なぜ他人の目が気になるのか。なんとも奇妙な話である。
他人の目に自分の姿が写った。それがどうしたというのだろう。
それによって何が起こるんだろうか。考えてみるとあら不思議、別段何も起きてないことがわかる。
見られるだけで激痛を感じるわけじゃないし、視覚を覗いて5感で感じるもの他にない
見られて爆発するわけでもない。そんなことが起きるのは精々創作の世界だけである。
相手の顔がこっちをむいてるだけなのに。
わかるのは、相手の顔、眼球がこちらを見ているようにみえるだけで、
相手の頭の中についてはさっぱりわからない。
にもかかわらず、相手のそれを見るだけでまるでそれを理解したかのように自分自身が感じているのである。
案外上の空なのかもしれない。ボーッとみているだけ、妄想にふけっていて、たまたま目の方向だけが自分のほうを向いているだけとも限らない。
あるいは自分ではなく、その奥に映っている別の景色を見ているのかもしれない。
遠くにいる誰かが自分に手を振っていると思ったら自分の後ろの人だった、なんて経験をした人は多いのではないかと思う。
あるいは相手も恥ずかしさ隠しに、実は相手も人違いをして手を振っていて、とっさに気づいて後ろの人に変えただけかもしれない。
しかしそれを確かめるすべはない。直接聞けばわかるかもしれないが、ではそれを道行く人全てに訪ねて回るだろうか。
仮にそうしたとしても、相手は嘘を言うかもしれない。
そして相手が嘘を言っているのか本当のことを言っているのかということを、証明することはできない。
相手の頭の中を人は覗けないから。
だから他人の考えていること、事実。人がそれを知りうることはない。
当人自身のそれしか知りえない。
勘違いとは日常である
もし人がそんな他人の事実を確かめる術を持っているとすれば、そもそも人は”勘違い”を起こすことすらない。
仮に、「かつて人は他人に勘違いをし続けてたものの、今日の科学技術で解決できた」という事実があったとしたら、
とっくに確実な対処方法もすでに確立できているはずである。
他人のことを完全にゆがみなく理解する術を、人は既にもっているはず。
でも実際にはそうじゃない。
そんなことは世の中を見渡してみればわかる。
“勘違い”なんてあちこちでおこってる。
あちこちで意思疎通がうまくいかずに問題が起こっていることが日常風景、現実世界であるということがよくわかる。
「そんなつもりじゃなかった」
「そういうつもりで言ってない」
「そういう意味じゃない」
「こうじゃなくてこうだ」
「何度言ったらわかるんだ」
「どうしてわかってくれないんだ」
よくある日常のやり取りである。いくら会話を積み重ねてもこのようなことは発生しうる。
人の会話では人間の仕組み的に”勘違い”を解消できない。
文字も同様。文章と思考は同じものじゃない。
会話や文章は当人の思考を伝えられはしない。ただ思考をもとに発せられる音声、文字という記号。それだけのもの。
その記号を見たり聞いたりした人間が当人の目的で解釈するだけ。
それをリレーしているだけ。記号をリレーしているだけで、解釈はリレーしていないのである。
だから相互理解は存在していない。当人から見れば自分自身の解釈が自分の頭の中で積みあがっていくだけ。
他人のそれがどうなったのかはほんの少しだって知らないし、知覚すらできない。
存在していないものを人は想像できないのと同じで、他人のそれも同様、まったくの無知なのだ。
そういう意味では例えば人間の口論と、動物の威嚇は相互理解という点においてはほとんどかわらない。
どんなに言葉を積み重ねようと、「ウー」とうなりあっているだけだろうと、そこに大した違いはない。
人は他人の事は一切知らないし、理解していない。
だから実質、皆”常に”勘違いしあって日々を送っている。
勘違いしていないように見えることでも何一つ確証がないからである。
その勘違いが”問題化”しないというだけのこと。似たような環境で育ち、似たような文化圏で育ったからこそ、ある程度は同じ解釈をするようにおそらくたまたまなっているというだけ。
