人と話している時、人が何かをしている時を見た時。
そんなときに他人に対してシンパシーを感じたりするのは、共感という人が持つ素晴らしい機能の一つであると思う。
誰かが笑っていたり、泣いていたり、その対象の他者を自分に置き換えて、まるで自分のことのように感じる。このおかげで人と会話を楽しんだりはもちろん、映画などの娯楽など、実に幅広く使われている
しかし人によってはあるなにかに対して“強く共感”してしまうために、それで苦しくなって生きづらさを感じる人もいる。
それを感受性の強い人、HSPという風に呼んだりすることもある。人によってはあまりにも強烈に感じすぎて日常生活に支障が出てしまうということもあるのかもしれない。
それで生きづらさを感じてしまうということもあるかもしれない。
例えば周りの空気を敏感に感じ取ってしまって、少しでもその場の空気が乱れたかのように感じると、まるで自分が悪いことでもしでかした時のように嫌な気分になったり。
それも、そこにじっとしていることすら耐えられない、というくらいに。
人生を豊かにすることのできる共感が、自分を苦しめてしまったりすることもある。
切っても切れない共感
共感を避けるのは非常に難しい。
人と付き合うことがほぼ必須の社会において、特に“感受性の強い人”が、これを避けることはほぼ不可能であると思われる。
誰かと会話するだけでも、相手の考えてることが気になってしょうがなかったり、相手の目を気にして相手の内面や思考、感情を想像しようとしてしまうのではないだろうか
だからなお一層悩ましい問題でもある。
しかし、それは本当に体質によるもの”だけ”なのだろうか?
“人前だと緊張してとても苦しく感じてしまう。”
“他人の目が気になりすぎて苦しくてたまらない。”
苦しい人にとっては本当に苦しい、辛い問題であると思う。
しかしこれは果たして、体質100%の問題なのだろうか。
というのも、上記の苦しくなる理由には他人という存在が関わっているから。
自分とは何も肉体的につながっているわけでもない他人という存在のせいで、自分が体質的に苦しんでいる、というのは、なんだか少し奇妙な気がする。
となるとこれは体質だけの問題ではなくて、自分の思い込みによるものもあるかもしれない。
自分の感覚の感受性という生まれついてものというよりは、自分が日々無意識にしている「共感の仕方そのもの」が原因ということも、考えられるのではないか。
だとしたらそれは変えることができるのかもしれない
そしてその共感の仕方を変えることができれば、その苦しみから開放されるかもしれない。
他人に対して受動的に応えようとすることをやめてみる
例えば会社や学校で、周りの空気が悪くなるとまるで自分がなにかしでかしたかのように気分が悪くなってしまう、というもの。
それはもしかしたら、その空気に自分が合わせようとしなきゃいけないと感じているからではないだろうか?
気を使わないといけないと感じているからではないだろうか。
つまり、その場の空気という他人が作り出している存在に対して、自分がその場にふさわしくないのではないか、間違っているのではないかと思い込み、
自分を必死似合わせようとした結果が、その苦しい感覚を感じる結果となって現れているとしたら。
であればそれは、自身の他人に対する認知が原因であると言える。
つまりその認知を捨ててしまえばいい。
他人似合わせようとすることを、やめてしまえばいいわけである。
なぜ他人に合わせようとするのか?
それは普段の他人に対する自身の他人に潜在意識のようなものからかもしれない。
子供の頃にた親などから「他人には気を使いなさい」と教育された覚えはあるだろうか。
あるいは類似の、他人の前では恥ずかしいことをしない、とか、常に正しいことをしなさいとか。
そうやって常に周りを気にするように教育されたことはないだろうか。
これは飴と鞭という賞罰教育である。その教育によって得られた承認欲求によってその苦痛を感じているかもしれない。
その受けてきた教育が根底にあり、結果常に他人に気を使って、他人に合わせることが正しいと思いこむようになり、合わせるために自己否定する癖が無意識的に定着、
結果として相手の顔を伺って他人に合わせて生きるという自身の人生観が完成してしまった。
そしてそれが他人の作り出す空気を敏感に読み取ろうとし、それに必死に合わせ用として苦しもうとするように至った。
という形で、自身の思い込みが発端となってその苦しみを作り出していかもしれないのだ。
他人を使って何かを感じようとする癖をやめてみる。
嫌われたから不安になった、好かれたから安心できた
こういった他人を起因として自身の感じる何かを制御する癖をやめていってみよう。
他人というフィルターを通さず、○○だから、という風に頭を使ってなにかを感じることをやめるということ。
自分が何かを感じるのに、他人という制限を作らないということ。
自身の五感だけで直接感じるような感覚で感じたいように感じてみるのである。
何も考えずに、ただ素直に感じたいように
無心で感じてみる。禅のようなものだ。何も考えずに目を閉じて、自分の呼吸を、肌で感じる感覚を、聞こえるだけの音を、
現実というこの物的世界をただ感じてみよう。
まるで自然に一人でいるかのように。実際に自然の多いところに足を運んでみるのもいいかもしれない。
そうしてみると、その苦しい感覚が和らいだりはしないだろうか。
認知の歪みを直して、苦しみから解放していこう
だとしたら、その苦しみの要因は体質的な問題というよりは自身の認知の問題だったということになる。
相手が考えていることを考えたり、想像しようとすることで、自分を否定して、苦しみを感じていた、ということに。
他人のことを考えなきゃいけない、気にしなきゃいけないというのはただの思いこみだ。
本当はそんな必要はまったくない。ただこの国がムラ社会気質で、相手のことを考えることがいいことだとしてきただけのこと。
自分が苦しんでまでする必要なんかない。
苦しいならそれは、辞めていいことなんだ。
もちろん、体質の両方もありえる。でもすべて体質の問題にしてしまったら、永遠にその苦しみから逃れられないということになってしまう。
それではあまりにも無慈悲すぎるし救いがなさすぎる。そんなふうに自分を苦しむ運命だときめつけなくてもいい。
解決できる自分の認知の問題であったほうがラッキーなくらいなんだから。自身の認知の仕方を見直して、そのくせを捨てていくだけで、その苦しさから解放されてくわけだから。
多分最初はなかなかうまくいかないかもしれない。というのはこうした無意識的な意識というのは、習慣化したものだから、直すにはしばらく新しいその共感の仕方に自身がなれていく必要があるからだ。
しかし少しづつ繰り返し、同じく習慣化していけばそのうちに慣れる。そして苦痛を感じることもなくなっていく。
自身の思い込みは、自分しか直せない。だから自分で気づいて自分で治せるところは直していこう。
無理せず、力まず、少しづつ自分を楽にしていこう。
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