「常に相手の言うことを聞かないといけない」
そんな義務感。
「親、教師、上司など「目上」の人間の言うことに従わなくてはならない」
人によっては、身近な友人にすら、そう感じているかもしれない。
そんな必要はない。自分の心、人生までを相手に従わせる必要はない。
どんなルールにも”自分の心を従わせる”ような強制力などない。
従うというのは、なんらかのルールに従う、ということである。
そのルールとは例えば他人の言い分だったり、何かの規約だったりとその形は様々だ。
会社や学校、交友関係上にも、してはいけない、すべきじゃないという暗黙の決まりごとみたいなのがある。
会社では明確な就業規則というルールに、社会通念的な上下関係というものもある。
上司と部下、課長、部長、社長など、それぞれの役職ごとに役割というルールがある。
しかしルールは悪魔でルールにすぎず、自分の在り方でも人生でもないのだ。
ルールで決まっているから、では自分の人間性や価値観までそのルールに従わなきゃいけないということなどない。
自分の在り方を従わせるルールなどどこにも存在しないのだ。
ルールは神様じゃない
そんなルール達はすべて人間が決めたもの。そのほとんどが他人が決めたものだ。
他人の化身のようなものである。
他人は神様じゃない。自分と同じ人間だ。
自分と同じように間違い、迷い、それでも生きている。
ルールとは、そんな存在が決めたものだ。
だからそのルールが”絶対に正しいことを言っている”という保証はどこにもない。
ルールは神の啓示でもなんでもない。ただの他人の作った決まり事、
そんな他人の作ったものに、自身の身も心もその都合に染まり切らなきゃいけない義務などないのである。
ルールは形を変える
そもそもルールはコミュニティ毎に異なる。
絶対的なものなど存在しない。
だからいくら守っても、例えばそれで自分が「真っ当な人間」であることは保証されないし、
守れないからダメ人間、なんてこともない。
国ごとに法律も価値観も宗教観も違う。会社ごとに就業規則も社内ルールも違う。
ルールは厳密なようで全然厳密じゃない。常に例外は発生するし、そのたびにその時の都合で改定されていく。
国の法律もみんな、いろんなところでルールは常に書き換えられている。
人間が決めることなどというものに、真実などない
もし真実が在ったら、書き換える必要などないから。
だから自身が所属するコミュニティでそう決められているからといって、それが本当に”正しい”のかといえば、それを保証するものも何もない。
人に真実は見つけられない。選択することしかできない
神ような絶対的存在ではない人にできるのは、何をどうしていくかを選択するかということだけだ。
そうやってルールは改定されていく。身勝手なものである。
人に正しいことは選べない。
“正しいこと”、というのは過去に対してつける“印”のようなもの。
あとであれは正しかったとか間違っていたとか、振り返りの中で定義されていくものでしかない。
“今”自分が何を選択するのか。それに対しては判断することができない。
選んだ結果があるだけ。
全ては過去形なのだ。正しかったのか、間違いだったのか。なのである。
人によって定義がバラバラ。
それに、何を正しいか間違いとするか印をつけることも結局人次第で変わってしまうものなのだ。
コミュニティによってルールが変わるなら、人それぞれが思う正しさや間違いなんて言うのも変わる。
そしてそこに真実などない。
ただそれぞれ選択の連続がある。
それぞれのいろんな都合がひしめき合い、その平均値のようなものがルールなのだ。
他人の”脅し”に価値はない
「ここでやめたらこの先苦労するぞ」
「上司は尊敬するもの」
「俺は偉いんだぞ従え」
「親は敬うもの。それができない子供は親不孝」
自分がそうしてきたから間違いない。それが彼らの理屈。
でもそれは彼らの人生の上での答えで、しかも過去のことでしかない
お前のためだぞ、なんてよく言うのだが、全部自分のためである。その方が当人にとって虫がいい、落ち着くからである。
単に仲間が欲しいから言っている。自分と同類が欲しい。
“お前が俺の同類になれば俺は正当化される。”
そういうことを無意識的に感じて衝動的に言っているだけに過ぎない。
人の行動は全て”目的”があるのだ。”真実”があるのではない。
全て当人の”ある目的”を達成するために、人は行動しているだけなのだ。
ゆえに他人に”正しさ”をもとめること自体ナンセンスなのである。
