることによって達成できる自身の純粋な欲求、自己実現のためなら。

自分のために自分を律すればいいし、余計なものを捨てていけばいい。

この世に、「こうあらねばならないこと」など何一つない

「やらなければならないこと」

「こう感じなければならない」「こう考えねばならない」「こうとらえればならない」そんなものはないのです。

全ては無数にある快楽へと導くための手段、道具の一つでしかない。それにこだわる理由も必ずそうする理由もないんです。

自分から見てあらゆる”存在”、”概念”は道具以上の存在にはなりえないわけです。全て自分の欲求、快楽を満たすための道具なのです。

人であろうがものであろうがそれは変わらない。人間が道具なんかではないと言われるのは正確には「扱い方」の問題でしかなく、他者という道具の領域をでることはない。

そういう意味では承認欲求ほど邪魔なものはありません。承認欲求は快楽とは逆の不快感を得るはめになるヒューマンエラーの宝庫であり、かつ選択可能なカードを他人に好かれるかどうかという条件でさらに絞り込んでしまう、自分が純粋にしたかったことがそれによって除外されてしまう可能性もあるからです。

ほとんど邪神です。自分を破滅へと導ているのならまさに悪魔、歪んだ神といって相違ない。

Aには多分承認欲求はなかったか、あっても相当に薄いものだったのでしょう。

Aは人目を気にするよりも、開発することの方がAにとってずっと大事だった。Aは人目を気にすることを選ばなかった。

Aにとって外野の声なんてほとんど無価値だった。興味がなかった。

村人はAに対してその時の自分たちに都合のいいものを元めた。一方Aは村人たちに対して何も求めなかった。

Aは自分のやっていることそのものに夢中になっていただけで、それに対する評価や正当性を村人たちに求めなかったというだけの話です。



自分の正当性を証明することをやめること

「今自分は正しいことをしていただろうか。」

「おかしなことをいってはいなかっただろうか。」

「誰かにおかしな目で見られなかっただろうか」

「こうすればだれかに評価してもらえるかもしれない」

「これをやれば誰かが自分をほめてくれるかもしれない」

そうやって自己の正当性を証明、または確認しようとすることを一切やめることです。

自分を正当化する行為をなんのために行っているかにもよりますが、その根源が承認欲求であれば自己を正当化しようとすることで自身を傷つけている可能性があります。

「自分の意見、考えは”正しい”はずだ」と自分に言い聞かせ、それを外に求め続けている間はなんともいえない不快感にさらされたりします。自分を不快にさらしているだけの無駄な思考なわけです。

今に夢中になるためにははこれを捨てなければなりません。正しいとか間違いとか、外にあると思うものを求めることをやめること。

必要なのは「今自分がしていること」だけ。「今自分が感じていること」だけ。

それを愛すること。夢中になること。与えること。取り組むこと。

それ以外のことを考えることは一切やめること。他人の目を意識することなど、全部余計なことです。

「でもそれって勝手なことなんじゃ?」ってんなら、そりゃ当然ですよ。

当然っていうか、空気があることを世紀の発見のように言っているかのような違和感すらあるくらい当たり前なことです。さっきも言いましたけど、人間は元来より勝手な生き物、快楽を求めて生きているだけの存在でしかありません。

元々勝手なんですよ。人間なんてのは。それに罪を感じても意味がない。

人間には他人を理解できません。理解できないという時点で、他人の真に欲するものを理解することはできないし、そもそも他人に従うのも自分がそうしたいという”勝手”がそうさせているにすぎないのですから。

それに素直に生きることを罪だとかいけないことだとかしたのも、別の人間達が同じく勝手に決めて勝手に押し付けてきたにすぎない。

親がそう言ったんならそれは親の自己満足のためでしかない。他人がそういったのなら他人の自己満足。それが自分を思ってのことでも、尊いと言われることでも、彼らが満足するためにやったことにすぎんわけです。

人間の社会というのは、様々な形をしたいろんな人間がもつ欲望とそれが引き起こす事象がひしめき合う世界でしかないんですよ。それは自分も同じなんです。

それに他人に何を言われようがどんな顔をされようが、他人の頭の中を考えても意味がありません。他人の考えていることはわかりませんから。

そしてそれらに屈する必要性も初めから存在しない。他人に屈するという選択すら、快楽に導く手段にすぎないんですよ。

だからそれが実際には快楽ではなくてもし苦痛ばかり与えてくる手段なら捨ててしまえばいいだけのこと。

自分が気持ちよくなれるものを選択していけばいい。そこに個人的にさらに付け加えさせてもらうなら、いつでも自分の意思で選択するという自由を行使した上で。

もし薬物なんかに手を出したらそれ以外のものに目が向かなくなります。承認欲求についてはいわずもがな。



人生はシンプルであればあるほど、用意に、楽に、かつ楽しく生きられるものです。人目や承認欲求というのはそれを複雑化する可能性を秘めた扱いの難しい存在です。物事を複雑に見るようになりネガティブに捉えがちになります。

いわゆる「スカッと生きる」というのは単純な人生を生きるという事なのではないかと私は思います。

自分が生涯をかけてしたいこと。今したいこと。そんな「自分がしたい」という単純な欲求に従って生きること。

されたいなんて欲求は微塵もない。

その単純さが本来の人間らしさではないでしょうか。

そんな人間の限界から脱しようとするなど、高潔ぶるなど神にでもなろうとしているようなもの、高望みにすぎません。



アドラーの心理学を論理的に実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学だといわれています。

管理人が実際にアドラーの教えをもとに実践した内容の記事を残しております。

孤独 認知論
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私のうつ病の主原因は「甘え」だった。甘美に感じられた「甘え」が私を苦しめていました。

そんな私が自分の甘えから脱し、

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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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