ブラックボックスという言葉は、IT分野で使われる用語で、例えば、プログラムの内部構造を知らずとも、入力のパターンと出力パターンだけを作ってテストする「ブラックボックステスト」などの意味を指す。
このブラックボックスという、「中身がわからないという状態」は、プログラムに限った話ではなく、人の心にも同じことが言える。
自分の心を理解できるのは自分だけ。他人は自分の心を理解できない。
他人の心を、自分は理解することができない。
できることは、コミュニケーションという入出力だけだ。
その入出力をどう受けるか、解釈するかというのは、それぞれの閉じられた心の中にしかないのである。
これまで生きてきた時間という積み重ね
人は、自分の心を誰に理解されず、手も出されないままに生きている。
全て自分が、その時に周りにあったものに対して、解釈、選択し、今ある自分の心を作り上げてきたものだ。
全て積み上げてきた自分お手製の品なのである。
他人は自分のそれについては全く積み上げなどしていない。
生きる=自分を積み重ねる
生きるというのは、経験を重ね、何かを積み重ね続けることである。
どんなことを感じたか
どんなことを考えたか
どんなことをしたか
どんなことを経験したか。
人生経験とはそうした積み重ねの履歴のようなものだ。
自分の積み重ね以外のことをしらない
人は自分自身がこれまでに何をどう積み重ねたきたのかはよく知っていても、前述の通り、他人のものを自分は知らない。
他人が何をどう積み重ねてきたのか、どんな人生経験、履歴を残してきたのか、自分自身は知らないのだ。
つまり人は、「人生」というものについて、自分以外のそれを何一つ”知ってなどいない”ということである。
他人の人生のように見えるものは、全て自分が他人に見出したただの想像にすぎず、他人自身のそれでは決してない。
故に、ろくでもない人生というものも、マシな人生というものも、幸福な人生というものも、そんなものは他人から見いだせはしない、見つかりはしないのだ。
人生という概念は、まるで他人の数と同じように多様に存在する”ように見えて”実は一つしかない。
自分の人生だけしか最初から存在していないのだ。
「言葉」とは、人生という積み重ねの頂点で出力される記号でしかない
“最高の善とは智慧(ちえ)であり、最高の悪とは體(からだ)の苦痛である”
─レオナルド・ダ・ヴィンチ
人の言葉は、その言葉を発するまでに積み重ねてきた自分の人生の頂から出力されるものである。
これまでに経験してきた様々なものたちを合算し、その答えを、言葉という手段を用いて出力しているのである。
つまりあらゆる人の言葉とは、「それを発した時点のその人」にとっての答え、”積み木の頂点”でしかなく、
万人の答えにはなりえず、万人を説得するものにもなりえず、
万人が同じ解釈をすることも、万人が賛同するものにも、反対するものにもなりえないのである。
ただの記号にすぎないのだ。
言葉という積み木を、自分の積み木に合わせて積む
例えば自分がある言葉を発した時、それを聞いた他人はその他人自身の積み重ねの積み木に合わせて解釈するだけである。
その他人の都合に、目的に合わせて、如何様にも解釈してしまうのだ。
故に言葉に一定の意味はない。言葉とは単なる記号にすぎず、それをどう解釈するかはその人のこれまでの人生の積み木の形に完全に依存しているのである。
ゆえに人は相互理解などできない。
同じ理解をすることということは、これまでの積み木の形が全く同じでなければならず、原理的に不可能である。
同じ言葉を共有していても、それが相互理解していることを意味はしていないのだ
ただ同じ言葉という記号を共有しているだけなのだ。
長く生きるほどあらゆる他者から遠ざかる
長く生きれば生きるほど、人は他人から違う存在になっていく
それは時間を掛けるごとに積み上げる積み木が高く、かつ複雑になっていくからだ。
積み重ねれば積み重ねるほど、その形はあらゆる他人から違うものになっていく
そしてそれが「自分」なのである。
自分という存在は、常に他人から遠ざかり続ける。
まるで宇宙の法則と同じように。時間がたつほど、生き続けるほど、その距離はどんどん開いていく。
生きれば生きるほど、他者に対する独立性と孤独を高めることにもなるのだ
つまり人が人と違うということは、自然の法則的に自然な現象なのである。
年齢を重ねるほど「合う人」はへる
積み重ね続けるほど、価値観や思想はその個人固有の特徴を帯びていくことになる
それはつまるところ、それに従って、「合う人」も減っていくのだ。
幼稚園や小学校の頃には簡単に誰とでも仲良くなっても、中学、高校と進んでいくうちにどんどん限定化されていくように。
社会に出ればさらに顕著になる。仕事以外で付き合う人間はいないか、相当に少ない
SNSを見れば、”まるで自分と合わない”と感じる人は様々な形で、いろんなところに存在していることがわかる
自分が積み重ね続ける限り、つまり生き続ける限り、近いと感じる人間は減っていくのである。
他人も遠ざかっている
では自分が行動しなければ他人との距離は遠くはならないのかといえばそんなことはない。
当然他人だって生き続けている、自分が積み重ねることを拒否したとしても、他人はおかまいなしに積み重ね続けるだろう。
あちらからだって遠ざかり続けているのである。
人は生き続ける限り相互に遠ざかり続ける運命にある。
「他人に理解を求める」という”非現実”
そんな人間にとって「他人に自分の理解を求める」ということはどういう意味を指すのかといえば、
「自分がこれまでに積み重ねた全てと同じことをしてほしい」と言っていることに等しいのである。
いつどこで生まれて、何とどうかかわって、何をして、何を感じて、考えて、行動していきてきたのか。
その一切合切を経験してほしいと、それも全く同じ形でお願いしているようなものである
それは「相手に対して、自分のこれまでの人生と全く同じに生きなおしてほしい」とお願いしていることに等しい行為なのだ。
そんなこと人にできるはずがない。この世の法則的に不可能である。
同じ時、同じ環境。全てが全く同じように再現された環境を用意し、かつ当人を赤ん坊にまで巻き戻して人生を生きなおさせようとしない限り不可能である。
完全に自然の法則を無視している願い
“他人の人生という、あまりにも巨大で未知の文脈”など、たどりようがないのだ。
ゆえに、人を他人を”疑えない”
人が他人を指して疑いをかけるとき、特にそれが他人の内面に関することだったとき、
その対象は自分自身なのだ。
他人が言った言葉はただの記号にすぎないのだから。その言葉を発するに至った他人の解釈謎自分走りもしない。
人は自分のことしか疑うことができない。他人を疑うかのようにふるまうことはできるが、それはあくまでみせかけにすぎない。
人が他人のそれにやっていることは、「人形遊び」とほぼかわらないのだ。
他人や他人の言葉は記号。しかしされど記号
誰かの言った言葉も、誰も自分のことを理解するものはないし、正解を導くこともない。
ただの記号。人にとっての他人や他人の言葉、他人の作ったもののすべては単なる記号にすぎない。
しかしそんな単なる記号の存在ではあっても、自分が次に積み上げようとする何かの布石くらいにはなるかもしれない。
自分の生きたい方向。それを教えてくれるきっかけにもなりうる。
誰かに影響をうけたり。
勇気づけられたり。
別の考え方を知って、変わるきっかけ気になったり。
だから無価値でではない。
無価値かどうか、どう価値があるのかを判断するのは、自分自身だ。
世の中にはいろんな人の言葉にあふれてる。
それと自分が関わるのか。どう使うか。そして積み上げるか。
それを自分で決めて自分の積み木のこやしにしていくことができる。
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