それは自分で見つけるほかない。
だから他人に従わなきゃいけない、そのために他人に好かれていなきゃいけない、という思い込みは、捨てていいのだ。
「人の言うことをきかなきゃ」という”義務感”。それは幼少期に頃に刷り込まれただけ
それを知っても他人に従わないといけないと感じてしまうのは、幼少期の頃の教育による刷り込みにある。
自分で自分の人生を選択することが怖い、できない。そういったものは全て教育によって刷り込まれた思い込みに過ぎないのだ。
「いうことを聞かないと…」
「家を追い出すぞ」、「ぶつぞ」、「ベランダに追い出す」、「ご飯つくってあげない」
親からこういった叱られ方をしたことがある人はそれなりにいるのではないか。
このような親の権力をかざした叱り方は、子供にとっては毒、死活問題になる。
食料の確保に対する危機、痛みなどの自身の生命が脅かされるなど、生命維持に直結する危機、恐怖につながるようなもの。
自分ではどうしようもない圧倒的権力による罰をちらつかせられ、親の従属物としてふるまうように強制させられてしまうような叱り方、しつけ。
親にそう脅される形の教育をうけると、子供は「ご飯を食べられなくなるなんて絶対嫌!」「外で一人で暮らすなんてできなるわけないよ!」という解釈と共に、強烈な恐怖感や不安感、拒否感といった、安全の欲求を渇望することとなる。
恐怖によって深く刻み込まれる認知の歪み
そういった制限、暴力をふるった本人たち、親たちは多分覚えていない。しかしされた本人はその相当な恐怖を覚えている。
安全の欲求に関連する経験はよく記憶に残る。感覚に残るといったほうがいいか。
俗に言ういじめた方よりもいじめられた方がいじめられたことをよく覚えているのは、そのためだ。
そしてその経験が幼少期の頃のメインとなってしまえば、その経験を基底にして成長していくことになる。やがてそれは親意外の他者に対しても同じようにふるまうようになり、結果他者に対して身構える形でかかわることが普通になっていく。
知らない人に対して常に億劫になってしまう。友人も自分から声をかけてつくることができなくなる。
常に受け身的になり、相手の出方をうかがう形で関係を作ろうとするようになる。
そして子供はそういった他者という脅威から自身を守るために、その相手によって都合のいい自分を演じるようになっていく。
やがて行動のすべてが他者という恐怖によって突き動かされることになり、主体性が消えていく。
他者の恐怖、他者の都合をきっかけとしてでしか自分を動かすことをしらないし、何より自分の都合で行動する必要性を”感じられなくなる”。恐怖で自分を縛ってしまう。それ以外の行動をすることを他者の意に反するとして、自身を制限してしまう。
そしてそんな都合よくふるまってくれる子供を、親は自分にとってかわいい子、いい子、手のかからない子と評し、褒美をあげたりする。
この自分の都合を満たしたということを起点に、褒美を与えるという行為。これが「飴と鞭」「賞罰教育」である。
この教育は、子供を従属させるのに最も効果的な教育、いや洗脳である。
これによって他人軸な自身の生き方が作られる。
「他人に支配される自分」がビルドされていくのである。
賞罰教育によって主体性は失われ、他人に飼いならされるように
主体的に行動する意味がなくなる。
他人の都合を満たすことで、”安全という報酬”が得られると思い込んでいるからである。
その場所にいていいかどうかの不安、将来の不安、何をどうすべきかという選択を、全て他人が担保してくれる。
他人の言うことを聞けば間違いない。そう固く思い込んでる。
だからこれを手放すことができない。生きるための担保を手放すようなものだから。
長い時間をかけて作り上げた「生き方」、「生き残り方」であり、それを手放すということは生き方そのものを失うということになってしまう。
だから怖い。自分で決めて行動するということが。。
この認知によって、他者に依存してしまう。
他者がいなければ安全の欲求が満たされず、生きていくことが困難になると思い込んでいるからである。
「一人で決めるのは怖い。それでは生きられない」と。
結果、「したい」という思いより、「されたい」という思いが勝ってしまう。
相手から「されること」、従属した代わりに得られる”アメ”という報酬にありつくために、相手の都合に従う従属を選んでしまう。
だから自分の人生を生きることが難しくなる。
