5感と認知のギャップを知って楽になる






2020年04月25日~:
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人間の感覚器官は5感が全て

人が実際に感じ取っている情報は5感が全てです。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことです。

それ以外の情報「相手の気持ち」「相手の感情」「相手の思考」というようなものは5感の範疇ではなく、感じ取っているものではないのです。それは自分の思考や認知がそう捉えているにすぎないものです。

当たり前のことのようですがこれを実際に自覚した上で考えたり行動するのは結構難しかったりします。



嗅覚で考えてみる

嗅覚は匂いを感じ取る感覚のことですね。人は匂いを嗅ぐことで食べ物を認識したり、焦げ臭いにおいを感じて料理を焦がしてしまっていることに気づいたりします。

しかし匂いという感覚自体は悪魔で感覚でしかありません。例えばある匂いを嗅げば必ずある特定の何かの匂いであるということを指すことはありません。

硫化水素臭

「卵の腐った匂い」というのがありますね。しかしこれは実際に卵の腐った匂いを指さない事もあります。硫黄なんかがそうです。

悪魔で自分の経験上嗅いだことのある匂いからもっとも想像しやすい何かを持ち出し「似ている」と判断したものからそう言っているに過ぎない。

また同じく匂いによって「腐っている」「食べることができないもの」というように人は判断します。

一般的に「臭いもの」は食べられないものというイメージがあります。

しかし臭いけど食べることのできる食べ物というのは実際にあって、くさや、ドリアンなんかが該当します。

前述でも言いましたが匂いは悪魔で匂いです。人間、いや自分の感覚でしかないんです。それが外にある何かを絶対的に定義するとは限りません。

定義や意味、価値、事実などは全て感覚を受け取った自分の脳がそれを元に思考しているだけというのが本質なのです

そしてこれが認知の歪みの元となる、思い込みの種となります。

他の感覚器官にも同じことが言え、触覚も何かを熱いと感じたり、冷たいと感じたりするのも絶対的な感覚ではなかったります。

井戸の水は1年を通してほぼ一定の温度に保たれていますが、夏場で飲むと冷たく、冬場に飲むとぬるく感じたりします。

味覚もおいしいものなら安全、栄養価の高いものとは限らず、毒キノコの中には美味のものもあります。

聴覚は洞窟でだれかの叫び声のようなものが聞こえた、というのが実際にはただの風の音だった、ということもあります。



視覚を元にした思考の中には最も認知の歪みの種が潜んでいる

人間の5感と思考は完全に別機能であり、この境目を見誤ると思い込みが発生します。

中でも視覚はそれが多く発生しうるものであり、かつ人間関係の悩みに起因した精神疾患の元であると私は考えています。

視覚は人間が世界を感じ取るものの中でも相当に重要な機関と言えるでしょう。目が見えなければ自活することも非常に困難を極めます。

それほどに、人は生きていく上で視覚という感覚に依存しています。

しかし、この重要な視覚という器官から得られる情報というものですら「単に見えているだけ」のものであり、それ以上の意味はありません。

目に映っている情報は突き詰めれば全て2次元画像です。全ては網膜に映し出された光、色情報というだけにすぎません。

パソコンで言うところのディスプレイ、スマホで言うところの液晶画面です。あれらは全てドットに色を映しているだけのものであり、それ自体に奥行きが在ったり、何かを計算したり、プログラム的な処理が働いているわけじゃないですよね。

しかし人は、そのただ「見えているだけの物」にいろんな意味をつけています。まるでそこに何か意味や価値があるかのように。何かを「きれい」といったりするのがそうです。

そういう意味では人はほとんど「ありのままに何かを見る」ということができていません。

素朴実在論という「人は見たものを見たままに見ている」というものがありますが、これができている人は現代社会の様子を見ると、ほとんどいないんじゃないかと思います。

特に現代人はいろんなモノに溢れた社会であり視覚的情報によって様々な「価値あるもの、ないもの」とされているものがあります。

自分が世界をどのようにみるか。みようとするか。網膜に映し出されたものを自分がどのように見ようとしているかによって、世界の見え方は随分変わって見えるわけです。

人間の感じ取っている世界は狭い

今の情報社会と言われる現代では多くの人が何かを知った気でいる社会であると私は考えています。

スマホやPC、インターネットの普及によって、よその国の情報も手軽に入手できますし、SNSを通じて本来は意思疎通する機会すらなかったはずの見知らぬ人の投稿を見ることもできるようになった。

