従属欲求を捨てて承認欲求を捨てる。





承認欲求は本能ではない。

本能とは生まれもった最初から持っているもののことを示す。自身の感覚というものも、その一つであろう。5感をはじめとする感覚や、自身の意識などの思考せずともただ感じている感覚のことだ。

承認欲求は最初から持っているものではない。感覚だけでなりたつものではない。自身の思考によって自らが作った認知、解釈と感覚の組み合わせで構築された思考形態という道具である。

明確なロジックが存在しており、後天的に獲得したものなのだ。

そのロジックは日々の生活の中の学習によって培われたのである。

この記事では承認欲求のロジックについて、そして問題となるロジックはどこなのかということについて話していきたいと思う。

承認欲求とはある二つの要因の組み合わせで成り立つ思考構造である。

まずは承認欲求の構造的な説明から入りたいと思う。この欲求は大きく分けて二つの認知解釈の組み合わせでなりたっている。

1.ある対象を恐怖とする認知

2.ある対象にいだいている恐怖を解消したい欲求

この二つの組み合わせにそれぞれの対象が「他者への承認」であることが承認欲求の構造になる。

他者にどう思われるかを恐怖と認知してから、その恐怖に対して他者への直接的ないしは間接的アプローチを行い、解消するまでの一連のプロセスが承認欲求、ということである

この思考は本人にとって無自覚であることがほとんどだと思われる。

なぜ気づけないのかというと、この思考形態が恐怖という感覚と組み合わせて作っているという点にある。他人の目を気にしているとき感じている感覚はなんだろうか。それを思い出してみればわかりやすいかもしれない。

恐怖などの自身の生命の危機を感じるような強い感覚を伴う思考形態は、感覚的に「本能である」と解釈してしまいやすく、それ以上踏み込まないからである。

というように、承認欲求は本能であるという解釈が行われるのはこの気づきにくさ、気づくのに時間がかかることにある

「承認欲求は本能のもの」である、という解釈をすること自体はそれほど妙なことではない。感覚的に何となく答えればそのような答えが出てくるのはほぼ必然的といえる。

メタ認知を繰り返し行い、自身の無自覚な思考に気づいてようやくわかるからである。自身の認知の歪みに気づくには、日々それに対する自らの意識的な取り組みが継続的に必要だ。

自身を変えるにはまず「自身の何を変えるべきなのかを自分で知る」必要がある。そのためにメタ認知は非常に重要になってくる。が、この記事のテーマとは違うため割愛する。

なぜ他者の承認を”畏怖”してしまうのか

そもそも論でも考えてみよう。冷静に考えてみればこの思考形態は現実と全く釣り合いが取れていないように見える。

まず他者にどう思われたかといって、別に自分の生活が一変してしまうわけではなく、このご時世別に食うに困ることもないし、友人がいなくとも死ぬことは全くない。

仕事で周りの人間全員から嫌われたとしても、勤めていれば給料は毎月でるし、いやなら別に転職してしまえばいいだけのこと。

にも拘わらずおおげさかつ強烈に「恐怖」を自ら感じて、かつそれに「耐える」という行為までして、自分を不快感のどん底、つまり「不幸」にさらしつづけてしまうのはなぜなのか。

なぜここまで自身を焦がそうとするのか。焦がしたところで得るものなどほとんどないのに。

それは、幼少期の親子関係における人間関係の形の刷り込みをずっとひきづっていることが原因なのである

「いうことを聞かないと…」

「家を追い出すぞ」、「ぶつぞ」、「ベランダに追い出す」、「ご飯つくってあげない」

承認欲求が強い人の中には、親からこういった叱られ方をしたことがある人は多いのではないか。子供にとって自身の生命維持に直結する危機、恐怖につながるような叱られ方をした経験のことである。

親にそう脅されると、子供は「ご飯を食べられなくなるなんて絶対嫌!」「外で一人で暮らすなんてできなるわけないよ!」という解釈と共に、強烈な恐怖感や不安感、拒否感として感じるわけである

暴力の場合はもっとわかりやすい。単純に痛みが怖いからである。それも自分よりもずっと大きな大人にぶたれるのは子供にとってとてつもなく恐ろしいことなのだ。何せ自分の何倍も大きい。はっきりいって巨人レベルである。

暴力をふるった本人たちはなんともなくても、打たれる本人は相当な恐怖を感じているのだ。

親は親で、親の思う基準に達しなかったり、単純に気に入らないことをしたりそのような言動をとったりしたときは、強く叱りつけたり、前述の罰を与えたりする。

反対に都合よく振る舞ってくれれば、子供をいい子だと思い込んで可愛がり、褒美をあげたりする。

そんな一連の子供の行動の根底のすべてが親である自分に対する畏怖からくるものであると知らず。

傍目では「誰かにかわいがられることを喜ぶ関係性」のように映ることもあるだろうが、一見健全そうに見えてその本質は、対象に対する恐怖がその根底にある歪んだ関係性なのだ。

