「これから先、自分の人生はうまくいくのか」
「今やっていることは、本当に価値があることなのか。」
「正しいことなのか。」
「この先の自分の人生を保証してくれるだろうか。」
そういったことが心配で、何も手がつかなくなったり、かえって生きづらくなってしまうこともある。
であれば、それは捨ててしまったほうがずっと楽に生きることができる。
すると、そもそも人生に保証なんて求めないほうが、ずっと生産的に幸福に生きられることがわかってくる。
気にしても”現実”は何も変わらない。
保証を求めるというのは、外に確かな何かに求めるということ。
例えば,
「大企業に就職することで安定した雇用を得る」
「正社員雇用されることで先を担保する」
という将来的なものから、
「周りの目を気にして生きる」
「当たり障りのない人生を送る」
「誰かの言った通りに生きる」
という日々の生活の中など、
何かを気にすることで、自分は安全圏である、安心できる状態であるということを確認する思考のこと。
しかしいくらそれを気にしても、将来が絶対保証されるわけではないし、他人が言っていることや他人の目が正しいわけでもない。
先のことなど、自分も他人も、誰もわからないからだ。
保証できるものはこの世にどこにもない
一年後に世界はどうなっているか?雇用状況は?経済は?治安は?
そんなこと誰だって知らない。わかるわけがない。
常にその瞬間になってみないと、何がどうなるかなんてわからないのだ。
1年前、コロナウィルスで世界恐慌になるなんて思っていた人など誰もいなかったはずだ。
それで職を追われてしまった人だっている。いくら何かに備えたって、突発的に起きるものにはどうしようもない。
それが自分のコントロールできる範疇を超えてしまっている“外の何か”なら当然のことなのだ。
他人だって同じ。他人も自分から見れば”外の何か”である
他人の目を気にしたってどうにもならない。
他人の出方をうかがったところで、自分が保証されるわけじゃない。
嫌われる時は嫌われるし、好かれる時は好かれる。
どんなに尽くそうが、相手に気に入られようとしようが、こちらを嫌ってくる人は嫌ってくる。
どんなにいい子ぶってもそれが気に入らないという人はいるし、そういう人をつけいっていじめようとする人もいる。
もしくは、そういう心理を手玉に取り、自分の都合のいいように利用するだけ利用し、壊れれば無慈悲に捨てる、ということをする人もいる。
これは社会に出ればイヤでも出くわす。会社の人間関係のほとんどは、友達のような関係とは違い、ほとんど「金を稼ぐ」ということだけで関係性ができているだけだからだ。
そういった全ては、他人の都合次第でしかなく、自分はそれに一切あらがえない。
ことさら他人に対する保証などどこにもないのだ。
そんな保証を気にして得られるものは何か?
しかし、それでもそうやって気にして得られるものは何だろうか?
それは、「不安」。
本当に自分は大丈夫だろうか、安全だろうか。
嫌われていないだろうか。仲間外れにされていないだろうか。
そう考えて感じる焦燥感、不快感。
心配事だけが増える。
その焦燥感を感じている間、一体自分は何をしているか?
何もしていない。ただ心配することで手いっぱいだ。
そうしている間は、目の前のすることを前に、手が完全に止まっている。
悩み事で仕事や勉強が手つかずになってしまう。
自分の身の回りの世話すらできなくなる。
部屋は汚くなるし、身なりもだらしなくなっていく。
自身の人間性までがけがれていくのだ
気にすればするほど、気にする要因はどんどん増えていくのである
そしてその心配を埋めるために、例えばインターネットで時間をつぶしたりしているのではないか?
