自由を”幸福に謳歌する”ための認知論





※ この方法論はアドラー心理学がベースになっています。知らない人はアドラー心理学を勉強してね。

自由とは一見甘美な響きのある魅力的な言葉ですが、なんでも夢がかなうような万能の概念ではありません。

むしろその本質は今までの自分の生き方を根本的に度改め、いろんなもの(価値観、考え方など)を捨てなければならないものであることもあり、その道は険しい場合の方が多いように思います。

自由の本質を理解して実際に実行するのは相当の困難を極めます。自由とは例えば何でも買える経済的豊かさを指すものではなく、何物にも依存しない精神的な自由度を指すのです。

現在の近代的社会価値観では「人と人のつながり」という、目に見えない存在があることを前提にした理論や意識、考え方があるように思います。

それが、例えば「他人への思いやり」という前向きかつ建設的な方向へ向かっていくのならまだいいのですが、

他人への過度な期待だとか、承認欲求を起点とした歪んだ欲求を生み出す方向へ向かっていて認知の歪みが横行している世界のようにもみえます。

そんな世界の中から自身を解放し、自由のもとに生きるためには、一旦そんな世界で生きてきた自分の様々な認知について見直しをし、人の孤独、愛とは何かについて考えて行く必要があります。

以下はそれについて著者自身が思考し、気付いたことのまとめになります。

人の本質は孤独にあり、孤独を受容し、自分の人生を歩むことが自由です。



愛の理解

愛は自分の世界にしか”存在しない”。「愛される」ということは、この世の誰もできやしない。

人ができるのは自分の世界に存在する愛という感情を使って、何かを愛することだけ。

つまり最初から、自分を愛せるのは自分だけなのである。

最初から最後まで、他人の愛は手に入るものなんかじゃないのだ

・好かれる、嫌われるという世界の「外」で生きる。

自分に対する相手の気持ちを前提に行動、思考をすることをやめること。

自分のしたいことだけを考える。自分という世界で一人生きるということを恐れる必要はない。

– 自分に対する他人の気持ちを一切考えない。

 そもそも他人の気持ちなんてのは無知の領域である。

 人は他人のことなど物質的存在を除いて何も感じ取れておらず、何も理解などしていない。

 全ては5感で感じる世界があるだけ。その世界に他人の内面なぞ存在しない。それらは全て自分の妄想にすぎないことを心得ること。

他人の内面に対する己の無知を自覚すること。

・「してほしい」「愛してほしい」。これは愛ではなく「依存の感覚」「承認欲求」である。

これは他人の愛を欲することで、自らをその奴隷にしようとしている愚行。

自由な人生を謳歌したいのなら、退避すべきものであり、捨てるべき感覚である。

もしこれを感じようとしている自分に気づいた場合は、その相手に依存する心になっているということ

自分が「したいこと」だけを考える意識に修正しよう。

・嫉妬するのは愚行である。

何より自分に対して最悪の愚行である

嫉妬とは、自分出なく他の人間が誰かに愛されることをうらやむ感情。その誰かに「依存できない」不満への腹いせなのである

誰かが何かに愛をささげたという事実は本来は尊ぶべき行為なのだ。他人が臆することなく立派に自身の発した愛を祝福こそすれ、ねたむなどと愚行の骨頂であると心得ること。



・愛は”永遠”ではない。不定であり、遷ろうものである

自分の愛も、他人の愛も同じ。

愛という感情そのものは生きている限り自分次第でいつでも使用することができる。

しかし、ずっと使用し続けているわけではなく、かつ”使用”できるのは自分の愛のみで他人の愛は使用できない。

愛を注ぐ対象はずっと同じである必要はない。ゆえに同じものをずっと愛し続けるかどうかを保証することはない。

他人の愛も自分の愛も遷ろうものなのだ。

これは人間の認知機能というものが関係している。人間は常にその瞬間に自分の身の回りに存在する、ありのものしか認識できず、その中からでしか愛するものを選ぶことができない。