そして親と子という狭い世界における関係性において、両者がこの問題に気づかずに過ごすため、問題は常態化していく。

互いにそれしか”世界”を知らないからである。ものの見方というものをそれしか知らないから問題視もできず、歪んだ解釈だけが構築されて行ってしまうのだ。

親子関係の構築に発生する歪み

そういった様々な恐怖体験を親子関係の中で構築していくと、それが親に対する恐怖と義務の関係性でなりたつものになっていく。

やがて子供は親を「恐ろしい存在、歯向かってはいけない存在」と畏怖するようになっていく。親という畏怖から自身の安全の確保のために親の都合の良い人間、つまりいい子を演じるという生き方を構築していくようになっていく。

ジャックと豆の木という物語をご存じだろうか。子供がジャックで、親が巨人という風に想像してみるとその関係性はわかりやすいかもしれない。

「素直になってはいけない、わがままを言ってはいけない。」自分が感じたことに素直になることが悪いことであるという感覚、意識をこの時点で自身に刷り込んでいく。

自身の所属する家庭という小さな社会の中で、自身が生き残るために。

このような特徴から、承認欲求は生存欲求の一種ともとらえることができる。

自分が生き残るための欲求。「楽しく生きる」ではなく、「生き残る」ためである。次元が違うのだ。周りにある危険から身を守るための思考形態だ。

この関係性の構築の中で子供は「自分は誰かに従わなければならない」という従属欲求という思考形態を構築していく。親だけでなく赤の他人にまで同じような関係性を結ぶようになる。

こうして自信が喪失していくのである。無気力にもなっていくかもしれない。自信が持てないのは、このような他者や社会といった外にあるものに対する義務解釈が元だ。

外にあるもののために自分の感覚に犠牲にし、素直にならないことが、自信の欠如なのである。

そしてこれが習慣化されていくことで人目を気にし、八方美人で自分がない空っぽな「奴隷」が出来上がってしまうのだ。

「誰かの言うことに従わなければならない」という思い込みが承認欲求を生む

前述したように親子関係の中で培った、子供が自身の生き残りをかけた「生き方」なのである。生存戦略といってもいい。

そしてこのような形で他者との関係を構築することが当たり前になった子供は、親以外の他者にも無意識的にこの形で関係性を結ぼうとするのである。

理由は、それしか人間関係の構築方法を知らないからだ。

相手に気に入られることで人間関係は構築される、という世界の見方しかしらない。

それが全てであり、他に思いつきようがないのである。

ゆえに、人間関係を結ぼうとしようとした時点で、自身を奴隷にせざるをえない。

この人間関係の構築方法に起因した問題は成長するごとに顕著化していく。特に思春期以降に現れてくる。中ニ病などは典型的な症状の一つといえよう。

幼いころはまだマシな方であるケースが多い。幼小中学校というのはクラスメイトは大抵は似たような価値観の範疇の人ばかりである。

活発な子や大人しい子という差はあるものの、自己の確立が未成熟段階であるため、個性もそれほど現れにくく、何より自覚的でないからである。相手に好かれたい、ということについてそこまで深く自覚的でないからだ。

しかし高校大学と進んでいくと、自己の成熟が始まり、自分のはっきりとした価値観や考え方、ものの見方が構築されていく。

相手に好かれたいよいう欲求はこの時点でかなり自覚的に、かつ強くなっていく。このころから他者と自分の関係をよりはっきりと「上下の関係」で見るようになっていく。

このころから、価値観の違う他者との関わる機会が増えてくる。

そうなると場合によっては激しい嫌悪感を感じたり拒否感を感じるようにもなる。

例えばバイト先でどうしても会わない人と一緒に仕事をする機会ができればおそらく非常に強く悩み、嫌悪感と不快感を感じることになるだろう。

理由は相手に自分が合わせられず、気に入られないことに対する強いコンプレックスだ。他者に従属することで自身の生きる場を確保できてきたのに、それが急にできなくなってしまったことに対する声明の危機感である。

よって、そんな他者との何らかの共同作業を長時間繰り返し行う必要がある環境にされされると、その場にいること自体が苦痛になってしまい、かといって自身を素直に他者に表現することも怖いため、相談もできず、結果内にため込むようになってしまう。

