私の “奴隷解放”宣言





ずっとメモとしてスマホのメモに持ち歩いていたものなんですが、誰かの役に立つかもしれないと思いまして。

最初にこれを書いたのは1年以上前だったように思います。そこから少しずつ加筆をしてきました。

それが完成し、その内容について心から納得し、体感的に実践できるようになったのはここ最近です。

ようやく自分の中にある「誰かの奴隷」の感覚がなくなり、自分を主人とすることができるようになりました。

なのでその宣言「私の”奴隷解放”宣言」を以下に残そうと思います。

自分から自分自身に向けた宣言になります。

———-

自分が無理しなきゃ付き合えない人と付き合っちゃあかんよ

そうまでして付き合ったところで苦労することしか目に見えないからね

人間関係は楽なのが一番いい。話してて楽しいとか自然だとか、そんなんが一番さ。

そしてそれは全て自分次第なんだ。自分が楽に話すだけでいい。肩の力を抜いて話すだけでいい

相手に対して好かれたいとか嫌われたくないとか、そんな考えたところで永遠にわかりさえしないことも理解する必要はないんだ。

自分を痛めつけていいことなどない。他人のせいで自分を傷つけようとしてはいけない

他人にそれを求めちゃいけない。自分のことは全て自分が面倒を見ていることに気づく。不快感も不安も、全て自分が作っている。

だからそんな他人に対する期待を全てを捨てた「孤独の状態」になれることだ。

誰も自分の事を思ってなどいない。そんな孤独を受け入れ。相手からされることを一切期待しない人生にシフトしていくことだ。

そういう孤独を受け入れていければよかたんだ。かつてあった「あらゆる他人の目」を捨てていけばよかっただけ。

自分を一々緊張させ、不安に至らしめていた他人の目を捨てきってしまえば、それでよかったんだ。

誰かにしてもらいたいことが延長線上にある目的の全てを捨ててよかったんだ。

それが自由だったんだから。



俺は捨てる。もう”そんな他人の温もり”など求めない。

必要ない。俺は”一人で”生きる。俺の心を支配していた親の存在、友人、知人も全て捨てて、ただ一人で生きる。

新しい自分を生きる。素直な自分を生きる。

誰ともかかわらないということじゃない。かかわり方を変えるということ。与えられることはすて、与えることだけで関わる。

それだけで幸福になれるってことを自分は知っているから。

それしか俺の幸福はないんだ。元々最初からそうで、俺はそんな現実を直視するのが嫌で、好かれている自分なんていう妄想の世界に逃げ込んでいただけだ。

でもそこは実際には地獄の淵だった。それが自分を苦しめるていることに気づいた。

だからもう誰の評価も声も気にせず、そんな妄想の世界から抜け出して、現実という目の前にある世界の中で、自分のしたいことに取り組む。

それが俺の唯一の幸福の道だった。もうかつてのあんな甘ったれで、人の目を気にして一々体をこわばらせている弱い俺で居たくないんだ。

誰かに好かれているって期待して、相手からこちらに来てくれることを期待して焦がれる人生なんて生きたくないんだ。

どんなにそう生きたいと思ったってその先の一寸は闇しかない。

そんな風につながった誰かと一緒にいたところで、俺はまたきっと相手に嫌われるんじゃないかという不安で自分の体を緊張させ、不安で頭をいっぱいにしてしまう。

そんなことを願っても、それがかなっても幸福になることなんてなかったんだ。

俺にとってそれは全く自然じゃない。

俺じゃない。俺に無理をしなきゃ、ずっと不自然なことをしなきゃあんなことはできない。

それは俺に嘘をつくことなんだ。そんな感覚で誰かとつながろうなんてのは自分に対する裏切りなんだ。

普通や常識に従うなんてことも、もう嫌なんだ。普通ならこうなるべき、こうあるべきそんなことなどもうききたくない。きこうとしたくない

俺は俺で居たいんだ。誰かの声にひよってなんかいたくない。

俺はただ、俺だけの事を考えていたいんだ。俺がしたいと思う事を純粋に考えて、やりたいだけなんだ。

一人で何かしていることに自信をもちたかった。それで満足していいって気づきたかった。

それが一番幸せな瞬間だったってことに。そんな常に目の前にあった当たり前の幸福をずっと見過ごしてきただけだったんだってことに。

