哲学:現代社会は「道具の使い方」が”間違っている”のでは?





他人は道具である。こう言うと、「他人に対して道具呼ばわりとは何様」だ、という人が出てくると思う。

しかし私ははこんなのただのブーメランだと思っている。

それはなぜかといえば「そういう他人が気に入らない」と批判することで自分が気持ち良くなるための道具として使っているからである。

さらにそうすることで相手を説得、屈服させ、他人を操作しようともしているわけだ。

これをもっと率直かつ純粋な表現に書き直してみると、「俺はお前のそんな考えが気に入らない。俺のためにその意見を取り下げろ」というような内容になる。「不快だからやめろ」の方がより率直か。

上記表現に「周りも迷惑だろ」「そんなの普通じゃないだろ」というようなニュアンスを取り入れたものが、例えば「他人を道具呼ばわりするとは何様だ」になる。

「賛同するであろう多数派の数の威力」を匂わせ、かつ「みんなも言ってるから」というような、自分の意見というよりは全体の意見、より権威あるものの意見として自分以外の何かに責任転換して自己を守りながら要求を通そうとしているわけである。

ようは建前なわけだ。建前を使って、ちっぽけな自分の要求を尊大なものであると見せかけ、通そうとしている。

あるいはひょっとしたら、もっと大きな理由があるかもしれないが、それが何にせよ、(誰かのためだとか世の中のためなんだとか、利他的であろうが利己的な目的であろうが)結局のところ人は「自分の思ういいこと」という、それをすることで最終的に自分が快楽を得られる何かに向かって行動する動物でしかないことは変らない。

人の役に立つことをすることだって、そうすることで自分が気持ちが良いとか、誰かの喜ぶ顔がみたいだとか、そそんな自分が気持ちよくなることをやっているだけにすぎない。

そうやって人は他人を自分の都合を満たすための道具として使っているのである

他人は道具である、というのは乱暴な意図はなくて、単に人間の他者とのかかわりや、その理由を端的に説明したものである、

別に建前を使うことが悪だといっているわけではない。結局これも道具にすぎないのだから。

しかしまぁ建前というのは見かけによっては非常に”タチが悪い”言い回しである。単なる弁論術の一種でしかないが、そういう事実をオブラートに隠して脅しも含めながら責任逃れしつつ、相手を操作しようとしているというのはなんとも狡猾だ。

もっともその当人がそれに気づいている上で言っているかどうかということはあるが、まぁそれはさしたる問題ではない。

人間は何かを「使うこと」しかできず、何かに「使われること」はできない

人間は何者も、何事に関しても「使うこと」しかできない。「使われる」という事象は事実ではなく、自身の認知の問題でしかない。

もちろん「使う」という事象も、「使われる」という事象も同じ認知の問題である。自分がある何かに対してどう解釈しているのかという点については同じこと。

しかしある違いがあり、前者は自分自身の行動に対する認知だけなのに対し、後者は他人の認知も巻き込んいる。

使われるというのは自分以外の何者かが自分を使っている事実が必要だ。そしてその事実の認知は自分ではなく使っている側の他者の脳内にしかない。
何かを認知するのは脳が行うもので、脳の中だけで完結する。
それはつまり、その他者が自分を本当に使っているかどうかという認知、事実は、使われている側の自分からは知る由がないということを意味する。誰も自分以外の脳内を除くことも感じることもできていないからだ。

故に人は使われているという事実については全く感知ができておらず、無知なのである。だから「使うこと」しかできないのだ。使われているという事象は、あくまでそう見えているだけの、ただの予想、想像、妄想の範疇でしかない。

もう少し具体的な事象に当てはめて説明してみる。例えば人は「何かを愛することはできても愛されることはできない」

愛する事も愛されることも全て自分の認知、解釈、感覚という主観的事実でしかない。さらに人間の感じ取っている世界というのは全てこの主観的事実である。

「自分が愛しているかどうか」という事実は紛れもなく自分のそれらの中にあるから事実として存在するが、「自分が愛されているかどうか」というのはその他人のそれ等の中にある事実である。

「他人の事実」は「自分の事実」には存在しない。誰も他人の内面、意識、思考を感じることはできず、5感でしか外界を物理的に感じられないからだ。

人は孤独である – 人は真に理解しあえない –

そしてその「愛されている」という認知、解釈すらも、自分がそうみなすことである目的を達成するための手段として「使っている」ものにすぎないのだ。

例えば「愛されることで幸せを感じる」、というのは、相手を観測し、相手がこちらに微笑みかけてくれるとか、大事にしてくれているとか、なんらかの行動や態度から自分は相手に愛されていると解釈することで、自分に幸福を感じさせうために使用するのである。

