[20200224更新]己の無学への気づき 学びは自由のための武器である。仕事は戦である。





学びとは戦で生き残り、戦利品を持ち帰るための訓練である

最近、如何に自分が他者に甘えていたかを再自覚した。

ここ最近、私は如何に無学であること、そしてその無学さが自身を奴隷にしたら占めているということを思い知った。

それは心問題とは別の、ビジネス、仕事の仕方、受け方に関する点での自身の思い込みだった。

自身の働き方やそのとらえ方が、如何に他者によってコントロールしてもらおうとしていたか。他者に決めてもらおうとし、それに無理をして合わせようとしていたか。

他人を基準にしてしか行動できない己の無知と無学さによって制限されてきたかを存分に思い知る機会を経たからである。

やらされているは単なる「甘え」であり、奴隷的発想である

私は少し前まで、仕事をすべて「やらされて」いた。基本的にすべて不本意であった。仕事の内容に納得できず、なんでこんな酸っぱい仕事をしているのだろうと疑問に思いながらモヤモヤしていた。とはいえ、いまでは心の問題も解消し、その部分においても改善は見られた。

しかし、仕事の面においては根本的な改善とまでは至っていなかったのだ。まだその甘えを完全に捨てきることはできていなかったことに、改めて再認識させられたのだ。

きっかけはある人との出会い

そんな日々を過ごす中で私はある人と出会う。中途入社で入ってきた私よりも一回り以上年上の男性。もともと証券会社でマネージャーをしていた人だった。

彼は入社して早々にその仕事ぶりを発揮し、瞬く間に結果を出していった。

そんな彼の仕事に対する姿勢、考え方はまさに自分とは真逆であった。圧倒的な能動的動機に基づいていた。

「俺のやり方で利益を実現する」

言われたことをただ愚鈍にこなすのではなく、自身に依頼された役割を自分の今までやってきたやり方に乗せて達成していく、そんなやり方だった。

まず彼は「責任の所在」については非常に意識を使い、そこを決めるためにいろんな情報収集をしていた。どんな風に仕事をしているのか、人員のスキルは、こなせる業務の種類は、フローは。

そこから抽出されたあらゆる仕事の責任の所在について、どの仕事がどのフェーズにあって、誰にボールがあって、それぞれの成果物にどんな責任があるかを明確にするをまずは徹底した。その上で仕事を依頼する、ということをしていた。

その中でも印象的だったのは、作業が遅延している作業者に対する進捗確認のフェーズだった

「それ君できるっていったでしょ?自分でそういったんだからちゃんと期日までにやってね。」

という形で確認という名の「残業してでも必ずやれ」を、直接言わずにニュアンスで伝えつつ、相手に「はい、やります」といわせるのである。

責任というのは、大抵「だれが何についていつまでにどうするのか」というアクションという形で発生する。起点となるものは成果物やサービスだろうが、責任というのは責任を取るという行動が発生することになり、つまり工数が発生するのだ。

彼はその中でも無駄な責任、つまり無駄な仕事を徹底して排除した。無駄な責任を追うのはただのバカ、貧乏人の発想だと。

例えば上司が直接、「残業してでもやれ」と言ってしまうと、上司命令でやった、という話になる。つまりその責任は上司に行く。それが原因で問題が発生すると、その責任を取る必要が出てくる。つまり何らかの行動を示す必要があり、無駄な仕事が発生することを意味する。

上司、とりわけ管理者の責任は本来成果物、サービスに対する品質、期日に対してとるべきだ。作業者の作業に対する判断にまで取るべきではない。

作業者が仕事するかしないかは作業者の判断である。そこまで上司が担うことはできない。判

断ができるようになるまで教育をする必要はあるだろうが、それは直属の上司やリーダーといった存在が実施すべきであり、悪まで教育までだ。

最終的には作業者が判断できるようにならなければならない。作業者として独り立ちできなければならない。

自分のことは自分で決める。自分の役割、割り当てられ、かつ自分が同意した自分の仕事の範囲でのあらゆる決定事は、自分でできるようになることが仕事の基本だからだ。自分の力量を理解して自分で判断できるのは自分だけであるからである。

役割はそれぞれの立場で異なる。対顧客において発生する責任を上司、例えば部長などの管理職に位置する人間が取りに行くべきである。それ以外の責任を負う必要はないし、それは社内的なリスクにしかならない。

だからそのような無駄なリスクを背負いこむことなく、かつ成果物が期日通り仕上がることを管理する術として、生産作業を行う作業者のタスクに対するやり方の判断(残業対応して対応するのか、生産的やり方を思いついて実施するなど)をその当人に”言わせる”。