自分の感覚に素直になって、それを人前にただ出してもよかったってことに。

それが一人の世界に素直になるってことだってことに。

俺はただ俺で居たいだけだから。それだけで幸せだから

だから。お願いだから俺だけでいさせてくれよ。愚かな”俺”よ。



例え手の届かない人でもいいんだ好きでいても

バカにされてもかまわないんだ。俺が何かを素敵だと思っている気持ちだけは嘘じゃない

それを俺が否定したり、小さくなったりしちゃいけない。そんな自分の気持ちを少しも否定せずに、ただ素直になるだけでいいんだ。

そうすれば一人の自分をどんどん好きになっていく

一人で生きることの幸福を体いっぱいに感じて良いってことがわかる。

本当は俺は、ずっとそんな生き方をしたかっただけなんだ。それを他人の目を気にする俺が邪魔をしていただけ。

静かだけど、いろんな面白そうな何かに満ち溢れた世界を。それを独り占めして生きて良い。

それが、俺の生きたかった世界なんだから

なぜ昔の俺はあんなものをほしがっていたのか、今となっては不思議だ

手に入るものではないものであっても、どういうわけかそれをあきらめられないのは

やっぱり手に入ると少しでも期待しているからだったのだと思う。

でもそんな奴隷の俺は、もう終わり。俺は奴隷だった自分を、今日解放する。

他人の目という牢獄から解放する。

自分の生き方を尊べ。この世に間違いも正しさもないのなら、何をどう思おうと同じこと

ならそれは自分を幸福にするために使えばいい

だから尊べ

今までの他人への関心を、自分のしていることに対する関心へと変えていけばいいんだ

一人の自分に語りかければよかったのだ。

自分の事をみているのは、最初から自分だけしかいないのだから

だから自分を信じてやれ。ただ自分を信じてやれ

そして自分の人生を生きる。自分が生きたいように生きていることの喜びをただ感じていいのだ。

俺はなにももっていない。

俺は最初から最後まで何も持っていないんだ。

だから何かを失う不安なんて最初から感じるものなんかどこにもなかったんだよ

俺が何かをするのは何かを手に入れるためなんかじゃない。

何を感じるためでしかないんだ。

何かを感じられたら、またその先にある何かを感じるために。それが一体どんな感覚なのかを感じるために

ただそれだけのこと。

「所有」という概念は人間が勝手に作ったものであって、この世界には存在していないものだ。

人間が「これはおれのもんだ」と勝手に行っているだけのこと。

この世に誰かのものなんてものはない。そんな概念は、本当は存在していない

だから所有なんてのを自分の心からすべて手放してしまえばいい。

この世に手に入るものなんて何一つないんだ。

俺は誰かに所有されることも、誰かを所有しようとすることも、もうしたくないんだ。

いろんな所有、「これをしておかなければいけない」いろんな脅迫。そんなものを手放していけばいい

すこしでもそう感じてしまうものは全て手放していいんだ。それはもう確実に自分を幸福にはしえない。

「なにももっておらず、ただ今を感じて生きている」のが自分という存在の本質。

たったそれだけのことだったのさ。



嫌われる自分を受け入れていい

ここ10年ずっと、「たくさんの嫌われるという経験」をしてきた。

会社の先輩や同僚達をはじめかつての友人たちや親でさえも、私は嫌い、嫌われた。

そんな経験を繰り返して、ようやく受け入れることができたんだ。

好かれることばかり考えていた20年と、嫌われる現実に叩きのめされ苦しみ続けた7年、

そしてその苦しみから脱しようと、必死にもがいた3年。

たしかにこの10年はずっとつらかった。

でもこちらの方がずっと自分の人生を生きているし、今は心も安定して、幸福を感じられている。

嫌われることを許容することは、他人に対する依存心を捨てるために必要なステップだった。

「好かれている」ということへの安心感、依存心、

頭の中に飼っていた他人への依存心を捨てることが必要だった。

今目の前にある幸福をかみ締めることだけでよかったことに気づいた。

あらゆる理由や理屈で自分を否定する必要などなかったことに。幸福に理屈も理由もいらなかったってことに。

