【続き】自由を”幸福に謳歌する”ための認知論 その2





前回の記事の続きになります。

自由を”幸福に謳歌する”ための認知論

“歪んだ察する文化”からの解放

前の記事の中でも挙げた、「思いやり」という前向きかつ建設的な動機の元に察してあげようとすること自体はいいだろう。自分の純粋な「したい」「してあげたい」という愛の意思の元で行うのなら

しかし「察しなければならない」といった脅迫的感情、義務感が根源にある上で察っしようとするというやり方は、完全に自分の意向を無視しており、自分を殺してしまっている。

不安の中、頭から血が引くような気持ちでやってしまっているのである。

こういう考え方が定着してしまうと、自分を苦しめる要因となってしまう。そしてそれは見返りなどを要求するようにもなってしまうのだ。

「これだけしてあげたんだから」「自分はこんなに苦労して尽くして上げてるんだから見返りがなきゃおかしい」「なんで自分だけ割りを食うのだろう」

見返りがないと不平不満を感じ、自分のそんな「報われない気持ち」を理解してほしいと他人に求めるようにもなる。

他人を自分の都合のいいように動かそうとし、そう願ってしまう。

それが続くと精神が磨耗し、捻くれていく。やがて今度は他人の不幸を願いはじめる。他人の不幸は蜜の味などと言い始めるのである。

その根本的要因は前述の、「察しなければならない」「報われたい」というこの脅迫的意識、欲求が根源にある。

炎上など、他人をボコボコに叩いて自分の足元に引きずり落とそうとする心理というのはこうした心理から発生する”馴れ合い”を求めるものである、それも圧倒的に質の悪いタイプの馴れ合い的心理にある。

本来「察すること」「思いやること」は、強制されるものなんかではない。

自分の純粋な気持ち、愛が前提になければできることじゃない。

だから義務感や脅迫感で無理やり相手の気持ちを察しようとする必要などない。そんな感覚を持つ必要すらない。

自分がしたくないことはしなくていいし、考える必要も感じようとする必要もないのである。



・他人の声、他人の目、他人の監視からの解放

これらから自分を解放するには、これを求める自身の欲求をあきらめることが肝心である。

すなわち「誰も自分のことを見ていないという孤独」「誰も自分のことを見守っていない孤独」を受け入れることなのである

人間は自身の欲求とそれを達成するための目的に従って行動している。

肉体的な物質的外傷から受け取る苦痛、感覚は自身の意思とはほぼ無関係だが、精神的苦痛という感覚を発生させるトリガーは自分の意思、自分の欲求によるものなのである。

つまり他人の声、他人の目、他人の監視が自分に直接苦痛をもたらしているのではなく、自分がそれを欲してしまっているために苦痛を感じているのである。

なぜそのような欲求をもってしまっているのかというと、それは他人の目などを使って自らを安心させたいというのが欲求があるからである。

監視されているかのような感覚とは、「見守れたい」という欲求の裏返しなのだ。見守ってくれる人を望み、それ欲しているからこそ求める。

しかし実際に得られているのは自分を監視する人間で、安心するどころから自分を追い詰めてしまっている。

だからこそ、自分を満たすために他人に「変わってほしい」とのぞむ。

「嫌わないでほしい」という願望は相手に自分を「見守ってほしい」という欲求を達成するための手段としての願いなのだ。好かれれば、見守れている感を獲得できるからである。

それができない現実という矛盾があるから苦しんでしまうのである。

だからその他人に対する期待を捨てればいいのだが、それができない。

心のどこかでいつかは満たされるかもしれない、他人が変わってくれるかもしれない、こちらに振り向いてくれるかもしれないという期待を捨てきることができていないからである。

結果、延々に欲求不満が解消されず、精神だけがすり減ってどんどんひねくれていき、同じところでぐるぐると苦しみにもがき続けるという、まさに悪循環の渦中に身を投じてしまっているのである。

だからあきらめなければならない。他人に対するそのような意識を求める欲求をあきらめるのだ。

実際の他人は、そんな”自分に都合のいいもの”ではない。他人を見守ろうとするほど暇な他人はほぼ存在しない。

皆自分のことで手いっぱいだし、自分の人生を楽しむことに忙しくしているのだ。

自分が自分のことで手一杯なのと同じように。

仮にそんなことをしている人間がいるのだとしたら、幼い子供をもつ親くらいのものだ。しかしそれも自身の子供にだけしか向けることはないだろう。タダでさえてのかかる赤子を抱えて、赤の他人に対して向ける余力などない。

