「感覚」と「思考」分離して承認欲求から自分を解放しよう





思考は考えることとか、イメージすること。計算したり文章を考えたりすること。

感覚とは単純に思考とは関係なく感じる何か。言葉で完全な説明をすることが難しいただ感じるもののこと。

承認欲求はよく人の本能であるから、あらがうだけ無駄だ、という風に言われている。

大人しく受け入れろ、皆持っているから仕方がない。承認欲求とうまく付き合っていこう。という感じに、半ばあきらめのように受け入れようとしている人もいる。それはそれで別に構わないし、それについてああしろこうしろなどというつもりはさらさらない。

しかしここでは、承認欲求が人の本能なのかどうかについて、それは“半分は正しくない。”ということを主張したい。

そして、承認欲求を捨てることができないものであるということについても、正しくないことを主張する。

感覚”そのもの”、思考”そのもの”が人が最初からもっているもの。

「感覚」の部分、承認欲求という名前が指す何らかの感覚を感じている事実はたしかにその通りではある。感覚を感じている事実は本能のものだろう。生まれたときからすでに備わっているわけだから。

しかし、“承認された”という認知、つまり思考することで判明するものについては本能ではなく、生きてきた中で自身が身に着けてきたもの、解釈の一つであり、つまり2次的なものである。

思考そのものは同じく本能かもしれない。思考の仕方を誰かに教わらなくても基本的なところは最初から備わっているわけだから。

が、思考する”内容”については各個人の目的によりけりであり、後付けで得たものでしかなく、本能ではない。

この記事ではその詳細について、承認欲求を構成している「感覚」と「思考」について説明していく。

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人は感覚と思考をセットでとらえ、感じようとする生物である

例えば「うれしいこと」というものがある。

○○されてうれしい、とか○○があってうれしいというものだ。

これは「うれしい」という“感覚”と、「うれしいこと」という“解釈”のそれぞれセットであるということである。人はこのように思考と感覚を使って思考したり行動したりしながら生活をしているのだ。

「…ん?ちょっとまった、もしそれが人の本質なのであれば、承認欲求を求めることも同じ話なのでは?」

「つまり、人は承認されたと思考したとき、快感を感じる生物である、ということも言える、そう説明しているだけなのではないか」と。

と思われた方がいるかもしれない。

しかしそれについては全くの間違いであると断言する。

間違いというよりは、問題の争点はそこではないといったほうがいいかもしれない。

それを説明するために、人は常に同じ思考と感覚のセットを使い続けるようにプログラムされた生物ではないということについて説明していく。

ある感覚と思考のセットは”定的”ではない。

どういうことかというと、常に同じ事象をまのあたりにしたり経験したりした時、常に同じ感覚を抱くわけではないということである。

具体的な例で説明してみよう。

自身がゲーム好きで、「誰かが自分が好きなゲームの話をしているのを聞くのが好き」だとする。

ゲームが想像しにくければ他の物に置き換えてくれてもかまわない。好きな芸能人でも好きな化粧品でもなんでもいいだろう。

まず最初のケース。友人と公園でぶらぶらとおしゃべりをしているときに、好きなゲームの話をしたら、と想像してどう感じるだろうか。

きっと自然に「楽しいな」と感じるのではないか。この場合は「誰かが自分が好きなゲームの話をしているのを聞くのが好き」ということについて事実であると考えるのは自然である。

では次のケース。場所が会社で、仕事中であり、かつ話している相手が職場の後輩だとしたらどうだろうかか

自分が上司であり、後輩が仕事中にゲームの話をしたとして、それは楽しい状況なのか、そうしているのが好きなのかどうか。

納品物の締め切りが今日中だといわれていて、その後輩がその成果物を作っている最中にし始めたらどうか。それでも自分は常に「楽しさ」を常に同じように同じ感覚で感じるだろうか。

無駄話はいいから仕事に集中してくれ、と思うのではないだろうか。

条件を先ほどの公園に戻して別のケースを考えてみよう。友人が自分の話を常にさえぎり割って入るように自分の話ばかりをする形で、好きなゲームの話をしていたらどうだろうか

鬱陶しい、うざったいと感じるのではないか。

またさらに次のケース。好きなゲームの話には違いないが、以前何度も聞いた同じ話をきかされていたとしたらどうか。

おいおいまたかいい加減にしてくれ、と辟易するのではないか。

また別の視点で考えてみても、そのとらえ方は全く変わってしまうことは容易に想像つく。

例えば、その時の自身の体調や気分によっても感じ方は違うはずである。おなかが痛くてたまらないときなら、楽しい話もかすんで聞こえてくるだろう。一刻も早くトイレに駆け込みたい一心のはずだ。

つまり、「こと」と「感じる何か」というある解釈のセットは、常に定的に作動し、定的な効果を発生する(感覚を感じる)ことを定義するものではない、ということ。

定的な「うれしいこと」というものはこの世に存在せず、そんなものはその時の自分の都合や解釈と目的次第でしかないということ。

その時の環境やほかの要因を自分が分析し、それに応じようと自身が思考して感じようとしているだけ、

つまり全ては自分がそのように見ているという話である。

この法則を承認欲求にも当てはめてみると…

つまり承認欲求とは、ただの感覚と思考のセットを基底に自身がこれまでの人生の中で膨大に実装してきた解釈のうちの一つにすぎない、という話なのである。

(ではなぜ、承認欲求だけがこんなにも苦しく、かつ捨てることが難しいのか。それについての説明も部分的には他記事で書いていますが、要点としての記事はまた書こうと思います。)

