[再編集]「感覚」と「思考」分離して承認欲求から自分を解放しよう




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2020年04月25日~:
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思考と感覚と承認欲求

思考は考えることとか、イメージすること。計算したり文章を考えたりすること。

感覚とは単純に思考とは関係なく感じる何かのこと。言葉で完全な説明をすることが難しいただ感じるもののこと。

承認欲求はよく人の本能であるから、あらがうだけ無駄だ、という風に言われている。

「本能なんだから大人しく受け入れろ」「皆持っているから仕方がない。承認欲求とうまく付き合っていこう。」という感じに、半ばあきらめのように受け入れようとしている人もいる。

誰かがそう考えること自体を咎めようとは思わない、それについてああしろこうしろなどというつもりはさらさらない。

しかしここでは、承認欲求が人の本能なのかどうかについて、それは“半分は正しくない。”ということを主張したい。

承認欲求を捨てることができないものであるということは、正しくないことである、と。

承認欲求は「後付け」

感覚と思考が人が最初からもっているもの。

本能とは生まれ持って持っている機能のことを言う。それは人の場合は「意思」、「感覚」、「思考」である。「何かを感じる、何かを考える」、という機能そのもののこと。

一方承認欲求というのは、最初から持っておらず、日々の生活などの学習によって自分の中に作られた2次的なものだ。

なぜなら、“相手に承認された”という認知を知っていないと承認欲求は使えないからである。誰かに承認された、ということがどういうことなのかを学習しないと使うことができない。

赤ん坊の頃はこれを知らない。それどころか言葉すら知らない。何も知っていない。

何を知っているかということは生まれ後に培われていくもの。学習によって作られていくものだ。

思考によって作られるあらゆるものは、最初からもっているものなんかではない。

承認欲求を本能であるというなら、それは赤ん坊は生まれたときから言葉を知っていると言っているようなものだ。

ハードウェアとソフトウェアで例えるなら、ハードウェアが意思、感覚、思考。そのハードウェアを使って作り出した解釈、ソフトウェアが承認欲求だ。

人間は日々の中で行うあらゆる学習によってソフトウェアを開発している生き物だ
しかし、ハードウェアを変えることはできない。薬などを使ってハードウェアを仕様の範囲内で影響与えることはできるが、

突然手足が4本になったり、目から光線がでるようになったりはしない。ソフトウェアのように自由に変えられるものでも、変わるものでもなく、
最初から備わっている”仕様”のとおりにしか動作しないものだ。

しかし例えば創作や妄想の世界ならそれは可能である。そんなソフトウェアの世界はいくらでも変えることができる。

承認欲求とはソフトウェアなのだ。だから変えることができる。

人は大抵、感覚と思考をセットでとらえて感じようとするように学習する

例えば「うれしいこと」というものがある。

○○されてうれしい、とか○○があってうれしいというものだ。

これは「うれしい」という“感覚”と、「うれしいこと」という“解釈”のそれぞれセットであるということである。人はこのように思考と感覚を使って思考したり行動したりしながら生活をしているのだ。