それでたまたまうまくいっているように見えるだけだ
人間の情報のやり取りは正確に見えても実は適当なもので、
自分の頭の中、思考、解釈を直接やり取りするようなことができない以上、随分アバウトなものなのだ。
全部「そう見えている」だけ
相手が自分のことを見ているのか。どう見ているのか。
何を考えているのか。どう評価しているのか。
それを想像することはできる。
しかしそれは、全て自分の経験したものがベースであり、それをもとにして全て自分に「そう見えているだけ」という見かけという事実でしかない
それは前述のことを踏まえれば明らかのはず。
相手の頭の中はわからない、知覚すらできない以上、相手の言っていることを真実だと証明する手段もないからだ。
他人のことは何一つわからないから。
他人の目で苦しむ=自分の妄想で苦しむ
他人の内面は全て自分の想像したものである。
つまり他人の目とは全て妄想でできているのだ
つまり他人の目を気にして苦しんでいたということは、
自分の妄想で今まで苦しんでいたということになる。
他人が自分に何かを感じさせていたわけでもなく、
すべては自分が自分で勝手に自分をいじめるような妄想をして苦しんでいたということ。
全て自作自演にすぎなかったということなのである。
承認欲求を求めるが故の性。
──────自作自演なら、一体なぜそんな妄想をしてまで自分を苦しめるのか。
自分でやっているのだから、やめればいいはずなのに。
なぜそうしなかったのか。いや、できなかったのか。
それは…
そうまでしてても欲しい何かがあったから
「他人に認められたい」
「愛されたい」
「好かれたい」
「嫌われたくない」
これらが欲しかっただけ。
自分を苦しめてでも、喉から手が出るくらいに欲しいものたちである。
たったこれだけのことだが、これが承認欲求を求める人にとっては生命線であるからこそ求める。
だからそれで気持ち悪くなっても、不安を感じることになっても、
誰かが認めれてくれる、好きになってくれる。普通だと認めてくれる。
そこに希望を持ち続ける限り、そのためだったら耐える。期待しながら苦痛の中、そんな人が現れることをただ待っているのである。
承認欲求すらただの妄想
しかしそうやって耐え忍んでまで欲しがったものすら、すべて自分の妄想なのだ
理由はやはり「相手の頭の中はわからないから」である。
他人がいくら自分を好きそうにみえても、嫌いそうにみえても
いくら他人が自分のことを好きだといっても、嫌いだといっても
他人の”気持ち”、”本心”はわかりはしない。
他者の内面を、人は理解できない。
自分にわかるのは上っ面の事実だけ。目にみえる、耳で聞こえるものだけ。
承認されたと感じたときの「自分はこの人に愛されているんだ」という、自分の妄想上の他者の内面をベースにしたあの快感の元出。
またしても自分の妄想によって一喜一憂していただけだったのだ。
全てただの妄想だったのに、それでもやめられない
全ては自分の妄想、自分の脳純正100%の妄想。得たものと思っていたものもすべて妄想。
これに気づいても「じゃぁ必要ないことだから止めよう」と行動することは難しい。
そう聞いて、「はいそうですかやめます」と、あっさり捨てられるだろうか。
もし捨てられるならそれは幸福なことだ。たった今この瞬間から、幸せであるに違いない
しかし私の経験上ではそれだけではほぼ不可能だと思っている。
なぜかというと、頭ではそう”思って”も感覚がそう”感じない”からである。
感覚の使い方、自身の在り方、生きる目的の根幹的な在り方が、そう思っていることに対して大きく乖離しているのである。
自意的に思っていることと、自分の無意識のうちに欲しがっているものが乖離しているのだ。
承認欲求は他者への期待と義務と恐怖と報酬などの様々な解釈が積み重なってできた「生き方」であるため、
それをやめるということは自分の人生を捨てるようなことに近い
明日から嫌われてもどうでもいい、嫌われてもいいと受け入れて、心地よく生きていけるだろうか?
怖くてできない。そう感じないだろうか?
