脱承認欲求メソッド:感覚と思考は全く別次元の一切結びつきがない機能であることを知る





例えば「うれしいこと」というものがある。

○○されてうれしい、とか○○があってうれしいとか、経験や解釈から来ると考えられているものだ。

一見取るに足らない単純で、それだけで終わってしまうかのような話のように見えるが、実際にはこれにはロジック、仕組みがある。

それは「うれしい」という“感覚”と、「うれしいこと」という“解釈”のそれぞれセットであるということである。

本質的、定的な感覚と解釈が一つの「うれしいこと」というものはこの世に存在せず、全ては自分がそのように見ているという話である。

精神的感覚は全て”自足”できる。

さてさきほどもふれた「うれしい」などの“感覚”の話。感覚はいろんな種類があるが5感から伝わる感覚、例えば触覚、視覚、痛覚といった、外界の刺激を受け取る感覚を除いて、

肯定感や幸福感といった、自身の精神が発端となる感覚というのは全て自分自身だけで自足している感覚である。

勝手に感じたり、特定の事象に対して定的かつオートマチックに感じているものではなく、自分が感じようとして感じているものにすぎない。

「考えること」と「感じること」は、それぞれが全く無関係に別に走っている。

つまり、例えば気難しいことを考え、その考えを自ら否定する行為をしながらも、それとは別にただ肯定感を感じようとするだけでずっと肯定感を持ち続けることが可能なのである。

例:「できない」という解釈と「自己否定感」という感覚

感覚と解釈が別のものであることについて、具体例を用いて説明してみる。

例えば「できない」という解釈がある。この言葉は大抵ネガティブな感覚をセットにして使うことが多いだろう。

「自分には何もできないんだ」と言ってネガティブな感覚を抱いたりするものだ。

もし感覚がある一定の枠組みの解釈、つまりここでは「できない」という解釈について本質的に結びついているとするのなら、全て同じように感じないとはしてもなんらかのネガティブな感覚、自己否定感を感じるはずである。

しかし具体的なできない何かについて、そのパターンをピックアップしてみると、全ての「できない」が自己否定感につながっているわけではないことがわかる。

例えば「自分は空を飛ぶことができない」という解釈に対して自己否定感を感じる人はほとんどいない。

その理由はそれを単なる事実としてしか見ていないからである。そこには何の変った感覚も感じないだろう。

では「勉強ができない」はどうか。この場合は自己否定感を使う人は多いだろう。

なぜこのような違いがあるのか。そしてこれらに承認欲求を求める根源的なポイントが存在しているのだ

ポイントは二つ

まず一つは「同じ人間という枠組みの中で、他者と自分を比較する」解釈をしていることである。自分と同じ”人間”が登場するかどうかである

日常的に鳥と人間を態々比較する人はいない。したとしてもすぐに忘れてしまえるくらい些細な話であり、自己否定感を強く感じる人などほとんどいない。

人が心のよりどころにしたり心配したりする比較の対象は大抵において同じ”人”である。人というコミュニティの中で人はさまざまな解釈を行い、結果悩みを作り出しているのだ。

自分が所属する人間という枠組みの中で「自分よりもできる人間」が他にいることを認知しており、できない自分と比較しているわけである。

そしてもう一つは、この問題の本質的部分である。こちらの方が重要なポイントだ。

それは前述の「自分は誰かより勉強ができない」という解釈と「自己否定感」という感覚を”自分自身が結びつけて感じている”ということである。

解釈だけなら先ほどの「自分は空を飛ぶことができない」と同じように、「自分は彼らに比べて勉強ができない」という解釈をする”だけ”である。

しかしそこで自己否定感、それも強い自己否定感を感じるのは、その解釈を理由に、自己否定感を感じるということを自分自身の意志で持ち出して感じているのである。

なぜこのような面倒なことをしているのか

ではなぜこのような、自分に不快感を与えるようなことを態々頭を使ってまでしようとしてしまっているのか。

「自己否定”感”を感じてしまうロジック」とはなにか。

それはある何かが自分自身を脅かのではないか、という思い込み、謂わば「死の危険」という解釈、感覚によるものである。

ある解釈によって気づいた(思い込んだ)その「脅威」から身を守るために自己否定感をつかうことで身構えているのだ

前述の「勉強ができない」ことに対する自己否定の例で説明すると、勉強ができないことによって自身が周りよりも劣等に見られること、コミュニティの輪から外されてしまうのではという予測、