その責任は言った当人に帰属し、その仕事を残業してでもやるのはその当人の意思である、という風にもってくことができるということだった。(もちろん36協定などの労働時間は別途見ながらだが

仮にたてつこうものなら、あらゆる弁論によって半ば脅しにもうけとられかねないような相手を論理的に論破し、相手の非を徹底的に詰める。しかしその内容はすべて論理立っていたものであった。

「もし遅れるなら、その穴埋めをしないといけない。つまり、君の進捗の遅れを誰かにカバーしてもらうことになるね」

「この作業は君との同意の上で依頼してる。君のスキルレベルでは適正であると判断してね。でもそれが難しいなら、君の評価は見直す必要がある”かも”しれないね。」

自身の一存がコミュニティに対してどのような影響を与えるのかについて論理的に説明し、作業者に伝えることで、「作業者の責任」が一体どんなものなのかを体感して理解させようとしていた。また評価などあらゆる部分について自身の範疇でない部分については断定するいい方はせず、あくまでにおわせるようにもしていたようにみえた。

今の世の中でいうならパワハラ上司として受け取られても全く不思議ではなそうだが、決して無茶苦茶なことを依頼しているわけではなく、達成可能なタスクに分解したうえで依頼しているところも、うまいなとおもうところだった。

俗にいう単純な、とにかくやれ系のパワハラ上司のそれとはまったく違うもので、すべて理論立てられており、弁論術にたけた人であると感じた、納得せざる得ないような説得力をともなっていたのだった。

数字に対する重要性の認識

加えて彼はすべて数字で表せともいっていた。あらゆる工程にかかる工数、フローを注視していたのも、工数を的確に抽出するためだった。

何をするにも数字が必要だと。売上計画から要員計画、そのほか様々な工程にいたるまで、どのような人的リソースがそれぞれどの期間で何人必要なのか。数字で表現できなければ諸経費も何もわからず、売り上げ目標すら立てることはできない。

数字は最高の意思決定材料、対顧客に対するコミュニケーションツールであるということだった。

究極の世界共通語であると。どんなバックグランドを持つ人も、数字の前には納得せざるを得ない。そして数字ほど簡単に情報やり取りできるものはないと。ゆえに数学的知識にも通じていた。数学的根拠、数学的問題解決、数学的アプローチ。数字に対するこだわりも強く感じた。

少ない工数で高い成果を”挙げさせる”

彼は自身の仕事を「相手にやらせ、納得させ、自身は以下に楽をして利益をえるか」ということを指標にして動ているといっていた。

といっても彼は怠けているわけではない。

彼は彼が何年もかけ、多くの実践経験、失敗や成功を交えて編み出したやり方という知識を使い、仕事のフロー定義、責任範囲の明確化、詳細タスクの割り出し、期日管理を徹底、そのほかリスク分析、手法などのあらゆる手を使って現状の業務を分析し、不足している部分は補い補正し、それに合わせる形で外枠ややり方を作って整備した。
そしてその中身を作業者にやらせるという「的確な業務命令と範囲、管理を徹底するマネージャー」として相当に優れた仕事をした。

本人は実質的な労働業務は行わなかった、自身の知識をもとに仕事の”型”を作りそれを提供していくスタイルであった。

管理に必要な進捗の情報の吸い上げも、その情報として必要な要素を入力してもらうテンプレだけを作成し、各入力を各作業員にやってもらう形で実施していた。

そのやり方も、一度すべての作業員とその業務について同意をとったうえで、かつその必要性と意味を論じ、納得してもらったうえで実行しており、受け入れられやすくスムーズに行われていった。

それは社内の人的リソースに対しても、社外の外注先に対しても同じであった。

結果はすぐに表れた。今まで無茶苦茶な顧客の要求にも的確な見積もりと前提条件のもとに仕事を契約することで無理なくかつ適切な工数で実施が可能になり、各作業員の仕事とそのフロー図が明確化し、仕事はやりやすくなったし、外注先に対しても日々の進捗は達成されかつその確認も容易にできる状態を作り上げてしまった。

「労働者は的確な指示、的確なアウトプット、期日を提示すればちゃんと行動する。」

「作業者の進捗が遅延する主な原因一つは技術的な本人のスキル不足という内的原因。一つは作業内容が曖昧で何をすればいいのかがわからないという外的原因だ。原因分析を日ごろからやっていれば改善ポイントは簡単に見つかる。すぐに改善案も出せる。」

「見積もりにはいくつか手法があるが、ボトムアップの場合は一つ一つのタスクを明瞭化し、論理に基づいたものであれば顧客も納得せざる得ない。当然リスク工数なども計算に入れなければならず、その算出方法にもいくつか手法があって、そのためにはこのようなデータが必要だが….etc」

