“所有欲求”を手放す。





前回に続く記事の内容になります。

究極の自由へ

何者にも、何物にも依存しない心

何物も手に入れようとは思わない心

何も持っていない自分。その上で自分を肯定してこそなのだ。

何も持っていないからこそ、何も怖いものはない。元から恐れるものなど何もない

自分を否定できるものもない。元からないのなら、不足しているものもないからである。

空っぽなら批判されようと最初からからっぽなのだから自分を否定しようがない。

自分が何かをもっていると思っていて、それを批判されると思うからつらいのだ。

だからそんなもの、とっと手放して、自分の一部でなく自分の目的を達するための道具として認識するのである。

自分という個という偶像すらも。全ては、「何かをするための道具でしかないのだ」

「自分という偶像」を元手に他人と関わる「必要性」などないのだ。

あるがままというのは、そういう見栄、承認欲求を手放すということ。自分という偶像を担保に相手にふさわしいだとかどうだとか考えず、

ただ「自分のしたいこと」だけを考えて相手と関わろうとすることだけでいい。

道具に依存してはならない。道具を自分の一部と思ってはならない。

自分の本質は、「ただ世界を感じているだけ」しかないのだ。

常にこの心をもつこと。手元にはない何かを欲するというのはその瞬間に自分の精神がその対象に依存しているのだ。

ただ、今ある自分の感覚だけを研ぎ澄ませていくだけでいいのである



依存という毒

依存は心を貧しくする。それが強烈であればあるほど、依存する対象しか関心がなくなってしまう。

それはあまりにも不自由だ。依存することで、選択可能な候補達が消えていくのである。

他に無数に存在するあらゆる可能性という選択肢がなくなってしまう。

また、依存対象が存在しないとき、またはその対象が自分の元を離れていくことを感じた時の状態は、

とてつもない不安に押しつぶされそうになりながら恋い焦がれて今にも死にそうな状態になってしまっている。

依存対象に接触したり、それをいつまでも所有しているという証拠を欲したり、それを使って何かしたりすることでしか落ち着けない。楽しめない。

それなしでは自分を保てなくなる。依存している間すら「いつか失うのではないか」という不安にも同時に晒され続けてもいる。

(その感覚が怖いからそれを避けようとして、依存対象に依存してしまう自分を察して怖いと感じる人もいると思われる。しかしこの心理すらも依存的欲求から来ている。)

まさに中毒である。完全に依存対象に自由選択の機会を奪われ支配されてしまっている。

何かに依存したいがために、ずっと悩み続け時間だけが過ぎていく日々。

なんと不憫な人生なのだろう。

だから手放す。それこそすべてを。

人は最初から最後まで「持たざるもの」

自分は元々何ももっていないのだと。

何も手にしていないという前提を受け入れる。

今現時点で自分が手にしていると感じているものですら、全て所有などしていない。

ただそう見ているだけのこと。そのように誰かが決めたことに従っているだけということ。

いかなることをしても、いつ何時においても、この先のどの時点においても

「何も持っていない」という状態は変わることはない。

もたないというのは単に財産などの物質的存在にとどまらず、友人など交友関係に社会的評価、能力、達成してきたことや経歴などありとあらゆる自分が持っている、あるいは逆に不足していると感じている欠点などの概念にも全て該当する。

