これまでの「察しの文化」とこれからの「話し合う文化」





こじれまくった日本の「察しの文化」という障害を乗り越える

アドラー心理学を日本で実行するのは恐らく西洋の国よりも敷居が”高め”だと思われる。

その大きな障害の一つが「察しの文化」である。言葉を交わさずにあいての気持ちを察する考え方のことである。

巷で言われている「ハイコンテクストな文化」というものである。少ないコミュケーションに多くの意味を持たせようとする考え方だ。

現代の日本は昔からの「察しの文化」をこじれにこじれさせて、それでもそれを未だに捨てることができずにいる。

皆何かと理由をつけて「自分のことをわかってほしい」ということを目的にいろんな主張をしている。

直接そう言えばいいのに回りくどい言い回しをしてばかりで全く伝わらず、勝手にストレスをためてしまっている現実がある。

“高め”というのは他人がそうすることを催促するから、という事を意味しているのではなく、単に認知の修正課題が多い、それもなかなか手放すのが難しいという意味である

何せ我々はこの「察しの文化」が根付いている教育、親世代の人間達から教えられたこと、そしてそうやって育てられた子供たちとの触れ合いやその他の環境、仕事、娯楽などにかこまれて生活してきたからである。



その時間が長ければ長いほど、難易度は高くなる。それだけたくさんの思い込みをするし、執着するからだ。

それを手放し、新しい生き方を受け入れるというのは相応の勇気がいるし、継続してその洗脳を解除していくように自ら自分の様々な認知に気づいて、直していくことを繰り返していかなければならなず、かなり大変な道のりになる。

しかしどんなに長年の洗脳のような教育を受けようと、人は変われるものなのだ。

他人の都合は関係ないのだ。変わるべきはいつだって自分以外にいない。

社会がどうだ、ではない。他人がどうこうではない。

自分なのだ。自分が変わるのか、変わらないのか。変わりたいのか、変わりたくないのか。

それしかないのだ。

通用しなくなる「察しの文化」

察しの文化が通用するのは、それだけ人々の価値観が一元的になっている文化的背景があって初めて運用可能なのである。

戦時中の日本は帝国主義的思想で天皇陛下を崇める1元的価値観の元に生きていればよかったし、バブルの時代は物質的価値が重視されていたからわかりやすかった。

現代のようにモノが飽和し物自体の価値が薄れ、代わりに「目に見えない何かに対する価値観が高まった社会」では、これを運用するのは相当に困難を極めるのだ。

かつ現代社会では個人の価値観が重視され、個人の趣向が重視される。

当然好き嫌いも多様化する。

故に個人の間の価値観の違いによる意見の不一致、不協和、趣向の違いは現実的に避けて通れないのである。

嫌われることを恐れたり、好かれたいと思うこと自体、すでにナンセンスなのだ。

時代の流れ、価値観の流れに適応する考え方としても即していない考え方である。

にもかかわらずこの文化を無理やり続けていては、経済活動すらもどんどん”窒息”の運命をたどるだろう。

少子高齢化がだけが問題ではない。というかそれは本質的な問題ではなく、あえて問題視するにしても副産物的なものだ。

経済の流れとは人の価値観の流れとみることもできる。どんなものが流行っているのか。どんなものが欲されているのか。それにこたえる適切な供給はどれくらいあるのか。

経済を作り出しているのは人だからである。もっと言えば経済とは、その国の性格そのものを表しているとみることもできる。

日本人の生産性がどんどん悪化していることの本質は、人の価値観が時代とともに多様化する一方で、この察しの文化が残り続けた結果だと思われる。

価値観も考え方も異なり、自分のしたいことや考えていることをほとんど共有できていない現実があっても、

「察してくれているはず」と話し合うことさえせず、ただ一方的に「わかってくれる」ことだけを望み、

あるいはそう思い込み続け問題の発見、解決をずっと棚上げし続けてきたのだ。

それが今、あらゆるところで需要と供給のマッチングが起こらなくなってしまっている現象を引き起こしているのだ。

単なる物の需要だけではない。先ほどもいったように、人の価値観が具現化したのが経済の流れ、つまりもっと小さな単位で見た、個人と個人の間にある関係性における需要も同じこと。

人の付き合い方。何をお互いが欲し、何をしたいのか。

ただお互いが「こうあるべき」と言って押し付け合い、”話し合わない”

意思疎通を極力減らそうとする姿勢、かといって価値観はバラバラ。

こんなもの察しようがないのである。



西洋の”話好き”な特徴から見える生産性の高さの理由

西洋の国々では日本に比べれば圧倒的に話をしていると思われる。特にアメリカ人はディスカッション好きで知られている。そのために集まるコミュニティも各地にたくさんにある。

