自己表現は孤独である。理解を求めることは不毛である。





ブロガーなど、書き物をする人間は孤独と対面する機会が多い

ブロガーなど「書き物」を行う人の中には「自分の書いた内容を理解してほしい」と思っている人もそれなりにいるのではないかと思う。

Twitterなどの気軽なブログサービスの普及もあって、自分の考えを発信すること事態が普遍的なものになっている今の世の中では、ブロガーなどでなくともそうである人は多いであろう。

さてなぜ「理解してほしい」と人は思うのか。

それは単に認められたいだけなのかもしれないし、誰かを助けたいからなのかもしれない。

「この世の真実を見つけたからそれをみんなに教えたい」とか、「みんなの悩みの根底にある本質をみつけたからそれを公開して役に立ちたい」というようなことかもしれない

私自身数年前まではそうだった。自分の理解していることを困っている人に伝えられれば、きっと助けになると。

それをただ「自分はできている」と、素直に思い込んで納得できているのならいいのかもしれないが、

さらにそれについて考え、「どう書いても理解されない」「本当は全く伝わってないのではないか」「自分は無力だ」と、悩んでしまっている人もいるのかもしれない。

もちろん、こんなことを書いているのだから私もそうだった。自分が想定していたのとは全く違った解釈をされたと感じたり、相手を怒らせてしまったこともあった。

しかしそんな困り事を抱えている人にとって朗報、といっていいかはわからないが、そんな悩みは不毛であるということをこの記事で書いていきたいと思う。

あらゆる言葉も文章も、それを出力した筆者の膨大な思考から練りだされたほんの一端にすぎない。

思考し解釈を積み立てれば積み立てるほど、その頂きについて語った文章はいわゆる「ハイコンテクスト」となっていく。

(といってもここで言う「ハイコンテクスト」とは、実際には前提知識を共有できているようで、実際には全くできていない、「ズレのあるハイコンテクスト」という意図で使う。)

というのは、解釈という積木の頂点にあるものについて語ってみたところで、それを支えている下の解釈についてまで語ることができたわけではないからである。

そしてその説明を試みようとすれば、さらにそれを支えている積木についての説明をする必要が出てくることとなり、

その積み木が高ければ高いほど、それだけ時間も整理もかかるようになってしまう。

かつ書きたいテーマからもどんどん逸れていってしまうのである。

故に、そうして生まれる一端の文章「ハイコンテクストな文章」は読み手にとって解釈が難しくなるか、解釈の余地を多く作ることになる。

故に見当違いの解釈が起こるわけだ。

それが特にSNSでは散見される。ちょっとしたつぶやきが、大きな炎上騒動、あるいは崇められるかのような現象に発展したりすることがあるのはそのためだ。

その文章たちがどのような解釈という積木の頂きにあるものから出てきたものなのか。どのようなバックグラウンドを背に出力されたものなのか。

あるいはその積み木の途中にあるものから練りだされたものなのか、

それを判断したり理解することは当の筆者を除いてできない。

あらゆる文章たちはそんな「ただの切れ端」にすぎないのだ。

だから例えば発言者、筆者に責任だとか真実だとか正解を求めたところで、それを得ることは現実問題それは不可能と言える。

そうやって求めているものは実際には筆者のものではなくて、読み手が勝手に想像、解釈したものにすぎないからである。

また、筆者が書いた内容が読み手に伝わっていないことと同じに、読者が筆者に求めた責任や真実といったそれらも、その求めるという行為は同じく言葉、文章で行うわけで筆者側もその文章を筆者の都合で解釈をするわけであるから、

筆者に対して読み手の思考、思いそのものなど全く伝わってなどいないのだ。

あらゆる文章は全てを語ってなどいないのである。それこそ数行程度のつぶやきから、どのように構築された豊かな文章たちも、

その筆者の膨大な思考という積木の一端であることは変らず、小さな切れ端か大きな切れ端程度の違いでしかないのだ。

つまり文章や言葉というのは、自分の思いや思考全てを伝えられる機能を果たせるものではないのである。

そして人にとって自分を最も正確に表現できる手段が文章であることから、

文章の果たせる機能がこの限界である以上、「誰かに理解される」という事象自体が、そもそも根本的に不可能なしろものだったのである。

では一体どのような代物なのか。もし文章が自分の考えを他者に理解させる能力を持たないのなら、一体何のために人は言葉を作り、使っているのか。

それはやはり「伝えられていると思い込んでいる」から、という事実である。

多くの人がおそらくそう思い込んで、言葉を使って相手に自身の考えを表現し、これまた多くの人がその相手の言っていることを理解した、と思い込み、その意志をまた言葉で相手に表現し、そのリレーを行っているにすぎないのだ。

しかし事実はもう一つある。

それは、文章や言葉の本質は、それを読んだ現時点での「読み手というコンパイラにとってのコード」という事実である。

先程解釈の解釈という積木の話をしたが、その積み木はその形は違えど(正確にいえば違うかどうか、どう違うかを一切確かめられない)皆もっている構造である。人は思考力という機能を持っている以上、みな何かしらの積み木を重ねて生きている。