見守られたいという”親の加護”をもとめていても自分を苦しませるだけなのである。

自分のことは自分でいつくしみ、愛することが肝心なのだ。

「これでいいのだ」と。自分は、今の自分でいいと。様々に否定してきた自分のいろんなものを「これでいい」と許し、愛するのである。

そうすることで何の気兼ねなく自分の人生に夢中になることができるのだ。

他人は単に他人の都合で生きているだけ、他人自身の都合を満たすために他人を巻き込んでいるだけにすぎず、誰かの都合を満たすために生きてなど本質的なところでは誰一人いない。

それは自分も同じ。いくら他人の目を気にして、他人に好かれるために生きていようと、その本質は自分の都合を満たすために、その時々に他人を巻き込んでいるにすぎないのだ。

今までの生き方が通用したのは自分が欲しかった形の「他人の声、他人の目、他人の監視」、

つまり「見守られている」という感覚が得られていただっただけのこと。

そのように自分の目に映っていただけのこと。それで安心できていた、というだけ。

しかし社会に出ていろんな人間と関わることで、それが通用しないということに気づいたのなら。他人は自分を守護する存在じゃないということに気づいたのなら。

もうそれは自分を守っちゃくれないのである。

どれだけ人に囲まれて居ようと、実際に誰かの目が自分の方を向いていようと、人は常に自分の世界にしか生きていない。

人は常に一人なのである。それを自覚することで、安心して自分の人生を生きられるようになるのだ。



孤独に対する思い込みを捨てる

孤独は寂しい事なんかではなく、むしろ本当の自分を受け入れるのに必要なことだ

孤独に対するマイナスイメージは単なる思い込みであり、むしろ人の本質、自分の本質である。

孤独とは、まさに自分自身の本来の姿である。孤独は本来の自分と向き合う機会なのだ。

そんな本当の自分を受け入れることで、最大限の自由を得られるのである。

孤独であることを認め、自由な自分になったうえで世界と関わるのである。何物にも依存しなければ、ありものの中で幸福を見つけられるようにもなり、無意識に行っていた自身の制限もなくなって行動範囲もぐっと広がる。

孤独とは本来、安心できる「心の置き場所」なのである。

誰の監視も誰の脅威も、その心の置き場には存在しない。そこに他人の姿はないからだ。

そういう世界を受け入れて生きていけば心の平穏を保つことは簡単なことなのだ。

心の置き場所の手配を他人に委託してしまえばそこは混沌と化してしまう。他人が”自分に都合のいい存在”ばかりならいいかもしれないが、そうでないケースは多いだろう。

だから孤独を受け入れ、そのうえで他人と関わればいい。他人と関わる目的も変わってくるはず。他人の監視を求めて関わろうとはしなくなるし、もっと生産的かつ前向きなかかわり方をするようになるだろう。

「優劣」の呪縛から自分を解放する

基本的に他人の意思は尊重しておいた方が精神上健康に良い。否定してしまうと、それが自己否定のクセにつながっていくからだ。

それはなぜかというと、他人を「間違っている」ととらえるからであり、その本質は優劣を意識しているからである。

自分と主張や価値観が違っても、それはそれでよい。違うからと言ってどちらかが間違っているわけではなく、

「間違っているとも正しいともいえる」という”人間の出した答え”というレベルにおいて同等だからだ。

如何に”堅牢”に組み上げられた論理、理屈であとうと、紙に1行だけ「神は存在する」と書かれた理屈なき存在証明であろうと、

感情にまかせて書きなぐられた支離滅裂な文章であろうと、ふざけて書かれた便所の落書きであろうと

全ては「人間の出した答え」には変わらず、そのすべては真実を語ることはできていないという意味においては同じで、

人間はどれだけあがこうと絶対的正解、真実を発見できず、神にはなれない。

全ては「答え」どまりで「皆等しく人間」でしかなく、人間とは単に生き方や考え方、特徴など様々な要素が「違う」だけなのである。

誰かより上というのなら、「人間」を超えなければ不可能だ。神にでもなれない限り不可能な話である

自分と他人の間に”優劣”があるとイメージすること自体が、既に自分にとって毒なのだ。

アドラーで言うところの、縦の関係でなく、横の関係で人を見るという事である。そもそも優劣という概念は人間が勝手に作った概念にすぎず、認知の歪み、生きづらさを発生させる発端にもなっている扱いの難しい概念なのだ。