ありものの中というのは記憶も含まれる。脳内の記憶にある人を思い浮かべることはできるが、四六時中そんなことをしている人間などいないし、現実世界の方に興味を持つ人間は多い。記憶は経験隅のものであり、いまだ経験したことのない刺激という現実世界は基本的に多くの人間が求めているからだ。

個人には個人の日常があり、人間は日常の中にさまざまな課題を抱え、それを解決するために生きている生き物である。生活している場所も関わる人間も違う。そんな中で常に特定の人だけを考えるのは不可能な話だ。

愛とは、その感覚も、その対象も、今その瞬間にあるものに対しておこうなうものだ。だから例えばその瞬間に”最愛の人が自分の世界にいなければ”、他の何かを愛するだろう。

結婚というシステムから生じる歪み

結婚し、「永遠の愛」を誓い合った間柄の人間でさえも、浮気というわかりやすいものから、テレビに映るアイドルにぞっこんになったり、道行く人の中に美しい人間に思わず見惚れたりするなど他の人間に目移りしたりする。こういう瞬間というのは浮気こそレアなケースとはいえ、後者になれなるほど普遍的にあることである。

そんな人間の姿から見て取れるように、人間は永遠に特定の何か”だけ”を愛することなどできはしない。

永遠に同じ対象だけを愛することも、そして当然永遠に自分だけが愛されることも、人には出来ることではないのだ。

永遠の愛など、誓ったところで到底達成できないのである。世の中には愛する事のできる存在が多すぎるのだ。

それに愛を誓ったその瞬間は本気でも、時がたてばその気持ちは変わっていく。何年とたたなくとも1日、いや、

数時間もたてば人の気持ちは簡単に変るのだ。

少なくとも衆目の面前で愛を誓った結婚式と、その後解散した後で同じ心の状態ではないだろう。

人間は常に同じ気持ちの上で生きてなどおらず、常に絶えず変化し続けているのである。

ゆえに常に「同じ人間」など、この世のどこにもいない。もしそうでなければ「気分」という言葉が生まれることもなかっただろう。

ゆえに永遠に愛が保証されるかどうかなどだれにもわからないし、ほぼ不可能だといえる。

人は今この瞬間も変わり続けているのである。

仮に永続的な愛が可能な世界があるのだとしたら、それはそのように作った作り物達だけだ。

あらかじめ命令された通りにしか動作しないロボット、創作、そんなものにしか存在できないだろう。

それを人に求めることなぞ、魔法が存在することを本気で信じることに等しい。

結婚というシステムはそんな永遠の愛という到底不可能な魔法を誓おうとしているところから、そんな魔法を可能にすると人に思い込ませる節がある。

人間の本質、人間の認知の本質を見えにくくさせる。

結婚は人間が作ったシステムであり、不完全である。人の自由意志を縛ることが出来るものではない。

結婚したところで相手を束縛することなど一生かなうことはないのだ。

人間は皆、自分自身の欲求を満たすために生きるのみである。自分も他人もそれぞれの欲求をもち、誰ともそれを共有せずに(することもできずに)生きている。

他人の愛を欲しがるのは、相手を束縛したいという欲求と同義である。相手を自分の都合通りにしたいという欲求の表れであり、

それを欲するのは、他人に依存しているからに他ならない。

他人の愛は自分を満たすものではない。他人自身を満たすものである。

自分という存在は常に自分だけで満たされていなくてはならないのだ。

自分で自分を愛することは自由かつ幸福な人生のもとにおいて必須なのである。



共同体意識(アドラーの共同体感覚と似ているが悪魔で著者独自の概念、解釈)