それらがいくら何かが手に入るかのように見える機会を目にしたとしても、それが手に入ることは決してない。

永遠の持たざる者。そんな自身の本質、人間の本質を自覚している心の状態。

その感覚。あらゆるものをあきらめた時のその感覚を通常の自分の感覚にしてしまうこと。

万物に対する所有欲求をあきらめるのだ。

常に自分は一人。常に自分には、なにもない。友人や恋人、最愛の人と呼べる存在が居ても、人はどこまでも一人なのだ。

しかしそれは劣っているわけでもなければ悲観視しているわけでもなく、優れているというわけでもなければ、無理やり楽観的な解釈をしようとしているものでもない。

どちらでもない状態。何でもない状態。ただあるがままの、ありのままの姿。

良いとか悪いとか、そんな概念が全くない世界。その姿こそが自分の真の姿。何物の役割も演じず、上も下もなく、

自分という”個”を意識する感覚もない。



偶像思考を手放す

自分という”個”という偶像すらも手放すのである。

「自分は何者である」という偶像思考を捨てるのだ。

そんなものは最初から最後までどうでもいいことだ。

そういうもんは、自分を相手に紹介するための道具でしかないのだから。結局はコミュニケーションツールでしかない、それだけの道具

自分を決め付けるという行為は、その時点で自由選択の機会を捨てていることと動議なのである。

ただ、「今」があるだけ

ただ今を生きているだけ。今を感じ、行動しているだけの存在。

人望も、ステータスもそのすべては人間が勝手に作って、そういうものがあると思い込んでいるだけにすぎない。

誰も何物も実際には所有などしていない。

それを自覚すること。そんな本質に気づくこと。

自分の思い通りになることなんて、実際にはほとんどないことに気づくこと。

そんなものは多く見積もっても自分の意思くらいのものであるということ。そんな自分の意思さえも、自分の認知や見てきたものに依存してしまっているのだから。

自分が何をどう「認知」して、どう関わろうかという「行動」だけ。

楽しもうとするか、悲観的に見て避けたりしようとするのか。おちこむのか。体をこわばらせ発作を起こすのか。精神病を発症するのか。

それらの全ては自分がどう認知しようとしているかというだけのことに気づくこと。

その冷静な視点が自分をコントロールする。

すべてを手放し、ただ今を生きる。

今まで自分が「必要だと」思い込んでいた様々なもの達。

「これがないとダメだ」

「この人がいないと自分はダメになってしまう」

「好かれてないとダメ。嫌われてたらダメ」

そういう心。依存心。何かに執着する心。所有欲求。

この全てから自身を解放し手放すこと。それは喩え「思い込みを崩すための哲学」でさえも同じこと。

今後の生活の中で何かに縋って安心しようとする、それがなければ不安になってしまう、というような心がまだあることに気づいたら、

それも本当に必要なものではないと、一度自分の心から手放す。

手放したうえで、それは本当に自分にとって必要だったのか。そもそも、それは本当に持っていたのか。

どういうものだったのかについて考える。

結果それが“手に届く範囲”にあるもの(自分の意識も含む)で、今後もまた拾って使えそうなら、その候補として認識しておく。使える時にまた使って遊んだりすればよい。

使えそうにないなら、捨て置く。決して手の届かない何かには拾う事すらできはしない。

そうやって取捨選択しながらも、常に心の置き場所は変わらない。

依存心0、所有欲求0、「もたざるもの」である自分なのだ。



常に何物にも属しようとしないニュートラルな状態。自然な状態に自身の心の置き場所を決めること。

誰の存在も、何の存在もなく、ただ”自分”という存在、肉体すらなく、ただ”魂”のようなそんな概念だけがただそこに漂っているかのような感覚。

これが、心に静寂と安定をもたらしてくれる。

いかなるものも真に所有できない

いかなるものも真に永続性などもっていない

自分自身でさえも。

一つだけ確かな、今という瞬間に、自分が確かに生きているということだけ気づいていればいい。

これだけのことなのである。逆に言えばこれ以外に必要な物などない。他のものたちは全てはオプションなのだ。

この精神が基本。この精神を保つことができるようになることが、真に自分の人生を生きるための心持ちなのだ。

「手放しの精神」で人生を楽しむ

今自分は生きている。それをしっかりと噛みしめ、感じることの大切さ。

人間も所詮は動物であり、さらに言えば物質的存在の域を出ず、何ならその辺の同じ物質的存在である石ころとすらも変わらない。

しかし私には私の意思がある。その意思は「幸せに生きたい」と言っている。

だから本質的な幸せを探して、様々なことに気づきながら今こうして生きている。

その答え、最終週着地点が私にとってはこれだった。

持たざる精神。依存しない精神。今という瞬間にしかない精神の自覚。

限りなく依存を削ぎ落した自由の精神

その精神の中で何かと関わる。その感覚を保ったまま、何かと遊ぶ。何かを使って何かに挑んだりいろんなことをやってみる。

ただそれだけなのだ。

手に入れたいと思ってはならない。せいぜい借り物が限界。それを使って遊ぶまでが限界値。

人間の”所有”という概念は突き詰めれば全てレンタルなのである。

だからいつかは必ず返す時がくる。

どんなに身近だと感じるものであってもいつかは全てに終わりは来る。

それも予告もなく。他人は他人の都合でこちらに来たり離れたりする。それは当人の意志によってかもしれないし、病気などの死別によるものかもしれない。

自分の身もいずれ滅ぶ。徐々に自分という存在は今この瞬間にも寿命という時にむかって滅びつつある。

終わりの瞬間がいつかはわからない。しかし、その過程で失うものも、きっとたくさんあるだろう。

何れ本当に全てを手放す時が来ることは、既に決まっている。永遠がない以上、それは万物の宿命なのだ。



自分に嘘を付く必要もなくなる。

所有欲求を捨てるということは、同時に自分に嘘を付くことをやめることもできるようになる。

なぜ人は嘘を付くのかと言えば、それはある達成したい目的をもっているからだ。その目的は利己的かもしれないし、利他的かもしれない。

それを手に入れるために嘘を付くという手段を取る。

しかし、所有欲求を捨ててしまえば、少なくとも、自分の利益のためにうそをつくということはなくなってしまうだろう。

相手を思いやるために嘘はつくかもしれないが。

自分に嘘を付くことは本当に悲しいことだ。自分の「したいこと」に嘘を付くというのは、自分にとって最大限の侮辱だ。

自分を自然体の自分でいさせてくれない口実なのだから。

自由に。そして縛られずに。

自分が行きたいと思ったところにも素直にいける。したいと思ったことも素直にできる。

自分のそんな素直さに、安心することができる。

今こうして「目の前のものを感じていること」に、幸福を感じられる。

何かを食べたり、ベッドで眠ったり。今自分がしていること、すなわち「生きていること」に幸福を感じられる。

これほど幸福なことはない。

今を肯定できること以上に、今の自分を肯定するできること以上に幸福なことはないのだ。

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元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

MBTI : ENTP

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