それも、自分と同じ不安を持つ誰かを見つけようとして。
そうやって外に保証を求める。確かめようとする。
「自分と同じ他人がいれば、自分は間違っていない」と、そう信じたくて。
他人は何も保証しない
同じ他人を見つけたとしても、ではそれで“大丈夫なのか”といえば、それは何も保証できない。
“大丈夫じゃない”結果になる時はなる。どれだけ自分が気を使っても、用意周到に準備をしても、
そんなのは、他人次第でいくらでも変わってしまう。
そして実際にそうなった時、「自分は間違っていない」「自分を認めないあの人がおかしい」と、その保証を打ち砕いた相手を責めるようになっていく。
何も保証されていなかったという現実を見ず、
それに縋ろうとするあまりそうでなかった状況を作り出した他人を「間違っている存在」として責めることで、その保証の正当化を図ろうとする。
「なぜ誰もわかってくれないのか」と。
「分かってくれる人がいるはずだ」と。
そうやって保証がどこかに確実に存在しているはずだと思い込む。
そうやって苦しむ。保証を求めて、そうでなかった現実と何度も出くわし苦しみ続ける。
そうやってごまかし続けてしまう。現実から目を背け続けている自分を。
結果、時間がどんどんなくなっていく。
つまり「気にする」という行為は、自分を恐怖にさらしながら妄想の世界に生きる、時間を無駄にする行為なのである。
人は恐怖を前にすると足がとまってしまう。手が止まってしまう。
非生産的行為以外のなにものでもない。
それも他人の目や、自分の人生の未来という、見えない何かに対して身構えている。
受け身でいる。受け身でいて、外から何かを欲しがっている。
それをちゃんと受け取るために。
外から都合のいい何かが、自分に勝手に来てくれることを期待して待っている。
受け身は完全に時間と気力と体力の無駄。
待っていても何も向こうからやってくることはない。
ただ時間と気力だけが失われていく。
自分をただ使いつぶすだけの考え方でしかない。
気にしても何も進まない。気にしても何も問題は解決しない。
結局のところ「気にする」という行為は、ただの妄想とほぼ変わらない。
無駄なことに時間を費やしているのだから、妄想で時間をつぶすことほぼ変わらないのだ。
保証を捨てて楽に生きよう
気にしても何も保証されない。ただ不快感が蓄積し、時間だけが過ぎていく。
であればそんな保証はもういらない。
現実に対して素直に開き直り、一切の保証の概念を捨ててしまえばいい。
そして、その保証を捨ててしまうことで、人生は一気に楽になる。
そして保証を求める代わりに差し出していた己の自由も取り戻すことができる。
保証を求める対価として支払っていた「義務」を捨てることになるからである。
「気にしなきゃいけない」は捨てよう
そもそも何故気にしてしまうのかというと、それは自分の恣意的な都合を殺してしまって、その代わりに外に都合を求めるからである。
純粋な自分の「したい」ではなく、「やらなきゃいけない」という義務感を使って何かをしようとするからである。
「やらなきゃいけない」なんてのは、ただの思い込みなのだ。
義務の思い込みと保証の思い込みを捨てる。
それを気にしない人生こそ、人にとって最も効率的に生きられる人生の在り方なのである。
現実の世界は何もかも、人間にとって都合よく備えられているような生暖かい世界なんかじゃない。
次の瞬間にはどうなっているわからないのがこの世の摂理。
保証などという概念は、そもそも人が作った概念にすぎない。法律だとか保険会社などの契約書だとか、そういったただのペーパーワークであり、
人間が作ったただの”作り物”でしかない。
それを受け入れてこそ、「本当の自分の人生」始まる。
現実を直視すること。保証などという妄想を、もう使わないこと。
現実のありのままを受け入れ、自分の都合を全開して生きていく。
自分の目的に恣意性を持ち、外の都合を一切無視し、自分の人生から除外して生きていく。
そうすればかつての不安感は消え去る。
保証を求めることで得ようとしていた安心感すら得られる。
一気に人生が楽になり、楽しくなっていく。
自分の人生の自由を、取り戻すことができる。
今まで保証を求める気にする対象だった「外」の見方すら変わっていく。
「気にする」のではなく「使う」
外は気にするものじゃない。使うものである。
今存在している外、環境は全て自分の目的で「使うため」にある。
雇用状況も社会情勢も他人も何もかも、
自分が”今”持っている確かな目的のために利用することだけを考えるのである。
今できることをするだけ
この考え方に切り替えていく
「今学べることをする」
「今作れるものを作る」
「今やれることをやる」
「今やりたいことをやる」
という思考に変えていく。今目の前にあること、できることだけを考えて実行する。
受け身になっていても意味がない。自分から行動していかない限り、何も変わることはない。
誰かからされることをまつんじゃない。周りが変わることを待つんじゃない。
今自分がすることだけをやる。
これだけでいいのだ。
これに切り替えるだけで、簡単に肩の荷がおりる。外を気に変える思考から、外を使う思考に切り替えるだけで、簡単に楽になり、手が動き続ける。
人の幸福なんてのは外に保証された何かに宿ってなどいない。
今在る自分の感覚次第なのだ。
「気にする」は不幸の考え方。「使う」は幸福の考え方
今自分が安心感を感じているか
今自分が不安を感じているか。
それが人の幸福のすべて。
外を気にする限り、人は生涯不安と直面しつづける。
外を使い続ける限り、人は不安とは無縁になる。
幸福は相対的なものであるとある人が言っていたが、それは外を気にしている人の発想にすぎない。
外を気にして、自分が幸せかどうか他の誰かと比較しようとしたりして、自分が幸福だと保証されているかどうかを確かめようとするからだ。
「今ある外を使っている人間」からすれば、そんな発想はわいてきすらしない。
今を見ている人間に、気にするという概念は存在しない。
今を生きている人間に、不幸というという概念は存在しない。
どう生きるかは自由
不幸と隣り合わせの人生か?生涯を通して不幸とは無縁の人生か?
それを人は選べる。幸福も不幸も。人の生き方の形態にすぎない。
どちらでも構わない。どちらでも正しくも間違ってもいないからだ
ただ選べばいい。自分が生きたい人生の形を。
それが自由というものだから。
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