そしてこの生き方をするからこそ”認知の歪み”はどんどん積み重なっていく。
自らを犠牲にしてアメを欲しがり続ける限り、歪んだ認知は積み重なってしまう。
承認欲求は年を重ねるごとに苦しさの方が増していく
前述したようにこの従属思考は自身の親子関係の中で培った、自身の生き残りをかけた「生き方」、
人生は他者の手によってゆだねられているという、他者によって生きるか死ぬかが左右されるという環境に生きているととらえた、依存的な生存戦略のようにとらえた人生である。
このような形で自身の人生をとらえるようになった子供、他者に従属することが当たり前になった子供は、それ以外の人間関係の構築の仕方をしらない。
結果、親以外の他者にも無意識的にこの形で関係性を結ぼうとする。
相手に気に入られることで人間関係は構築される、という世界の見方しかしらない。
それが全てであり、他に思いつきようがないのである。知らないし、知りようがなかったのだから当然だ。
ゆえに、人間関係を結ぼうとしようとした時点で、自身を奴隷にせざるをえない。
この人間関係の問題は成長するごとに顕著化していく。特に思春期以降に現れてくる。中ニ病などは典型的な症状の一つといえよう。
幼いころはまだマシな方であるケースが多い。幼小中学校というのはクラスメイトは大抵は似たような価値観の範疇の人ばかりである。
活発な子や大人しい子という差はあるものの、自己の確立が未成熟段階であるため、個性もそれほど現れにくく、何より自覚的でないからである。相手に好かれたい、ということについてそこまで深く自覚的でないからだ。
しかし高校大学と進んでいくと、自己の成熟が始まり、自分のはっきりとした価値観や考え方、ものの見方が構築されていく。
従属思考から生まれる「相手に好かれたい」という欲求はこの時点でかなり自覚的に、かつ強くなっていく。他者と自分の関係をよりはっきりと「上下の関係」で見るようになっていく。
またこのころから、価値観の違う他者との関わる機会が増えてくる。同じくほかの子供たちも自己を確立し始めるからである。
そうなるとその相手によっては激しい嫌悪感を感じたり拒否感を感じるようにもなる。
例えばバイト先でどうしても会わない人と一緒に仕事をする機会ができればおそらく非常に強く悩み、嫌悪感と不快感を感じることになるだろう。
理由は相手に自分が合わせられれないことが自身にとって死を意味するようなことであるからである。
それがどんな人間にせよ、「気に入られないこと」という事実に対して、とてつもなく強いコンプレックスを感じてしまうのだ。
健全な認知を持つ人であればそういう人とは単純に接点を減らすだけで済む。決して自分を責めることはない。責める必要がない。
自立した思考をもっていれば、誰が自分のことをどうとらえていようが何も変わることはないからである。
他者に従属することで自身の生きる場を確保できてきたのに、それが急にできなくなってしまったことに対する声明の危機感がそうさせる。
よって、そんな他者との何らかの共同作業を長時間繰り返し行う必要がある環境にされされると、その場にいること自体が苦痛になってしまい、かといって自身を素直に他者に表現することも怖いため、相談もできず、結果内にため込むようになってしまう。
こうして人間関係の悩みは年を取る毎に大きくなっていく。社会に出始めるとさらにその問題要因は増加していく。
会社に就職すれば、これまで同世代にしか囲まれていなかったのが、一回りも二回りも違う人間ともかかわることになる。
さらに顧客という社外的人間など特別扱いしなければならない、といった解釈をするような対人関係性には強い恐怖を抱くようになっていく。
ゆえに挑戦することが怖く、上に行きたい、出世したいという意欲も消えていってしまう。挑戦=リスクになってしまうのだ。
年齢を重ねれば重ねるほど”かわいがられなくなる”
歳を取れば取るほど。人は可愛くなくなる
可愛いというのは、幼さである。だから歳を取れば、それに応じて子供扱いもされなくなっていく。
つまりだんだん守られなくなる、他人に加護を受けなくなるということ。
それはつまりだんだん相手にされなくなっていく、ということである。
年を取ればとるほど、自分で自分の心の面倒を見ることができないと、つらさは増していく。
若いころなら見た目でちやほやされても、年を取れば見向きもされなくなる。
それでも同じものを求め続ければ、それはどんどん歪んでいく。
