「感覚」の心理学:人は「どこ」に生きているのか。自分は何者なのか。






2020年04月25日~:
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人に好かれているかどうかを異様に気にするのは、「誰からも好かれる自分」という「思想」の上に生きようとしているだけだ。

承認欲求の上に人は生きられはしない。

承認欲求とは巷では人の本能だと説明されることがある。人間なら誰しもが持っている感覚であると。つまり原始的な人の本質的感覚であるということである。

しかしこれは、人の原始的感覚でも何でもない。

人の原始的感覚とは痛みとか触覚とか、何も考えなくてもただ感じるものたちである。

感覚を使用しようとするロジックが存在しない、思考が介在しないもの達のことだ。

感覚そのものは感覚でしかないのである。

熱いものに触れたら熱いというのは、自分で考えずとも、ただ触れればわかる事だ。

一方承認欲求とは人に認められるとか、好かれるとか、バカにされるとか、脳の思考の部分がその事象を認知しかつ判定をする事で、自己を肯定したり否定したりする感覚を自らの思考で判断して使っているのである。

承認されたかどうかについて何ら思考しなければそこには承認もくそもない。

承認というのは感覚ではなく人が作った概念であり、宗教的思考、価値観。

つまり、「人が作った道具」でしかないのだ。

さらに承認欲求によって実際に”得られているもの”の本質こそが感覚なのであり、それは安心感、興奮、または不安感、憤りなど、人の原始的感覚である。

人に認められることによって、「私は正しい事をしている」と安心したり、否定されれば「私はどこかおかしいのかもしれない」と不安を感じたりしているのだ。

いわゆる、”承認感覚”というものはない。承認されてえられたものは、突き詰めればそんな原始的感覚達でしかないという事だ。



人は大抵悩む時、何らかの思想の上に生きようとしていることが関係している

例えばここ最近の社会の価値観では、いかに人より優れているか、というのが重要視された社会であるかのようにみえる。

マウントだのいいね稼ぎだの、それが怖いだのなんだの、そんなものが流行るのだから全てがそうでないとしても、そういう側面があることは明らかだ。

もちろん社会に対する解釈は人それぞれなため、正解というものはないし、何が良いのか悪いのかなんて話しに真実はないし、実際の個々の解釈など知る由もない。

しかし、そう言われて何か心当たりがあって、かつ悩みを抱えているとするなら、

その悩みの根本にあるのはそういった何らかの思想、人が作った価値観の上に自分が生きようとしていることが根幹的な原因かもしれない。

人は動物である。

人が何らかの思想、価値観の上に生きようとするようになったのはここ最近ではないかのように思う。

ここ最近になって特に、誰かに認められている自分、という思想の上に生きようとしている人が多く見受けられるように。

他者からの批判を恐れる人も多いのも、それとセットなのだろう。自分が生きていると思い込んでいる”思想という場所”が批判によって根本から脅かされると思い込んでいるからだ。

動物であること、感覚の上に生きているだけの単純な生物にすぎないことを恐れて特別な存在であろうとする、思想や価値観、宗教観といった別の場所で生きようとする、そんな生き方をしようとしている。

神になろうとしている?

しかしそんな生き方は動物である私に言わせれば神のような生き方をしようとしているに等しい。

そしてそれは「しようとしているだけ」で、「できてなどいない」のだ

人間は完璧に成れない以上、どう頑張っても「それになろうとして努力し続けること」くらいが限界なのである。

動物であることを否定しようとしている時点で、感覚の上でなく思想の上に生きようとしている時点で、それは人間を止めようとしてことに等しいのだ。

思想という論理化された規則、システムの上に従って完璧に生きたがっているわけだから。

どんなに動物から逃れようとしようと、感覚の上に生きている事実からは逃れられない。

人は感覚というアナログの生物なのだ。だから矛盾したことをする。自分が気持ちよくなるために、または不快感を取り除くために。

言っていることとやっていることが違ったり、先刻まで唱えていた理論とまるで違うことを突然唱え始めたり。

そんな様々な瞬間に感じている自分の感覚をベースにしているから、その時に欲しい感覚も変わる。そしてそれをもとにいろんな道具を使うから、矛盾した言動も起こす。

人はそんな感覚の奴隷なのだ。

だからある一貫性を貫くということは、それだけ神のように生きようとしている、いや、神のような完全性を目指して生きようとしているということになる。

しかしどんなにそんな風に生きてみようとしたところで寸法狂わせることなく完璧にその思想の上に生きることなど不可能なのだ。

それが自分の問題だけならまだしも、他者まで巻き込む問題ならほぼ100%達成することなど不可能。承認欲求などそのもっともたるもの。

誰にも嫌われない世界など不可能に等しい。自分ですら完璧になれないのに、他人の動向まで介入するなど不可能を通り越してファンタジーの世界だ。

仮にそんなある”システム”の上に生きられる存在の可能性について考えたとしても、それはパソコンのような100%再現性のあるシステムの上で生きる、決められたプログラムの上にしか動作しないような“システムに対して完璧な存在”でない限り不可能な話なのだ。

科学の発展などで文明化が進み、オシャレをして身なりも清潔になって、叡智によって知性や理性を覚え、かつての野生動物のような土着を着て髪は伸び放題、言葉もろくに話せなかっであろう原始時代の頃と比べればまるで別の生き物に感じられたとしても、

人は人であり続けていること、動物であることは何も変わってなどいない。

強いて言うなら思考という道具の使い方が上手くなっただけで、石を加工して武器を作り獲物を仕留めるのに使うなどといった「道具を使う動物である」ということからは何も変わってなどいない。



「自分自身」とは「感覚」である

人という動物にとっては、思想や価値観、宗教観といったもの、思考というものでさえ、全て道具であり、自分自身ではない。

仮にそれらが自分自身であるのなら、それらに沿ってしか生きることはできないはずだからである。しかしどんなに人間も信じている思想からはみ出したり矛盾した行動や見解をもっていたりするものなのだ。

自分自身とは、「今自分がこの瞬間に生きている」という事実、感覚そのものが全てなのである。

つまり本当の自分なんてものは、探さなくとも今この瞬間、今まさに存在しているこの意識そのものであり、それ以外にないのだ。

今ある感覚こそが自分そのものなのである。

自分自身などという存在など、そんなちっぽけで、単純な存在でしかないのだ

価値観や思考などは自分という感覚の存在がどの”道具”で、どう遊ぶのか、何をするのか、というだけの話でしかないのである。

そういう意味では、サッカーをして遊ぼうが人を殴って愉快になろうが、考え事に日々を費やそうが、誰かの役に立つために生きようが、等しくそういった”道具”を使っている何かしているというだけという意味においては全て同じなのだ。

悩むという行為は、どの道具で遊ぶこととかその遊び方とか、遊び方に正しさを求めて、それで悩んでいるだけなのだ。

それを楽しみながらやるならともかく、それが自己肯定だの自己否定という感覚につながってしまっていること自体意味不明な話なのだ。

道具を自分自身だと思い込んでいるからそうなる。

道具は道具でしかない。自分自身は今”ここ”に存在している「感覚」だけなのである。



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元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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