「自分と同じ思考や文化をもっている」ことが前提にあって成立する文化
過去の日本のような集団主義的文化、個人を並列化して同じ価値観をもつように教育されてきた日本人であれば、察しの文化はうまく機能する
しかし昨今では、教育機関や働き方改革などをはじめとして、社会全体で個人を尊重しようとする動きが始まっている。
さらにSNSなどの影響もあり、自分が思っているよりも他人というのは自分と違う、というのがわかってきた。
自分と他人が違うということが前提となると、この文化はうまく機能しない。
自分と他人が同じ前提でないと、相手の頭の中という見えないものを自分のそれで代替えすることで対応できていたこれが機能しなくなってしまうのだ。
人は人の頭の中を見ることができない。だから相手の気持ちを察するというのは、実際にはできていない。
縦しんば相手の気持ちだけは察っすることができたとしても、それだけでは相手の考えていることなど全くわからない。
人は他人を自分の鏡にしてとらえた自分自身に対してしか考えることができない。他人を考えているつもりでも、実際には自分自身を考えているだけ。
他人の内面そのものを、人は考えるどころか、探知すらできないのだ。
察しの文化は、これまでの集団主義的価値観の徹底した刷り込みによって形成された思想、労働環境や働き方など、社会全体全てにおいてそれが反映された形であったからこそ、“たまたまうまくいっていただけ”だ。
それをやめて「個人を尊重しましょう」と言い始めたのが昨今。となれば、個人を尊重しない価値観だったからこそ機能したこの察しの文化も変わってく必要がある。
「察する」のではなく、「聞く」
相手の気持ちを察して「多分こう考えているだろう」とか、「きっとこういう気持ちだろう」とか、そう“深読み”する前にまずは言葉にして聞くこと。
ネットでもリアルでも同じ。ネットでなら「書かれていること」が全て。リアルならそれに加えて「言ったこと」が全て。
「考えていること」、「感じていること」など、それ以外のことは何も伝わりなどしない。
相手の考えていることは相手の口から聞かなければわからない。聞いてもわからないことすらあるくらいである。
じゃぁ無駄だからと何も言わず黙っているだけでは何も始まらない。会話をしないことには人とのやり取りは何も始まることはないのだ。
相手が話をしないのなら関わらない
相手に話をする気がなかったり、ただ黙っているだけだったり、あるいはふてくされてしまって全く話をしようとしなかったりするのであれば
もうその人ととは会話をすることも、考えることもやめる。とくに後者の「ふてくされている」人の場合は、こちらも関わるだけで疲れる。
相手が不機嫌そうに見えることを察するのは、相手のそんな気持ちに自分が多少なりとも共感を示すわけだから、自分の中に嫌な気持ちが芽生えていることでもある。
相手の気持ちを察しないのは、一見”怖そう”に見えて実は”楽”である。
分かりもしない相手の頭の中を考えなくてよくなるし、相手の負の感情に共感する必要もなくなり、気分もクリアになる。
加えて聞けばすぐ解決するので圧倒的に短い時間で済む。頭の中で察して考えようとするよりも、ずっと無駄な時間を使うことなくあっさりと解決するのだ。
相手の頭の中をわかろうとすると無限ループに突入して妄想になってしまうだけで、どんどん自分の時間と気力が失われて行ってしまうだけなのである。
察する”だけ”ならそれ以上何も考えない
自分が察するだけで、相手に聞こうと思う意思がないのなら、それ以上はもう考えないこと。感じようとしないこと。無視すること。
それについて考えることは、妄想をするということと同じ。どんなに自分の中で「こう考えているに違いない」という確信があったとしても、
相手に聞かずに相手の頭の中を考えようとしている以上、100%自分の妄想である。
妄想に時間を使っても何の意味もない。
事によっては嫌なことばかり思い浮かんでしまって気分も悪い。仕事も手がつかなくなってしまうし、せっかくの楽しい時間も台無しになってしまう。
せっかくの休日や息抜きの時間に、相手の頭の中をぐるぐる妄想して疲れてしまったらそれこそ目も当てられない。
自分を自分の頭で疲れさせないためにも、察するだけならそれ以上はもう何も考えないこと。シャットアウトすること。
察してもらうことをあきらめる
相手に”察してもらおう”とすることをあきらめることも重要だ。
自分の頭の中で考えていること、感じていることは自分の口から言わなければ何も伝わらない。
それでも相手に理解してもらいたいと態度だけで表現しようとしたりすると自分も相手も疲れてしまう。