今後の自分の人生に多大な影響を及ぶすのではないかというさまざまなな「解釈」に対してさらに「それは脅威だ」と自分が解釈し、

結果、それに身構える感覚、恐れる感覚として自己否定感を持ち出し、感じているわけである。

感覚と思考、解釈は一見元から結びついているものかのように見えて、実は一切結びついてなどおらず全て自分の意思で組み合わせているだけなのである。

そしてこの思考ロジックが「自分が見たいように世界を見る」ロジックであり、感覚と解釈を組み合わせて作り出している「思い込み」なのだ。

自己否定感を感じることによって、自身を”演出”しようとしている。

そしてさらにその自己否定を感じる行為を、脅威に対する何らかの忠誠を示す行為、降伏行為を演じる役目を果たせていると思っている場合もある。

単純に恐怖に対する解釈として感じているだけの場合もあるが、

例えばそうすることで誰かが自分を救ってくれる、あるいは報われる、「こんなにダメな自分はこうなって当然なんだ」と悲劇を演じることで、「だから自分はしょうがないんだ」というように、ひどくねじまがった自己肯定をしようとしているのである。

端的に言えば自己否定感を感じることによって、自身を演出することで他者承認を得ようとし、自分を救おうとしているのだ。

しかし実際のところではこの自己否定感、不快感に逆に支配される形となってしまい、かつ誰にも気づいてもらえない、理解してもらえないという解釈に至ってしまうと

「自分は救われない」という解釈が強い「絶望感」を生み、結果体に変調を来たして、生きづらさを作り出してしまうのである。

“生きづらさ”というのは単なる感覚の問題なのである。

生きづらい何かがあるというより、自身が生きづらいという”名前”を付けた何等かの自身の感覚に対しての物であり、

ある現実に対する解釈と不快感を結び付け、自身が本当に欲っしている感覚、幸福感が得られないことに対する不安感、絶望感が生きづらさそのものなのだ。

少し余談になるが、比較対象が自分ではなく他人と他人を比較している場合は、自己否定感を感じることをしようとはしないだろう。

ある誰かと誰かの成績を比べても、AよりBの方が成績が上、下という解釈をしはするだろうが、それを理由に自分に自己否定感を持ち出すことはない。

それは自分とは関係のない話で、その比較によって自己の脅威とはなりえないと解釈しているからなのだ。

こうなってしまった要因

なぜこのような自分で自分を不幸にするようなことをするようになってしまったのか。

なぜこのような回りくどい演出をしてまで自分を肯定しようとし、その結果失敗するような悲しい思考をしてしまっているのか。

この問題の本質、とりわけ自己否定に関するものは、前述の恐怖の対象から自身を守るため、自身の救済が目的で、その方法としてその感覚を持ち出して自分を演じる必要があると解釈していることにある。

そしてその解釈をするようになった要因は、やはり自身の過去に経験した人間関係の構築方法にある。

例えば自分の気に入る態度を示すまで許しを与えない親だったり、学校のいじめっこだったり、自分に対して支配的な人間に対する自己防衛手段であったりするのだ。

もし従わなければ家を追い出される、けられる、いじめられる。

そういった自己の生命の危機を想像させるような解釈から恐怖を生み出し、その恐怖を打ち消すために、その状況から自身を救うために、その対象になんとか気に入られこれ以上の危害を加えられないように、相手にとって都合のいい自分を感覚のレベルまで演じようとするようになったことにある。

他者に否定されて自己否定感を感じるのもこの延長線上にあって、否定されることで自分の生きている”場所”が脅かされる、根底から崩れてしまうと思い込んでいるからである。

“場所”というのは、物理的なものというよりも“心の場所”といったほうがいい。

例えば何らかの宗教観に生きている人は、その宗教観を否定されると激しく自己否定を感じるか猛烈に反発をする。

これは、自分の生きている心の場所がその宗教観という解釈の上にあると思い込んでおり、そこが崩れることで自分の生きることを肯定できると思っていた場所がなくなってしまうことからくる。

誰かに承認されることを求めることも全く同じだ。自分が何かをしたことに対して承認を求めるのは、その”自分がした何か”が、自分の心の場所を揺るがす脅威のきっかけになるのではないかという恐怖からきている。

そしてそのきっかけとして脅威となるのはもっぱら他人である。他人の目が気になるのも、自分の意見を言うことに抵抗があるのも、自分という存在や自分のしたことが、他者によって自身の心の場所を脅かす脅威になるのではないかと解釈し、そこに自己否定感、不安感を結び付けている。