そんな社会に生きていると、まるで社会を知ったかのような気分に陥ることがあります。

「日本は終わってる」「日本はダメだ」「日本はすばらしい」「日本はすごい」だなんていう、ほんの少しの情報を見ただけで全てを知ったかのように感じてしまったりします。

それが思い込みの種となり、時にネガティブな思考を育てる原因にもなったりします。

5感の範囲

しかし実際のところ、どれだけ科学技術が発展しようが人間の感知できる範囲、つまり5感が感じ取れる情報やその範囲は古来から変わっていないのだと思います。

人間の感知可能範囲は自分を中心に半径1mくらいです。自分が手や足を延ばして届く範囲です。

味覚、触覚、嗅覚はそれぞれ舌や肌が触れた時、鼻が吸い込んだ空気からしか感じられません。

聴覚は遠くから聞こえてくる音を感知することもできますが、厳密には自分の鼓膜まで到達し、伝わってきた音のみです

視覚も同様です。遠くを見ることもできますが、実際に”見ている”のは自分の網膜に映し出された2次元上の色情報でしかない。

つまり景色そのものを直接感じ取っているのではなく、目という器官に映し出された情報を「見えているもの」として脳が処理しているだけ。

自分が住んでいる国や場所どころか今いる空間のことすら実は禄に知ってなどいないのです。全て感覚器官というフィルター、それも随分狭い範囲にしか届かない者を元にそれを感じ取っているだけなのですから。

遠くを見ることのできる目だって遠くの空や山が限界で外国を見ることはかなわないですし、そもそも詳細部分までは見えません。

スマホに表示された文字だって数メートル離れれば何が書いてあるか読めなくなります。

人間の感じ取れる世界なんてものはとても狭い世界なのです。



先程の感知範囲ですが実際は1mというのは誤りで、自分の体そのものが感知範囲ということになります。

感覚とは全て自分の体で感じているものですからね。

人間は自分の体という制限を超えられないのです。自分の体のないところで風が吹いても風が体を伝う感覚を感じることはできません。

沸騰した水が注がれている鍋はいかにも「熱そう」ですが、それが本当に”触って熱いのかどうか”。どんな感覚なのか。熱いという感覚を得るには実際に触れてみない限りわかることはありません。温度によって感じ方も違うでしょうからね。

「熱そう」というのはその根拠となるものがどれだけ確かだろうが何だろうが、悪魔で脳が作り出した想像の世界でしかないわけです。

(※だから触れて確かめるべき、なんて話ではなく脳の想像と5感の認識範囲の区別の切り分けの意味で)

1mというのは体感的な感覚だと思っていただければと思います。

人目なんて存在しない

そう考えてみると「人目」なんていうのは本当にただの妄想の産物でしかないということが体感的に感じられるのではないでしょうか。

人目というのは主に視覚で感じ取っていると考えられるでしょうが、前述のとおり視覚が実際に感じ取っているのは外界の景色が網膜に反射した2次元画像でしかなく、そこに相手の意図や意思なんてものはない。

SNSで言うところのいいねの数で喜ぶのだってそんな情報たちを元に、脳でいいねしてくれた相手の内面にあるものを勝手に想像しているだけであり、妄想の範疇を超えません。

少し視覚の話に戻りますが、人は目に映っている全ての情報を「同時に認識」ということもできていません。

例えば人が2人いたらそれぞれ一人ずつ認識します。さらに各人を認識するために当人の特徴を色んな体のパーツにフォーカスして認識します。

人間は無意識のうちにそのフォーカスすべき対象を切り替えながら個々を識別することで対象物を認識しているにすぎません。

なので例えばたくさん人が居るといろんな人の視線が気になって落ち着かないという人は他人が自分を自分にとって都合の悪い意図で見ているに違いないという思い込みの他にも、

自分がその眼に映っている全ての人の視線を全て認識している、感じっていると思い込みもあるのだと思います。

そもそも人間はそんなに多くのことを認識できるほどハイスペックじゃないのです。大抵はその瞬間において常にある1点についてしか認識、思考できない脳のつくりをしています。

目で見た何かを認知、次に匂いを認知、また目で何かをみて認知、音を聞いて…こんな流れを脳内で無意識的に切り替えながら感じているものを認知、思考しているだけ。

「みんなが自分を見ている」というのも、もしそう思うのならその時自分がどれだけの人の視線を実際に確認したのかについて考えてみると、実際には数人程度しか確認していなかったということに気づいたりします。

人間は驚くほどに無知である

人間が実際に知覚しているのは自分の体という範囲でしかない。外にあふれているほとんどの「情報」は所詮は自分をさも知った気にさせる程度のものでしかないわけです。

様々なメディアが配信するニュースなどから得た情報も、そこに書かれていた文字、画像情報、音声情報を元に自分の頭で思考している勝手な妄想の産物にすぎない。大抵自分がそこにいたわけではないでしょうからね。

人間の想像する世界というのはその世界が複雑に構築されていればいるほど、現実とはかけ離れていく傾向があるといえます。

そして、そういう意味では人間というのは“世界”について何も知ってなどいないわけです。世界をありのままにとらえていないわけですから、世界の真実の姿を人は見ちゃいない。