他人の目なんて最初から関係なくて、自分のあらゆる感覚で感じている世界で胸をいっぱいにするだけで十分だってことに。

嫌われていようと好かれていようと、もはや自分にとっては大した違いはない。

そもそも思い返してみれば、そんな他人の目の中で生きても、いいことなど本当に何一つなかった。

好かれたこともそれなりにあったが、あれも全て「損」だった。自分を殺していただけだったのだから

こんなことに30年も生きてやっと気が付いたのだ。

人に好かれたいことが人生の主目的となってしまうことは、自分を殺して続けていることと同義だった

そもそも「好かれない自分」という現実の自分を否定しても何にもならない。

否定すれば好かれる自分になるわけじゃない。

しかしどういうわけか、そういうことを期待して自己を否定する。その好かれたい一心で自分を殺しては殺しまくる。

飽きることなく毎日毎分幾度も。他人にかこまれれば、その数以上には自分を殺し続けてきた。

一体自分は何人、いや、何百万人の自分を殺してきたのだろうか。

それも打ち止めだ。嫌われることを受け入れることはすがすがしいことだった。

それは自分を生かすことだったから。生まれて初めて自分を生かすことができた。自分を生かすことを選べた。

それを本当に心から受け入れられたとき、まるで嘘かのように心がほんとうに軽くなった

決して忘れてはならない。嫌われることを受け入れて自分の一部とすることが、こんな身軽で自由なことを。

「許可」など不要

誰かや世間の「許可」を求めて生きようとするから生きづらかった。人目も常識もみんなそんなもの蚊ら来ているものばかりだったのだ。

「生きづらさ」とは自分が他者の奴隷である前提意識と、かつ理想の主人を見つけられないことで得られる感覚にすぎなかった。

それを「孤独」だとか「寂しさ」とか名前をつけて、自己否定の材料としているにすぎなかった。

だからいらなかったのだ。最初から「許可」など。

いや、「許可」という概念すら必要のないものだったのだ。

ただ、自分に素直になるだけでよかったのだ。

誰の許可がなくても好きなことはできる

誰の許可がなくても好きな服を着れる

誰の許可がなくても好きな髪型にできる

誰かの許可を求めないことで得られる「寂しさ」「孤独感」は、そんな主人への服従を、自分ができないことによる不満、主人からの保護を得られない不安感から来ていることにすぎない。

でもそんなものは存在していない。存在していないものを、存在していると思い込み、それが必要だと思い込み、しかし得られないと思い込むという、

幾重にも重なる思い込みの果てに、承認欲求は自身の頭の中に幻想として存在していたにすぎない。



自分のことなど、最初から自分でなんとかすればいい。自分をなんとかできる存在は自分しかいなかったのだから。

許可はいらない、許可されたい、許可されなくてはならない、許可が必要、

そんなあらゆる「許可」の感覚はいらないのだ。今後一切持つ必要などない

誰かに好かれる必要など、最初からどこにもなかった。そんな概念すら必要なかった。

あらゆる「義務感」も全て必要なかった。相手や社会の期待や趣向に「応えなければならない」という意識すら不要だったのだ。

そんなあらゆる「前提」など、最初からいらなかった。

特別な俺でなく、石ころという俺を受け入れる

きっとこんなにも病んだのは俺はきっと特別でいたかったのだろう。だからあんなにも自分という偶像を大事にしようとしていた。

背中をまるでうっけつさせたかのような激しい痛みを常時持ち出すようなことまでして。

あるいは逆に、まるでそれまでの反動かのようにそんな偶像を他人に差し出そうともしていた。自分の体を壊す寸前まで。

でもそれは間違いだったんだ。俺は

本当に、なんでもない。なんでもない存在でしかないんだ。

もしこの世に人間がいなかったら。その世界にある存在こそが俺の本当の姿だった。

何の意味も優位性もなく、ただ自分という生体反応がそこにあったこと。

人を下げようとしたり、逆に自分を大きく見せようとしたり。

そんなことが必要だと思ってしまったのは、特別でありたかった。周りとは違う、周りという大衆とは違う何かにと、常に、どのコミュニティにおいても、そうあろうとしてしまった。