人は常に道具を使い続けている存在

人は何事においてもなんらかの道具を使っているだけだ。

使われてなどいない。使われているという解釈をその感覚をもって使っているだけだ。

道具には人という存在も含まれ、万物が含まれる。

生きている以上、その事実は避けられるものではない。生きている時点で、人は何等かの形で何かを自分のために使っている。使い続けている。

自分の肉体も自分が生き続けるために使っている。自分が何かを見たり感じたり、考えたりすることも全て自分のため、欲求という感覚に従って何かを使い続けているのだ。

人間がそれに対してできることと言えば、その事実を受け入れるか拒絶しようとするか、違う形で思い込むか、無知でいるかである。

その中でも「受け入れる」には、おそらくホネがいる。なにせ冒頭の「他者を道具としてみなす」ということについてはかなりの抵抗を感じるだろうから。

それを受け入れるには、まずその言葉に対してたかかっている多くの負の認知バイアスを外していく必要があるからだ。

他人を道具扱いすることに嫌悪感を感じるのは、「道具として使う」という言葉自体に、まるで使い捨てるかのような思い込みをしているからにすぎない。

更に言ってしまえば、もし自分が他者を実際に「使おうと」したら、そのように使うことしか発想がないということも証明している。

人を使い捨てたり、何の配慮もなく酷使する使い方以外に使う方法をしらないのである。

それはよっぽど邪悪な事実ではないだろうか?化けの皮一枚はがせばそこには悪魔のような自分がいるというのは。

それに気づいてでもなおそれに対して嫌悪感を感じるのなら、それはそう思い込むようにう教育されたことが影響しているだろう。その方が自分の支配者だった教育者にとって都合がよかったからだろうからもしれない。誰かを使う立場にいる人間が増えることを、良くは思わない人が今の世界には多くいるということなのかもしれない。

なぜそうしたのかはわからないが、単に資産の奪い合いになることがいやだったのか、大人しい家畜のような人間を生産し続けてその上であぐらをかきたかっただけなのか、単に習慣か、生意気で気に入らなかっただけなのかもしれない。

だから他人を道具だとみなすことに罪の意識も、嫌悪感も持つ必要はない。単なる事実でしかないから。

**むしろ道具としてみた方がずっと楽なんだよ。健常的だ。だって気を使わなくて良いから。気を使おうがどうだろうが、結局のところ人にとっての他人が道具である事実は動かない。

肝心なのは道具の「扱い方」なわけだ、他人という道具の扱い方。道具としてみるかどうかが悪かどうかだとか、正しいかどうかなんかじゃない。

道具は使うもの。道具に使われるなんてことはできない

今までの日本人の生き方は道具として如何に使われるかが重要だった。そう思い込んでいたというべきか。受動的事実は存在しないから。そう思い込んで生きてきたのが今までの日本人であると思われる。

それは経済的にも文化的にも。日本人は昔から「かわいがられる事」が最も良いこととされている。でなければかわいいことがこれだけ支持されてはいまい。かっこいいとかクールだとか、そういうものが受けない(特に女性にたいして、後輩などの目下の存在に対して)のはやはりそういう思想が根底にあるからだろう。テレビなどのメディアの影響が強いだろうが、おそらくいまも大して変わっていない。自分よりも若い人を一方的に経験不足と見下したり、野次ったりするのはその証明と言えるだろう。

他にも、人の前に立ち戦い続けるリーダーシップや、自分の夢に向かって前進し、周りと違うことをすることをあざ笑う文化があるように見える。そういう人の足を引っ張るのが好きな人もそれなりにたくさんいるように見える。これは多分「かわいがられる人物像」に対するカウンターカルチャーだからなのではないかと思う。大抵彼らは「かわいくない」みたいなことを考えて揚げ足撮ったりしながら邪魔をしているだろうから。

しかし今は変ってきたように思う。「かわいがられる事」はいまだ根強くても、誰も自分の人生の責任などどっちゃくれない世界になりつつある。

かわいがられたところで意味がなくなってきている。使われる前提の文化がかわりつつあり、みな自分のことでいそがしく、他人にそこまでかまうような余裕がなくなってきている。

今は如何に「他者を使うか」、用意されたリソースを「使うか」が重要になってきているように思うのだ。

そしてその始まりは日本の労働環境は最悪の水準にまで低下したあたりから始まっていたのかもしれない。使う側、雇用者の節度がなくなり、使われる側は酷使されるだけされて捨てられるという事象、「ブラック企業」の存在が珍しくなくなったあの頃からだ。

長時間残業はあたりまえで、残業して必死になっているという“態度”が評価され(ここも前述の「かわいがられる人」が如何に価値があるとみなされていたかがわかる。)、成果は2の次か、ほぼ評価されないものになってしまった。更に”態度”すらも、使う側が待遇や今後の人生などの面も含めて全て面倒を見切れるような経済状況ではなくなってしまった。

このままでは、使われる側のままではまさに死にもの狂いで働かされ、体を壊してうつ病になったり、死ぬ人生を歩まざるを得ない場合も出てきてしまった。真面目に社会に貢献しようとするものは割を食い、上手く責任を押し付けながら他者をつぶして這い上がる保守的で排他的、官僚主義的なの社会になったのだ。