・他人との関係性は「共同体」という感覚でのみ構築すべきである。

共同体とは「パートナー」の集合体であり、ある「共通の外的目的」をもつ「同志」である。

他人に対する意識はここが限界である。仲間である、同志であるという意識がボーダーであり、それ以上の意識、感覚を望んではならない。

理解してほしいだとか、愛してほしいだとか、そういったものを他者に望むのは全て他者の課題に踏み込んだ考え方である

目的の達成、実現のために協力するという形で構築される人間関係が自由の元において最も健康的な関係なのである。

その目的の形はある事業の成功かもしれないし、結婚して子供をもうけ育て上げることなのかもしれない。あるいはもっと気軽な関係、スポーツや趣味、会話という形で、楽しい時間を共有することを目的とした共同体かもしれない。

いずれにせよ、全てに共通するのは外的目的、外的目標をもち、それを共有して達成するという「目的意識」

そしてこの意識こそが「共同体意識」である。

・人間関係の構築をどう決めるのかについては「交渉」によって行う。

友人、恋人などの関係を構築するなどにおいてはお互いの意思疎通と了解を得ることで行う。

間違っても相手に好かれているからという、相手の内面を担保にしてはならない。悪魔で言葉を交わし、お互いの合意がとれらかどうかで判断する。

これは非常に重要である。

「言わなくてもわかってくれる」と期待するのは馴れ合い、愚か者のすることだ。

「友情」だとか「恋人」だとかを明示的に意識する必要すらない。

「今度一緒に遊ぼうよ」、とか、「ここに二人で行ってみようよ」とか

気が合いそうとか、一緒にいて楽しいと思う人と、ある共通の何かを楽しむことについて相手とそうしないかと提案、交渉し合意を取ることだけすればいい。

それは普段無意識的にやっている人が多々だろう。

これだけでいいのである。普段自分は好かれているのだろうか、果たして相手は自分のことを友人だと思っているのかだろうということについて心配したり、思いを馳せなくてもいい。

この物質世界に存在するのは物質世界の理にしたがったものだけなのだから。

故に友人や恋人という存在は、所詮は自分がそのように認知しているかどうかということでしかなく、

自分には友人がいる、恋人がいるというのは、突き詰めれば”事実”ではないのである。

夫婦という間柄も所詮は法的な手続き、書面上のものでしかないのだ。

だから何度も言うが、話し合いというのは本当に重要なことなのだ。自分が何を考えているのか、そして相手が何をどう考えているのかについて聞く努力をすることは非常に重要なのである。

ある凡例から学ぶ認知の歪み

※性犯罪者は「こうすれば相手も気持ちいいと思うに違いない」という深い思い込みをもっている。

相手とコミュニケーションをせず勝手に相手の気持ちを決めつけ、行為に及ぶという愚行を犯しているのである。

※恋愛という世界には「おもわせぶりな態度」をとって相手の気を引くという行動をする人間がいる。

そういう人間とは良好な「共同体」の関係性は築くことは非常に難しいだろう。

なにせ相手にそのような考え方がなく、かつその相手は他人を操作して自身の目的を達成しようと考える、自己中心的で他人の課題に侵入する回りくどい指向性をもっているからである。

自分が誰かを好きなのなら、そう表現したらいいだけのこと。それさえできず、ただ相手の出方をまつだけの「幼い精神のままの人間」の存在を考える必要はない。

それに引きずられて、自分を適用させようとする必要はないのだ。

「そんな相手の気持ちを察して上げなければ…」などと気を回すことなど無い。それは自分を殺す行為でしかないからである。自分の純粋な気持ちを無視して、相手の都合に合わせようとしているだけなのだ。

