自信が持てないのは根拠が必要だと勘違いしているから






2020年04月25日~:
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自信というのは自分が自信を持ちたいと思えばその時点ですでに自信です。

そこには根拠も理由も動機も必要ありません。自信をもつのにそれらが必要だと思うのはただの思い込みです。

必要だと考えてしまう原因は、その多くは誰かに認められるためでしょう。認められなければダメ、認められたことを担保にそれを”自信”だとしているわけです。

「何かができたから自分はできるやつだ。何かができなかったから自分はダメなやつだ。」という感じです。

この理屈の上で自信を失くしたりするわけですが、なくす場合は「普通はできること」とか、「できないなんておかしいが自分にはできないこと」とかが挙げられます。

それはつまり他人や社会、あるいは他人たちが決めたある基準に認められたいという欲求がそうさせているということに帰結します。

しかしそれこそが思い込みなのです。誰かが用意した基準に達しようがしまいが、自分が自信をもつかどうかとは関係などないのです。



人間の作る根拠

人間の打ち出す根拠という物には真実はありません。どんなに堅牢に見える理由や根拠も少し横を付けば簡単にボロが出てしまう。そういうものです。

例えば「なぜ自分たちは存在しているのか」という問いに対し、その答えを求めれば

「それは神という創造主が作ったからだ」「単にただ最初から存在しているだけだ」など様々な答えが出てきますが、

それに対する「では神は本当にいるというその根拠は?」「単に最初から存在しているだけだと、なぜ言い切れるのか?」という根拠を求めるとそこからは際限がありません。

さらに答えを出せばまた新しいその根拠を求める指摘が浮かび上がり、永遠とそれを繰り返す羽目になるでしょう。

それほどに真実というのは遠く重い。結局のところどんなにあれこれ考えたりしようと人間に完全な根拠を打ち出すことはできない。

であれば、人間の考える根拠や理由に真実はなく、つまりは突き詰めれば全てただの思い込みでしかないのだから、”無根拠”も自信をもとうがどうだろうがほとんど差はない。

なら無いほうがいい。いや、無くていいのです。

なぜなら、無い方がずっと長く、安定して自信をもっていられるからです。

精神論の再評価

大昔によくいわれていて、今ではすっかり退避された”精神論”ですが、哲学的視点に立って考えてみるとこれは割と本質的です。

「できると思えばやれる」というのは実は非常に単純明快、根拠など必要のない人の単純で効率的な認知の仕方をもっとも端的に説明していると言えます。

ただより正確には「できると思えば自信をもてる」だと思いますが。できるかどうかは実際に何かをしてみた後の結果の話であり、その瞬間になるまではわかりません。

この精神論が”よくなかった”ことと言われる本質的要因は、それを自分ではなく他人に強要したことでしょう。

他人がやりたいとも思っていないことを無理やりやらせるための口実として使われる側面が多かったのです。

それと、どこか急かすかのような解釈を伴うことも合ったんじゃないかと思います。元気がない人にただ「元気出せ」というみたいなものでしょうか。いきなりそう言われてもどうすれば元気がでるのかわからない。そんなむちゃくちゃなことを言われてもできないよと。

だからみんな精神論を邪険に扱うようになったのではないでしょうか。

「私のこと何も知らない癖に。何様だ」と。

しかし精神論というのは本来他人の意思でなく、自らの意思で自分に対して使用してこそ真価を発揮します。

人が他人に使用するときの精神論は単なる弁論術にすぎません。

人から見た”精神の存在”は人の身体的限界、5感的限界という観点からみて他人のそれを感じ取れない以上、己の精神の存在を除いて存在しておらず、

故に他人自身がもつ都合や意識を理解した上でかつ導くためにいっているわけではない。

自分の都合のために他人を動かそうとするための詭弁にすぎません。

人は孤独である – 人は真に理解しあえない –

しかし、精神論が悪であるというのは思い込みです。本当は善でも悪でもない、人間が作った”道具”達の一つにすぎません。

それを自分がどう使うか、使わないのかという話なだけです。必要とあれば自分で自分に使用すればいいだけの話です。



自信なんてのはいますぐもつことができる

つまり、揺るぎない自信をもちたいならいまこの瞬間からなんの根拠ももたず持てばいいだけです。

ただ無根拠に自信をもっていいのです。理由も動機も何もいらないのです。

そんなのバカみたいじゃないかと思うかもしれませんが、それはその通りで人間はバカです。

人間の本質は無知にあり、真に何かを知ることはできず、せいぜい何かに気付くことが限界です。

何も知らない=バカということです。そこを本気で”知った気”でいると、知った気にさせる何かに執着することになり、

それが達成できなかったと自分が認知した瞬間、その自信は崩壊します。

そもそも自信なんてのは、狭い自分の精神的世界にしかない所詮は一人よがりのものでしかありません。

そこに根拠をつけようがつけまいが、外にそれを求めようが求めまいが、完全に自分の勝手でだけの話なのです。

自信というのは、条件をつけるからこそ失う機会を作るのです。かしこぶろうとするから、そうじゃなかった時の自分を否定するし、恐れるのです。

この世に本質的なダメな人間なんてのは居ない。全ては自分をダメとするからダメな自分を創るのです。

以前書いた幸福の条件と同じ話です。

承認欲求を捨てた先に見つけた純粋な幸福

だからそんな自分を苦しめるだけの条件たちはどんどん外していけばいいのです。

そんな程度でいいのです。人間なんていうのは所詮は動物。バカでいいのです。間違えたり、バカにされるなんてことも別段おかしいことでもなんでもない。

褒められようがけなされようが変わりません。なんでもないのです。

“正しくある”必要などないわけです。真面目になろうとする必要もない。

神になろうとする必要などないのです。

自分は動物の仲間の人間という種族のそのうちのただ一人の個体にすぎない。とても小さな存在なのです。

だから肩の力を抜いて気楽にいきましょう。リラックスしていいのです。気を貼る必要もない。

どこにいようとそれは変わりません。どこだって自分の居場所なのですから。それだって根拠はいらないのです。



どこにいてもいい。自分を否定することなんてない。これでいいのだと。肩の力を抜いたその心地よさこそが自信の正体なのです。

今自分がいるところに、どんと構えること。ただ無根拠に自然体でそこにいること。

ただどっしりとおちついて、今いるそこにいればいいのですよ。

自信とはそうした自然体の自分にこそ宿るものなのです。

自信をもつってことはすごいことでもなんでもないのですよ。自然体でいること=自信なのです。



アドラーの心理学を論理的に実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学だといわれています。

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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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