承認欲求も同じである。日々の生活の中で「相手に承認された」、という解釈と、「安心感」という感覚を結び付けて自分を使うように学習してきただけだ。

同じ「承認された」でも感じ方は違う。

例えば、どんな人からでも褒められさえすれば同じように気持ちがいいと感じるだろうか。

自身を承認してくれた人が自分よりも年下の子供だったらどうか。あるいは権力と権威をもった有名人だったらどうか。

嫌いな人だったらどうか。好きな人だったら。

自分を承認した人物が違うだけでも、感じ方は全く違うのではないだろうか。

自分がどんな人にどのようにどのような状況下でどのようなことを承認されたのかによって、感じ方が異なる、というのであれば

そんなものはもう本能でもなんでもない。

自分が勝手に何を感じるかを状況に応じて選んでいるだけにすぎないのだ。

人間は承認欲求を求めるように”作られてはいない”。自らが求めるように自分を”作った”のだ

人間は常に誰かに承認されれば常に同じ感覚を感じるというように“作られては”いない。

自らがそう自分を作り上げたのである。

自分がどこに、何に対してどう思考し、自身の感覚の何を求めて行っているのか、という一連のプロセス、ソフトウェアを自分が学習して作ったというだけである。

感覚と思考をどう組み合わせるかも自由。

何を認知したとき、どう感じるのか。何についてどう考え、どう感じようとするのか。

それは自分で決めていいのである

むしろ、実際的には全て自分で決めているのだ。自分が決めていることを、他人や外、仕組みに決められているかのように錯覚しているだけにすぎない。

そしてそこに、こうでなければならない、というものは存在しない。

例えば親に叱られたとき、親に反省の態度を求められたとしよう。人によってはそれに律儀にこたえるために、自分を罰するように自分の感覚を必死に否定し、おさえつけて反省する態度をつくりだしてその態度を表現しなければならないと思い込んでいるかもしれない。

しかしそれはそうでなければならない、ということを全く意味しない、そうさせられているという事実もない。

すべて自分がそう感じるように決めて感じているのだ。

だからそう感じようとしなくてもいいし、そういう態度を作らなきゃいけないと思い込んだり、応えなきゃいけないと思い込まなくてもいいのである。

全て自分で自由に決めることが、変えることができるのである。

叱られようが心の中では一切無視することもできる。反省した態度も表面だけで取り繕い、内面では少しも自分を罰しない、ということもできる。

不快感を感じようとせず、フリだけする、ということもできる。

完全に無視をすることも、なんだったら中指を立てることだって選べるのだ。(オススメハシナイガ

全て自分は選ぶことができる。

ある事象に対して自分がどのように認知、行動するのか。これを人は変えられるのである。

承認欲求を求めなくても、感じたい感覚を感じることができる。

精神的感覚は全て”自足”できる。

肯定感や幸福感といった、自身の精神が発端となる感覚というのは他者から直接感じさせられたり、5感で感じるものではない。

全て自分自身だけで自足している感覚である。

自らの意思に関係なく勝手に感じたり、特定の事象に対して定的かつオートマチックに感じているものではない。

自分が感じようとして感じる感覚が、精神的感覚なのだ。

承認欲求とは、他者の承認という認知と安心感、または恐怖感、不安感を組み合わせた思考解釈でしかない。
人に認められれば安心感を感じ、人に嫌われたり否定されれば不安感、共感を感じるように自分が学習しただけ。

そう自分を使うように思い込んだだけである。

安心感は、自分が今そう感じようとするだけで可能なのである。
自分が感じようとする。これが重要。誰かに感じさせてもらおうとするから承認欲求を求める。
誰かに安全を確保してもらわないといけないと思い込んでいるから求めてしまうだけだ。

そんな自分の思い込みを捨てて、単純に安心を感じようとすればいいのである。

ただし、これが実際にできるようになるには人によっては時間がかかる。私自身5年はかかった。
習慣化した自身の思考、認知を変えるのは時間がかかるのである。そのためにもメタ認知をしながら、自分の思い込みに日々気づき、それを捨てていく取り組みを継続することが重要になってくる。