など、そう彼に教えられたすべては、すべて今の仕事に足りない知識達だった。

いったいどうして彼にあそこまでのことができるのか。

期間でいえば1カ月程度か。その間にその会社の業務フローを分析し、弱点をみつけ、改善案を示し、実際に改善させてしまった。

どこのコンサルだってここまで迅速で高い改善を発生させられる人はそうそういない。

というかそもそもコンサルですらないのに、コンサル以上の効果を上げてしまっているこの人はいったい何者なのだろうか。

一体どうやって彼はこのような知識を得るに至ったのだろうか。一体どのような目的があって、ここまでの人間になったのだろう。私はそれが不思議でたまらなかった

なので実際彼に聞いてみたのだが、彼にとって学ぶことは至極当然のことであるとのことだった。

「なんで論理武装しとらんの?交渉で使える武器なんて持っていて当然でしょ?」と言っていた。そのためにも学ぶことは当然のことであるということだった。

彼は実家が会社経営者で、徹底した厳格な経理管理を行っていたことや、

「金を稼げない貧乏人はバカ」であるということを幼いころから言われて育ち、

貧乏であること、金を稼げないことに対する徹底した否定の態度、教養をもっていた

結果、金をいかに稼ぎ出すかということに自身の時間を注ぐことに注力している思想の持主であるからであったことがわかった。

金にならない仕事、意味のない仕事はしない。

「証券会社でマネージメントをしていた人というのは、このような人なのだろうか」と、偏見気味に思い知ると同時に恐怖を感じた。

これほどに大量の知識をもっていて、弁論にもたけ、強力なマネージメント力をもっている。

外の人間であろうが中の人間であろうが、例外なく人をコントロールし、管理する術に特化した、まさに軍師だった。

全く自分では歯が立ちそうになかった。まるでレベル1で魔王に立ち向かおうとしているときの村人のような心境だった。

私には彼のような知識も経験もない

何より目的、意思が欠けていた。能動的な仕事に対する意思。生きることに対する能動的動機。

自身が今そこにいる理由。そこにいる能動的な目的が。

もし自分がこの先、このような人に立ちふさがれたら。それが顧客であったら。あるいはライバルであったら。

わたしにはきっと太刀打ちできずどうすることもできないだろうと。戦えば必ず負けてしまう。負けていいように使われてしまうがオチだと。

こんなことで、自由な人生など生きられるはずがないと。

悲しいくらいに無学な自分への気づき

そんな人を前に自分はあまりにも無力であり、無知であり、無学だった。それどころか自らの意思で、自らの文化、価値観を基底にし、自分の目的遂行のために学び生きることなど全くできていなかった

ただ今までの会社のやり方に合わせて、違和感を猛烈に感じながらも、それの所在についてあきらかにすることもせず、ただ甘んじてやらされ続けていた。

「君らはドMなのか?」そう彼に言われた。仕事の受け方がドMそのものだと。

だから負けるんだと。負けるべくして負けているだけだと。

これまで「誰かに使われること」しか発想になかった。それ以外の「教養」がなかった。だから攻められない。だから攻めるために必要な知識を収集するという発想すらわかず、

ゆえに知識を必要とも思うことができなかったのだということに気づかされたのだ。

私の生き方は「食われるか食われないか」だった。対して彼は「食うか食わないか」だった。

どちらが強者で自由に生きることができるか。それは一目瞭然だった。

私はただの草食動物だった。いづれは肉食動物に食われる運命をまつか、ただ逃げるか。それしか選択肢は残されていないただの弱者であったのだ。

今まで無学でやってこられたのは、単に運が良かっただけだった。

すべて相手、顧客がそれでたまたま納得し、かつこちらにとっても都合のいいことになっていたという運でしかなかった。

それを付け込まれたらたちまちに奴隷になってしまうこと。それに気づくことになった。

なぜ気づいたのかといえば、それは今そのつけがまわってきてしまったからである。それも最悪のタイミングで最悪なことを最悪な部分につけこまれ、結果このままこのビジネスにかかわり続ければほぼ永久の無償の奴隷として使われることを目前にしてしまったことだった。

最も、その契約形態には自分はかかわってはいなかったし、そもそも在籍する何年も前から存在していたものであったから、関わりようもなかったのだが。しかしその契約は1年に一回の更新の機会があったわけで、であれば自分は1~2回はそれを更新する、確認して提言する機会をもっていたわけである

それに気づけなかった自分の無学さだった。無学であったからこそ、そのような問題に気づくことすらできなかったのだ。

そしてその瞬間、自分は如何に自分の自由を安く他者に売りわたし、勝手に他者が自分の求める都合を満たしてくれるだろうと勝手に期待していたその愚かさに気づいたのである。