世の中の多くの人はこれに喜んで従い、かつ神のように絶対視している。

故に「マウントを取る」という行為が流行る。炎上が流行ってそこに人も集まる。少し余談だが社会現象というのは、その社会の宗教観を如実に表しているともいえる。

炎上という現象は優劣という概念が多くの人に信仰されている証である

ゆえに自己否定をするなど愚の骨頂なのである。自己否定は優劣の感覚から生まれるからだ。優劣という概念を作った人間の奴隷と化しているのだ。

違い=優劣ではないのである。そして優劣という概念に従属する絶対的必要性などどこにもない。

違いとは単に違うという意味であり、それ以上の、あるいはそれ以外の意味を含まない。

■と〇と△は形が違うというのと変わらない。そのどれかが正解でも不正解でもないし、絶対的な優位性など何もない。

「悪い」「善い」でも「ダメ」「優れている」ということでもない

単に「違う」というだけ。それだけなのである。それだけのシンプルな事象なのだ。

そんな様々な違いをもった人間が世の中にはいる、というだけの話なのである。

優劣などというのは人がものをどうみるかによっていくらでもその姿を変えてしまうのだ。

優劣というもの見かたをやめるのである。ただ違うだけだという見方をするのだ。



人生に前例はない

なぜなら自分の人生の前例などないからである。

自分が生きているのは今しかない。過去に生きていた自分はもういないし、自分と全く同じ人生を生きている別の自分がいるわけでもないのだ。

「他人の人生という前例」など関係ない。例え他人にとっては間違っていたにしても、自分が必要だと思ったのなら素直に実行するべきなのだ。

自分の道は自分で切り開くというのは、他人の人生という前例を頼りにせず自分で考えて自分のしたいことをしていく生き方である。

他人の人生は悪魔でそういう人生もあると並列に扱うことが寛容であり、やれ成功しているだのなんだのと、自分の人生を否定したりする道具として使ってはならない。

自分の人生を主軸として考えた時の参考資料として使うことが望ましい。

この国の価値観はなんでもかんでも前例を求める“前例教”に洗脳されている。誰かが既にやってないかそれを見つけてから行動するというのが我々日本人の基本になっている。

それを気にしていては自由な人生など歩めるはずもない。

自分の人生を生きたいのならとにかく臆さず、自分のしたいことに忠実に生きるのである。

別に難しく考えることはない。むしろ自分の人生を生きることは、他人の人生を生きようとするよりもずっと簡単なのだ。

他人の人生を真似しながら生きるというのは、真似ができなかったら間違った人生を歩んでしまうことになるが、

自分の人生を生きるというのは前例がなく、故に正解も間違いという概念も存在しないのである。

最後に

もう誰にも”好かれる必要”はない。

これまで色々述べてきた事柄はここに収束する。この記事に限らず、今まで書いてきたほかの記事も含め、これに納得するための様々な認知の気づきと、修正であったのだ。

「好かれる」「嫌われる」なんてのは、意識したところで何の意味のない思考だ。

他人の頭の中を考えてそれを担保にすることは、元々物理的に不可能である。

人間関係は話し合うこと、意思疎通をして互いに関係を結ぶことを合意を取ることで構築すればいいのであって、「好かれているかどうか」じゃない。

私たち人間が生きているのは物質世界である。

だから誰かと関係を結ぶというのなら、そんな物質世界の理にしたがって5感で感じられる言葉や文章で明確に交わし、意思疎通を計らないことには何もないのと同じことなのだ。