自由な人生を送るために必要なのは、「保証」を捨てることである。

常にありたい自分の感覚のままでいることができる

自分の感覚は自分が在りたいと思う感覚のままで常にいられる
どこにいても同じ。誰かと話していても、誰かが自分のことを話していても、

そこに自分の感覚を結び付けないこと。自分の感覚をどこにも寄せないこと、常に自分の意思が独立して自分が感じたいことを思考せずに感じることができる。

できないと思い込んでいるのは、思考と解釈を組み合わせて感じることが”当然”だと思い込んでいるだけ

思考で感覚を感じようとしているその思考そのものなんだ。

「それを捨てるなんて変だ」「人間らしくない」

そう思っているのではないか。何かをしていても何も感じない。怖いものに対して何も感じないなんて、おかしいじゃないか、と。

そういう”変”とか”人間らしくない”とか。

それは全部承認欲求を求めているからそう思うのだ。だって”変”も”人間らしくない”も、他人がいるから生まれた概念なんだから。

考えてみればわかる。なぜ自分が変だと思ったのか。人間らしくないと思ったのか。それは多分そう思う先になんらかの不快感を自分自身に抱いたからだ。

その時に思い描いたのはなんだったのか。何をとらえたからそう思ったのだろうか。

それは「社会に適合できなくなる」とか「他人に変に思われる」とか「普通の生き方じゃない」とかそういったものではないか。

だとしたら、やはりそれらは承認欲求なんだ。

他人を気にしてる証拠。社会を気にしている証拠。社会の平均値である普通や常識を気にしている証拠。

自分がそういう風に変わることが、誰かにとっておかしなことに見えるのではないか、社会の標準から外れるのではないかと思い込んで、やはりそこに感覚をつなげて感じようとしているから、不快感を感じただけだ。

それをやめていいのである。つなげなくていい。ただ思考するということはできる。ただ感じようとすることはできるのだ。

やってみればわかる。

外の何かを借りなくても、精神的感覚は自分の意思ですぐに変えられる。

外に求めない。求めることを完全にやめる、あきらめる。あきらめたときに感じる”空虚感”を肯定する。

その空虚感も空虚だと思い込んでいるから空虚だと感じるだけ。それが外に依存していないごく普通の感覚であるということを受け入れれば、それは安心感に変わっていく。

外に自分の感覚をのばさなくていい。外にあるものに自分の感覚をつなげなくていい。

何物にも自分の感覚を依存しなくていい。常に自分の意思と感覚が中心にあり、自分がそれを使うことができるのだ。

それに気づいて、実践する。自分の感覚を自分で感じるということを。

それさえできれば、怖いものもなくなる。

怖いものというのは恐怖、不安の感覚と外にある何かを結び付けて感じようとするものだから。

そのロジックを紐解いてやめてしまえば、もう怖いものは存在すらしない。

恐怖で自分を突き動かさなくていい。

恐怖はもう捨てていいのだ。
恐怖を持っているから恐怖に支配される

恐怖を持っているから、他人にコントロールされてしまう。他人が怖いから承認欲求を求めてしまう。

消極的な承認欲求は恐怖が源泉だ。だから恐怖を捨てればこの欲求も必要なくなる。

それに正直なところ、恐怖という感情は、もうこの時代においては似つかわしくない感情かもしれない。

大抵の問題は文明の力で解決しているし、直接的な危機にさらされることは現代社会の日本にはほぼ存在しない。日常的にほとんどないのだ。

他の野生生物や野蛮な同族からの突発的かつ対面的な恐怖くらいしか効果的に機能しないこの感情は、あってもほとんど意味がない。

物質的に危険な仕事に携わっている人くらいか。

後はせいぜい娯楽でホラー映画を見るくらいだろう。

だからほとんどの場合において、恐怖という感情、認知はいらないのである。時代的に既に古い感情だ。

恐怖で自分を動かす必要もない。

他人を恐怖の対象としてみることなど、もう必要のないことなのだ。

もう他人を怖がらなくていい

「他人が怖い」

この認知の歪みをすてることができれば、すべての問題は解決するといっていい。

もう他人を恐怖の対象だと思わなくていい

悩みとは不快感や恐怖で構成されている。そして人間関係の悩みが人の悩みである。

手短に言えば、人が怖いことが人の悩みである、ということだ。

だからこの他人への恐怖という根源的恐怖の認知の歪みが修正されれば、悩みはほぼ100%解決するといっていい。

思考と解釈を別で感じることに慣れるまで繰り返す。

つなげて感じようとして不快感を感じていたらそれをやめる。

それを繰り返す。そうすると冷静に様々な現実に対処できるようになっていく。

別にすべての思考と感覚の組み合わせをやめる必要はない。

この思考と解釈の組み合わせはいわゆる「共感」という行為だ。対象を自分のことのように解釈して感じる行為が共感だから。

共感は自分が楽しもうとするときには最高のエンタメになる。

ただそれを不快感や恐怖の感覚と組み合わせたとき、それが永遠に解決することのないものに対して向けられてしまうとつらさから抜け出せずメンタルを壊してしまうというだけ。