だからその生き方を改めるには、そんな恐怖を克服する必要がある。
自らを再教育し、他人の都合なしで生きることができることを体感する必要がある。
別の生き方があるという希望を見い出す必要がある。
別の生き方があるということを身をもって経験しないと、今の生き方を捨てるなんてことは恐ろしすぎてできないのである。
承認欲求のメカニズム
他人が自分を支配していると思い込んでいる
他人への恐怖は、他人によって自分の安心感という感覚が脅かされるのではないか、という思い込みからくる
例えば他人に否定されること、批判されることが怖いのは、
それによって他人が自分を”殺すかのように支配する”と感じるからである
他人によって存在価値だとか人間としての価値のようなものをコントロールされていると感じている。
他人が自分の価値を握ってる。他人に自分が恐怖を”感じさせられている”という、
自分という存在が外的要因によって定義、操作されている、という思い込みからくる。
他人に”安全に支配”されようとする
「されている」という認知により、それを解決するための方法として、承認欲求を満たそうと行動しようとする。
同じく外的要因である他人が自身を認めてくれる、許してくれる。
そうすることで他人が自身に安全を提供してくれると思いこんでいる
自分はその他人の傘下で安全を保障される。価値も意味もすべてそこで保証される。
そこにいてもいいと、他人から許可をもらうことで、安心感を得ていると思い込んでいることからくる。
「自分が外に支配されている」という思い込みが根源
これが、いわゆる他人軸の生き方というもの。
他人への恐怖とは、他人が自分の一切をコントロールしているという思い込みが基底にある。
生き方そのもの、在り方そのもの、価値観、正しさ、考え方の在り方、そんなすべてが他人たちに支配され、コントロールされているという前提で成り立っている。
だから生きる目的もそれに合わせて、「他人に褒められることをする」「他人に好かれることをする」になる。
如何にうまく他人に支配されるかを考えて生きるようになる。
何もかもすべて他人由来。
自分ではどうにもならない他人が、そのすべてを握っている。
そして何より、支配されていなければ孤独だと感じて生きる意味がなくなってしまう、という思い込みも強く関係している。
支配”されている”というよりも、その本質は支配”してほしい”のである。
だから他人に、依存するのだ。依存したいのである。
自分が安全に生きられる、価値を保証してくれるのも他人。
自分の生き死にを左右するのすら、他人。
まさに地獄の門番のような存在が他人なのだ。
起源はどこか
ではこれがどのようにして培われていったのか。
母親から受けた教育の影響
多くの場合は幼少期の頃に培った人間関係の形成の仕方に帰属する。
日本は少なくとも私が子供の頃の、この記事の作成日時から約30年前の時代において、子育ては母親がするものであった。
私の家庭もその例にもれなかった。
私の例
父親は癇癪持ちで、少し機嫌が悪ければ家族に当たり散らすような人で完全に子育てや家計に対してノータッチで無関心、母親が全面的に家庭をしきっていた。
そして私の母親は、いつも体裁ばかりを気にし、外に出れば恥ずかしくない格好をしなさいと私に何度も言い聞かせ、自分の気に入らないことがあれば子供に対してヒステリックに叱りつけ、ご飯抜きにするとか、家を追い出すなど、親の権力を存分に行使して子供である私を脅迫する形で教育をした。
また私は、親の都合を満たすためにダメな子供でもありつづけた。
母はよく「あなたはダメな子だから」と繰り返し言い続けていた。
私が何をするにも親、とりわけ母はなんでも先回りしてやってしまった。私から自分から何かをするという動機をすべて奪い去ってしまったのだった。
部屋の掃除も洗濯も。全て母が勝手にやってしまう。自分でやろうとすれば、そのなりをみてそのたびに「あなたはだめ」と繰り返し言われる。
そうやって洗脳されていく。子供のにとって親は絶対であることが多い。私もその例にもれなかった。
だから自分はダメな子であることが普通のことだと思い込んだのだ。
ダメな子でなければならないと思い込み、そのようにふるまうようになった。
だから自信が持てないのは当然だった。
自分はダメだと全てのことに対して思い込んでいたのだから。
何一つ自分の意思でやっていないから。やりとげていないから。やろうとする目的すらもてなかったから。
自分の意思で何かを始めることに激しい抵抗感を感じていた。
「そんなことを自分がするなんて生意気だ」
「どうせうまくいかない」