“現時点での”というのは、その時点でその個が積み重ねた積木、つまりコンパイル結果に、読んだ言葉というコードを解釈する形が変わるということである。

人は孤独である – 人は真に理解しあえない –

つまり、書き手が誰であろうと関係なく完全に読み手の解釈に依存しているのである。「筆者が書いた言葉」と「読み手が読み取った言葉」というのは、全くの別物になっているのだ。

筆者の解釈とは既に無関係であるのである。そしてそれは反対に読者の解釈が、筆者の解釈とも無関係である、ということも忘れてはならない。

どちらの側から見ても同じことなのである。相互理解など存在しない。

筆者の解釈が理解されているのではなく、筆者の出力した言葉というコードを、解釈仕様の違う読者が独自に解釈しただけなのである。

つまり言葉や文章に、筆者の思いや思考そのものは、そこには少しも存在などしていないのだ。

そもそも物理的にも時間的リソース的にも、”完全な文章”の作成は不可能である

仮に完全な理解を読み手にもたらす文章の可能性を考えてみる。その仮定の1パターンが、「自身の思考によって積み立てられた解釈という積木を完全に出力し、説明した文章」だ。

しかしこの作成はほぼ不可能であろう。まず、圧倒的に時間が足りない。

人間に全てを論じて答えをだすような、完璧な回答、つまり真実など最初から出しようがないのである。

それこそ一生かかってもできるかどうかわからない代物になってしまうだろう。特に、考えることが日常の人ならなおさらだ。

仮にそれを書くことができたと仮定したとしても、それを読み手が読んで、かつ筆者と同じ解釈をするかどうかはわからない。

やはり前述したように、文章は単なるコードだからである。

そしてさらに前述したように、解釈は読み手の脳内にのみにしか存在しないものであり、外にそれが出てくることはない。故にそれを別の人間が観測することもできず、完全な理解を読み手にもたらしたかどうかを検証する術はどこにもない

少し話はズレるかもしれないが、筆者と読み手の関係は1対多である。特に昨今では一つの文章が多くの読者に読まれることは大量に増刷される本やインターネットに公開された文章の役割的には日常的なものとなっているだろう。

つまり読み手の数だけそれぞれ独自の解釈をするのである。

これを例えばSNSにおいて、全ての読み手に同じ理解を求めるのは宇宙がひっくり返っても不可能というくらいの規模になるだろう。

たった一人に理解してもらうだけでも相当の労力を双方が講じなければならないのに、それを不特定多数に同じように求めること自体、現実を通り越して単なる妄想でしかないのだ。

人はそのほとんどにおいて常に誤解されあっている

本記事のテーマとはずれるが、人との情報伝達は主に文字、言葉などによる会話、文章などで成り立っている。言葉を用いないコミュニケーション(ボディーランゲージ、感情表現など)もあるが、日常生活において言葉を使う場面が最も一般的であろう。

さて先ほどに挙げたとおり、文章は常にある人という膨大な解釈の中の一端でしかない。その人の全てを表現してはいないということは、それは日常会話に始まるあらゆる言葉を使った表現についても該当するといえる。

つまり人は言葉を使ったコミュケーションのそのほどんどにおいて、常にハイコンテクストな情報のやり取りをしていることが常なのである。

「誤解」という現象は日常なのだ。ただそれを確かめようとしたかしていないかだけ。真に確かめようとしてもそれはできないが。

世間でよく使われている誤解とは「誤解があった」と判明したもの

いや、誤解があったと”解釈”したものでしかない。

その当人にとって都合が悪い事実だった場合なだけである。都合がよかったために誤解という解釈がされていないだけで、実質的には誤解だった、というものである。

それを確かめるすべは、前述の各個人の解釈を直接知ることはできないという法則上、わかることはない。言葉を使って確かめよう「試みる」ことが限界なのだ。

人間が共有できるもの

我々が共有できているものは、「外にある物理的な存在」である。目に見える何か、肌で感じるなにか。建造物や文字で記された情報、音。そういった外にあるものたちだけである。

解釈というのはそれぞれの脳内にあり、外にある存在ではないのだ。

全てはコード、記号。「自分に解釈されうる何か」以上の意味をもつことはない。

“それ以上の意味”は全て自分の解釈である。意味を持たせる行為こそが解釈であるからである。<

そしてその解釈は自分自身のもの以外のものを感じることはできておらず、他者のそれに対しては一切無知であるのだ。

人には真実を理解できない

あらゆる文章、表現も真実を伝える能力は持っていない。それらは全て記号以上の意味をもたず、かつ人は主観的な世界で生きているだけで客観的な真実というものを見つけることはできないという理由もあるが、

