なぜ他人の目を気にしてしまうのか?





なぜ他人の目が気になるのか。よくよく考えてみれば、実に奇妙な話である。

他人の目に自分の姿が写った。だからどうしたというのだろうか。

それによって何かが起こるかどうかについて考えてみると、あら不思議、何も起きないことがわかる。

見られること自体が自身の触覚に働きかけてナイフで刺されたかのような痛みを発生させているわけでもないし、誰かが爆発するわけでもない。

単純に他者の目に自分の姿がとらえられているだけ

しかもこれは、そう自分に見えているだけである。他人が実際に自分を見ているのか、それを確かめるすべはない。

案外上の空かもしれない。妄想にふけっていて、たまたま目の方向だけが自分のほうを向いているだけとも限らない。

ちゃんと見ようとして目が自分のほうを向いていたと仮定しても、なぜ見ているのかについてはさっぱりわからない。わかりようがない。人の頭の中を確かめるすべなど、人は持ち合わせていないからである。

つまり他人に見られているという事実は実は非常に小さく単純で「自分の目の前にあるものが映っているというだけ」であり、それ以外は何もない。何も起きていない

まるで、「どこかに石ころが転がっている」ということと同じくらいに当たり前に起きた物理的事象、自身の目が光をとらえて網膜に映し出しているというだけの現象しか起きていないのである。

このどうでもいいくらいに単純で退屈でつまらない事実を何故こうも壮大に、まるで自身の存在を脅かすかのような大きな存在をまのあたりにしているかのように気にしてしまうのだろうか?

かつて、自分自身もそのような人間であった。友人の目が、同僚の目が、道行く人の目が気になってしょうがない

いつも目の端で追いかけて相手の顔をうかがい、笑っているんじゃないか。ばかにしているんじゃないかとびくびくおびえていたものだった。

この記事は、そんな著者である自身の過去の実体験に基づいた「なぜ他人の目を気にするのか」についての考察記事を書いていく。

他人が怖いから

まず根本的な要点から言うと、他人が怖いからである。

他人が自分に何か恐ろしいことをするのではないか。暴力をふるわれるのではないか。自分を否定し、自分の場所を奪うのではないか。

そのような他人に対する恐怖を確かめるために、他人が何を考えていそうなのか。それに対する予防策、防衛策を考えるため、あるいは他人が自身に危害を及ぼさないことを確かめるために、まずは他人の目をうかがうことで、それを解決しようとしている心理からくるわけである。

他人の目を確かめて安全欲求を満たそうとする

恐怖という感情は、自身の生命危機を探知するための心理的感覚、生理的なものに非常に近い感覚であり、人というのは生理的欲求に対しては最も過敏に反応する生き物である。まずはここを安全にもっていくことができなければ健康的に生きることすらままならない。
人の悩みというものは大抵、この欲求がなんらかの理由で満たされなくなり、自身の命が危険にさらされているのではないか、と自身が認知しているために起こるのだ。

ゆえに他人の目を気にするという行為は、自身の生き残りのための最初の手順、安全確保のための手順

つまり他人という驚異の存在にたいする生存戦略の一環なのである。

他人を危険な存在であるととらえており、半ば敵のように見ているわけである。

他人の目を気にするということは、他人にどう思われるかどうかを気にすることに等しいため、この思考は承認欲求であるわけだが、承認欲求のとらえ方には個人差がある。

単純に自信の尊厳を欲しがる積極的なタイプと、自身の安全を保障するために他人の承認を求める消極的なタイプがおり、基本的には後者の方が致命的であることが多いと思われる。

私は後者の人間で、日常生活を送ることが困難なレベルにまで一時期は陥っていた。

前者は満たせなくとも恐怖を感じることはないが、後者は満たせなければより一層の恐怖を感じる。後者の場合は自身の生命危機にかかわる問題であると体感的に感じていて、その思い込みが結果的に「生きづらさ」となって現れている。

コミュニケーションをとって確認できないから、他人の目だけで判断しようとしてしまう

他人の目が怖い、他人が怖いという思い込みと、かつ従属的な関係性を他者に見出している場合は、自分は他者とコミュケーションをとることができない、してはいけないという思い込みすらもっている。この思い込みが、言葉を用いずに他人の目や態度から推測し、頼んでもいないのに半ば脅迫的な気持ちで気を使ったり、身を削って尽くそうとしてしまう。

いわゆる”エスパー”をやろうとするのである。

これが被害妄想の原点でもある

相手がよからぬことを考えているんじゃないか、バカにしているんじゃないか、そんな妄想がとまらなくなるのは、その担保を会話によって確認しようとしていないこと、また他者に従属しなければならないという思考が、他者に気に入られていなければならないという条件を満たせないことに対して激しい拒否反応を作り上げており、