つまり、人間とはある感覚と思考のセットの実装が最初から備わってできているといるのではないということ。

後天的に自身がそのように感覚と思考のセットの中身を実装しているということ。

つまりは、自分がそう思い込むようになったというのが正体なのである

承認欲求について具体的な例でもう一度考えてみよう。

どんな人からでも褒められさえすれば同じように気持ちがいいと感じるだろうか。

自身を承認してくれた人が自分よりも年下の子供だったらどうか。あるいは権力と権威をもった有名人だったらどうか。

嫌いな人だったらどうか。好きな人だったら。

自分を承認した人物が違うだけでも、感じ方は全く違うのではないだろうか。

であればやはり感覚と思考はその内容について定的に定められたものではなく、
自身が自身の目的によって定めている可変性のものであると。どのような時にどのような対象、自称に対してどのような感覚をそこで使うかを選択しているという、自分の意思、目的が決定しているということの証明なのである。

人間は常に誰かに承認されれば常に同じ感覚を感じるというように“作られては”いないのだ。

自らがそう自分を作り上げたのである。

自分がどこに、何に対してどう思考し、自身の感覚の何を求めて行っているのか、という一連のフロー、システムがあるというだけ。

それを基本として承認欲求という思い込み、実装を自分が作っているだけにすぎないのだ。

フローの中身を変えていくことで承認欲求を脱しよう

この一連のフローはおそらくほぼ変えることはできない。人間の認知特性、認知行動そのものを変えるのはおそらく不可能か、相当に難しい問題となるだろう。

いわゆる、人間が生まれ持った本能というものだ。機能といったほうがいいかもしれない。「感覚と思考をセットにして使っている」という部分の”システム仕様”については変えることはできない※

(※ひょっとしたらこれすらも思い込みなのかもしれないが。だがおそらく現代に生きる人間のほとんどがこれを無意識的に実行しているであろうことは、ただの一人の人間でしかない私の観察(印象)からではあるが、ほぼ確定的に人間に備わっている機能だと断定してもいいものであると思われる)

が、そのフローの“中身”については自由である、ということである。

その中身、つまり自分がどう思いこむのか、このフレームの中でどのように思考と感覚のセットを”実装するのか”という点においては自由である、ということなのである。

感覚と思考の組み合わせの内容は定的なものではないということについては上の段落ですでに説明している。

これの意味するところは、感覚と思考の組み合わせの内容は別になんだっていい、ということである。組み合わせる内容については人間という仕組み、システム的に決められているわけではないからである。

つまり、誰かに承認された、という認知、思考をしなくとも、同じ感覚を感じることができる、ということだ。5感から直接感じる感覚を除き、人の精神的な感覚、いわゆる自己肯定感、否定感、安心感などにおいては自分の思考と自由に結びつけることができる、というわけである。

つまり精神的感覚は全て”自足”できる。

肯定感や幸福感といった、自身の精神が発端となる感覚というのは他者から直接感じさせられたり、5感で感じるものなんかではない。

全て自分自身だけで自足している感覚である。

自らの意思に関係なく勝手に感じたり、特定の事象に対して定的かつオートマチックに感じているものではなく、自分が”ある何かに”たいしてある感覚を感じようと計画し、その結果を観察してその結果に合わせて実際に感じてみせているものにすぎないのである。

思考と感覚の組み合わせを自分で自由に定義できるようになることが幸福の近道

人の幸福や不幸とは結局のところ、自分が今どういう感覚を感じているか、感じようとしているかということに帰結する。

いくら金があっても不幸な人は不幸だ、という解釈があるように、人の幸福感というのは当人がどう感じているかというだけの話でしかない。

つまり幸福とは外に存在する何らかの概念、富や名声といった形あるもののことなどではなく、幸福の正体とは安心感や肯定感といった感覚のことでしかない。

つまり不安を感じていない状態のことを指しているというだけにすぎないのだ。

逆に不幸とは不安、不快感を感じ続けている状態である、というだけの話である。

つまり、この感覚と思考の組み合わせをしている自分自身に気づいていくこと、気づいたものの中から自身が不幸な感覚を使っている認知を変えていくことが幸福への糸口になるということである。

しょせん人間は感覚の生き物にすぎないのだ。

これをすれば幸せ、これをすれば不幸ということは本質的には存在していない。よくて5感の中で不快な感覚を感じ続けているとかくらいだろう。それでも案外気の持ちようである程度何とかなってしまうところもあるあたり、やはり人の幸福というのはここに帰結するのだ。

5感がなければ世界の一切を感じられず、精神的感覚も何もなければ行動することも思考することもできない。そんな形のない感覚に自身の存在を依存している存在が人間というものなのである。

自身の幸福の問題において、思考などなんだってかまいやしない。しいて言うなら思考とは問題解決や道具作成など、生産的活動を行うためのツールとして使うべきなのであり、自身を不幸にするために使うのは愚か者がすることなのだ。

幸せになることは実に単純で、「どう感じるか」でしかない。それだけだと知っていれば十分だろう。単純に考えるようになればおのずと幸福はやってくるだろう。

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