人が何かを理解する場合、解釈という行為をすることでしか理解という行為を行えないメカニズムをもつという点もある。

「真実を理解した」ということを「真実を解釈することで理解した」、とすると、解釈は個々の脳内にしかなく、かつ主観的であるからである。解釈にも一切の客観性はないのである。

これはつまり、それぞれの個々がさまざまな文章、言葉、絵や世界の出来事という事象たちについて独自に解釈をし、かつそれを共有することができていないということを示し、

あらゆる批判、肯定、意見もその事象に対する真なる指摘などしていないのである。実際にしているのは、当人がそう解釈した当人の解釈という答えに対する指摘でしかないのだ。

つまりは本質的にはみなただの独り相撲なのである。人は孤独に解釈し、孤独に表現しているだけの生き物に過ぎないのだ。

人は人を理解できない。

そして書き物をする人にとってはその現実を知る機会がそうでない人達よりも多いのであると思う。だからこそこれを知っていれば「理解されないことはそもそも自明である」という前提で文章を書くことができるのではないだろうか

別に無責任にかけばいいとかそういうことを言っているわけではない。それはそもそもにおいて書き手の自由だからである。自分の書いた文章に責任感を持って書くのも持たずに書くのも自由だ。

しかしそれが”伝わる”ことはない。理解されることはなく、いくら自分が責任感を伴って文章を書いてみたところで、読み手の解釈の仕方に依存するわけであり、かつそれを確かめられもしないのだから、不毛な欲求なのである。

責任感とは自分を律する”感覚”だ。誰かに理解されるとか伝わるものではなく、感覚とは自分の内面、精神の世界にしか存在しないものである。

他人に理解されたい、という欲求はアドラー心理学的にいうと、他者の課題に進入してしまっている考え方でもある。だから自分と他者の課題の分離をすれば、もっと文章は書きやすくいなっていくはずである。

しかし他人に理解される文章をめざすこと事態も別に自由だ。目指すこと自体はできる。人にこの世の真実や真なる正解とった神のような存在を手につかめないとしても、それを目指すこと自体はできるからだ。

しかし他人に理解されるためとか、理解させるためとか、最近はそうやってマウントをとって人を屈服させるためだとか色々あるが、

そういった自己本位的な名目で表現をするよりも、もっと自分の言いたいことを正確に書けるようになるとか、いわゆる自己実現、自己表現というものを大事にしたほうが良いのではないか

自分の良いと思ったこと、書きたいと思った事を素直に、そして正確に描けるようになることのほうが、トータルでは世の中全体にとってプラスではないか。

そういうことをする人が増えれば、それに感化された人が増えて、世の中の多くの人が自分の思考したこと、表現したいことをより素直に表現できるようになって世の中が明るくなっていくかもしれない。

<自分のそんな行いが、現代社会の「生きづらさ」の改善にも一役買うのではないか。

それはとても小さい影響かもしれないが、0ではないかもしれない。だとすればやる価値はずっとあるだろう。

自分のため、という目的はその本質が自己本位的であればあるほど、最終的には自分を追い込んでいく。自分という偶像を大事にしようとすればするほど、その偶像は削られ磨り減っていく。

しかし他人のため、世の中の問題解決たのためであれば、自分の偶像など自己本位的な世界の見方をしなくなり、世界は脅威ではなくなる。それによって何かから自分を守る必要もなくなり、社会に対して生産的な行動だけをすることができるようになっていく。

つまり自己本位的な行動はもっとも自分に損する行動であり、他者に対する貢献行為に身を置くことは自身にとって最も得する行為なのである。

自己表現はその目的が重要なのだ。そこさえしっかりしていれば、これほど有用で生産的な行為はない。より生産的な行動ができるようになることが自分にとっても他者にとっても最も大きな貢献なのである。

シェアはこちらです!



より踏み込んだアドラーの実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学です。

それは人の解釈という、実際には他者と全く共有できていないものの問題だからで、最終的には自分が気づく必要があるからです。

当サイトでは管理人のElepanがアドラー心理学を元により深く、より根本的な思い込みの解消、哲学を実践実施した結果、その考察と気づきをまとめております。

孤独 認知論
私の「甘え」うつ病治療


私のうつ病の主原因は「甘え」だった。甘美に感じられた「甘え」が私を苦しめていました。

そんな私が自分の甘えから脱し、

精神の安定、自由をつかむためにやったことをまとめています。


孤独 認知論
承認欲求を捨てよう


承認欲求を捨てて「自分の人生」を生きよう


孤独 認知論
人間孤独論


「人は生まれた頃から死ぬ時まで孤独である」

それを論理的に考える記事です。


孤独 認知論
My哲学


主に「人の心」について、私個人の哲学考察をまとめたものです。


孤独 認知論
MBTI考察


MBTI関連の考察記事です。ENTPが多め


孤独 認知論
ゲーム系


遊んだゲームのレビュー、攻略情報などなど


previous arrow
next arrow
Shadow
Slider
自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

MBTI : ENTP

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)