特に前述した「ふてくされる態度」、すねるような態度を取ってしまうというのは最悪だ。幼稚だし、そもそも大人になってするようなことじゃない
日本人にはその察しの文化の負の側面である「相手に世話してもらうことが前提の思考になってしまう」というものがある。
「してくれて当たり前、やって当たり前」「自分はこれだけやったんだから見返りをくれて当然」という、勝手な義務の意識を持ち、それを相手にも強要するまでにいたる。
そんなのは身勝手な押し付けにすぎない。相手を尊重するなら、個人を尊重する社会を実現して生きていきたいのなら、それはやめないと難しい。
これは生きづらさを作り出す原因でもある。義務を相手に押し付ける反面、自分にも無意識のうちに義務を作り出している。
やりたくないことばかりやって生きることを無意識のうちに自ら選択して不満を作り出しているようなものだからだ。
自らの意思で相手にはっきりと言葉で伝える
もし相手にしてもらいたいこと、してほしくないことがあるのであれば、自分の意思、言葉で明確に伝えること。
態度や気持ち、考えているだけでは絶対に伝わらない。
伝わるだろう、分かってくれるだろうと期待しても、相手は自分の頭の中を分かる仕組みはもっていない。
そしてそれは自分も同じはずなのだ。それに日々の生活で気づいていけばより納得できるはず。
或いはこれまでの自分のそんな期待が、みたされたことはどれくらいあったかを思い出してみるといいかもしれない。
何度も”裏切られ続けていた”のではないか。自分が期待していた想定とは裏腹に、他人はいつも違う動きをしていたのではないか。
この他人の期待に気づいてそれを捨てると、案外楽になるものである。人の悩みのほとんどは、そういった他者に対する期待と現実との乖離に基づくものが多いのだ。
個人を尊重する=自身の精神的孤独を受け入れること。
自分の心は自分が面倒を見る。そういう孤独を受け入れることになる。
そうでないと、個人を尊重することはとても難しくなる。
他人に自分の理解を求めるということは、間接的に相手の価値観を否定することになってしまう
なぜかというと、例えば相手が反対の意見をもっていて、そんな人に理解を求めるということは、
相手がその思想になったということであり、相手のそれまでの思想を否定してしまうことになるからだ。
個人を尊重するということは、相手の価値観や人格を尊重するということ
つまりそういう依存からは卒業しないと、実現はとても難しいのである。
自分と同じ人間はいない。自分という人間はこの世に一人しかいない。
自分の面倒を見ることができるのも、自分のことを理解して行動することができるのも、最初からこの世に自分だけしかいない
他人の考えていること、感じていることは存在しない。
自分のそれしか存在していない。
そういう「人の本質的な孤独」に気づいて、それを受けいれていくことでもある。
孤独は一般に怖いことだといわれている。でもそれは大きな間違いで、完全に自分次第である。
自分がどう思うか、どう選ぶかというだけだ。
「個人を尊重する社会が良い」「個人を尊重せず集団を尊重する社会が良い」
どちらを良いか悪いかと人が選ぶように、孤独をどうとるかというのも、良いか悪いか、どちらでもないかというのも、全て人は選べるのである。
孤独は寂しいとか、むなしいとか、そういった感情とセットでとらえられがちなものであるが、誰にも邪魔されずに自分の課題に没頭できる環境と取ることもでき、何かを学んだり、真剣に何かに打ち込んだりする上では最良の友である。
画家としてだけでなく多方面に功績を残したレオナルドダヴィンチも「画家は孤独でなければならない、一人なら完全な自分でいられるから」と言い残している。
過剰な察しの文化を捨てていくことで、個人を尊重する社会に少しづつ近づく
ハイコンテクストな日本の文化「わかってくれるだろう」「いたわってくれるだろう」「これをこっちがするんだから相手もしてくれるだろう」
という他者への期待の気持ち、他者への思い込みを捨て、
自らの要求を明確にして相手に言葉で伝えること。
相手の頭の中、自分の頭の中の“期待”ではなく、言ったこと、書いてあること、といった“事実”を見るようにすること。それを飛び越えて妄想したり思い込まないこと。
不満があるのなら自分の意思でそれを伝え、自分がどうしたいのか、相手にどうしてほしいのかを伝える。
この考え方を少しずつ広めていくことができれば、個人を尊重する社会の実現に近づいていくはず。
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