自分が「自信がある自分」になることが、常に親の基準を超えることだったから、億劫だった。
そうして私は、いつしか自分をあきらめてしまった。
他人にすべて決めてもらおうと、心のどこかでそう思うようになったのだ。
親の言うことに身も心も絶対服従するようになった。
いい子でいることがいいことであると思い込んでいった。
他にあり方を知らなかった私が、それが普通のことだとも思った。
みんなそうしてる。だから自分もそうしなきゃいけないと。
そのような思考が、常に母親の目、父親の目をうかがうというプロセスを踏むようになり、無意識のうちにそのやり方を他人に対しても適応して、他人にとってのいい子になろうとするようになっていった。
それが人と仲良くなる方法、人と付き合う普通の方法。
普通の生き方であると信じて。
家庭という場でOJTする形で身に着けていったその術の中に「他人の目をきにする」というプロセスが組み込まれていく。
このようにして私の「他人から支配されて生きる」という在り方は積み上げれていった。
自らを調教して培った
「誰かと関係をもつには気に入られていなければならない」
支配されているという思い込みを、母親との関係の中で身に着ける。
何年にもわたって、自身の感覚に刻み込むレベルで、うまくできるようになるまで何度も自分を責め否定し、戒めながらに植え付ける。
生きるために、自らを調教した。
嫌われそうだと感じたら必死に相手に好かれるように取り繕うように自分を調教。
何か問題が起きたら全て自分のせいだと思い込むように自分を調教。
常に自分の悪いところをみつけて、自分を悪い子だ、ダメな子だと思い込むように自分を調教。
嫌われないために。見捨てられないために。
“支配という加護”を受け続けるために
そう自分を調教しながら、生きていく術として自分に刻み込んでいったのである
他人なしでは生きられないという思い込み。それが他者に対する従属義務感、他者に対する恐怖の源泉となっていく。
そして心まで奴隷に。
こうして調教が進んで作られる人格は奴隷そのものであった。奴隷の完成体の一つといってもいいかもしれない。
それも、契約奴隷よりももっとひどい奴隷。書類などの契約上だけの関係性であれば、そこに書かれた約束を守るとしても、自分の心までは奴隷にならない。
かつてアメリカで存在した黒人奴隷たちも、心までは自由を手放してはいなかったと聞く。だから白人たちはいつか黒人たちが自分たちを打ち負かしにやってくるのではないかと常におびえ、鎖でつないでおくことにしたのだと。
しかし心まで奴隷にされていては、自分は支配者になすすべもない。
そうする気概すら持ち合わせることができないのだから。
牙どころか、脳すら焼かれてしまっているかのような、無力な存在になってしまったのである
すべては”教育”のたまもの
このようにして他人への恐怖は培われた。
他人への恐怖は、単純な事象なのではなく、
長年の自身の教育によって積み上げられた自分の生き方そのもの。自分の使い方そのものである。
つまりそれは本能だとかどうしようもないようなものではない、ということである。
教育によって培ったもの、つまり後付けの物であるのだから、それは同じく教育によって捨てることも可能なのである。
そのためには、新しい生き方を知る必要がある。他人の支配を必要としない、自分軸の生き方をみにつけていくことで、他人からの恐怖から解放される。
そのために自分を知るのである。
自分の無意識に、自分がなぜ今このような感覚を感じているのか、このような欲求を感じているのか。
その一つ一つに少しづつ気づいていく。
そしてそれを捨てていくのである。
そうして得られた自由は、かつてなくすがすがしいものになる。
初めまして。
病的な承認欲求をどうにかしたく、対処法を調べていた所こちらの記事に辿り着きました。
理路整然とした文章を読んでいるうちに、不安で一杯だった頭の中がスーッと落ち着いていく感じがしました。
中でも「生き抜くために自分で自分を調教した」という考え方に感銘を受けました。
今までずっと、自分は他者からの干渉によってこんな性格に「させられた」、だから自力で変えることは難しい、という受け身の思考でいたので。
自分で作ったものであれば、自分で変えることも可能ですよね。
また、この考え方を取り入れれば、他者のせいにしてしまう自分への罪悪感も少しずつ払拭できそうな気がしました。
長年の心の重荷が楽になった気がします。
記事を書いてくださりありがとうございました。
他の記事も少しずつ読んでいきたいと思います。
こちらこそ、お役に立ててよかったです^-^