この2つの組み合わせの結果として、他者の頭の中を脅迫的な自身の妄想の探求によって理解しようとして、思いつく限りの永久ループに突入しているからである。

「自分の意見を言うなんて生意気じゃないか」「自分の考えを発言する資格なんてない」「自分の勝手なことを言ってはいけない」

そうやって自らの純粋な意思を伝えることをしない。会話の機会を自ら放棄する。退避する。自分の言葉を使って相手から相手の言葉を「聞きだす」という機会を押し殺し、

「相手の気持ちを察せないなんて自分はなんてダメなやつなんだ、非常識なやつなんだ、気の利かない奴なんだ」と自己否定する。

あるいは相手に自分の素直な意見をいって、嫌われるのではないかという恐怖から会話することを拒否してしまっているわけである。

その結果会話なしで何とかして他者の目、態度から他者の思考を読み取ろうとと必死で探るのである。

そして得られた推測の結果は大抵ネガティブなものになる。

なぜなら他者を脅威の存在であるという前提意識をまず踏んでいるため、自分を嫌っているに違いない、バカにしているに違いないと予防線を張ることで、来る脅威に備えようとするためだ。

仮にこれが「ポジティブ」な方にいったとしても、それは依存的なものになる。他者を脅威の対象とみたうえで脅威ではないと確認ができると、今度はその対象にほかの他者という驚異から自身を守ってくれる存在であるかのようにみるからである。

「この人なら私を好きでいてくれる、愛してくれている、守ってくれている」という依存の思い込みにいたる。

このネガティブとポジティブの思考の組み合わせにとよって精神的にも病んでいってしまうというわけである。

いわゆるメンヘラアダルトチルドレンという人格はこのようにしてできあがり、「自分を愛してくれる人が好き」という思考はこのようにしてうまれるのである。

恐怖を起点として人間関係を形成する

他人の目を気にする人にとって人間関係の形成の始まりは、大抵他者に対する恐怖の発生がスタートである

そこから他者が自分に脅威ではないかどうかを確かめる形で相手と会話などコミュニケーションを行う。自身の敵ではない、脅威でないということがわかれば相手と関係を作り上げるが、相手が脅威であると認識した場合極力近づかず、大人しくしている。

手短に言うと、他者を恐怖の対象であるという前提でとらえ、他者が恐怖の対象でないかを確かめて関係を構築するというやり方で人間関係を構築するのである。

 

さて他人の目を気にするその内訳、メカニズムについてまとめてみたが、なんともひどい話である。

なぜここまで自分を追い詰めるのだろうか?なぜ追い詰めるようになってしまったのだろう?

自分に何の得もないこの無駄な思考を、なぜするようになってしまったのだろうか。

それでは次に、なぜそうするようになったのか、その理由について書いていこう。

なぜ他人の目を気にする”ようになった”のか?

母親から受けた教育の影響

多くの場合は幼少期の頃に培った人間関係の形成の仕方に帰属する。そのもっともたる要因が母親との関係性の構築だ。日本は少なくとも私が子供の頃の、この記事の作成日時から約30年前の時代において、子育ては母親がするものであった

私の家庭は父親は少し機嫌が悪ければ家族に当たり散らすような人であったが、完全に子育てや家計に対してノータッチで無関心で、母親が全面的に家庭をしきっていたそんな環境であった。

そして私の母親は、いつも体裁ばかりを気にし、外に出れば恥ずかしくない格好をしなさいと私に何度も言い聞かせ、自分の気に入らないことがあれば子供に対してヒステリックに叱りつけ、ご飯抜きにするとか、家を追い出すなど、親の権力を存分に行使して子供である私を脅迫する形で教育をした。

そんな中で私は、親に気に入られることをすること、父親がいるときは大人しくすること、母親の言うことには絶対服従して、いい子でいることがいいこと、であるという風に思い込んでいった。

そのような思考が、常に母親の目、父親の目をうかがうというプロセスを踏むようになり、無意識のうちにそのやり方を他人に対しても適応して、他人にとってのいい子になろうとするようになっていったのである。

このように人間関係構築のやり方を家庭という場でいわゆるOJTする形で身に着けていったその術の中に「他人の目をきにする」というプロセスが組み込まれていった、ということが他人の目を気にする”ようになった”理由なのだ。

言葉を使ってコミュニケーションをしないのも同じ理由である。親の強権の行使により、自身を対等でない召使であると思い込まされ続けたため、親の気持ちを察して率先して行動しなければならない、という思い込みをし始めたのがその発端なのだ。

この他人の目を気にするようになることを身に着けるまでの過程は個人差がある。

例えば私のように恐怖で押さえつけられた結果、生き残るための戦略的プロセスとして身に着けた場合もあれば、真逆で常に周りから褒められて育ったため、常に褒められることしかしてはいけないのだと思い込み、結果賞賛に対する強烈な義務感を感じて他人の目を気にするようになったという話を同じ問題で悩む人からきいたこともある。

