究極の自由へ




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2020年04月25日~:
現在メンタルヘルス系過去記事を順次全書き直し中です。
上記年月よりも古い記事は順次修正予定記事になります。

無償の愛=自由

平等の愛、無償の愛とは、他人に対する所有欲求のあきらめによってえられる。

そしてその平等な精神性こそが何者にも依存しない自由な精神からくるのである。

他人と自分は全く別の存在、別の人間。自分の思い通りになることは決してない。

故に、他人は手に入らないという事実を受け入れることで、無償の愛は得られるのだ。

それはなぜか。他人が思い通りにならないということを受け入れることができると、「特別な他人という重み」が減るからである。

相手への期待というのはそのまま相手に対する重みである。

思い通りにならないことを受け入れるということは、その期待を手放すということ。

してもらいたい、愛してほしいなど期待を手放すということ。

そうすると今まで自分が抱いていた「特別な他人」に対する期待値がぐっと下がり、他の他人達との”特別差”が減るからである。

この”平等の感覚”はこのようにある対象に対する期待をあきらめていくことで得られる。

人間だけでなく、動物や他の生物、万物に至るまで伸ばしていくことができる。

そうすると、他人に拘る理由すらもなくなっていく。他人という存在は、他の生物たちやその他の物体、概念たちとまで平等に観ることができるようにもなる。

(※「万物全て平等レベルにまでしろ」などというつもりは全くありません。あくまで可能性、自分がしたいレベルまで自分の意思でやることが肝心です。)



嫉妬という所有欲求の別の形

嫉妬などの感情は、他人を自分の所有物、あるいは所有物候補という前提で見ているが故の欲求である。

そしてその認知の仕方が依存症リスクの源の感覚でもあるのだ。

何かが手に入る前提でものを考えているから、失う不安を発生させるのだ。

愛されない不安を抱えるのも、愛してくれる人が離れることを恐れて、愛してくれる人を所有したい欲求がそうさせるのである。

その苦しみから自身を解放するには、何かを所有したい、自分のコントロール下に置きたい、どうにかしたいという所有欲求をあきらめることなのである。

哲学も道具の一つであり、「依存」しうる。

道具に依存すると脅迫的感情が湧いてくる。「これがなければ自分はダメになる」、と。

それは哲学という道具ですらも、同じなのである。哲学だけが例外、ということはない。

人は基本的になにか特定のものに執着すると精神に異常をきたす。

所有欲求、依存心というものが芽生えると、そこから不幸の芽が顔を出すのだ。

哲学とは、その使用用途こそ多岐にわたるものの、その本質はある対象に対する思い込みを解消したり、考えるという道具であり、心のよりどころではない。

心のよりどころとはあらゆるものを手放した自分の姿なのである。

哲学はその「手放す」という行為をするための準備段階を作り上げるための方法論の一つにすぎないのだ。



全てを崩したうえで、最終的なゴールは「手放す」こと。

哲学によって思い込みを崩した後にすること。それは手放すことである。

今まで必要だと思っていたことが、そうではなかったことに気づく。だから一度手放す

手放したときの状態、自分の世界を体験、経験する必要がある。

それを繰り返すことで、本来の”持たざるものである純粋な自分”へと少しずつ近づいていける。

手放しても、それが2度と使えなくなるということは意味しない。

それは手を伸ばせばまた使う事ができる。いつでもそのような道具が使える状態にあるものであれば。

そしてそういう「すぐ使えるもの」が何であるかを知っておくために哲学は有用なツールと言える。哲学によって、実際には自分には使える道具でなかったとか、少し前までは使えたが今はもう使えないものである、ということがわかってくる。

そして哲学そのものは、そんな「いつでも使える道具」の一つである。自分の寿命が来るか、痴ほう症などになって考えることができなくならない限りは。

でも基本的に人は、そんな道具が手元にある中でさえ「何も持っていない」。

道具はあくまで道具であって、自分自身ではないのだ。

それを受け入れること。全てを手放した心の状態を受け入れること。それが人間の本質的姿、何物にも縛られないという状態だ。

それを踏まえると、ディオゲネスの思想、”犬儒学”はまさに自由の思想そのものだったのだ。

狂ったソクラテス:ディオゲネス

彼はプラトンから「狂ったソクラテス」というあだ名をつけられた。

これはプラトンが「机そのもの」という哲学的な見解と答えを指し示したとき、

「僕には『机そのもの』というのは見えないね」ディオゲネスがその見解を批判した。

「人間とは二本足で歩く動物」といえば、「同じ二本足で歩く鳥も人間か」と批判し、

「二本の足で歩く羽のない動物だ」と言い直せば今度は、羽を全て抜いた鳥を持ち出して「これも人間か」といった

それを受けてプラトンは彼にそう言い放ったのだという。

しかし、この構図はなんというか、ソクラテスが当時の古代アテナイにて腐敗しきった市民たちにやっていた、所かまわず対話し論破を繰り返していたあの行為と全く同じなのではないかと思うのだ。

違うのはその対象者が一般市民なのか、哲学者だったのかということだけ。

ソクラテスを一般市民に対する知への愛への宣教者とするなら、

彼は哲学者たちに対する知への愛の宣教者、いや、自由への宣教者だったのだろう。

ディオゲネスはソクラテスがやったのと同じように哲学者たちに対して論破しようとしていたのだ。



「お前哲学に随分ご執心のようだが、哲学に依存しとるのではないか?」ということを彼は言いたかったのかもしれない。

「お前から哲学を取ったら、お前には何が残る?何も残らなかったとして、お前はそれでいいのか?自分を保てるのか?」

と。そう言いたかったのかもしれない。

彼は何物ももたない、あらゆる物欲から解放されることが真の強さであるということに気づいていたのだ。

「欲望から解放されて自足すること、動じない心を持つことが重要だと考えた」(wikiより)

それすなわち「手放すこと」だったのである。手放した状態の姿こそ、自分自身だったのだ。

そういう意味でいうと人のあらゆるもの。性格だとか価値観というものも突き詰めていけば、それに執着することさえ全て所有欲求だったのだろう。

本当は人間に、本質的な性格なんてものすらも存在しないのだ。

全てを手放したら、そこにはただ世界を感じている自分しかいないのだから。

ただ私はそこにもう一つ付け加えたい。彼の思想にもう一つだけ。既に少し前述しているが。

それはまたそれを拾うこともできるということ。一度手放したものでも、手放したものが何であるのかを知っているのなら、拾うことができる。

それも今度は、自分の意思という名の元に、しっかりと選別をして自分の人生のために、それを拾って使うこともできるという事だ。



そうやって”道具”はつかっていけばいい。元々道具とはそういうものだ。

そうやって自分を客観視し、コントロールするすべを持てば、もっと人生を楽しめる。

道具に使われてはならない、というのは無意識的に道具に使われ振り回されないようにするという事。執着しないこと。

そしてそれをするには、それだけ自分のしていることに気づいていなくてはならないのだ。

人生とはそのようなものなのだ。人間の自由というのは究極の客観視、このような精神にあったのだ。

以下に続きます。

“所有欲求”を手放す。



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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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