もしそれを自分が”求めてしまっている”のなら、それは間違いなく承認欲求を求めてしまっているわけで退避すべきなのだ

人生に相手の”気持ち”は関係ない。そんなもの考える必要はこれっぽっちもない。

先ほどもいったように関係を結ぶには交渉することお互いの意思疎通をはっきりするために話し合うことが重要なのだ。

「察すること」は美徳をされがちだが、相手の課題に進入している考え方である。

気を回して先回りすべきでなく、まず会話をするべきなのである。

相手の気持ちなど永遠に理解できることはない。それを気にしようがしよまいが、相手の気持ちが変るわけでもなく、無意味かつ無価値な行為でしかない。

むしろ自己否定の引き金になり、自己破壊的な愚かな行為である。

「交渉」することと「好かれているかどうか」というのは本質的に何も関係がない。好かれていなければ交渉できないと考えるのは歪みである。

話し合うというのは、お互いがお互いの利益や目的を達する上で関係を築きべきかどうかを知る最も優れた方法論である。

そして”大人”であれば、それはできなければならないことだ。

この国では”誰かに依存する考え方”が多くの支持を集めている

が、そんなことは自分の人生を生きる上では関係がない。自由になりたければこんなものに縛られないこと。

この国の価値観は「如何に誰かに愛されるか」「気に入られるか」が重要視されている。

「愛されたい」と他人の愛を求め、他人に自分のしてほしい事という都合を押し付け、それで自分を満たそうとしているのだ。

人間の本質的な孤独を受け入れず他人に甘えようとすることでそれを紛らわそうとし自分だけでなく相手も腐らせ、

子がいようものなら子にも「褒められる大人になりなさい」と教育して伝番し、それは世代を超え、各コミュニティを伝ってどんどん伝番していく。

やがてはコミュニティ全体をも腐らせていく。

そんな価値観がデフォルトになっているこの国は、そんな「腐れ」であふれているというわけだ。

そんな「腐れ」のように生きる必要などない。

憶するな。周りがどう生きているかなど関係がない。自分の人生を生きたいと思うのなら、そう生きればいいのだ。

それが自由というものだ。



孤独の理解、受容

・人は孤独の中でこそ真に幸福になれる。

いや、元々人は最初から最後まで孤独であり、孤独に幸福になること以外に術がない生物である。

他人を使って幸福になろうとしようと自分だけで幸福を実現しようと、何れにせよ自分の世界において幸福になっているのは自分だけである

他人は自身を幸福にするための誘発装置以上の役目を果たしてなどいない。幸福を発生させているのは他人じゃなく自分自身、自分の脳だからである。

他人がいなければ幸福になれないというのは思い込みでしかない。

むしろ他人という誘発装置は非常に不安定な存在である。人間は他者の期待を満たすために生きておらず、こちらの期待を何のお構いなしに”裏切うる”のだ。

その誘発装置はほとんど不発に終われば、結果として自身を不幸にしてしまうだけである。

自分の感じている感覚は自分しか知らない。

自分は他人の感じている感覚を知らないのだ。

自分のそんな感覚を理解してほしいと願おうとそれは永遠にかなわない。どれだけ話し合ったとしてもそれだけはかなうことはない。

他人は永遠に、自分の感じている感覚そのものを感じることはないからだ。

「馴れ合い」も結局は一人相撲の域をでないのである。何れにせよ、その本質は孤独なのだ。

 

他人の幸福を感じるかのように思うことは「共感」である。

共感とは相手になり切った「自分」であり結局のところは自分が自分の感覚を感じているだけで、他人の感覚を感じていないという事実が変わることはない。

自分の目に映った「幸福な他人」が実際に自分がイメージした通りに幸福であることを保証するものではない。

全ては「自分にそう見えているだけ」でしかないのだ。

実際その他人の内面は不幸を感じているかもしれないし、例え言葉を交わそうともそれを完全に保証できるものなどどこにもない。

 

共感することは悪ではなく、人の心理機能の一つである。

むしろ共感することは自分に様々な経験をもたらしてくれる。そして自分が孤独であるということも理解できる。

まとめ

自由を”幸福に謳歌する”には「愛の理解」「共同体意識」「孤独の理解、受容」が寛容である。

ゆがんだ価値観、認知を捨てていけばどんどん身軽になっていくことができる。考えることも洗練され、シンプルになっていくのだ。

人は生き方がシンプルであればあるほど、簡単に幸福にかつ自由になれる生き物なのだ。

【続き】自由を”幸福に謳歌する”ための認知論 その2

 

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