だから恐怖や不快感といった、生きづらさとなっている思考と解釈の組み合わせを紐解いてやめるだけでも十分に効果を得られる。

自らが作り出した様々な恐怖の認知に気づき、それを解消していけばいい。そうして自分を楽にしていっていいのだ。

所詮人間は感覚の生き物にすぎない。

人は全て何かを感じようとして行動している生物にすぎない。その一つとして、思考と感覚をむすびつけて感じようとするやり方を、この社会の考え方や教育、仕組みの中で自身が学習して身に着けてきただけにすぎない。

これをすれば幸せ、これをすれば不幸ということは本質的には存在していない。
すべては何を自分が感じようとしているかだけでしかないのだ。

人間はそもそも、自身の感覚がなければ自分が存在していることすら知ることもできないのだ。

5感がなければ世界の一切を感じられず、

何も感じることができなければ一切の手ごたえも学習元の情報もなく、それは人間にとって存在していないのと同じことになるのである。

だから自身の幸福の問題において、思考などなんだってかまいやしない。しいて言うなら思考とは問題解決や世の中を豊かにする道具の作成など、生産的活動を行うためのツールとして使うべきなのであり、

自身を不幸にするために思考使う、つまり「悩む」のは究極の愚か者がすることなのだ。

そんなことはしなくていい。自分を苦しめるような自分の使い方は、もうしなくていい。

自分が楽に、楽しく使える方向に自分を使っていけばいいだけ。それだけのことだ。



アドラーの心理学を論理的に実践

アドラー心理学は実践が難しいとされる心理学だといわれています。

管理人が実際にアドラーの教えをもとに実践した内容の記事を残しております。

孤独 認知論
私の「甘え」うつ病治療


私のうつ病の主原因は「甘え」だった。甘美に感じられた「甘え」が私を苦しめていました。

そんな私が自分の甘えから脱し、

精神の安定、自由をつかむためにやったことをまとめています。


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承認欲求を捨てよう


承認欲求を捨てて「自分の人生」を生きよう


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人間孤独論


「人は生まれた頃から死ぬ時まで孤独である」

それを論理的に考える記事です。


孤独 認知論
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遊んだゲームのレビュー、攻略情報などなど


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自己紹介

Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

2 件のコメント

  • 自身の足で立ち上がり、自分の人生を改めて歩き出してからしばらくが経ちました。
    その中途、Elephant様のブログに最近立ち寄らせて頂きました。

    私は、孤独ら自分もや他人に対しての意識、又は無意識や理解?がまだまだ自分の目指す場所には到達しておりません。おそらく、こう何か意識的にゴールのあること自体、Elephant様の伝える真髄とはかけ離れていると思いますが、まだまだ迷い生きる者として質問御容赦ください。

    前置きが口説くなってしまい申し訳ありませんが、お聞きしたいことがあります。

    世にはサイコパスと呼ばれる人がおりますが、そのような者が長期間に劣悪に執着してきた場合、Elephant様であればどのように(いわゆる)対処しますか?
    答えはブログ記事を見れば全て解答して頂いているような気もしますが・・・すみません、改めてそのサイコパスという存在の腑の落とし方や、他人の意識に振り回されるがそれから脱したい者に対してご助言頂きたくコメントしました。

    • サイコパスというものにはあまり詳しくないのですが、何を言っても止めてくれないストーカーのような存在を想定してこたえてみたいと思います。

      まず物理的に害があるなら、物理的な距離を取ると思います。暴力をふるってくるとか、ナイフなどを使って脅してくるとか
      そういった明確な脅威からは逃げるか、警察などの公的機関を頼るか、他の力のある人を頼るか、あるいは自分自身を強くするか、でしょうか

      精神的な部分としては、相手の感覚や都合の上に生きようすることをやめていくことですね。
      「気にする」っていうことをやめて、自分の都合だけに集中する生き方に変えていく

      また別の記事で書こうと考えているのですが、
      感覚的には「他人がいる」っていう意識よりも「自分がある」という意識を使うようにしていく感じです。

      他人がいるから〇〇する、ではなく、自分があるから〇〇する、という他人軸の感覚から自分軸の感覚に切り替えていく感覚です。

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