合意があっても相手がこちらを好きかどうかを保証するわけではないし、人の頭の中はそれ以外の人間からすれば永遠に謎である以上、一切知ることができない

だからそんな永遠にわかりえないことを理解しようと、理解したきになって頭を悩ましたりする必要は初めから必要なかったのである。

無根拠の自信をもっていい

人間には真実を語ることも見つけることもできず、万物に対して正解という見かたも間違いという見かたもできる以上、

たとえ自信をもつのに根拠を用意しようと、どんな根拠も絶対的なものではないのだから、あってもなくても変わらないのである。

そもそも自信というのは、自分の脳を活性化させ、不安を感じさせる物質を脳に流させないようにするだけの認知方法であり、

脳内物質のコントロールのための認知の仕方が自信の本質なのである。

真実を担保に行動することなど指してはいないのだ。

それに気づけば、自信をもつのに根拠など必要ないことがわかるのである。

むしろ根拠は自信をもつのに邪魔ですらあるのだ。自信をもつのに条件を付けてしまっているからである。

自分を信じるのに条件をつけてしまっているから、自信が持てないという、悲しい一人芝居でしかないのだ。

故に、何事にもびくびくすることなく、常に自分を第一に考える。自分のしたいこと、そして他人にしてあげたいと純粋に感じたことについて考え実行する。

そんな自分をただ信じるだけでいいのだ。

誰かに縛られる必要もない

誰かの顔を伺う必要もない

誰かの目におびえる必要も、もう無い

誰かの頭の中のことを気にして一々疲弊しなくていいのである。

他人の頭の中など、想像しなくてよかったのだ。



自分の目に見えないもの、5感で感じ取れないことを想像したり考えたりする必要などない。そんなものは創作の世界の話なのだ。

あなたがそれを気にするようになったのは多分、あなたの周りや、自分の親が、そういうことをあなたに強いて、真面目なあなたはそれに答えようとしてきたからじゃないだろうか。

「察してよ」「空気を読め」とせまられ、断ることが出来ずにいた。それは相手を傷つけたくなかったのかもしれないし、自分が傷つきたくなかった課らなのかもしれない。

しかし、もうそんなことを気にする必要ないのである。他人の都合で自分を殺す必要などないのだ。

そんな風に”クソ真面目”に考える必要など、最初からないのだ。

そんなことをして気を回して、自分をこれ以上殺し続ける必要などないのだ。

自分のしたいこと、そしてその延長にある他人にしてあげたいことに忠実になる。

これは、他人の課題に侵入しない思考を身に着けることとイコールなのである。

それが自由の世界なのだ。自由な人生とは自身の孤独と愛と、自身の目的に忠実な人生なのである。

PS:

私事になってしまいますが、振り返ってみるとこのブログは私自身の認知修正の歴史だったのだと思います。

過去に自分がどんなことを考えていて、どんな風に歪んだ認知をもっていて、それをどんな風に考えて、少しづつ何かに気づいて、直していったのか。その足跡が残っている。そんな部ログです。

多分この記事で一つの”ゴール”を迎えたのではないか、と思います。この記事を書き終えてようやく”完全”にすっきりできた感があるのです。

この記事はそんな私にとって一つの区切り、節目という記事になりそうです。

これからも記事は書いていくつもりですので、いつも読んでくれている方、ご拝読のお礼を申し上げると共に、引きつづき何等かのお役に立てそうな考え事を展開してまいります。

 

ではでは

共同体意識のコツ

シェアはこちらです!



より踏み込んだアドラーの実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学です。

それは人の解釈という、実際には他者と全く共有できていないものの問題だからで、最終的には自分が気づく必要があるからです。

当サイトでは管理人のElepanがアドラー心理学を元により深く、より根本的な思い込みの解消、哲学を実践実施した結果、その考察と気づきをまとめております。

孤独 認知論
私の「甘え」うつ病治療


私のうつ病の主原因は「甘え」だった。甘美に感じられた「甘え」が私を苦しめていました。

そんな私が自分の甘えから脱し、

精神の安定、自由をつかむためにやったことをまとめています。


孤独 認知論
承認欲求を捨てよう


承認欲求を捨てて「自分の人生」を生きよう


孤独 認知論
人間孤独論


「人は生まれた頃から死ぬ時まで孤独である」

それを論理的に考える記事です。


孤独 認知論
My哲学


主に「人の心」について、私個人の哲学考察をまとめたものです。


孤独 認知論
MBTI考察


MBTI関連の考察記事です。ENTPが多め


孤独 認知論
ゲーム系


遊んだゲームのレビュー、攻略情報などなど


previous arrow
next arrow
Shadow
Slider
自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

MBTI : ENTP

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)