“そうしてしまっていた”のだ。

それが自分を苦しめている原動力であったことにも気づかず。

俺は”特別”なんかではない。でも別にそれは他人も同じだ。誰もが優位でも劣っているわけでもない。

これまでの自分と違うことは、他人に期待することはそのまま苦しみである、という解釈が自分の中に強くきざまれたことだ。

もう特別でいようとするのを本当にやめる準備が整ったんだ。

“俺の時代”なんて、もう終わっている。まるで俺が特別な存在である、秀でた存在であるという感覚を持ちながら生きようとするのは。

あるいは俺は特別にダメでただのクズであるという感覚も同じこと。

そんな“特別な感覚”を持った自分がまた来ることはもうないだろう。

その辺の「石ころ」のように。特別でも下等でも下劣でもなんでもない、

ただ自分という生を実感する存在であるということだけを、そこになんら特別性も優位性もないことを、

そう感じながら”流れるかのように”、今に身を任せるかのように、穏やかに生きていくことだろう。自分の素直な感覚に逆らって嘘をつく癖を直していきながら。

自分をあらゆる縛りから解放する

今日は、その宣言だ。もう二度と、人間の作った勝手な概念で自分を縛ろうとはしまい。

自分の感覚だけを信じる。他人の感覚など、そもそも一切感じ取ってなどいないのだから。

自分の感覚をなによりも優先し、自然に感じることだけで生きていく。それ以外のいろんな理屈たちは、自分の「したい」目的の達成のために使う

今日はそんな過去の自分の奴隷を解放する宣言の日だ。

——-

以上です。これが私の今の人生の主軸になっています。こんな内容ですが、私にとってはバイブルみたいなもんです。

今の自分をただ信じればいい。今自分がやっていることをただ信じるだけでよかった。

自分ひとりだからって自分に自信をもってはいけないなんてことは絶対にない。

一人だろうとなんだろうと、自分を信じること、そういう感覚をもっていいってことに関係はないんですよ

全部自分でやるだけです。自分で何かして、自分で何か成功したり、自分で何か間違えたり、自分で何かを直したり。

それだけの話なんですよ。人生なんてのは。

そんな自分に損する思い込みはしなくていいんです。

こうして自分の心に素直になった文章を書いてみるのはとても大事です。

取り繕った文章はその書く目的が「他人に良く見られるため」であった場合、やはり自分に嘘をつくことになってしまいます。

だから書きなぐったような文章だろうと何でもいいと思います。自分の気持ちに素直になって素直に感じたことを実行することが大事です。

何か不満に思ったりとか、発したいなにかがあれば、とにかく何かで表現してみるといいと思います。

溜めこんでいてもいいことはないんです。こうやって文章に書くだけでもかなり違いますよ。思考の言語化は自分の考えや感情を整理するのにとてつもなく役立ちます。

おまけ


GoodBye Mr. A!

さようならMr. Aというマーブルコミックのキャラクターをモチーフにした曲ですが、中々に過去の自分に”刺さる”曲でした。
過去の自分の中にいたいろんな”神様気取りの邪魔者たち”にさようなら。
偉そうに命令したり抑圧したり、頼んでもいないに助けようとしたりする”おせっかい”さんたちにさようなら。
私は私の人生を自分で選んで、歩む。そこには誰の助けも必要ないし、そんなものにはどこにもない。

「感覚」の心理学:人は「どこ」に生きているのか。自分は何者なのか。

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約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

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