話さなきゃ相手のことなんてわからないと言うし、話すことを楽しんでいるようにも見える。

海外の英語の掲示板を少し覗くだけでも彼らの”話好きさ”が見て取れる。

長文投稿もよくある。日本では煙たがられたりする傾向の方が強い。しかし彼らの文章は英語という構造的な要因(常に結論ありきになる構造)もあるがとにかくわかりやすい。

何を伝えたいかがすぐにわかるのだ

生産性の本質的な要因は大きく分けて「個人の能力」そして「コミュニケーションの質、粒度」にある。

人は一人できることに限界があるからこそ、他人と協力をする。だからこそコミュニティが作られ、会社が存在し、そこに人も集まる。

そしてその“協力”を最も正確に効率化できる手段とはコミュニケーション、話し合いなのだ。

だから彼ら、特にアメリカ人は何事においてもその”スピード感”において圧倒的なのである。日本が常に彼らの後追いなのは無理もない事なのだ。

何かを決定することも新しい仕組みを考え実行に移すことも。彼らの話し合いが常態化している文化があるために、スムーズなのである。

加えて、自分が何がしたいのかについても、より”わかっている”と思われる。

より正確には“わかろうとするプロセス”を無意志的にしろ意識的にしろ踏んでいる。

思考を言語化するというのは、自分の内的意識を明確にする助けにもなるからである。話すことや自分の思考を文章にするというのはそのプロセスの一つなのだ。

だから自分の欲しいものが何であるかについてもより深く知れるし、知ろうともする。そうすれば自身がもっている需要、つまり「欲しい何か」と供給、つまり「できること」が何なのかも明示化でき、

それをコミュニケーションし伝えることで各人々が互いに欲しいものと欲されているものを把握することにも役立つ。

話し合いはそういった人々の情報を円滑かつ正確に交換する役目を果たしているのだ。

そりゃ話すことはそういうことなのだから当たり前すぎる話なのだが、そういうことにすら気づいていなさそうなのが日本の文化的背景にはある。重要なこと、基本的なことだと感じているのなら、既にやっているはずだからである。

故に今のこんな時代に、それを極力放棄して古来の日本の「察し合い文化」によって空気を乱さず「和を持って善し」とするという考え方は益々の困難を極め、

今後も多様化する社会の前にこの文化は既に使えない道具と化していくだろう。

これをいつまでも続ける限り、察し合いの空回りが横行し、それを元に自身を成り立たせているタイプの人にとっては「ハイコストローリターン」な考え方、価値観になっていく。

疲弊するだけの人生。相手から何かを欲しがりながらも黙ってその身を削り、結果裏切られるばかりの、そんな人生を歩む羽目になる。

そんな人生は苦痛にまみれた不幸なものでしかない。だったら、そんな不幸な人生を態々歩む必要などないのだ。

そもそも、人個人の持っている価値観など自分が持っているもの以外にはない。

どこまで行っても人は”自分という存在の壁”を越えて存在することができず、”自分という閉じられた世界”の中で生きる以外にないのである。

いくら他人を知ろうとしようが、結局人間は自分という個の存在を超えられはしない。

そんな人間というちっぽけな存在が「好かれよう」としたところで、すぐに限界はやってきてしまうのだ。

自分という単一の価値観を様々な異なる価値観、それもどういう価値観なのかすらも不明の寄せ集めである”他人達”という文化に適合させようとしたろころで、それは土台無理な話なのである。

そんな形で心を病んでいる人もそれなりの数がいるのではないだろうか。

「誰も自分のことを察してくれない」

つまり、誰も私を理解してくれない、孤独だ、と。

そうして自らを否定してはいないだろうか。



そんな考え方はしなくていいのである。そんな世界の見かたをする必要はないのだ。

元々人は孤独な生き物だ。

孤独で、他人のことなど何もわかっていない、そして自分を理解している人間も誰一人いない。

親や仲の良い友人、恋人でさえも、それは変わることはない。

だからこそ、話し合いをすることは大事なのである。

何もわからないからこそ、せめて言葉を使って意思疎通することが。

わかろうとすること、そして聞き出した情報を元にその相手の役に立とうすることが大切なのだ。

これから必要なのは「話し合う文化」

故にこれからの社会に必要とされているのは「察すること」ではなく「話し合うこと」である

自分の理解のために。他人の理解の助けのために。

みなの利益のために。

察することは、困っていそうな相手の何かに気づいてあげて、話し合う最初のきっかけだけにとどめるべきであり、

察することを発端に、自己保身的な妄想をぐるぐるとするのはやめるべきである。完全に生産性0の無駄な労力でしかないのだ。

話をすること、自分の意見をいう事。そういう経験を積んでいくことが必要なのである。

自分の意思を明確に伝えることだけでなく、相手の思っていること、考えていることを“聞きだす”こともまた必要なのだ。

そうすることによってどんなことで自分が誰かを助けることができるかもわかってくる。

誰かの、社会の役に立とうとすることもできるようになるのだ。

自分のことを話すこと、相手のことを聞き出すこと。

これが「話し合う」ということの基本概念であり、重要な仕事なのだ。

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