意味がない人生でいい。それで楽しいし、幸せになれる。






2020年04月25日~:
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「人生には意味がある」

そう言ったのは誰だろう。

自分だろうか。ある日誰にも教えられずに、そう思ったのだろうか。

多分違う。どっかの誰かが言ったことだ。どこかで耳にした耳障りのいい言葉だ。

“人生の意味”は人によってさまざまだろうが、その意味をポジティブにとらえられているのであれば問題ない。

迷いなくその意味をつけた方向にむかって、人生を突き進んでいるはず。

しかしそれが「しんどい」と足かせのような重い何かのように感じるのなら

それは「人生には意味がある」という言葉を義務のようにとらえてしまったのだろう

「人生には意味がないと”いけない”。」と。

“いけないという義務”を果たせない。

そんな劣等感を引き出す言葉になってしまったのだ。

義務でとらえなくていい

であればそれは捨ててしまえばいい。自分を苦しめるだけの言葉に意味などない。

意味が”必要だと思い込む”としんどくなる。こうした消極的な義務の意識は、ただいたずらに生産性を下げるだけで、何もいいことがない。

この義務の意識を捨ててしまっていいのである

義務の意識は刷り込まれただけ。

この義務の意識は子供の頃の日本の義務教育によって刷り込まれただけだ。

例えば何かを勉強することが「しんどいもの」だと感じるのなら、それは子供の頃の義務教育で勉強を強制づけられたからだ。

周りと同じ学び方、勉強の仕方、さらにはテストを受けさせられて、結果すらをも強制される。

やり方も結果も全て同じ形を強制づけられている。

それに合わなかった人は、「自分は勉強できない。勉強は向いていない」と。そう思い込む。

結果、報われない努力は無意味であるとか、できない自分はダメな人間だ、成功なんてしないなどと思い込んでしまう。

さらに日本の教育形態はカリキュラムだけでなく、日常生活における人間関係の在り方すらその形を押し付ける。

「他人に迷惑をかけないようにしましょう」

「みんなで仲良くしましょう」

「けんかはだめです」

「誰かの役に立つ人間になりましょう」

自分のしたいことではなく、他人に尽くすことばかりを押し付けられる。

そうやって、身も心も義務の意識が浸透していってしまう。

「自分で何かをする」「自分の都合を通す」「自分の都合のために何かする」ということを、日本の教育機関では教えてくれない

誰かに使われるための人間になることしか、この国では教えていない。

義務の意識を持っていると、純粋な「したいこと」は見つからない

自分が「したい」と思ったとしても、この義務の意識が根柢にあると、それは純粋な自分のしたいことにはならない。

なぜなら、何事においても常に結果を出さなければ”ならない”と思い込んでいるからである。

他人のため、社会に評価される何かを常に求めることを義務付けてしまうのだ。

そしてそのために「したいこと」をでっち上げてしまう。したいことに対してすら義務を感じ、結果をもとめてしまうのだ。

刷り込まれた意識に逆らうことができず、素直に楽しむことを困難にしてしまっているのである。

「なりたい」を「したいこと」だと思い込もうとする。

例えば絵を描くこととイラストレーターになることのような。

したいことが絵を描くことだと思ったはずなのに、いつのまにかイラストレーターになることがしたいことになってしまうのだ。

それで続けばいいが、大抵は続かない。

練習してもうまくなれない→イラストレーターになれない→絵を描くモチベーションがさがる→やめてしまう

「なりたいもの」というものはそこに行くまでに時間と労力がかかる。

「なりたいもの」はそもそも職業だ。つまり仕事であり、義務の意識でそれをやることになってしまう。

「なりたいもの」と「したいこと」は大きな乖離がある。

同じように見えたり、その延長線上にあるかのようにみえても、その実体は全く違うものを指しているのだ。

「なりたい」すら「ならなきゃいけない」にすり替わる。

そしていつの間にか「なりたいこと」にすら義務の意識が影響し、「ならなきゃいけない」になってしまう。

「結果に繋がらなきゃ、意味がない」「慣れなきゃやる意味がない」

義務感という呪いはこうして付きまとい続け、自分を邪魔し、苦しめ続けるのだ。

「ならなきゃいけない」、「結果を出さなきゃいけない」を捨てる。

そうすることで消極的義務感から解放される。純粋な自分のしたいことだけが残る。

絵を描きたい。

知りたい。

学びたい。

「ただしたい」という欲求だけが残るようになる。

そしてこの欲求に忠実になってこそ、最も人は生産性を発揮する。夢中になることができるのである。

純粋にしたいことに、義務感などない。意味など必要ない

したいことなんていうのは、そんな”重たいもの”なんかではない。

ならなきゃならないことじゃないのだ。

ふとやりたいと思って気軽に取り組むこと、そのままのめりこみ、時間を忘れてつい続けてしまうこと。

結果を意識している暇など存在しない。

それがやりたいこと、したいことなのだ。

意味がなくてもやりたい。結果がなくてもやりたい。ただやりたい、したい。そういうものが本当にしたいことなのである。

学ぶことでも同じこと。学ぶことも、その学んだことが何の結果に結びつかなくても、学びたければ学べばいいのだ。

遊ぶことと同じように気軽に楽しくやっていいのである。

なりたいは捨てるのである。やりたいだけにするのだ。

誰かのための目標なんて持たなくていい。自分だけの目標でいい。

自分が実現したい目標を立てればいい。社会のためでも他人のためでもなく、他でもない自分のための目標立てる。

どんなくだらないことでも、どんなに役に立ちそうにないことでも何でも構わない。

或いは目標なんてなくてもかまいやしない。今時点でしたいことがあるならそれに夢中になったほうがずっといいのだ。

他人のやり方に合わせなくていい。誰かの言い分に従わなくていい。

そんなものは関係ない。自分の人生だ。自分で全部決めていいのである。

そうやって自分の人生に夢中になって取り組んで見えてくるものは、まるでそこで長い時間をかけて偶然できた鉱物のように、誰にもまねできない希少な宝になる

そんな自分を使って誰かに与えてあげればいい。

人生に意味はいらない。結果じゃない。今だけだ。

自分の人生に課したいろんな”義務の意味”を捨てていけばいい。

そうすればもっと自由に、身軽に生きていけるようになる。

そしてその積み重ねにとって人生の意味も自然と形を作る。

本当に価値があるのは意味なんかでも結果ではなく”積み重ねそのもの”なのだ。

実際に手を動かして、積み続けることなのだ。

今に夢中になることなのだ。その積み重ねなければ結果は決して作られはしないのだから。

何をしても続かなかった自分が、続けられるようになった方法



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Name : Elepan

元うつ病患者 (闘病歴10年)

約10年間のうつ病の体験と、独学で立ち直ったことや、実施した治療法について書いています。一人でも誰かの役に立つ情報になりますように… その他にも遊んだゲームの情報、世の中のおかしいと思うことなどについて考えたことを色々まとめています。

 

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