いわゆる「老害」といわれてしまっている人たちは、そのようにして承認欲求をこじらせてしまった人たちなのだろう。あのように乱暴に、粗暴にふるまって、他人に文句をふっかける。
自分の言うことが正しい、最近の若者は間違っている、などと自分の価値観を正しいとして押し付けるようにふるまう。
あのようにすることで、自分の自尊心をたもちたいのかもしれない。誰かに認められたいのかもしれない。
承認欲求をかかえたままだと、何れそんな人生を送る羽目になるかもしれない。
たとえ自分がそれを”したいと思わなくとも”、”されたい”という思いが自分にそうさせてしまうように。
「従属しなくていい」と自分に許可する。
従属思考は捨てていいものである。親にそう植え付けられただけ。子供の頃にそう思い込むことになっただけ。
従属しなければならないことなどない。すべては等しくただの人間にすぎないからである。
それを踏まえて、この従属思考を捨てていこう。
「従属しなければならない」という思い込みを捨てて、楽になろう
他人に嫌われたり批判されたりするのがつらい、怖いのは、他者に対する従属に何らかの形で失敗し、義務を果たせないことを理由にして、自分が苦痛を感じようとしているからである。
そしてその失敗に苦痛を感じる理由は、義務を果たせなかったことに対する罪の意識、義務感、思い込みによって自分にそう”演じさせている”だけなのだ
そして義務を果たせば「他者の承認による自分の安全の保障」が得られると思い込んでいるからこそ、渇望するのである。
実際のところ、他者はそんなもの保証しちゃくれないのである。義務を果たしたところで、それは自分の勝手な思い込みにすぎず、他者は他者の都合で自分を使ったに過ぎないのだ。
そしてそんな保証すら、実際には何もいらないのである。保証がいると思い込むこと自体が、自身の単なる思い込みであるということに気づけばいい。
他者に心を従属することに対する価値を0にすること。「従属しようとする自身の思考」を捨ててしまえばいいのである。
日常生活の中で様々なタイミングで顔を出す「他者への従属」の思考。
その思考をしている自分に気づいたり感じたたとき、それをやめてもいいと自身で気づき、その場で放棄する。
それを日々繰り返していく。経験していく。そうしていく中で他者に頼らなくとも自身の中に安心感を感じられた、という経験ができるようになると、自身が他人を使って恐怖を作り出していただけだったいうことを客観的に自覚できるようになっていく。
その気づきこそが、他者を自分から切り離すことにたる理由、糧になっていくのだ。
「なんだ、他人なんて気にする意味なんかないじゃないか」
と、思えるようになっていく。
「相手に気に入られることをしなきゃ」なんて、思わなくてよくなる。
そんなことなどしなくていい。自分がすると思ったこと。他人ではなく自分がいいと思ったことをしていいのだ。
その感覚を起点に、自分の意思ですると思ったことをするだけだ。
他者は自分の人生と最初から何の関係もない。親であろうがなんであろうが同じことだ。
親も自分以外の人間、他人にすぎないのだから。他者に従属する意味も必要性も、自身が生きている事実には何ら干渉してなどいないし、できない。
そうして自身を他人から解放していく。自分の感覚は自分の感覚だけで完結していることに気づき、自分が自分の感覚を使って生きていけばそれで充分だということに気づいていくことができると思う。
おそらく、AC、承認欲求、そのほかの不安障害にもおそらく有効な認知修正であると思われる。
外にある何かに自身の生きる価値を見出したり、危険があると思い込むことがこの問題の本質ではないかと私は推測している。
私自身、かつてAC、承認欲求、社会不安障害(パニック)持ちであったが、それはすべて完治した。
他人の監視の目は消えていった。自分が怖がっていたのは、想像上の他人の目であり、想像上の監視の目でしかなかった。
それを消してしまえば、とても静かで、自分が集中できる静かな環境がただ広がっているだけだった。
そうしてようやく自分の心の自由を得ることができた。余計な思考と認知をそぎ落としていくことが自由の道であることもわかった。
人生のとらえ方は、シンプルであればあるほど生産的だ。自身の感覚だけで幸福を完結してしまえば、悩みなどなくなってしまうのである。
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