こうして人間関係の悩みは年を取る毎に大きくなっていく。社会に出始めるとさらにその問題要因は増加していく。

社会というのはこれまで同世代にしか囲まれていなかったのが、一回りも二回りも違う人間ともかかわることになる。

さらに顧客という社外的人間など特別扱いしなければならない、といった解釈をするような対人関係性には強い恐怖を抱くようになっていく。

ゆえに挑戦することが怖く、上に行きたい、出世したいという意欲も消えていってしまう。挑戦=リスクになってしまうのだ。

ジェネレーションギャップの弊害

ジェネレーションギャップが深刻な問題になることも考えられる。

同世代と違い、趣味も価値観も考え方も全く分からない。

相手のことが全く”わからない”。これは承認欲求を求める人にとっては死活問題だ。自分の生きる場所にかかわる問題ほど強烈なものもない。

そういった要因から強く不安を感じたりストレスを感じたりするケースもあるのではないかと思われる。

その結果相手の承認をかつてないレベルで必死に求めることになることもある。相手のことはわからないが、唯一仕事をちゃんとやれば褒めてもらえるだろうと。

彼らに褒めてもらえる方法として唯一思いつく方法がそれだった場合、仕事を要求以上に仕上げて認めてもらおうとして、相手の都合に合わせた注目の集めようとする

自分に無理をしてでもしてしまう。自分を脅すように。結果いいように使われて体を壊したり、できなかったりしたときは自己嫌悪で自分を責めるようになっていくかもしれない。

と、このように、承認欲求はこじれると、そのほとんどを苦痛の中で過ごす欲求である

そもそも承認欲求を満たすのは純粋な快楽ではなく、どちらかといえば錯覚に近い解釈である。

「自信に不安の種を仕込んで、それを解消すること」を快感だと感じているだけにすぎない。ようは、危険から解放されて安心したという感覚を快感だと錯覚しているだけ。

この思考ロジックのまま生きていくのも別に「悪いこと」ではない。自分がそのままでいいというのならいいのだろう。

それで社会でうまく生きることができている人もいる。そもそもそんなに気にしていないのかもしれない。

とにもかくにも、人の人生に正解はないからだ。

しかしこの思考が原因で苦しんでいて、これから解放されたいというのなら、例えば私のようなかつてこの思考に支配されて苦痛の中ですごし、ようやくそれから解放された人間から、以下の助言ができると思うので聞いていただきたい

「従属しなくていい」と自分に許可する。

「従属しなければならない」という思い込みを捨てて、楽になろう

さてこの解が、この記事のテーマの根幹である「問題となるロジック」である。他者に対する従属の義務の思考が承認欲求にとらわれるクリティカルな思考ロジックだ。

他者に対する従属に何らかの形で失敗し、義務を果たせないことを理由にして、自分が苦痛を感じているのである。

そしてその失敗に苦痛を感じる理由は、義務を果たせなかったことに対する罪の意識、義務感、思い込み。

そして義務を果たすことで得られると考えていた「他者の承認による自分の安全の保障」という思い込みだ。

実際のところ、他者はそんなもの保証しちゃくれないのである。義務を果たしたところで、それは自分の勝手な思い込みにすぎず、他者は他者の都合で自分を使ったに過ぎないのだ。

そして罪の意識も、自身の単なる思い込みであるということに気づくことで、

従属することに対する価値を0にすること。「従属しようとする自身の思考」を捨ててしまえばいいのである。

日常生活の中で様々なタイミングで顔を出す「他者への従属」の思考。

その思考をしている自分に気づいたり感じたたとき、それをやめてもいいと自身で気づき、その場で放棄する。

それを日々繰り返していく。そうしていく中で自身の中に安心感を感じられるようになると、自身が他人を使って恐怖を作り出していたということを自覚できるようになっていく。その気づきこそが、他者を自分から切り離すことにたる理由、糧になっていくのだ。

「なんだ、他人なんて気にする意味なんかないじゃないか」

と、思えるようになっていく。

他者は自分の人生と最初から何の関係もない。親であろうがなんであろうが同じことだ。

親も自分以外の人間、他人にすぎないのだから。他者に従属する意味も必要性も、自身が生きている事実には何ら干渉してなどいないし、できない。

そうして自身を他人から解放していく。自分の感覚は自分の感覚だけで完結していることに気づき、自分が自分の感覚を使って生きていけばそれで充分だということに気づいていくことができると思う。

おそらく、AC、承認欲求、そのほかの不安障害にもおそらく有効な認知修正であると思われる。

外にある何かに自身の生きる価値を見出したり、危険があると思い込むことがこの問題の本質ではないかと私は推測している。

私自身、かつてAC、承認欲求、社会不安障害(パニック)持ちであったが、それはすべて完治した。

人生のとらえ方は、シンプルであればあるほど生産的だ。自身の感覚だけで幸福を完結してしまえば、悩みなどなくなってしまうのである。

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約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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