歪んだ親によって承認欲求は培われる

母親に好かれようとする、認められようとする。

「誰かと関係をもつには気に入られていなければならない」という思い込みを、母親との関係の中で身に着ける。それは何年にもわたって、自身の感覚に刻み込むレベルで、うまくできるようになるまで何度も自分を戒めるように植え付けるのだ。

子供は母親を世界のすべてとしてとらえる。(最近は父親も育児に参加する傾向があるから、事情は変わるだろうが。)ゆえに、その世界で取り残されるようなことがあってはならないのである。

だからそれこそ必死になって母親に気に入られようと身を削り、いつしかそう生きることが当たり前の、洗脳された不自由な思考をもつ人間ができあがってしまうというわけだ。

他者との人間関係の構築の仕方は、母親との人間関係の構築の仕方がベースになっているため、他者であっても常に母親のような存在に自分が監視されているかのような感覚をもって接してしまうために、どんな他者であってもその目を気にするようになっていくわけである。

 

と、このように、幼少期の教育の中でこの思考形態を習得したことがそもそも始まりである、ということである。

この生き方はまさに奴隷そのものであるといえよう。奴隷の完成体の一つといってもいいかもしれない。

契約奴隷よりももっとひどい奴隷だ。契約上だけの関係性であれば、たとえ契約で決められたことだけは約束を守るとしても、自分の心までは奴隷にならない。

かつてアメリカで存在した黒人奴隷たちも、心までは自由を手放してはいなかったと聞く。だから白人たちはいつか黒人たちが自分たちを打ち負かしにやってくるのではないかと常におびえ、鎖でつないでおくことにしたのだと。

しかし日本という国は思うに、この心までも奴隷にしてしまうような思考形態をもつことを普遍的なこと、つまり普通、常識であるという風に思い込ませる教育思想、村社会的価値観をもっている。

察しの文化といえば聞こえがいいが、それを強いるようなこと、それにこたえなければならない押し付けるような監視社会であるという側面もある。

令和となった現代社会においても、その価値観はいまだ根強い。だからビジネスの面においても客先の奴隷のような仕事をしている会社、

会社にこき使われ、ボロボロになるまで使い捨てられる労働者が後を絶たないのではないか。

ブラック企業がいまだに存在し続けていることも、経営者が悪いというよりも、それに律儀にこたえなければならないと錯覚している労働者の思い込みに依存しているところが大きい。

ヒトラーが日本人を評価したのも、この特徴あってのものなのかもしれない。これだけ従順に文句をいわず多くを望まず壊れるまで必死に命令を聞いてくれる兵士がいたら、使う側からしてみればこれほど都合のいい存在はいない。

人目を気にするということは、不自由な生き方をしている奴隷の証拠

つまり奴隷の人生を生きている、ということになる。身も心も他人に捧げ、他人によく扱われることを期待して生きる、他者の道具としての人生を生きることを選択しているいう事実なのだ。

それでもうまくやっていくことができるのなら、それでもいいのかもしれない。しかしそれで生きづらさを感じ、大きな壁を感じてしまっているのなら、その思考を変えるための取り組みをしていくことを強く勧めたい

こんなの変えられるわけがない。そう思うかもしれない。しかし変わることはできるのだ。私自身は変わることはできた。時間はかかったし、いろんなものを捨てる必要もあり、大変で多くの苦渋をなめることになったが、後悔はまったくない

エスパーなんてもうやめていい

他人のエスパーなど少しもしなくていい。すべて言葉で相手から聞き出せばいいのである。

他人の目がこちらを向いているからって何も起きやしない。

聞かないのなら、そのことは気にしても何の意味ない。存在していないものとしてすっぱり自分の意思から切り飛ばせばいいだけのことだ。

安全なんて常に今自分の中にある。外のどこかではなく、当然他人の中にでもなく、ただ自分を感じればいいだけ。

自分の生きている事実が自分が安全であるという何よりの証拠だ。他人は自分のそれに何一つ手出しできないのだから。

仕事もプライベートもすべてにおいてコミュケーションを通じて決まったこと、共有したことを実行するだけ。実に単純だろう?

他人の目を気にするというのは、まさに非生産的な、問題をややこしくしてめんどうなものにする行為でしかないのである。

自由な心地の良い世界

今ほど健やかで、静かで、肩の軽い生活を過去の自分は感じることなどできなかった。

他人の目を気にする必要がない世界というのは、とてつもなく健やかで静寂につつまれ、しかし晴れ晴れとした明るい世界であった。

他人の目を気にしていたころの世界は、毎日空が曇り空でいたるところに自身を監視するカメラがついているかのような暗くどんよりしていたものだったが、もうそれはない

それくらい世界の見方を変えることができるのである。世界の見方を変えれば、自分の考え方も感じ方も、生き方もすべて変わっていく。

そうすれば他人の目を気にすることなどすでに過去の物。必要のないことだったとして捨てることもでき、自由な人生を手にすることができるのである。

どうか希望をもってほしい。変わることに対する勇気を。変わる自分に対する幸福を。

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元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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