そんな社会の中で自分を救いたいのなら、「使われる人生」からは脱却しなくてはならない。

今まで使われることばかり大事にしてきたこと、そういう思い込みの上に生きてきたこと。

そういう感覚、「使われる感覚」ばかり開発し、そこにアンテナを張り続けてきたこと。そこを基点に人生を生きてきたこと。そんな人生から脱却するのである。

使う側に対する信用が失墜したのなら、これからはもう「使われる感覚」の上に生きるべきではないのだ。

使われる感覚ばかり行使しその見返りを求めても、裏切られ続けるだけの世の中になってきているのだから。

今後「使われる生き方」は通用しなくなるかも

なぜなら現代人はみな孤独で、使われる機会すらも失われているからである。

そういう妄想すらできなくなりつつあるということだ。

昔の村社会のように距離感が近かったころは、皆が使われること前提で成り立ち、全員が受身でもなんとかなりたつ社会だった。

逆に言えば「使われる感覚」を研ぎ澄ますことで社会が成り立っているようなものだった。「察しの文化」とも言われていたように。例えばお見合いなどによって受動的に結婚は斡旋されていたし、村ぐるみで付き合いがあったから孤独に陥るほうが珍しかった。

しかし今は個人の価値観が優先されはじめ、単身者は増加の傾向にあり、仕事の質は知的産業へと変わり、一人の意思決定によって全体が社会を営む集権的なものではなく、一人一人が自分の個性や価値観を発揮して社会に貢献する流れに変わってきている。

しかしそのくせ、個人の権利が主張され始めた昨今では、自分にとって都合のいい「使われること」ばかり、現代社会人は求めるようになったようにみえる

他人に「自分にしてくれる様々な都合の良い何か」を求め、なのに自分はその対価に何も差し出さない。

セクハラやパワハラ、そういった正当性を持つ主張も、確かにそれ自体は事実だったろうし、する側の甘えや配慮の足りなさが露呈した結果には違いないが、最近ではこれが行き過ぎて一方的になり「どうにもならない状況」「何も生まれず、何も解決しない状況」「何も前に進んでいかない状況」があちこちで生まれ、少子化などをはじめとして社会が停滞し始めたのだ。

みな自分の一方的な「されたい要求」ばかりを他人に押し付け、そんな自己中な自分の利益ばかりを考え始めたのだ。自分のできることと引き換えにではなく、ただ求めるだけ。

まるで自分たちが今までされたきたことを意趣返しするかのように、今度は自分が彼らに成り代わり、その対象をSNSなどを使って社会全体に押し付け、解決策を提示することなく「馴れ合う」ことを目的にしてしまったのではないかと思うのである

やっとのことで個人が権利を手にしたのに、いまだ思考が「使われる奴隷」のままで、「使われたい」という欲望に支配されているのである。

自分の意見や価値観を「認めてもらいたい」と。こんな自分を「愛してほしい」と。社会のための貢献ではなく、自分という偶像をピカピカにするためだけに。

愛されたい、好かれたい、嫌われたくない、評価されたい。

そんな自己中心的で歪んだ目的ばかりが横行している。

権利とは私達が生きている民主主義社会の中で発生した道具であり、民主主義の仕組みの一つであり、それを経済社会で生きる上で”上手く使う”なら、それは利他的な目的であるべきなのだが、みな利己的な自分の目的ばかりに使用しているのではないだろうか?

権利を行使して社会に対して「与えること」ができていないのではないか。「自分に与えられるため」に様々な権利を行使しているだけなのではないか。

与えられることばかり期待する人間が権利を持ってしまったがゆえに、衆愚政治に突入してしまいつつあるのではないか。個人が強くなる社会ならそれはなおさら加速していくだろう。

皆されること、使われることばかり欲しがって、すること、使うということを恐れている。使うという行為は多くの場合責任が伴うからである。

その結果によって、失敗したり嫌われたり村八分にされることが怖いのだ。

しかしそんな中途半端な連中が此の世を占めることになれば、そこに生産性はなく「馴れ合い」の中に身をおとし、社会はゆっくりと荒廃の一途をたどるだろう。

そしてまさにその現在進行形が現代社会の姿なのではないか。皆が自分の事しか考えなくなったから、だれもそんな自分達に寄り付かなくなり、益々の孤独の社会が到来している。

なのに孤独は嫌だと周り求め続け、更に周りに嫌気をさされ、さらなる孤独へと陥る悪循環の中にいるのではないか。

そういう「使われる感覚」を使い続ける限り、求め続ける限りこの社会は低迷していくだろう。

と、えらそーに語ってみたものの

まぁべつにいいのではないかな。それが現代人の望みなのだろうから。

そういう道具の使い方をしているのが現代社会というだけ。結局これも「道具を使う」パターンの一つ。与えられた道具をこう使って今の社会の姿があるというだけのこと。

いや。無意識に、無知にしてしまっているといったほうがいいのかもしれない。

道具は使い方を“間違えれば”自分たちを破滅へといざなう。核爆弾なんかはわかりやすい例だよね。

そういう道具の使い方をこれからもしたいのなら別にすればいい。私に他人は変えることはできない。結局のところ私にできるのは、こうしてWeb上の片隅で自分なりに警鐘を鳴らすことと、身近な人達に与えることに尽くすこと、そしてそのために自分を変え続けることだけだ。

人間というのはそんなちっぽけで無力な存在なのだろう。しかしそういうものが集まって作られるのが社会なのだから、皮肉的なものである。

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