仮に知っていることがあるとすればそれは自分の意識や思考、感覚が存在しているということくらいでしょう。

そして感覚は感覚でしかなく、そこに真実や意味なんてものは含まれてはいない。

人間は人間という狭い世界、いえ、檻と言った方がいいのかもしれない。

そんなところで孤独かつ無根拠に感覚器官から伝わってきた情報を処理しながら思考、行動するだけの孤独な生物でしかないわけです。



人間の限界

人間は真に何かを知ることはない。それができるのは人間を超えた神のような存在だけでしょう。

人間には「知ったか」がリミットなんです。

だから私の記事もそういう意味では全くの無根拠。しいて言うならこれまでに自分が経験してきた記憶達が根拠でしょうか。でもそれは私の脳内だけにしか存在しない閉じたものであり、誰とも共有することすらもかなわない。だからそれを根拠とすることすらもやはりできない。

人は孤独である – 人は真に理解しあえない –

どれだけ私が思考しようとしまいとその性質は変わらない。私だって人間ですし、精々わかっていたとしても私のことだけ。

例えば「人間は…」なんて下りも正確には無根拠なわけです。

しかしこんなパラドックスを抱えているのが人間、いえ、私という存在であり、それこそが本質なのだと思っています。

人間というのはそんなに有能でも特殊でもない。ちょっと脳の能力が高い動物です。何も知らないのです。

ならば私はそういう自分の性質に自覚をもったうえで考え事をした方がよいのでは、と思うわけです。

少なくとも何かを真に知っているなどと思い違いをするよりかより”正確”ではないか、と。

無知の知

哲学の祖ソクラテスと一緒に語られる有名な「無知の知」というのはこういうことなんじゃないかと思います。

何も知っていない、何も知ることができない。それが人間という限界であるということに気づくこと。

ソクラテスはそう思っていたんじゃないでしょうか。

多くの人々は、さも何かを知った「知識人」であると自らを疑っていない。

しかし自分はそんな自らの無知な性質に気づいている。だから気づいていない彼らよりも賢い。そして彼らと対話をすることでそれに気づいてもらおうとしたんじゃないかと。

こうしてみると、一見「考えること」は無駄なあがきに見えますね。永遠に真実にたどり着かないわけですから。

しかしだからこそ人は考え続けることができる。それに真実にたどり着けないからといって、何も得られないわけじゃない。

何かを真に知ることはないということは、同時に”知ることがないと決めつけることもできない”という、コンプレックスを抱えることでもあります。何事においてもどうとも真に決めつけられない。

だから人は永遠に死ぬまで考え事をすることができる。何をしようと、考えようと矛盾は発生し、それを解消しようとすればまた矛盾が発生する。故にその寿命が尽きるまで考えることが終わることはない。自分がそれをやめようと思わなければ。

でもその矛盾は悪でも善でもない。一般に矛盾は悪いこと、劣っていることのように捉えられがちですが、これだって人のただの思い込みです。

ただの事象でしかありません。それが人。それが人の無知であり、知への愛、アレテー(徳)であると、私は思います。

考えるって行為は真実に手を伸ばし続ける行為なんじゃないかと思います。いけどもいけども全く触れられませんがその道中でいろんな発見がある。

決してたどり着くことのない灯台。でも確かな道しるべ。それが真実なんじゃないでしょうか。



さて話が若干それましたがまとめると、自分の認知している世界というのはこれだけ狭いものなんだからあれこれ気にするのは妄想しているのと同じだよ、ということです。

まとめていっちゃうと全然大した話じゃないですよね。たったこれだけのことなんですけど。単純そうな話なのに、実際にコレに対して自覚をもつのは難しい。

面白いような、変な話ですね。

コツは前述した「自分の感知範囲は自分を中心に1mくらい」です。こう考えるだけでも楽になるんじゃないでしょうか。それ以外のことは全部自分が勝手に決めつけているにすぎないのだと。

自分の認知と思考の切り分けができれば認知の歪みを訂正していくことにもなると思います。時間はかかるでしょうがそうすることで悩みも減っていき、生きやすくなっていくのではないでしょうか。



アドラーの心理学を論理的に実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学だといわれています。

管理人が実際にアドラーの教えをもとに実践した内容の記事を残しております。

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私のうつ病の主原因は「甘え」だった。甘美に感じられた「甘え」が私を苦しめていました。

そんな私が自分の甘えから脱し、

精神の安定、自由をつかむためにやったことをまとめています。


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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

1 個のコメント

  • 大変参考になります。
    自分と同じような考えの道筋をたどっているところを見るとほほえんだり、新しい知見に納得したりしています。
    僕もentpなところが関係あるんでしょうかね?
    頑張ってください!!

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