そして、その生まれたその不快な感覚たちを解消するための方法として、誰かからの承認を求めるのだ。

承認されればその不安要素は全て消し飛び、安心することが出来ると考えているからである。

承認欲求の本質

承認欲求とは自身を幸福にしているというよりも、一旦自身を不幸に自分で陥れた上で元の状態、つまり幸福な感覚を感じていた自分に引き戻す

謂わば「悲しい自作自演の一人芝居」でしかないのだ。

一人で勝手に不安になったり、舞い上がったりしているだけなのである。

そして、このような人間関係の構築の解釈の仕方、思い込みを幼少期の頃に行ってしまい、かつそれを人間関係の基底、フレームワークとして構築してしまったがために、それをベースに人間関係の構築を繰りかえしてしまう。

謂わば生き方そのものが生きづらさそのもの体現しているかのような状態となってしまい、結果いつまでも生きづらさを解消することができずにいるのである。

感覚と思考のフレームワークを変えることが、根本的な自分を変えることにつながる

前述の幼少期の歪んだ解釈と感覚を結び付けた”解釈”が、承認欲求を求める解釈と感覚の流れの、基礎フレームワークにもなっている。

つまりこのフレームワークを捨てればよい。

承認欲求とは「ある”コスト”、(:誰かがほめてくれそうなこと)を投じることで自分に快感や幸福感を与えようとする思考フレームワーク」である。

このフレームワークの根幹である、「ある感覚を得ようとするためにコストという形で行動する」というやり方、生き方を捨て、

まず初めに自分で自分の感覚を幸福にし、その上で行動する、という風に変えていくのである。

ざっくり説明するなら、

行動する(コストを投じる)→精神的幸福、肯定、安心感を得る

ではなく、

精神的幸福、肯定、安心感を自足→行動する(与える)

という、順序を逆にして目的を変えるのである。

幸せになるために行動というリスクをとるのではなく、自身が幸せだから行動することで周りに与える、という風に変えていくということだ。

幸福感などの“精神的な感覚”をただ何の解釈、理由なしに感じるように務めることで、かつて承認欲求で”得ようとしていたもの”、安心感、肯定感を自足することができ、承認欲求を根本から消し去ることができるのである。

ただ生きているという感覚で自分を肯定し、感じることで承認欲求は不要になる

幸福を自足することができれば、承認欲求は既に不要の産物なのだ。

今この瞬間に存在し続けている自分、「生きている今の自分」をただいっぱいに感じてみよう。

自己肯定感、自己否定感、幸福感などの感覚と結びついていると思っていたあらゆる解釈との紐付けを解き、

呼吸や心臓の脈打つこと、資格や聴覚に触覚などあらゆる「感じている」こと、“生きているという感覚”についてそれがとても素晴らしいことである、という感覚を感じようとする、「これで大丈夫なんだ」という安心感を感じることができるはずである。

生きているだけで幸福

つまり幸福とは生きている感覚そのもののことである。

それを感じること、

つまり「生きているだけで幸せ」こそが真の幸福、かつ人としての”本来の正常な姿”なのだ。

これが基本なのである。幸福であることが本来の人の普通の状態であり、この状態であるからこそ人はいろんな行動に携わり、人の幸福を助けようとすることができるのである。

自分で自分を幸福にすることができて、初めて他人の幸福を助けることができるのだ。

かつて信じていたあらゆる幸福を実現できると考えていた解釈達に本質的な幸福も価値もない。それがあるとみなしているのは自分自身の思い込みにすぎない。

幸福は幸福という解釈、つまり幸福だと思う、考える”思い込み”の中にはどの中にも存在などしていない。

ただ自分の幸福感という感覚とそれらの解釈を結びつけ、そのように見ようとしているに過ぎないのだ。

幸福とは手に入れるものではない。理屈無しにただ感じる感覚なのだ。

そして、何も”演じる”必要などない。演じるために感じたくもない感覚を感じようとする必要もないのだ。

何の解釈の上にも生きようとする必要などない。

人が生きているのは自身の感覚の上だからだ。

今感じている原始的な、思考の及ばないただ”感じているという事実”、いや、感じている”そのもの”の上にしか生きていない単純な存在にすぎないのだ。

あらゆる宗教観、価値観の上にも人は生きてなどいなのである。「他者に気に入られなければならない」などという解釈を通してある感覚を演じて他人におべっかする必要などないのだ。

ただ幸福を感じることができるようになれば、いかに自分が今まで自己否定感などの感覚を使って自己を演じてきたかが客観的にわかってくるはずだ。

あらゆる解釈にその色を塗る前に、まずは自分をただ幸福にしてからそれを始めよう。そうすればあなたの人生は大きく変わっていくだろう。

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元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

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