それと同時に、それが自分の生きたい方向なのではないかとも感じた。もっといろんなことを知りたい。自分の創作物のためにも必要な知識、体験、経験収入であると感じたからだった。

そしてはっきりと、腑に落ちる形で納得したのだ。

「学ばなければいけない」と。

自由を行使するために。自分の目的を実行するために。無学ではだめなのだと。無教養ではだめなのだと。

そんな根本的な問題にきづかされたのであった。

仕事は戦場と同じ。

彼に教えられなければ、わたしは学ぶことがこれほどに急務であり、自由に生きる上で必要なことであると体感することはできなかったであろう。

この状況がどれほど危険で、自身の掲げる自由という目標から大きく遠ざかるものであるかも理解すらできなかったであろう。

かつどんな知識が必要で、どう学べばいいのかすらも想像することができなかったはずだ。

無学であるものは、この経済社会、いや、人がなんらかの社会を形成した時点で発生する様々な取り組みや活動について何一つしっておらず、一切の選択を行うことができないということを思い知った。

プログラマーでいうところの、仕様書を見ながらコーディングをするだけのコーダーのように、工員でいうところの指示書を与えられその通りに仕事をするだけの作業員のように、誰かに使われることでしか行動を起こすことができないということになってしまうからである。

だから余ってしまう。力関係は圧倒的に使う側のほうが強い。なぜなら使用者の存在がいなくなれば、たちまちに食い扶持がなくなってしまうからである。

雇用の問題で当てはめて考えてみれば、年齢によって人件費が上昇する仕組みをこの社会はまだ持っているから猶のこと。そのまま年齢を重ねてしまえば仕事など簡単になくなる。

一方なんらかの学を有しているものは、その先にある実現したい目標に向かって歩んでいくことができるし、その学を使って何らかの付加価値を作り上げることもできるし、他者と交渉したりすることもできる。

あるいは他の学ある者たちと戦うときには武器として使うことができる。世の中と渡り合うということはつまりそういうことなのだ。

学をもつというのは社会の中において武器を持つことに等しい。

暴力を基底とした戦争は終わっても、人は永久に争い続ける。なぜなら人の生活というのはリソースの取り合いであり、戦争もそこを発端としているからだ。

今の時代、今の社会というのは物資的な武器を使った争いはなくても、経済的な戦争は各地で起こっている。

経済戦争。国内であればその内戦が続いているというのが、今の世の中であるということだ。

そんな世の中に生きるわけだから、知識はそこで生きる上で武器なのだ。この社会における学とは自身の食い扶持となるための基本土壌に対する投資なのだ

自身の人生の上に目標を持つことにも等しく、学びの機会とその実行とはいわば自由な人生を送ろうとし、実行する上で発生することになる必然性であるとすらいえる

無知で無学な人間は何もしないか、扇動されることしかできない

無学であるものは、周りのもっともらしい人間の意見に簡単に納得させられ扇動され、従わさせられる。

自ら何も学ばず、何も築くこともしてこなかった人間は、良くも悪くもこの扇動者にすがることしか行動しない

いや、できないのだ。なぜならそのような発想すらないからだ。かれらにとってはそのすがっているという事実すら気づくことができず、薄々感づいていてもプライドが邪魔してそれを直視することができないのである。

彼らがすがる扇動者とは、いつも自分にとって都合のいい”主人”である。

それが権威だったり人であったり、宗教であったり、概念であったりする。そこにすがれば自分は安泰だ。そう信じて。

そしてそれが裏切られたかのようにみれば、当然不平不満をぶちまける。すがってはいても忠誠を誓っているわけでもないからだ。いわば親の代わりを求めているのだから、そのような行動をとるのである。

その生き方を続ける限りにおいて、そうすがり続ける限り人はそういう生き方しか選択することができない。

人はそんな自信の感覚レベルまでしみついた生き方を簡単には変えることはできないのだから。

だから奴隷なのである。物理的に繋がれた奴隷よりも圧倒的に質の悪い、心に繋がれた奴隷だ。

自由でいたければ鍛錬あるのみ。知識を習得し、実践し、己を駆使して戦うことだ。

私は気づいた。この世は戦場だと。人間は永久に競争を続けざるを得ないのだと。

それが生きるということなのだと。自由を行使した生き方というのは「戦う生き方」なのだと。

すなわち自由とは、自由を行使するために必要な武器、知識をそろえ、かつ磨き続ける生き方を実行し続けるということなのだ。

自分の能動的目的に向かって。ただ突き進むことということに気づいた。

母親から奪われた”牙”は取り返した。誰にも従わない。戦うための技を身に着け、思考し、ただ自分の目的に向かって突き進めと。

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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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